中郎将諸葛亮を考える
諸葛亮の最初の官が中郎将だということについて考える。
中郎将ということは独立する私兵を持っていたということであり、軍人という色彩が強いということになる。まああそこら辺の一族を束ねて、有力者とのコネもあった。政治家と軍人が殆どイコールの時代ですし、中郎将ってことは兵も率いていたんでしょうね。諸葛亮に軍事色が強いから、軍事的な役職だったのか?劉備政権自体が軍閥だから、そういう評価になったのか?まあ両方でしょう。
諸葛亮の加入って、劉備政権を流浪の軍閥集合体から転換させたターニングポイントなわけで、新規参入の若手に過ぎない諸葛亮を他の古参抑えて重用してしまうと、劉備政権のパワーバランスを混乱させるリスクが有りましたよね。軍師・参謀イメージ強くて、超有力者って事実がスルーされがちですねでしょうね。若手世代の有力株でしたし、曹操と袁紹がドンパチやってる間に徐州辺りから流れてくる民を管理したり、政治的な意味でも重要な人物とみなされていたでしょうしね。
世々二千石みたいな高官の家なら、政治資産・人脈があるだけでなく、家訓として、秘伝ではないけど、そんな感じで政治や軍を動かすノウハウを若い頃から教わっているはず。最低限の知識や能力は備わっているとみなされる。ただ実践経験はないわけで、その不足をどうやって補ったんだろうか?師がいた?
北からどんどん南下してきた当時、そういう民を束ねて定住させる。また武装しているから、兵士として組み込む、軍事力の管理などもあっただろう。んで時にトラブルになって、それを治めなくちゃいけないわけで、そういうので実戦経験があったのか?
まあ部隊を率いるくらいなら、地元で狩りとかやって演習で経験積めばさほど難しくはなかったのかな。将としての能力有無問わず、とりあえず麾下の軍隊をコントロール出来さえすれば、当面問題なかっただろうし。劉備についてから実戦見て、本格的に指揮能力が磨かれた感じですかね?
土豪黄氏の私兵を率いて、政治的コネだけじゃなくて、兵力も計算したうえでの諸葛亮の嫁取りだとすると、これまでの諸葛亮のイメージも大きく変わりそうですね。のほほんと田んぼ耕している書生・諸葛亮みたいな作品が多い気がしますし。
諸葛瑾が孫呉政権に流れていったのは、その頃には徐州攻略とかを重視していて、徐州出身の諸葛瑾が厚遇されるという背景があったのかな?もし、孫策・孫権時代にもっと徐州攻めが上手くいってたら、陳登ウォールを乗り越えて徐州の半分でも支配下に置いていれば、諸葛亮も諸葛瑾の後を追っていたのかしら?
諸葛瑾は都で『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』など学問を修めている。が、諸葛亮はそうではない。都に何年かいたことがあるとしても、多分正式な学問はやってない。誰か学識ある人に就いていたのか?あったら記録に残りそうだし、まあないのかな。諸葛亮の著作は『出師の表』くらいで、漢詩もないというのは、そういう事情が大きいのでしょうね。
家柄的にはコネがあるので、いいとして、許昌や寿春や鄴や長安といった当時の有力都市でもない限り、学問の知識・教養なんかは厳しそうですね。でも荊州学が荊州にはあったか。その後学問の主流になったわけでもないし、仮に荊州学で大家になっていてもあんまり意味は無い感じでしょうかね。
諸葛瑾が孫権の腹心として地位を固めるも、諸葛一族の分散・棲み分けを考えると、劉表政権下で影響力拡大を狙うのがベストと。南下してくる移住民を見て、現状一番必要な能力は政治力と軍事力。軍事力こそ重要!と私兵拡大を進める。荊州南郡辺りを移住民のために、頻繁に視察して移住の世話とかしているなんていうのが考えられそうですね。
いきなり、揚州へ流れる人もいるでしょうけど、多分荊州経由で流れると思うんですよね。諸葛亮→諸葛瑾という感じで、揚州に流れる際には顔役として世話を焼いていた感じがしますね。劉備と関羽の北伐も、軍閥の勢力拡大という当たり前の理由の他に、流民の暮らしのため。彼らを生地に少しでも還すためというのがあったでしょうね。
まあ、根源に南下する百万単位の大量の民がいて、その民の暮らしをどうするかというのがテーマにあったんでしょうね。
すんなり黄承彦の嫁をもらった感じがしますが、情勢次第では故郷に帰って地元の有力者の嫁をもらったり、揚州で諸葛瑾のススメで娶って、孫権麾下に入るとかいろんなIFが考えられるんですかね。情勢が大幅に変化しないとなさそうですが。
諸葛一族としての私兵は、袁術に敗れて袁術に吸収されたのか。諸葛瑾の下に流れたか、それとも幼い諸葛亮に付き従ったのか。上の全てで、三パターンに別れたか。魏にも一族いたので、そちらに移ったのかな?
諸葛亮が黄夫人を嫁にしたのは、勢力の確保・私兵の確保以外に、流れてしまった諸葛一族の私兵の回帰を促すためというのもありえそうですね。
孫呉の諸葛一族と蜀の一族は養子で繋がってますから、その関係でも多少は交流があったかもですね。
諸葛玄時代から、諸葛一族の私兵が北伐まで、さらには蜀政権崩壊までずっと付き従っていたと考えれば感慨深いものがありますね。まあ軍閥というわけでもないので、そこまで大した勢力だったとは考えられませんが、軍閥をある程度志向して、兵力を養っていた。私兵を持っていたのは事実でしょう。まあ劉備政権なら誰でも同じような感じでしたでしょうね。
軍師という頭脳で何でもかんでも切り開くという創作のイメージ・人物像より、軍閥というか私兵を動かして将としての性格を持っていた点に注目すると諸葛亮の人物像はもっとつかめるような気がしますね。