てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

梶谷懐著、日本と中国、「脱近代」の誘惑

 

  多くの本とその著書・主張が出てきます。言及されている丸川・柄谷・東・中島などの本を読んでいないと、またその主張にシンパシーだったり、興味・関心を持っている人でないとキツイかもしれません。個人的にそれらの著書や主張に深い関心があるわけでなかったので、序盤はあまり惹きつけられませんでした。

 

 ウルリヒ・ベックの『危険社会』にあるリスク社会という視座、社会の制度・リスク管理の徹底が過度のルールとなって、却って人間を苦しめるというやつですね。官僚制の問題、社会にどこまでも権力・法令が貫徹されてしまう問題。本来適切な尺度があるはずなのに、官僚制には法の慣性力が伴う。なんらかのはどめがかけられないと、法がくだらない細部にまで干渉する問題がありますね。それが近代社会特有の病であるといえますが。まあ長いので省略。

 

 米欧では近代化は内在的なもの、自発的なものだが、日本や中国などではそうではない。近代化の反省が西欧化の反省という形になりやすい。そして日本オリジナルや中国オリジナルの(再)評価と直結しやすい。必然的に伝統回帰をもたらす構造がそこにはあると。

 

 社会に閉塞感・停滞感が漂っている。これを打破するために誤った方向に向かう可能性が高い。それが「脱近代化」という形を取ると、困ったことになる。筆者の言う「脱近代化」は「脱民主化」と言い換えたほうが個人的に理解しやすいので、まあ「脱民主化の誘惑」とでもいいましょうかね。

 

 近代化にせよ、脱近代化にせよ、日中含めた「公共性」の視座がないと理解・有益な言語化が難しいと。

 これ、最初何を言ってるか理解できなかったんですけど、要するに中日論じるなら、どちらか一方だけではなく、両方の視座を持っておくこと。一方的な視点から安易に語る言説が多いから、それでは「公共性」を伴わずに、片手落ちの論理になりますよということでしょうかね。氏からすると中国の基本的なことも知らずに、日本の政治事情、思い入れ、自己の主張から見当違いなことを言うものが目立つということなのでしょうか。

 

 「近代化」とは「分業」であり、平等な「個人」概念の確立を伴う。頭脳と身体労働の切り離し、社会内部で脳と肉体の「分散」と「集中」を伴う。(そこに機械化が加わって身体性の喪失などもあるけどそれはおいといて)「近代資本主義」と「民主主義」と「近代法」は三位一体の関係。良かれ悪しかれ、日中というのは西欧モデルの「リベラルデモクラシー」や「資本主義」を採用していない。基本的に「民主主義」やそれに伴う「資本主義」といった諸概念を理解していない。近代ゲームの基本ルールに対する無知・無理解、リテラシーの低さというものがある。

 

 問題の根源というのはそこにある。それで個人的には全て説明がつくと思う。筆者の主張もつまるところそこに帰結するのだろうけど、語られる論がどうなのか?ちょっと個人的に理解し難い感があった。わかるんですけどね、スッと入ってこない。多くの論者の説が上げられて、たくさんの具体例があるからでしょうか。それが逐一面白いものだったらまた別だったんでしょうけどね。逆にそういうものに興味関心がある人には面白いかと思うんですが(三章の己の興味あるテーマ、取り上げられている本がそうだったので)。

 

 近代化する上で当然、問題が発生してその近代化特有の問題をいかに処理するか?「ポスト近代」なんていうのは、もうずっと論じられているわけですが、その解決方法にズバッと明快に斬りこんでいるという感じはないですね。「公共性」というのが議論の前提として抑えておくべきことを意味するものならば、道筋の整理みたいな話ですからね。個人的にはそこからさらに一歩踏み込んで、では近代社会特有の問題についてどうあるべきなのか?どう対処すべきなのかといった話を聞きたかったですね。

 

 中日に「公共性」がないというのも、なんというか氏が取り上げている人が何人か出てくるのですが、あまり良く分かっていないから見えていないという論が多い気がしました。そのようなものを取り上げて、それについて論じる価値が有るのかな?という気が個人的にはしましたね。

 

 まあ要するにそういうものへの柔らかい、優しい「ダメ出し」ということでしょうかね。

 

 最初、脱近代という言葉を見て、ああ、ポスト近代の話をするのかなと思っていましたが、前時代への逆行や回帰=「前近代」社会そのものを志向すること、回帰するという意味で用いていたんですね。郷愁を感じる「前近代化」で問題の解決が図れる訳ありませんからね、まあ論外なのですが、時代錯誤の現政権のあり方を強権化ではなく、「前近代化」志向と言われるとそうなのかもしれません。

 

 ただ、どちらかというと権威主義的体制、一度社会の上層・ハイクラスとして身分を確立させれば、あとはその身分がずっと世襲されて社会の上層にあり続ける、社会を支配するシステムを固定化させるという方向性にあると見たほうが妥当に思えます。

 

 東南アジア・インドに見られるような、どこの政治トップを見ても過去の元勲の子孫ばかりという状況とおなじ。身分制社会、流動性の低い社会を作ること、閉鎖的な社会を構築しようと言うのと、「前近代化」というのは違うと思うのですよね。「近代化」という現象の「分業」「個人化」という点がポイントだと思っている己としては、それは「前近代化」ではなく、「前近代性」だと思います。今の政治の強権化と前近代的な社会の特性を現代に復帰させて、自分たちに都合の良い社会を作ろうといういうのは時代錯誤な「前近代性」であって、それを「脱近代」というふうに論じるのは、「ポスト近代」と論じられてきた流れを考えると、あんまり良い表現じゃないなと個人的に思いました。

 

 本当に個人的なもので、そんなお前の感想どうでもいいもよ(※見直して気づいた。「いいもよ」ってなんだよ…)といわれたらそれまでなんですけどね。

 

 なんといいますか、近代国家を作らなくてはいけない!と時代の指導者層が認識して、危機感を持って近代国家を建設する。憲法・議会・選挙などなどを導入して、民主主義国家を作るぞ!となって、うまくいくかと言われると、大抵うまくいかない。

 

 アジアや中南米見渡しても、民主主義の体裁をとって近代国家を建設しようとしてもたいてい頓挫しているわけですね。憲政というものへの理解、社会科学の知見が足りないので。

 

 日本の取り組みというのがむしろ例外的で、日本の民主主義というものは世界大戦や敗戦による占領という苦難があって非情に脆いものになっていた。そして民主主義というのは何か?という理解をしている人も、それをなんとしても守ろうとする人も社会の多数を占めなかった。結果今の民主主義の崩壊的な状況がある。

 

 中国が一度も民主主義を導入した経験がなく、日本は一度導入すれどもここにきて民主主義が死んでいるに等しい状態になっているというのはかなり意味合いが異なると思うんですよね。それを並べてしまうのはどうなのか?もちろん国家の志向は共通しているとは思うんですが(あと何より、それはわかっているけどここで取り上げるテーマとは違う、そこには踏み込まないと言われればそれまでですね)。

 

 日本の場合は、日本という国においても民主主義なんてどうでもいいよという状況になってしまうこと、他の非西欧圏と同じ様な状況になってしまうこと。民主化・近代化のルールの力学ではなく、伝統主義的社会のルール・力学が今になって再び支配的になってくるというところに注目すべきかと(日中に民主主義が根付かないのはという話はラストのほうでチラッと書いてあります)。

 

 

 東アにおける「公共性」「公共圏」の欠如故に、有益な議論が生まれない。よって日中衝突などの際に問題解決のロジックが存在しない。然り、しかしそれはじゃあ公共圏を作りましょうね~と。学者や知識人、政治家・官僚なんでも良いですけど、そういう人達が定期的に話し合う場を設けたり、民間努力でなんとかなるかと言われれば、違うと思うのですよね。

 

 中日は「宗教」が違う、東アではそれぞれの「歴史」によって「宗教対立」が起こりますから、それを乗り越えて討論をするということが不可能な構造がそもそも存在するんですよね。特に儒教圏は「事実と当為の違い」というのが確立されていない(日本でも怪しい人が多々いますが…)。言論のルールがないので、討論が成立しない。

 

 よってそのような「公共性」「公共圏」が生まれるかと言われれば個人的にはかなり疑問ですね。

 

 

 関係ないですが、ウィットフォーゲルがちょっと前に出てきたのは、アジア的生産様式・単一権力社会というマルクスの視座を中国に持ち込んだ研究であり、中国を考える上で、再評価されたからですか。これまではアジア停滞論の論者として退けられてきたと。まあどうでもいいんですけどね。面白い論でもないので。なんでこんなのまた出てきたんだろ?と一時期「?」に思ったんでメモ。

 

 中国人が政治を道徳と強く結びつける、モラルに介入するのが常識となっている。中共が親孝行について発表・指示することが珍しい現象ではないように。今の安倍自民での「家族感の再生」なんていうのは、その政治にモラルを持ち込もうとすること、儒教圏・宗教国家への回帰と見なすことが出来ますかね。

 

 

 選挙を導入する・承認させるに至った烏坎村のケースは、民主化の現れなのか?中国が、民主化していく好ましい兆候・モデルになるものなのか?表面上は民主的に見えても、そこに民主主義や憲政といった背景は見られない。住民の権利保障ゆえの行動であるから、個人の人権という意味合いはあれど、そこから積み重ねて民主主義社会が発達していくかと言われると…。

 

 宗族・血縁原理で動く中国社会ですが、地縁・血縁、人脈によって諸個人が動く。本人と人間関係がどれだけ近いか遠いかによって対応が変化する。「二重規範」は変わらないわけです。近代国家、近代法はこの「二重規範」が適応されれば意味がない。この事件も近代国家へ向かう好ましいケース、選挙導入などはそうかもしれませんが同時に、中国における「二重規範」の強さ、近代法導入の難しさという致命的な問題があることを見逃してはならないかと思います。

 

 中国では憲法言論の自由の制限の根拠となっている。まあ、そういう憲法が本当に「憲法」か?と言われるとかなり怪しいわけで。憲法があって、議会があって、選挙したら、はい民主主義ですよと言えるかといえば、当然違うわけですね。憲政の常道、慣習が存在して初めて立憲主義・民主主義になるわけですから。

 

 日本の民主主義が行き詰まっているのは民主主義というものを理解していないから。それを見て中国人や指導層が、民主主義だって失敗するじゃないか。それなら中国式、中国Wayでいいや―とまがい物を見て本物の価値を理解しないとしたら認識能力が低いと言わざるをえないですよね。民主主義や憲政が西欧化で中国伝統のものでないから魅力を感じないなんて唐や宋時代のようなことを言うのであれば、中国に未来はないと言っていいでしょう。

 

 民主主義が素晴らしいとか資本主義が素晴らしいとか、そういう価値判断とは関係なく、近代社会のゲームルールを熟知してそれに則った行動を取らないと失敗するに決まってますからね。むしろ民主主義はめんどくさい、困ったもの。それでもこれを守らなければ社会が大変なことになるというのが民主主義。そういう理解、民主化しなければ中国が滅ぶという危機感がないことが恐ろしいですね。

 

 私的所有権についての懐疑、「均分」の思想、社会内での富のゼロサムゲームの発想だから、権力者による富の独占=汚職に過剰に反発する思想土壌がある。これでは資本主義の正常な(オーソドックス)力学が作用しにくくなる。中国では正当な労働の対価としての富・私有財産という価値観が根付くのは難しいでしょうね。

 

 傍論ですが、丸山真男が日本の前近代性を見出し、その問題を取り上げる傾向があったのに対して、吉本隆明が「マチウ書試論」において、関係性の絶対に注目したというのは面白い話ですね。

 まだマイノリティだったキリスト教ユダヤ教徒に迫害されており、しかし自分たちがもしマジョリティだったら同じようにマイノリティを迫害するだろうと言うマタイ伝のテーマを引き合いにして、吉本は思想の正しさというのはその内容・論理的整合性などではなく、社会内での実力・どういう位置づけにあるかで決まると説いた。

 関係性によって初めて当該社会における正しさというものが規定されるのですから、当時の人が努力して正しい行いをしていたら、正しい教えを信仰し・実践していたらなんとかなったというのはおかしい。そういう強いもの、支配的なものに従わざるをえない社会において誰が正しい行いを取れるというのか?そのような義人は誰一人としていないといったところでしょうか。

 そういう風に読み解いてみると、戦後民主主義における戦前の批判というのは社会制度や政治制度上からの思想を論じているというよりは、「信仰の正しさ」を論じていたと言っても過言ではないかもしれません。正しい信仰を持っていたから良い結果になった、その逆もしかり。そういった発想から民主主義の正しさというのが論じられていた要素がかなりあったといえるのではないでしょうか?

 米欧においてはキリスト教という土壌から政治的な正しさと宗教的な正しさの価値観が離れていく、正しいという概念が政治的権力から独占されなかったという背景があって、国家権力がこの政策・価値観が正しい!と主張しても、それがすべてになることがなかった。

 人権だとか民主主義だとか、そういった正しさが育まれてきたわけで、そこら辺に公的権力は手を付けられないわけですよね。戦前、国家が統制してきたらそれに対して「ノー」を言えない、言いづらい背景・空気があった。弱い立場にある人間が意義を申し立てる論理・構造がなかった。そういう弱者の主張を認めるか認めないかというのが近代化発祥の西欧と、輸入して取り入れたアジアの違いなんでしょうね。

 国家権力、政治組織外で、個人の意見を組み上げる非政治勢力・社会組織が弱い。本来、地域とかそういった下の声が社会の声となって上に届くようなルートが存在しないといけないのにそういうパイプがないですもんね。思想土壌においてもそう、民主や立憲といった価値観念でそこだけは公的権力が手を付けられないという最低限がない。国民・民衆の側に「正しさ」がないですよね。永井の言う戦後正教となった民主主義は、厳しい思想的挑戦を受けずにその地位についたため貧困な思想となったというやつなんでしょうかね、やはり。

 

 「アジア主義」について触れられていますが、本来弱者に寄り添うものだったそれが、公的権力に近い者が主流となると、アジア支配への道具となっていったと。これはちょっとナイーブ過ぎないか?当時の時代背景を考えると、ああいう時代であれば、そりゃ政治に利用されるだろうなという印象なんですが。むしろ他にどうしろと?という感じです。

 

 ただ戦前はともかく、戦後においてにわかに出てきた「アジア主義」のあやしさについてコメントしたい。だから、戦前のような結局自国中心で他者を利用する結末に至ったような偏狭なものになるな!という警鐘を唱えたいからでしょうかね、これは。左右を問わず、「アジア」にコメントするときそこにいびつな価値観が反映されるのが目立つということなのかな。

 個人的に中国推しをしながら、チベットウイグルのような問題が出てくるとダンマリという手合についてはフェアネス<公平性>が感じられないので、脳内から即消去するようにしています。

 

 別に中国の状況を理解して、中国の主張に理がある、日本が間違っているということなんて珍しくない。ただ人権の状況においては、これについては中国が間違っている!改善せよ!と主張することは難しくないと思うのですが、そういうことが出来ない人がいますね。論理的整合性や公平性よりも、特定の国や対象すべてを肯定しないといけないとなるととたんに言説に説得力が落ちるだけだと思いますが…。

 

 

 第三章が特に面白いので、別枠で。また第四章の一&二も面白いです。そもそも梶谷先生を、この方面白いな。優れた学者に違いない―と思ったのが、この三章・四章の文章と似たものをブログで拝見したからなので。

 

 四章にあるように、與那覇中国化する日本 増補版 』の論の設定のおかしさを喝破するところは読んだ時「なるほど!そういう読み方があるのか!」と関心させらたものです。既に「中国化」して、優れていたから西洋化の必要性を感じなかった―なんていう主張で、それで中国が近代化に失敗したのかと納得する人は殆どいないでしょう。

 

 ただ、ここでフクヤマの論を持ちだして、資本主義的成功と結びつけるのはどうなのでしょうか?フクヤマの近代的な政治制度の発展には、「国家」「法の支配」「政府の説明責任」の3つであるというロジックを用いて、中国の近代化の失敗には清王朝崩壊の混乱によるもので「国家」がなかった。中国共産党によって「国家」が誕生して、出来ているとはいえないにせよ「法の支配」を徹底しようという姿勢が現政権には見られる。巨大な官僚機構があるならさほど難しくはない。西欧・日本とは異なってもある程度の資本主義成長を成し遂げてもさほどおかしくはない。最後の「政府の説明責任」が一貫して欠けている。

 

 ―という話があるのですが、今の中国の経済発展というのは、外資の流入による外資主導で発展。グローバル経済に組み込まれて、資本を手に入れて、それを膨大な土地に投下して、莫大な資産を生み出している。そしてその資産をまた資本として投下して経済発展―という好循環に入っていることにあると思います。氏は中国経済の専門なので、まあこんなこと言われるまでもなく理解しているでしょうが、なんか違和感を覚えますね。

 

 今の中国はむしろ、そういったセオリーから外れて異例の発展を遂げているからこそ、中国Wayという違った道・答えがあるんじゃないか?中国にはそういった論理は通用しないんだ(中国例外論)。否、セオリーから外れているからこそ、今後中国は失速・混乱するんだという対極の立場が存在する話になっているかと。

 なので、フクヤマのこの3つのロジックを持ち出す意味がそもそもあったのか?という気になるのかな?そしてフクヤマのこのロジックは、そもそも民主主義的な政府を想定しているのでは?多党制も選挙も言論の自由もなくとも、最低限この3つさえあれば…!という話なのでしょうか?

 

 ですから、「さらに資本主義を発展させるには~&社会構造を安定させるには、フクヤマの言うように3つ目の「政府の説明責任」が今の中国には決定的に欠けており、それが必要になる」―という話の持って行き方だったら、違和感ない流れになったかもしれません。

 

 セオリーをガン無視している中国の経済構造というのは、必ず深刻な問題に突き当たると個人的に思っています。しかし氏は「国家資本主義」と「大衆資本主義」という言葉で中国経済の二つの性質を論じて、己のような中国経済崩壊説は国家資本主義」のところを見すぎている、「大衆資本主義」という要素を見落としているという立場・主張だと思われるので、そもそも意識が違うからですかね、己が違和感を感じるのは。己が興味関心を持っていて、そこをもっと掘り下げて欲しいというところが、サラッと流されているような感じなので違和感を覚えるのかも。まあ、そんなことどうでもいいですか。

 

 日本の安保闘争も、中国の天安門事件も、台湾のヒマワリ運動もつきるところ「政府の説明責任」を求める行動。そしてその必要性を政府が認識して、「権力を分け合うこと」実行するか否かであると。なるほど!ですね。日本の安保闘争は、民主的な政府なら当然行う「権力を分け合うこと」、「政府の説明責任」義務を果たそうとすることに鈍感であったと言われるとしっくり来ますね。

 そしてそれは今の安倍政権において言えること、SEALDsと言われる団体・「戦争法案」という主張に疑問符がつくとしても、「政府の説明責任」を果たそうという積極性が見られないのは、安保闘争以来変わっていない。閣議決定の際の文章がないという話一つとってもそう。説明責任を果たそうとする意志がないのは、台湾政府以下であるともいえますね。

 

 そしてどうしてそのようなことがなされなかったのか?という話がありますが、フクヤマを事例に近しいことが書いてありますが、個人的に農村の農民が都会に出て行って中産階級になる。その彼らが西欧ではまあ「市民」になって、民主主義を支える担い手になった、社会を動かす成員となっていったと。ところが日本やその他アジアではその「市民化」「市民社会化」がうまく行われずに、彼らが政治に声を届ける機能が欠けてしまうことになった

 

 ―そんな感じですかね。今では「市民」といえばうさんくさいものとされて、「市民」ではなく必要なのは「国民」だ!なんていう思想も一定の力を持っているくらいですしねぇ。

 

 その都市、その職=階層によって自己の権利を保証する共同体に参加して政治・労働運動をするという当たり前の社会機能が存在しない。結果民主主義の論理も作動しないと見て良いのではないかと思います。中国も同様にそのような「市民」はいない、生活の安定を求める「生民」のみと。

 

 E・Hカーならずとも、ロシアにどうして共産主義が根付いて民主主義が根付かなったのかと言われたら、前者は多くの民衆に利益をもたらしたが、後者はそうではなかったからと、答えるところでしょう。そしてそれは日本と中国の農地分配を見て分かる通り、民主主義が民を食わせることが出来るかどうかというところに尽きるんでしょうね。

 

 戦後生まれた都市において民主主義・「市民社会」がそこに所属する人々の権利を保障するということになっていなかった、民主主義の構造・機能が個人と深く結びつかなかったこと。利益をもたらす・保証しているという形にならなかったことがポイントでしょうか。中国の場合は「上に法令あれば下に対策あり」で公権力に対する警戒・抵抗があるといえばありますが、それを民主主義という形で実現させようという風になっていない、各個人の人的関係でなんとかしようとしているところが同じくポイントでしょうかね。まあ中国の場合は今後次第なので未知数ですが。

 

 今でも膨大な農民がいる、農民を主体とした革命でしたし、労働者・都市民が増えたと言っても、基本的な支持基盤は今でも彼ら。農民から共産主義が生まれるという奇妙なルートを経た中国が、農民から民主主義を生むというこれまた一見想像つかないルートをたどるのでしょうか?

 

 毛沢東時代に、文革において、広がる格差に憤った人々がそれで怒りを発散させるとありました。そもそも「格差なき社会」「平等な共産主義社会」がありえないという認識がなかったからこそでしょう。文革という苦難・痛みをもたらした経験で、高い代償を払って貴重な学習をしたのに、今でも農村では毛沢東時代を懐かしむとか。それは農村・農民の生活の安定に繋がるという幻想があるからでしょう。均分の思想で、汚職役人を叩きのめせという基本因子が内在されていることの恐ろしさにはもっと注目すべきではないでしょうか?

 

 

 柄谷氏の『帝国の構造』というもので、中国を近代の問題を乗り越える理想の「帝国」像と見なす主張をしているらしい。「帝国論」の一つでもやっていれば、ちょっとでも触れていれば、何を言っているんだお前は…と言わざるをえない暴挙。中国の台頭を好ましいと捉えるならともかく、現今様々な問題を解決してくれる救世主のように捉えるとは論外としか言いようが無い。現状国際社会において、そういった責任を果たすべきだ!それなのに未だに迷惑かけて何やってんだ!地域大国・リーダーにふさわしい責務を果たせと持ち上げた上で批判するならともかくね…。

 

 個人的に、右・左といった論をそれぞれ取り上げてコメントする。そういったやり方はとっつきにくい。右派はこう言っている、そして左派はこう言っている。そして私はこう思うというやりかたは個人的に好きではない。そもそも私は左であり、左的立場からこう言わせてもらうという主張はあまり有益であることが少ないと思うので。そういうものを逐一取り上げるのはどうなのだろうか?ズバッと答えに斬りこむ。その本人の主張を聞きたい。有益な分析というのはたいてい、優れた個人の独特の着眼点、問題意識、解答アプローチの斬新性。幕の内弁当的にあれもこれも取り上げる方法は個人的に性に合わなかった。

 

 うーん、なんというか、そういう左右問わず、言論が咬み合わない不毛状態を懸念するからこそ、左右のそれが噛みあうような思想状況の整理をすべし!対等な土俵に立って、有益な思想交流をして、結論を導き出していくべきだ。だからこそ、こういう日中を巡る言論状況の混乱について、誤解を正すために中国の左右などについて、基本的なことを書いたということなのでしょうか。

 

 

 つか、長い。まとまりがないコメント集ですね、まあいつものことですか。どういう評価がなされているか気になるところですね。数年経って感想がたまる頃になったら、また見返しましょうか。