てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

齋藤孝著、スポーツマンガの身体

スポーツマンガの身体 (文春新書)/文藝春秋

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 ―スポーツ漫画の身体を通した解説をした本です。そこで気になったところをメモ。

 太平洋戦争の敗戦によって日本人が最も学ぶべきだったのは、自己犠牲が当たり前という価値観がいかに不合理であるかということ。まるで学習していない…―というようなツイートを見て思ったこと。

 齋藤孝さんのこの本に通じることなんですけど、タナトス=死への欲求が日本の文化に根強いことにあると思うんですよね。巨人の星も、明日のジョーも、「滅びの美学」があるんですよね。一生懸命やりきってぶっ壊れるなら最高だ!みたいな価値観が、日本人の心性に強く根付いていると思いますね。

 問題は、それを他者に平気で押し付けてしまうところですよね。別に自分一人が好き勝手やって勝手に壊れて死ぬならいいですが、「一緒に死のう!」「一緒に死ねたら素敵やん」みたいな押し付けに転化してしまうから問題なんですよね。心中に変に寛容なのもそこら辺にありそうな気がしますね…。

 壊れるまでやりきったなんてあいつは立派だ!で褒め称えて、それを間接的にでもやらせといて、補償もしないで平気の平左でいるというのが色んなブラック文化を生む根源にあると思いますね。ワタミさんのぶっ倒れるまでやれ!なんてのはその典型でしょうからねぇ。

 滅私奉公というメンタリティがかつて当たり前にあって、そこから「奉公」が消えた。「滅私」がそのまま残って、暴走して自分の信ずる信念とか信仰に殉教せよ!っていう思考をする人は、まあ絶対いるでしょうね。個人がそれを持つのはいいですけど、やっぱ特定の組織がそれを個人に押し付けて平気になると危険でしょうね。

 企業でも官庁でもなんでもいいですが、組織のために無自覚のままに滅私奉公を要求するというパターン・型はいくらでも見いだせるでしょう。こういうものをいかに社会から根絶するかが、我々に問われる課題なんでしょう。無論「滅私」だから困るわけで、「生私」なら別に問題ない。「生私奉公」みたいなスローガンを進めていくべきでしょうね。社会にあまりにもセーフティネット、個人を守るシステムが乏しすぎますからね。

 また青年期特有の思いというか、衝動・病がありますね。「自分を殺したい」という破滅的願望。そしてもうひとつは「自分を殺す」ことで、その後の「復活」、新しい自分の「再生」を望むというやつですね。変則的な変身願望といえましょうか。

 男性ならわかりやすいと思いますが、射精というメカニズムが男にはあって、対外に放出することで快感を得る。実際にわかるわけですね。それが血や、汗や、涙によって全エネルギーの放出になるわけです。出しきった時に、自分が空っぽになった時に得も言われぬ快感を感じる。

 爽快感を伴う、消耗だけならスポーツで誰もが経験するが、それこそ壊れるくらいや死ぬ寸前にいたると読者のほとんど誰もがそういうことを味わったことがない。僧侶の修行過程での「悟り」に近いような境地をスポ根マンガのキャラはそこで覚える。タナトス(死)、破滅欲求でなければ、悟りたいという欲求とも解釈できるでしょう。タナトス=悟りの願望と考えてもいいかもしれません。とにかくそういう燃え尽きるというのがスポ根マンガ初期の典型的パターン、テーマだったといえるでしょう。

 斎藤さんも梶原漫画に見られる汗と血と涙はその特徴で現代には見られないものと言います。これは、戦後特有の時代背景ゆえにあったものと考えられるのでしょう。科学的理論なんてわかりにくい時代には、普通の人には出来ない無茶や到底こなせるはずのない量をこなすという「特訓」がキャラのパワーアップ・能力向上の理屈付けになるわけですね。

 壊れる・病に冒される、そこまで突き詰める姿に感動する。だからこそプライベードの幸せもあってはいけないわけです。星飛雄馬は彼女より野球を選んで別れを経験すると言う流れになるわけですね。プライベートすら関係なくその目的追求に専念する。まさに星一徹の名前の通り、一徹するわけですね。親子揃って、どこまでもストイックに突き詰める。

 話としては感動するかもしれませんが、実際のプロの選手でそういう人がいたらファンになるよりも可哀想と思ってしまうところですよね。あくまでフィクションでならいいですが。それこそ苦しみ・絶望を抱えながらも、愛する女性や家族によって支えられるとかそういう人間味があったほうがホットする。ああよかった。自分が応援するアスリートが家族に支えられていて幸せなんだと納得できる。

 逆に、こういうことをする人というのは当時の一般的な世間では感じられなかったということであるかもしれませんね。ブラックの要素があっても、やりがいが感じられたでしょうし、報われた時代だったでしょうから。

 こういう主人公の偉業を達成するまで、代償として救いようがない結末が待っているというのは「キリストの物語の変種」なのかもしれないですね。自分たちの代わりに選ばれた人間が苦難を代わりに背負う。そういう姿に感動をすると。しかし今では自分に関係のない特別な人、社会階層のてっぺんにあるエリートだからこそ、そういう人生を全うしたということならすんなり理解できるんですが、まあ言うまでもなく飛馬はそうでない(一応トップアスリートではありますが)。

 まあ今から振り返るとブラック企業みたいな価値観だな…となるわけですが、それこそ当時の時代背景からはそんな見方をされるとは思いもよらないでしょう。

 エネルギーを吐き出し尽くすというのは、あしたのジョーにも共通していて、最終回で白く燃え尽きて灰になるというのはまさにそのものですよね。人間が持つエネルギーを極限まで燃やすことということに作者が重点を置いていることが如実に現れているわけですね。

 ジョーというキャラクターはカッカしやすいすぐキレる若者。それが次第に落ち着いた感じになっていく。巨人の星を読んだわけではないのでわかりませんが、その成熟に伴う「静かな燃焼」とでもいうべきなクールなところがあしたのジョーのポイントなんじゃないでしょうか?

 野球というチームスポーツとボクシングという個人競技の違い、道具を使う・身体接触があるという違いがあるのでやりやすかったとは言えるでしょうけど。あしたのジョーの場合わかりやすいライバルが設定できないというポイントがあった気がしますね。無論、力石という有名なライバルがいましたが、巨人の星のように何度も対戦を繰り返してお互いが成長をして、またその対策のためにお互いが工夫をして高め合っていくという展開が野球と違って取れない。

 ボクシングが何度も同じ選手と対決するというものではないし、世界戦こそが最後の舞台という違いが存在し、そこで日本人対決と言われても当時の人達にはピンと来ない時代でしたからね。どうしても世界最強のチャンピオンには外国人を持ってこないといけなかったでしょうから。

 そういうところでライバル力石と死闘を減量という人間の限界を突き詰めながら描いたのはうまかったと思います。深刻なトラウマを刻み込まれたジョーはまたそこで成長をするわけですからね。

 青白く燃えるという表現がありますが、熱い情熱を持ちながらも、エネルギーを燃焼させながらも、ワーワーはしゃいだり・落ち着きなく喚いたりはしないわけですね。むしろどちらかというと寡黙で黙って行動をするという昔の男の美徳のようなものがそこには見られますね。昨今の主人公はたいてい饒舌でひょうきんなものですが、転機はどこらへんになるのでしょうかね?

 知り合いの医者の話、死が迫った子供が最初は暴れたり、怒ったりするが、死期を悟ると大人びて冷静になってその現実を受け入れていくという話がたまらないですね…。

 バスケットは人工的にコントロールされたスポーツというのがあって、「ああそうだなぁ~」となりましたね。体育館でやるスポーツってあとは卓球とかバドミントンとかバレーですからね。人工的なスポーツでさらに身体接触があるというのはバスケットくらいですかね?

 読んでいてそういえば、スポーツ漫画にはスポーツの技術のコツを描くものが多いけど、『奈緒子』にあるような、水を飲んだらどうするかとか足を地面で柔らかく包むとか、そういうもっと細かい、ナマの身体感覚の描写がこれまではそこまでなかった。そういった経験したものでないとわからない感覚が重要になるんだろうなと思いましたね。

 自転車は。競技の最中に食事をとるエネルギー補給が大事だというのを自転車ペダルかな?で、見た気がしますが、いかに効率よく消化するか、その食事の仕方の感覚とか描くと面白いかもしれませんね。他にないですもんね、スポーツの途中で飯を食うとか。

 『ピンポン』の飛ぶ感覚というのもまあ、それを独特な表現で表したものですよね。ピンポンの場合、天才が挫折する。かつて出来たことが歳をとってできなくなる、そのもどかしさというのは「老化」でのテーマになるわけですが、成長曲線の低下というものでも表現できますね。

 コーチというかトレーナーそういう名脇役が指導をするというのも一つの典型パターンですかね、スポーツ漫画の。