てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『 日本と中国、「脱近代」の誘惑 』三章

  続きです。この本で一番面白いところなので分けました。氏は中国経済の専門家なので、やはり経済分析が面白いですね。中国・社会・経済のリスクに言及する論文を書く際には、必ず言及したくなるのではないでしょうか?

 

 丸川知雄いわく「大衆資本主義」というのが中国には存在する。携帯における「垂直分裂」という現象が起こっている。一つの製品ではなく、工程ごとに市場に参入するようになっている。部品ごとだから零細企業も参加でき、自由競争が活発に進む。それに伴い「製品の同質化」「パクリ」の問題があるが、これにより中国においてもちゃんと技術成長が可能になっている。

 また家電・自動車など零細企業の間で、開発過程をオープンにして共同で行うようになっているので、研究開発費を下げるという現象も見られる。「安上がりなイノベーション」というものが中国に存在すると。

 

 経済成長といえば、労働・資本の増大、そして何より技術成長にある。イノベーションこそ資本主義の命。経済成長=技術成長と言ってもいいくらい、その国の経済発展のポテンシャルを示す指標。中国といえば、三年くらい前にどこかで書いた気がしますが、外資の流入で資本を得て、それによる大開発を行っているだけ。資本と労働の市場への大量投下が行われているから、経済成長しているだけに過ぎない。あれだけ土地があって、桁外れな人口であればそりゃ莫大な成長が可能になるに決まっている。しかし、肝心の技術成長がなければ、規模の拡大だけなので、経済成長のピークが来て、頭打ちになって、中国経済はいずれ必ずどこかで失速し崩壊する。

 

 ―というようなものを書いた記憶がありますが、中国にもイノベーションがきちんと存在する。中国経済を論じる上で、「安上がりなイノベーション」というものが存在するのであれば話が違ってくる、中国経済崩壊論を唱える際に必ずこれに触れることを忘れてはならないわけですね、なるほど。

 

 製造業が生産性向上を実現できるなら、短期的な資源の適切配分という問題をクリアすれば、長期的・持続的経済成長が可能になる。中国経済は国家主導のそれに注視するあまりに、こちらの視点「大衆資本主義」が見落とされていると。

 

 中国には「大衆資本主義」と「国家資本主義」が存在し、コインの裏表のように密接に関係している。この中国独特の二重構造は、経済だけでなく政治・歴史的な背景によって成立してきたもの。

 

 アセモグル・ブレマーらは「国家資本主義」に注目して、「大衆資本主義」の要素を無視しすぎている。「国家資本主義」故にいずれ崩壊は単純すぎる。※以下のリンクはアマゾンリンクです

 (※国家はなぜ衰退するのか(上):(下)は結構売れていたので目にした人も多いかもしれません、その著者がアセモグルですね。そして自由市場の終焉―国家資本主義とどう闘うかの著書がイアン・ブレマーです。丸川氏はこの国家資本主義という用語の批判から「大衆資本主義」という概念・用語を考えたのでしょうかね。そういえば、イアン・ブレマーは『「Gゼロ」後の世界』をちらっと読んで、大して面白くなさそうだし、別にいいかと手を出さなかったなぁ、前に書いた気がしますが、アセモグルのこの本も、チラ見で終わりましたし、この機会にちゃんと読みましょうかね?)

 

 アリギの『北京のアダム・スミス』によると、清朝のやったことはアダム・スミスの主張と同じ「自由競争を通じた利益率の低下」であると。このような主張は、『リオリエント』や『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―』などの西欧中心史観の見直しをするものに通じるものがある。西欧が格別に優れていたという考え方に修正を迫るものであるといえる。

 

 また韓毓海『五百年来誰著史』は、貨幣主権の喪失、貨幣の独占的発行に政府が無頓着だったために、貨幣主権・金融主権を西欧列強に奪われ、経済が衰退していったとする。つまり元から優れていたものを持っていたが、西欧への対処に失敗して混乱し、市場が機能しなくなっていた。中国の失敗を内在するものよりも外来してきたものに視点を向けたもの。そして「中国経済発展のユニークさ」(=優秀さ)というものの強調もそこには含まれている。

 

 「大衆資本主義」と「自由競争を通じた利益率の低下」には似たものがあるが、それにより「近代資本主義の罠」を乗り越えられると考えるのは単純すぎて、危険であると梶谷氏は警告します。

 

 斎藤修著『比較経済発展論』において「スミス的成長」(正確には「市場競争」)を二つの本質から説明する。「自由競争を通じた利益率の低下」と「「分業」を通じた収穫の逓増」がそれ。前者に注目したアリギと違って、斎藤は後者に注目する。産業・職業の分業が進み、中間財生産が拡大し、相互に波及効果をもたらし、地域を結ぶ経済ネットワークが拡大していき、経済全体の発展が促されていく過程こそがポイントだと。確かに近代化における分業の重要性こそポイントですね。

 

 イングランドの「スミス的成長」には、エンクロージャーによって土地・資本を持つ資本家と土地をなくした労働者が生まれていたという構造が土台としてあった。そして有名な速水氏の「勤勉革命」説に代表されるように、日本では「マルサスの罠(=人口増が経済成長の足かせとなる)」を分業を通じた生産性の向上によって克服したという背景があった。

 

 土地の少ない日本では、生活水準を向上させるために土地あたりの労働を投下する割合を増やす労働集約的な農業経営を行う必要性があった。労働の熟練化によって絹などの工業製品も生産できる下地が整ったと。このような背景があったからこそ、資本がなくとも持続的な経済成長が可能になったと。またこのような形態をとったから、イングランドのような農民階層分化を伴わなかったため、階層の格差拡大をもたらさなかったと。

 

 アリギ・韓は安易にこの「勤勉革命」の概念を流用しているが、日本と中国は同じ「小農社会」でも徳川政権時代の日本と、清王朝では政治制度が違う。前者は封建制であったが、後者は「専制国家」であり、同じ小農社会でも状況が異なる。地主制が発展した封建制度ではなかった。

 ※注目される論文が出てくると、その業績・論理を安易に他分野・他地域に応用してずっこけるという例をよく見ますが、まあこの例といえるのでしょうかね?アリギは以前書きましたけど、長ったるくて何言ってるかわからないのでね。まあ、さもありなんという感じですね。

 

 足立啓二の『明清中国の経済構造』において、「専制国家」というモデルが用いられている。足立は、これまでの学説とは違って、強力な「国家」に注目するだけでなく、その「国家」に対して、コントロール下に置かれない「民間」経済(個別の人間関係や人的ネットワークを元にした客商・牙人(行)制度など)にもスポットを当てている。

 

 遠隔地の取引は仲介業者が増えるので、手数料がかさむ。市場自体に参入が自由で、過剰競争に陥りやすいという傾向は、近代的な工業が発展しても変わらなかったと考えられると。古典的名著『中国経済の社会態制』(村松祐次)にもそれは指摘されている。村松は活発な市場取引にかかわらず、資本市場の形成と、企業の資本蓄積が進まなかった現象を「安定なき停滞」とよんだ。

 

 「専制国家」における「国家」と「民間」という図式は、「国家資本主義」と「大衆資本主義」という図式の元・歴史的背景そのものであると考えられるわけですね。かつては「停滞」していた、社会に経済的「停滞」をもたらしたこの二重構造が、今ではちゃんとイノベーションを産んで成長をもたらしている。これをどう理解するかがポイントだと。

 

 労働・資本だけでなく、しっかりと技術成長・イノベーションが存在している。「中国のイノベーション」とは「産業全体で生じるイノベーション」。生産者・開発者がその対価を受け取るとは限らない。では誰がその報酬・「果実」を受け取るのか?それは力の強いものであると。言うまでもなく、それは「国家」になりやすい。よって「国家」と「民間」の間で、その報酬の分配問題が起こってくると。

 

 民営化を進める政策をとったが、民営化されずに残った国有企業ではその権限が強化された。いわゆる、いま流行り言葉である「国進民退」現象が起こっている。故に未だに中国社会・経済では、国有企業優位状態にある。

 

 「民間」をハイエクがいう「自生的秩序」と考えることも可能。意図せざる慣習によって自然発生的に生じた秩序、政府が意図して作るものよりも、自然発生してうまく行っているものこそ、ハイエクは重視し、尊重すべきだとした。しかし中国の場合は、「国家」の干渉と「民間」の衝突という緊張感がある。ハイエクの言う「自生的秩序」がまま当てはまるわけではない。

 

 

 というわけで、非常に面白い話でした。「大衆資本主義」という構造が存在する以上、長期的・持続的経済成長が必ずしも不可能ではないということ。「国家資本主義」故に中国がそれを可能でないとするのならば、少なくともこの「大衆資本主義」について論じて、そのイノベーションの失敗・限界を提唱するなり、何なりしないといけないわけですね。そうしなければ中国経済の専門家から言わせればにわか論者・知ったか論者・モグリと言われても仕方ないところでしょうか。

 

 で、己は「国家資本主義」論者であるから、中国が長期的・持続的経済成長はありえないと考えていたわけではなく、(それと大して違いなくその論者に含まれてしまうかもしれませんが)近代国家というのは二重構造・二重規範というのを許さない。「国家」と「民間」で異なるルールが適応され、それによって上から下あるいはその逆に意志が貫徹されない、意思疎通が取れないという構造で果たして長期的な安定が可能なのだろうか?とどうしても考えてしまうわけですよね。

 

 経済のことはもうわかりようがないので、「大衆資本主義」において長期的・持続的経済成長が可能になると仮定します。が、しかしそれはあくまで経済上の領域における話、政治上の領域では?社会上の領域ではどうなのでしょうか?

 

 経済成長8%を達成しないと中国は安定が失われるとありましたが(そこに明確な根拠はないという話を以前聞きましたが)、それが今のような経済規模になって5%あるいは数%になってくるときに、経済上安定するとしても、政治・社会上の安定を崩壊させることにならないでしょうか?

 

 近代国家の近代法の原理によって、中国人であるならば誰もが平等な個人として扱われるという原則がない。権力に近い人間とそうでない人間で明確な差異がある。階級・階層なき社会など存在しませんが、その構造に不満を抱く、不公平・不公正を感じる人間は多い。

 

 二重規範ということは、自分のインナーサークルに所属する人間とそうでないアウターサークルで明確に別れるわけですから、それによって所属するサークル・人的関係ごとに絶え間ない闘争が起こる。しかもその解決方法に、法・裁判といった有効な解決方法がない。

 

 不公平だ・不公正だ!と感じて一度スイッチがはいってしまえば、それぞれの共同体毎での闘争が終わらない。「国家」と「民間」で領域が分断されて、協力して当たらなければならない難題が持ち上がった時に、二重構造で整合性がなければ、手のつけようがなくなるのでは?日本のバブル崩壊後の混乱のように、不良債権処理など後処理がスムーズに出来るのだろうか?経済問題が起こって、国家が正しい政策を打ち出したとしても、それがきちんとした「市場」モデルでなくても機能するものなのだろうか?

 

 そして近代国家としての原則が貫徹されていないということは、前近代国家の特徴を色濃く残すわけで、未だに前近代国家であると言われてもあながち間違いではないことになる(個人的には超近代的国家と、近代国家・前近代国家という要素が複雑に入り混じっているという感じの捉え方だけど)。前近代国家の顔が多々見られるということは、それは現支配体制が「王朝」ということであるといえる。「国家」と「民間」という構造が明清時代の基本経済構造であるとするなら、今でも前近代国家の基本原理によって動いていると言っていいだろう。

 

 つまり共産党政権を「共産党王朝」と見れば、歴代諸王朝のように拡大・維持・衰退のサイクルをたどるということ。拡大の期間を終えれば、維持の期間に移る。そこで民主化・透明性を増す政策を採用せずに、王朝のような対応策を取るわけにはいかない。民主化・近代化を無視すればそれこそ、災害&反乱&外患のパターンだろう(外患は現代では考えにくいが)。

 

 前近代の「国家」と「民間」の二重構造は成長をもたらさなかった、だから滅んだ。今は成長をもたらすからなんとかなる!と言われれば、それを完全に否定する材料はないのだけど、前近代的な王朝崩壊スイッチが経済以外の問題でいつ押されないとも限らないと個人的には思う。

 

 

 これだけだと、「中国は駄目だ!崩壊待ったなしだ!」としかいいたくないようなので、逆の話を。誰が経済成長の富「果実」を手に入れるかわからない。そういうアンフェアな状況でも、それをアンフェアに感じさせないというか社会の安定性に繋げる方法があります。

 

 本文にも書いてありましたが、いかに分配するかという問題。つまり民間人の成功者や、共産党のトップなどが、得た収入をきっちり寄付する。孤児院だとか学校とか病院とか福祉とか、なんでもいいですけど、社会の下層に還す。貧民救済をすることですね。自分たちの宗族とか血縁・地縁の狭い範囲で独り占めしない。徹底した寄付の原理を貫徹させることですね。

 

 民主主義では民間の善意・寄付こそ社会を健全化する重要な役割を担っています、中国でもそれがなされれば、社会上層への敬意と信頼が得られて社会が安定化する方向に向かうでしょう。共産党指導層の場合は個人としても、分配する経済・政治政策としても求められますが。

 

 自動車でも家電でもなんでもいいですけど、成功した経営者が、「成功したのは私の才覚によるものではない、稼がせてくれたのは中国という偉大な社会である。中国という偉大な社会が私を作り、会社を大きくさせてくれて、富をもたらしてくれた。だからこれは私のものではなく中国社会のものだ。カエサルの物はカエサルのもとに、中国社会のものは中国社会のものに」といって寄付するのが当たり前の世の中になることですね。

 

 パクリや、本来自分の発明でもないもので利益を得てしまう、そういうものにアンフェアや知的財産権の問題が関わってくるのは確か。やましい儲けでもそれを正当化するには社会への貢献・寄付のメカニズムを根付かせることではないかと思いますね。当然それで二重構造の問題を放置していい、最終的・完全な解決方法とは思いませんけども。

 

 まあプロテスタントの倫理と資本主義の精神みたいに、独特な中国の資本主義の精神を可能にするには独特な倫理が必要になるでしょう。今は健全な倫理ではないですが、それが資本主義の精神としてうまく昇華されるという逆説が存在するのならおもしろいんですけどね。

 

 ※誤字多すぎたので修正。そういやどこかでミスで濁点が連続されていたって、前回書きましたっけか?