てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

『シャルリ・エブド事件を考える』 ふらんす特別編集

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

 

 堀茂樹先生の本なので借りて読みました。多くの人が短文を寄稿した感じですね。途中対談・討論みたいなのもありますけど。以下気になったところのメモです。いつものごとく敬称略。そしてオチもなくなげっぱなしで終わります。

 

 関口涼子イスラム関係の出版・映画・芸術などに表現規制というよりも、自主規制しようという流れがある。悪魔の詩千夜一夜物語の印刷・出版だけで罪に問われるというイスラム圏の背景がある。こういった動きについて抗議の意味を込めて表現の自由を訴えるのは問題無いだろう。LGBT(性的マイノリティー)の亡命者などは、弾圧された経験者だから表現の自由に敏感であるという要素もあると。そういう記憶を呼び起こしたがゆえの過剰反応。表現の自由はたやすく死ぬということがわかっているからゆえの反発。
 にむらじゅんこ―シャルリは、ド・ゴール→極右→そしてイスラムを主敵にしてきた。やゆする方針を時代ごとに変えてきたシャルリ。殺された漫画家カビュ(77歳)はカトリックがマジョリティの時に、それと戦ってきたという背景を持っていた。それゆえにセンスが古い。現代のメンタリティ・移民2世3世のセンスと合わなかったと。世代間ギャップ問題があるという要素は地味に大きいかもしれませんね。
 エチエンヌ・バラール―シャルリの報道の自由表現の自由の挑戦に好意的。過激派と戦った勇気を見ている。安倍靖国参拝のようなもの、挑発ではない大事な意味合いがそこにはある。それが良いか悪いか置いといてという留保がありましたが、靖国参拝を例えに使うのはどうでしょうか?
 諸岡カリマーエリサムニー―私はシャルリ―でムスリムは疎外感を感じた。連帯を打ち出す言葉が分断を感じさせてしまった。亡くなったムスリムアハマドの名で、私は私はアハマドが出た。ムスリムも風刺アートがある、同調した風刺漫画家もいた。シャルリは風刺よりもタブーを犯すことを売りにしている、同情できない。
この方の意見はものすごく的を得た指摘でしたね。

 鹿島茂―9・11でルモンド紙は「我々はアメリカ人だ」と書いた。「私は~」仏の常套句・パターン化された表現。極右ルペン、娘のマリーヌ、彼らを排除する意味合いで団結をする必要があった。この事件を基に、極右の台頭が一番最悪だったから、なるほど。

 シャルリが極右を叩いていたからこそ、彼らが仏の団結に参加できないような形で連帯を示す必要性があったわけですね。「私はシャルリ」と言えば極右は入れなかった。この事件で極右の台頭をいち早く封じ込めたかったという要素を見ると、日本人の多くが「私はシャルリ」で違和感を覚えても、ああるほどねと納得させられるのではないでしょうか?

 米のビュー研究所の調査で、フランスが一番イスラム嫌いが少ない。他アジア人などへの嫌悪なども低下していっていると。問題は宗教より格差。

 仏のライシテは対カトリックの力学、それがイスラムに向かいやすいのでは?過去を見るとイスラムを専制主義・神権政治と見なしていて、政教一致というふうにイスラムを捉えてはいない。自分たちの視点・自分たちの状況から逆算して「政教一致」という解釈をしている。今後の歴史・政治次第で自分たちのものの見方の変化でその認識も変わっていくだろう。

 三浦信孝―私はシャルリではない。トッドをあげて。そのような声もあったことの紹介。

 「私は~だ」よりも「私は~でない」と羅列したほうが良かったかもしれませんね。結局誰が得をするかといえば、テロリストですからね。テロリストは痛いところを突かれずに、他の無関係なムスリムが傷ついて、テロリストサイドへの共感・得になるのですから、笑いが止まらないでしょう。

 なんというか、日本における仏の価値がどんどん軽くなっているのではないか?対象が関心として大きければ 大きいほど学問・学者としては有り難いが、仏はかつての日本人の憧れや興味・関心のカテゴリーからドンドン離れているのかも?なんてふと思いました。欧といえば、英独仏ですが、米中などと比べてそれらがあまり話題にならないような…。EUばかりになってしまった?まあ彼らも日本について強い興味関心を持ってないですし、相対的に豊かでなくなった分、正常な範囲に戻ったとみなすべきでしょうかね?
 酒井啓子―ナンバー2としてのフランス。中東圏では、利用できる国として仏に価値があるから、支配者サイドには、今回の出来事で反仏感情を抑えこもうとする力学があると。

 意外に下品なフランス、アメリカなら大問題になるような性差別でも寛容。ナポレオン三世が風刺を解禁したが、彼自身の風刺は禁止したと(もちろん風刺されたが)。基本それ以外はなんでもあり。
 カリン西村―福島の告発に仏が寛容なのは、日本で児童ポルノ・エロ表現に寛容なのと同じ。文化の違いであると書いてあるが、どうだろうか???日本人があれを見て、けしからん!止めろ・禁止しろと言うでしょうか?欧ではそういう事を言う人が平気でいるのに。まあ、それはまた別の話かもしれませんが。

 

 鹿島先生の話が印象に残ったので、鹿島先生の本があったら読んでみようと思いましたまる