てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

小室直樹著、『日本国民に告ぐ』 一・二章 

 元は2010/に書いたもので再掲です。Fc2のインポート機能からブログを引っ越ししましたが、「タイトルA」で、「タイトルAの続き」という似たタイトルが連続している場合、どっちがインポートされない可能性が高いですね。昔携帯版・PC版と二つ書いていて、その場合、どちらかしかインポートされませんでしたしね。まあそれは内容が同じだから良いとして、「―の続き」というタイトルの場合で、書いた内容がまるまる違うのにインポートが失敗・されてないのはキツイですね。

日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する

日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する

 

 *1

 書くといって忘れてた。ストック。忘れてはないんですけどね。ただこのように長くてね。前回のやつでもわかるように、ちょっとうんざりするわけです。書いていて、一体どこまで書けばいいのか?殆ど布教みたいなもんですから。悩むわけですね。適切な範囲はどうなのか?ま、前回同様かなり迷走したまとめです。結論はいつものように
自分で読めです(^ ^;)。
 なんで、前回の『これでも国家と呼べるのか』と、この二冊だったかというと、取り立てて意味があるわけでもなく、たまたま読み直そうと2ヶ月くらい借りっぱなしだったんですよ。んで、そこに小室氏の訃報でしたからね。急遽追悼企画で、今に至るわけです。結局今日までかかってるわけですが。やはり関心は高く、小室博士の記事書いて以後はアクセス200~400くらい増えましたね。博士の世界精神が己に乗り移ったのか!!(嘘です。書き疲れてテンションが若干おかしいです。用語の意味も違うし(´-ω-`) )

太字は拙感想、まとめなどです。重要なところも普通に強調で黒字にしているのでわけわかんないですね。
【第一章誇りなき国家は滅亡する―謝罪外交、自虐教科書は日本国の致命傷
 
 日本側から「従軍慰安婦問題」が持ち出され以後、自虐史観が歴史教育に組み込まれることになる。
 誇りなき民族、国家は必ず崩壊する。古今東西の真理である。

p21、国家破綻の予兆の二つ。①財政破綻、②教育破綻。理科系への進学数が急減している。技術立国の基礎はこの二つ、これがなくなれば経済の根幹のインノベーションが行われなくなる。


p31、「日本は侵略という、とてつもなく悪いことをしてきた国だ」ということを、わが国の幼い頭、若い頭に烙印するとどうなるか?エイズ・ウイルスを注射するようなもの。人格が解体して精神分裂症になるほどの精神的外傷だとは思わないか。巨大な複合体(complex)となって無意識の底に幡鋸し、蠢動しただけで行動があやしくなるとは思わないか。


 <拙感想>中国は教育によって、その精神基盤に日本は悪い国、巨大なる敵であることを教え込んでいる。コレが反日となって、一つの巨大な宗教となっている。この心情、人間の人格を規定するOSである宗教に、一国を悪魔のように書いたらどうなるか?また自分達が一方的な被害者であると教え込んだらどうなるか?

 いずれは大きな外交の禍根になるに決まっている。中国にとって日米は欠かすべからざる何より大事な二国なのに、その一つを悪魔扱いしているのである。中国の教育、国家にある正統性orthodxyに隣国への憎悪を据えるということは、一体どういうことになるか!?今世紀、通商・交流によって富を生み出すべき時代において、友好を基盤に据えるべき時代において、このような時代錯誤な教育をするコトがいかに恐ろしいことか!中国のナショナリズムを危ぶむ声はあるが、根源的な捉え方として、国際政治学の研究は未だに不十分、不正確である、理解していないといわざるを得ない。博士のエイズ・ウイルスという例えは言いえて妙である

p32、日本社会では客観的規範が存在しない。だからこそ先に謝ったほうが勝ちという国際的に異様なルールがある。しかし客観的規範がある世界では、紛争解決は規範の解釈によってなされる。法廷における紛争解決=裁判や、議会における論争、選挙。紛争解決における勝ち負けは明確、一義的。そして負けた方は勝った方に責務を負う。たとえば債務、英語では両方ともobligation。だからこそ米の交通事故では謝らない。

 民主党は謝罪を党規約に盛り込んでいるが、コレがいったいどういうことであるか、根本的に理解が欠けている。謝るということは罪を認め、賠償をするということ。あることないことどころか、ないことないことを言い立てて莫大な補償を請求されるに決まっているではないか!以下第二章に、挙証責任がいかに恐ろしいかの論証は持ち越される。

p38、稲垣武氏いわく、マルキシズムが死滅しても、「日本の言論界にもその後遺症は長く尾を曳くに違いない」。彼の予測は的中した。稲垣氏が右の予測をした理由は、「進歩的文化人」が「いくら表の顔を化粧直ししたところで、三つ子の魂百までとやら、彼らの大脳皮質にはいつまでも共産主義の呪縛が残るだろう」。まさにそのとおり。歴史学者の平泉澄博士は、「ひとたびマルクスにかぶれた者は信用できない。転向してもマルクスの心は残るから」と喝破した。
稲垣さんのはこの本ですね↓。

「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任 (文春文庫)

「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任 (文春文庫)

 

 *2

 人間が思想を確立するときに、一つのロジック・宗教・思想を学ぶ、信仰すると、それが必要なくなったり、棄教したりしても、学んだ基本構造はいつまで経っても残り続ける。基本構造はずっと後を引くのである!まさにデュルケムが集合意識として、集団・組織に思考の方がいつまでも残るように、個人においても一番初めのモノが永久に残るのだ
 日本人は世界的に見て転向で有名。しかし日本のマルキストは、「転向」できない。その理由は何か。そもそも根本的にマルクスを理解していないからである。マルクスを理解しないで、マルキシズムの空気の中で蠢いていることで、マルキストになったつもりでいる。


 マルキシズムは宗教であり科学である。日本のマルキストは、宗教の教義、科学の理論、いずれも理解していない。ある人が、自称マルキストに「マルクス・レーニン主義とは何か」と問うたら、「昔あるところに、姓はマルクス、名はレーニンというド偉い人がいた。その人の教えである」と言ったという。嗤う勿れ。大多数の「マルキスト」のマルクス・レーニン理解は、この神話と大同小異。マルキストなのに幽霊が怖いという人物までいた。万事この始末。理論がわかってないから論争にならない。

 マルキストであるなら、労働価値説に対する反論に苦心惨憺せねばならないのに、その論争もない。ヒルファーディンクVSベーム・バベルク論争すら、日本に紹介されなかった。マルクスの労働価値説を矛盾のない模型として構築したのは、近代経済学者の森嶋通夫教授であった(ここらへんまとめかた大雑把ですので注意)。

p44~46、マルキシズムの空気の中で、同じ行動様式、気分が身に付き、素振り・身振りが同じになると、類は友を呼ぶ。同類が、友人関係の網を作り、主としてその中で交流するようになる。ちょっとした「制度」である。組織もどきである。連帯もどきが形成される。その中でのしきたりも作られる。内部規範もどきである。かくて、「マルキシズム」を軸にして、共同体もどきが出来上がる。

 もともと、この共同体もどきの住人は、マルキシズムを信じも理解もしていないのだから、マルキシズムという軸が抜けても、いっこうに差し支えはない。形骸だけが残る。虎は死して皮を残すと言うが、マルキシズムは死して殻を残す。いや、はじめから行動様式と人間関係という殻だけで、宗教も理論も虚妄だった。
 だが、この抜け殻が一人歩きする。これが共産主義の呪縛である。当人の意識においては、とっくにマルキシズムなんか清算したつもりでいながら、その用語、感触、反対の仕方、友人の輪は昔のままである。
 あとは伝統主義が作動する。「昔、正しかったことは、今も正しい」となり、マルキシズムの戯れ言は、今も正しくなる。ソビエト帝国が崩壊しようと、マルキシズムが死のうが、お構いなし。しかしもはや「革命」「資本主義没落」「資本主義こそ諸悪の根源である」などのマルキストにとって最も大切なスローガンは、もはや通用しない。
 ではどうするか?今までほざいてきたことで、唯一今でも通用するものは何か?東京裁判史観である。南京大虐殺の神話である。「日本は侵略国家である」「日本の歴史は汚辱の歴史である」「日本は過去に悪いことばかりしてきた」―― これらの諸命題は、アメリカ占領軍によるマインド・コントロールによって日本人の心の底に植え付けられたものである。マルキシズムとは直接には、関係ない。マルキシズムが滅びたという理由によって、すぐさま流通性を失うものではない
 <拙感想>悪かったのはマルキシズムではない。「日本型マルキシズム」とでもいう行動原理、規範である。理論、学説を理解せずに、ムード・ニューマに乗っかって運動、宗教活動を行うこと。結局連帯を作るための一環、サークル活動・お仲間作り、思い出作りに過ぎないから、深遠を理解していなくても一向に構わない。その群れの中で通じればいい、その中で認められる、連帯を形成できれば、それだけで十分だった。一度身についた思考形式は消えることがない。いつまでも残存し続ける

p48、事の真偽にかかわらず反対言論を封殺する。あたかも「制度」として組み込まれたかのごとく必ず作動する日本の宿痾、自主規制がある。言論の自由の喪失がファシズムの嚆矢ならば、日本はファシズムが始まっている。論争ではなく、異を唱えたこと自体が糾弾対象。悪とされる。これ、まさにファシズムの論理そのものである。「主張」と「その人の人格」の分離は言論の自由の基本。反論以外の制裁はタブー中のタブー。人身攻撃などとんでもない。

 自主規制こそが日本ジャーナリズムの痼疾。言論の自由を呑噬(どんぜい、飲み込むこと。領土などをのみこんで支配してしまう様)する怪物。この自主規制というモンスターが教科書問題をめぐって徘徊を始めた。そも、何の兆しか。ナチスゲッペルスが生きていれば、日本の言論封鎖・支配を絶賛したであろう。いったいどうしてココまで完璧な支配が可能なのか?日本のジャーナリズムは実証的検証を放棄して封殺にかかる。これでは健全な言論とはいえない。日本には言論の自由が存在しない。何故なのか?

p58、その答えは自己検閲にこそある。占領軍が発明したのならともかく、その実日本の編集者が作ったもの。自己検閲が導入されたのは戦前のことで、当初はそれも経済的な理由からであった。「昭和十三年以降、軍部の意向により、本刷り以降の段階で削除を求められれば発売日に間に合わないから」。これが、「校了間近の校正室は編集者による自己検閲の法廷」となり、「必要以上に削除をし」、「情報局よりも厳しかったかもしれない」ものになっていった。このシステムによって主戦論は勢いづき、慎重論は逼迫されていった。大東亜戦争を主導したマスコミはこの自己検閲によって生まれた

 <拙感想>そもそもみんなが同じことをやらなくてはうまくいかない。誰か一人でも違うことをやるとうまくいかなくなる。こういう考え、強迫観念が根付いている、動かしがたく心の中に盤踞しているのではないか?だからこそ、自己と違った思想、言論を弾圧することを正統であると考えてしまうのではないだろうか

 そして伝統主義の日本ではそれがいまだに残り続ける。存在Seinザインと当為Sollenゾルレンの区別はない。目的が消えても逆機能として作動をする。自己検閲は検閲局より厳しく、チェックする
 。

p60、占領軍は占領政策の一環として、マスコミの責任を追及する代わりに自己検閲を利用し、マインドコントロールに協力させた。日本でレジスタンスが起こらなかった一因がこのマインドコントロールにある。このマインドコントロールの結果、東京裁判史観マルクス主義史観が植えつけられた。前者の正当性が否定され、マルクス史観が没落しても、伝統主義の日本ではこの制度が残り続け、新しいマインドコントロールを敷こうとするすなわち反日史観というマインドコントロールである
p64、「体制と大多数の国民は反マルクス主義、マスコミは少なくとも表面はマルクス」という時代が続いていた。ゆえに日のあたるところにマルキストはいられなかった。マルクス主義者は早坂茂三氏のようにそれだけでマスコミから跳ねられた。あれだけの人材ですらマスコミの底辺にしか入れなかった。そのルサンチマン、怨念が作動する(サヨクは今でもマスコミのトップにいるのでは?それともさらにイデオロギーの弱いうす甘いリベラル思想を持つだけの人間をさすのだろうか?)。鬱憤のはけ口は日本断罪史観であった。谷沢永一氏いわく、三十二年テーゼ=反日史観、その国を否定するような指令したのは日本だけ。敗戦と人種差別によるものだろう。
p67、言論の自由・良心の自由を何より重視するアメリカが、占領政策を批判するとして、反日史観批判を許さず、言論封鎖を行った。デモクラシーの本場が、日本に民主主義を広めたのではない。封殺したのである

p70、戦後ずっと「体制と大多数の日本人とマスコミ」の歴史観はいわば正反対だった。マスコミが反日史観で冷静な日本人がこれに反撥するという図式だった。これは当時を生きた人々にとっては常識でしょう。しかし己世代はもうそんなことは知りませんから。むしろ学校の自虐史観のことをそのまま受け入れてしまいます。なんて恐ろしいことでしょうか…。歴史教科書執筆者の中にはこれに棹差し、その反流に流され、反日的な歴史書を書くことが少なくなかった。これを憂えた文部省が検定でチェックするこれが教科書検定の指向だった。家永三郎南京大虐殺などの記述に対する検定を意見として国を訴えた。この訴訟からわかるように、あまりにも偏向した反日史観を、文部省が検定によって少しでも緩和しようというのが文部省の意図・思考、本来の教科書検定だった。それが1982年に「近隣諸国への配慮」の項目が加わり、目的が逆転した。教育界は閉鎖的になり、言論界で議論されていることが全く現場に届かない。一犬虚に吠揺れば万犬実に伝う*3。駟も舌に及ばず*4、記述が一人歩きをし、とめられなくなってしまった*5

p72文部省の意向に拳拳服膺するというのが教育界の伝統。その意向が彼らが衷心から恐れるマスコミと一致したのである。後は一瀉千里。以後外国政府による日本教科書の事前検閲という制度が定着してしまった。

 「従軍慰安婦」問題、強制連行についていかに韓国の主張に理がないかの説明、(省略)。 今更書くことでもないですからね。


【第二章「従軍慰安婦」問題の核心は挙証責任―なぜ、日本のマスコミは本質を無視するのか】

p86、一九三三年製作。ジャック・フェデー監督「外人部隊」。古来、軍隊に娼婦はつきもので、近年の湾岸戦争における多国籍軍も例外ではない。これは人間の性の問題であって、ことの善し悪しの問題ではない。娼婦は性の奴隷などではない

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  刑事裁判において「挙証責任」は原告である検察官にある。検事は公開された法廷で被告人が有罪であることを、完全に合法的かつ「合理的な疑いの余地のない」ほど明確に立証しなくてはならない、近代裁判では毫釐(ほんの僅か)の瑕瑾があっても、その証明は不完全とされる。

 民事でも「挙証責任」は基本的に原告がもつ。ただし挙証の厳密さについては、国家権力のような強力な調査手段を持っていないため、ある程度厳密さにかけてもやむをえないとされる。挙証責任が降りかかってくるということは、自分が他人に金を借りてもないのに、他人に訴えられた場合、借りていないということを100%証明しなくてはいけないということ。それが出来ない場合、いわれもないお金を払わなくてはならない。その調査だけで心身を壊すことは間違いない。

 医療での過誤について、治療を受ける患者側は不利である。明らかに情報がないため。そのためアメリカでは挙証責任を医者側に押し付けた。その結果どうなったか?雨後の筍のごとく裁判が叢生し、アメリカの医療は崩壊した。
 日本の公害裁判も、個人で企業の公害を立証するのはほぼ不可能。その害を食い止めるために、企業側に挙証責任を持たせようという議論になった。
 しかし、右の考え方は、それまでの民事訴訟の原則に抵触することもあり、難問も多かった。そのほか、方法論的難題もある。無いことの証明(アリバイの証明)は、有ることの証明(事実の証明)よりも、はるかに困難なのである。最大の困難は、次のような場合に起きる。「被告のアリバイもすべて崩れた。しかし事実の立証もできなかった」、このとき判決はいかにあるべきか。必ず勝負がつかなければならない。黒白は一義的に決せられなければならない。「五分五分」という判決はないし、「四分六分」の判決もなければ、「九分一分」の判決もありない。誰にでも、少なくても「三分の理」くらいはありそうではある。だが、「三分の理」がある場合でも、近代裁判における判決では、「零分の理」すなわち、「理はまったくない」という形を採らざるをえなくなってしまう。近代裁判においては、黒白は決まってしまう。「零分一〇分」か、「一〇分零分」かしかない。そのいずれかであって、中間もなければその他の場合もない。完全に二者選一的なのである。
 このため近代刑事裁判の大原則は「一〇〇〇人の犯人を逃すとも、一人の無辜を罪する勿れ」となるわけである。いかなる場合にでも、最良の結果を確保するものではないことは言うまでもない。ときに、大きな弊害も生む。たとえば、シンプソン裁判を見ればこれは明らかである。最良な模型であるとは言えない。では、新しい模型を、いかにして作るべきか。模型作りの急所は、挙証責任をどこにもってくるかにある。
 告発された企業は、アリバイ証明(公害を出していないことの証明)がなされない限り、全責任を負って損害賠償をするべきなのであろうか?まず現実的な法律家達の困難というものがあるが、それよりなにより、企業を裁判地獄に巻き込みイノベーションを阻害して、経済を停滞させてしまうことになる。公害も医療過誤もなくすべきである。しかし挙証責任を押し付けていいかというと、そうとはいえない。両者は別問題。

 また挙証責任の恐ろしさをニクソンで見てみよう。ニクソンはいわずと知れた名政治家。ベトナム戦争終結に道筋をつけ、中東情勢を一時的に解決し、円高を認めさせることで経済を取り繕った。その優秀なニクソンを失脚させたのがウォーターゲート事件という些細なことだった。ニクソンは選挙に弱く、ケネディに大統領選で破れ、カリフォルニアの州知事選挙にも敗れた。そのトラウマが彼をしてああいう行動に走らせることになった(選挙のための盗聴行為)。

 
余談ですが、博士はニクソンウォーターゲート事件角栄ロッキード事件の対処の仕方の違いを重視しており、日米では対処法がまるで違う、自浄作用能力が日本にはないことを嘆いていました(ウォーターゲート事件はこちらを参照とのこと)。

大統領の陰謀―ニクソンを追いつめた300日 (文春文庫)

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 贈収賄事件では刑事責任には検事にある。しかし政治責任については政治家がそうではないことを立証しなくてはならない。政治家の政治責任では「疑わしきは罰せられる」のである。この政治家が、人(有権者)を納得させる形で、「収賄していない」ことを証明しなければ、「収賄している」と看倣される。「収賄しているようでもあり、していないようでもある」時には、実は、灰色ではない。刑事的には白であり、政治的には黒である(言うまでもないが、小沢ケースを見れば明らかなように日本は魔女社会であって、いかに説明をしてもマスコミによって言論が封鎖される。いかに説明しても最初に悪とみなされれば、その罪が覆されることはない。むしろこれまで汚職の疑いをかけられた政治家が、その疑いは間違いであると立証し、周囲を説得し、政治責任から逃れられたものがいるのだろうか?まずいないだろう。疑いをかけられたら最期、まさに魔女狩りの社会である)。

 副大統領時代の汚職疑惑のときは、なめてかかったりはしなかった。面前でしっかり説明し、国民の信頼を勝ち取った。今回ももちろん、それだけでは刑事責任が問われることはなかった。ニクソンが関与していたということを検察が説明できなかったからである。しかし、「正常でない、偉大でない……大統領としてふさわしくない」という政治責任の挙証責任はニクソンに残された。あとはいわずもがな。
 げに恐ろしきは挙証責任かな。ローマには「挙証責任あるところに敗訴あり」という法諺があったほど。あらゆる裁判には、まず挙証責任がどちらにあるかということが決められなくてはならない。もうお分かりだろう、国家が不用意に謝罪を繰り返せばどうなってしまうか!挙証責任がこちらに押し付けられてしまいかねないではないか!国家の名誉どころか未来永劫無実の賠償が永遠に降りかかってくることになりかねないのである。

p121、鈴木善幸宮沢喜一、ともに訪中を控えており、相手側の好意を期待して不用意な発言をした。ビスマルクは言った「外交の要請によって国内政治を麻痺させることは愚の骨頂である」。

 想像以上に長いので、分割します。分割2クールですね。※追記、最初は3章まで書いていましたが、前後編、続編で二本形式でまとめると長いので3分割に変えました。あんまり3分割ってやりたくないんですけどね。PCでPgDnを10回程度押すくらいが一本の記事では限界だと思ってるので、見やすさを考慮して3本分割にしました。この一・二章だけでも15回クリックしないといけないんですけどね(^ ^;)

*1:ワックからの再販で、元はクレスト社というところから出されていました。そのクレストという出版社はすぐ潰れたようで、ザ・マサダというところからすぐ再出版されていたようです。以前、小室直樹著 『これでも国家と呼べるのか : 万死に値する大蔵・外務官僚の罪』で、なんでクレスト社から出された後すぐまた違うところから出されたんだろ?って書きましたけど、クレスト社というのがすぐ潰れてたんですね。再販でページ数がかなり違うので、再販ついでに書きおろしでもあったのかと思いググったら、文献目録のページに、月刊誌WiLL (マンスリーウィル)の2005年9月号に掲載された「勝てば原爆も許されるのか」というものが付録になっているとのこと。多分読んだと思うけど、どうだったかしら?

*2:この本どうだったかな?読んだような読んでないような?どうだったかしら?

*3:一人が嘘を言うと周りの人間がそれを真実として伝える状態

*4:四頭立ての馬車より言葉が伝わるのは早い

*5:つまり、70年代くらいの人々の常識では真逆だった。思うにテレビがなかった、テレビにそれほど影響力がなかった時代ではなかろうか?ところが今はというか80年代くらいから、テレビがあって当前になる。教育現場もサヨク主導になる。親から子へ伝えるものがない、地域がない。それこそが日本の言論空間が一変した理由ではないだろうか?ついでに酒鬼薔薇事件が大々的に報道されたのは、日本赤軍の凶行に基づくものではないか?自分たちの世代だけが狂ってると思われたくないためにスケープゴートとして大々的に取り上げられたのかも。今見るとこの話いらないな(^ ^;)