てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

『ジョジョ』のキャラクター論色々、三島の奔馬を意識している?

 知らない人は読まないと思いますけど、一応初見ネタバレ注意。ツイッターで、ジョナサン・ジョースターディオ・ブランドーの違いは、紳士かそうでないかというところという話を聞いて思いついた小ネタです。

 

【目次】

 

一部の作品構造 紳士ジョナサンVS偽紳士ディオ

 ジョナサンは紳士だから、「殺してやる!」というようなシーンで、「殺す」とは言わない。初めてDIOにキレたシーンでも「君が泣くまで殴るのをやめないッ!」だった。

 貧民街でのスピードワゴンとのバトルでも、紳士として相手を気遣ってダメージを与えないように喧嘩をした。んでそんなジョナサンを見たスピードワゴンいわく、「とんだ甘ちゃんだぜ!でも気に入った。オレはおせっかい焼きのスピードワゴンだぜ!じぇじぇじぇ」といわせてスピードワゴンは以後付き人・弟弟子状態になる。

 ジョナサンが「殺す」というシーンは、「紳士として恥ずべきことだが…私怨にとらわれて貴様を殺すのだ!!」というシーン。段階を踏んでようやくそこに至る。チンピラのようにいきなりブチ切れたりはしない。ツェペリという師を失って&父の敵を討つ!という展開に至って、初めてやっと「殺す」と口にする。

 

 第一部というのはDIOとジョナサンの二人の男の対照で進む。ジョナサンとディオは光と闇、生まれついての金持ちと成り上がり、正直者と謀略家、紳士と非紳士、人間と吸血鬼≒本物と偽物…。まあそういう対立の図式がありますね。正反対の性格を設定することで、お互いを引き立てるという構造があります。

 ですからディオはダイアーさんに目を傷つけられるとあっさりキレる。ブチ切れるとスピードワゴンに「ヤツは一見紳士ぶっているが、一度その醜い本性をさらけ出せばあんなもの!」と解説されることになるわけですね。ディオは「偽紳士」で、本物の「紳士」であるジョナサンが倒すというのがメインコンセプトとして存在すると。

 紳士であるジョナサンは、自身の命の危機でも我が身のことにとらわれずに、エリナと名も知らぬ赤ん坊を助けようとした。それにもかかわらず、最後まで自分の欲・自分のことにのみとらわれていたディオ。とまあ、第一部の構造はそういうことになっていたわけですね。*1

 

三部の物語を魅力的にする構造とは?

 ジョナサン・ジョースターは「紳士としてかくあるべき」という規範・プライドを持っていて、そこが彼の行動原理だった。そんなところにスピードワゴンは惚れて、地球のどこでも駆けつけるぜ!となった。駆けつけワゴンさんになった。第一部の構造は作品のよくあるパターン・王道として見事に成立していますね。でも第三部はじゃあどうなんだろうかとなるわけですね。

 

 承太郎はディオと血縁上の因縁しかない。自分の祖父ならともかく、曽祖父どころか高祖父。そりゃ高祖父が殺されたとなれば腹立つに決まってますが、正直100年前の出来事でピンと来ないですよね。読者はあのジョナサンが殺された!!って感情移入できますけど、承太郎は正直「へぇ、そうなの」くらいの感慨しかないでしょう。

 まあ、そのディオを倒す必要性=母ホリィを守るため―という強烈な動機があるわけですけどね。憎しみという動機よりも、守るという愛情で動く要素が大きい。ジョナサンとディオの因縁というか二人の男のライバル物語「光VS影」というものと比べると、承太郎のディオに対する思い入れという要素は乏しいわけです。動機が一部と比べて弱くなるのはちょっと困るところでしたね。ディオと戦い・倒すまでをどうやって盛り上げるか、荒木先生も悩んだのではないでしょうか?

 実際、ラスボス・ディオとのバトルまでに物語をどうやって盛り上げるか?JOJOトーリーといえば、旅をする的なイメージがありますが、それはこの第三部のイメージが強いからこそ。ドラゴンボールを求めてアドヴェンチャーするのはこの第三部が初めて。その旅物語で魅せる。ディオにたどり着くまでに盛り上げるというパターンを採っていましたね。何しろスタンド初登場の部でしたし、それはそれで面白い話がたくさんありましたね。

 いうまでもなく、ラストバトルの合間の刺客・敵とのバトルは、面白かった。が、作品のストーリー・一貫した図式としてみると、作品としてはラストに盛り上がりがドーンときて、スカっとするものがなかったんですよね。一部はジョナサンが死んでうまく締まりましたが、三部は勝ってハッピーエンドで終わってしまったので。一部の作品の完成度と比べると主役の死=悲劇エンドではないので、作品のラストがビシっとしなかった。この傾向は以後も続きます。

 

一部のディオと三部のディオのキャラの違い 

 いくつかポイントが有るんでしょうけど、やはりラスボス・ディオのキャラとして、ダークヒーローとしての魅力という要素が大きい。ダークヒーローのディオに忠誠を誓う部下が続々出てくるってのがポイントかなと思いますね。エンヤ婆、ンドゥール、一度見限って裏切ったが叶わないと知って忠誠を誓ったホル・ホース、ヴァニラアイス―という四人の部下がディオに忠誠を誓う(また数多くの女性がディオに命を進んで捧げるという描写もありました、ダービー弟はどうなのかな?ちょっと微妙ですね)。部下に慕われるディオは、「カリスマ性がある」ということになって、そのラスボスとしての権威が高まるというわけですね。

 第一部のディオは、少年時代から始まって成人した程度の年齢だったので言うまでもなく「若い」。対照的に第三部のディオは大成した熟成したイメージなのでしょうか。吸血鬼なので老いないですから「老い」たDIO、略して「老い」ディオと第一部の「若」ディオとの違いを、そうやって説明するのも一つの手なのでしょうけど、ちょっとなんか違う気がしますね。「未熟」と「成熟」が適切か?スタンド能力という新しい力も手に入れましたしね。そういえば一部では血を吸ってゾンビにすることで従えた、力による強制に対して、三部ではそうではない。魅力で相手が進んで忠誠を誓うという描写が目立っていましたよね。

 まあいずれにせよ、三部のディオは一部よりも成長している。そういうキャラ付け、位置付けだったんでしょうけど、承太郎が最強キャラで目の前の困難をガンガン乗り越えていく。敵をあっさり蹴散らしたり、課題を克服したりするので、目立ちませんでしたね。

 ディオがラストで「過程や方法などどうでもよいのだァー!」で敗北する惨めなラストで小物化してしまうというENDは作品としてどうなのかな?一部ラストの二番煎じではなく、もうちょっと成長した魅力のあるラスボスとしての最後のほうが作品的にすっきりしたのでは?という気がしましたけどね。まあ一部の最後に命乞いをする姿と比べれば、一応成長しているとも言えなくないのでしょうか?

 最終的にはわざと負ける必要があったから…(震え声)でごまかして、帳尻合わせをしましたけどね。ディオは後々においても出てくるわけですが、過去二敗という惨めなレコードがある分、その蠱惑的なラスボスというキャラの魅力をいかに損なわないか、荒木先生も苦心したっぽいですね。

 まあ、「ンッンー!最高にハイッってやつだァー!」なんてノリノリで調子こきながら、最後にドジっ子的に負けてしまうのもディオの魅力かもしれませんけどね。ハンターハンターヒソカみたいなトリックスターの先駆けみたいなもんですし。

 DIOの魅力って、独特の哲学と台詞の言い回しだけじゃなくて、「そこにシビれるゥ!」みたいに、何をするかわからない・予想もつかないとこだと思うんですよね。仙道みたいにDIOなら、きっとなんとかしてくれるというものがある。DIOならやってくれる感=期待感でしょうね。セリフ・アクションの面白さだけじゃなくて。

 

超越者ディオと対峙する承太郎もまた超越者だった

 また「超越者」としてのディオという面がありますね。「人を超越するディオ」VS「人間・誇り高い貴族ジョナサン」という図式が、三部では単なる吸血鬼から魅力あるラスボスとなりました。故にそれに対する承太郎も自ずと「超越者」みたいな存在になったのでしょうね。ジョナサンが苦労しながらも危機を乗り越える、克服するという展開だった。ジョセフは知恵としたたかさでそれらを乗り切る、相手の裏を書く・上を行くというパターンだった。承太郎は初めから相手の想定の上を行くというパターン、「超越者」でしたね。

 血統を受け継ぐというジョースター家というジョナサン・ジョセフと、親に見捨てられ親殺しをするディオは血統どころか人間まで捨てる「超越者」。三部では時間すら飛び越えて行くわけですね(六部で更に超越的な存在になって出てくることになりますが。五部のジョルノを考えるとさらにその「超越者」という意味合いが増えるということでしょうね。因縁が乏しいのは弓と矢くらいの関係しかない四部くらいでしょうね)。エジプト及びそこに旅をするという視点を考えると場所も飛び越えているわけですが。場所も飛び越すというメッセージを考えると、エジプト以外にディオが神出鬼没に現れる、移動するというパターンがあったら尚更面白かったかもしれませんね。

 まあ、そんなディオと戦うJOJOということで、承太郎は「超越者」としての最高の存在になってしまったということなんでしょうね。ディオの仙道感という話をしましたが、承太郎ならどんな相手が来ようとも、いずれにせよオラオラでぶちのめしてくれるという感じは異常でしたからね。スタンドの破壊力・パワー=暴力性に対して、対照的に承太郎本人の冷静さと分析力・頭脳面での高さ。そういう相互補完的なかみ合わせがあって、最強でしたもんね。野性&理性的な。

 ジョナサンは勇気と波紋という技術、ジョセフは知恵と同じく波紋という技術。そこに精神性というか人間性が反映されていて、波紋を身につける上でも努力というものが伴っている。苦労して、悩んで~という実に人間らしいものがある。

 ところが承太郎にはそれがない。苦労や悩みのような描写がなく、いきなりスタンド能力を身につけ「ヤレヤレだぜ」で敵をブチのめしてしまう。読者にとっては既知のディオ・ジョセフよりも承太郎の方が謎が多いんですよね、実は。いきなり地球の反対側に百年以上生きている吸血鬼を倒しに行くと言われても全然動じないですからね。多分、動じたのってポルナレフにくしゃみされて「おいおいポルナレフ」ってところくらいじゃないですかね?ハイプリエステスで一杯食わされたシーンがありましたが、それも痛い!って感じで、うろたえる・動揺するという感じではなかったですからね。

  承太郎こそ、謎多き存在で超越者。三部は超越者対決であったわけですね。あんなに強いディオを倒す決め手が「テメーは俺を怒らせた」ですからね。

荒木飛呂彦作品のキャラクター論

 荒木飛呂彦の描くキャラって、あんまり「キャラ立ち」というのを意識して作られてる感じじゃないんですよね。承太郎以来、魅力的でたまらない!っていう主人公がいない。荒木先生は稀代のストーリーテラーだし、キャラに拘る必要があんまりない。でもジョナサンとか、花京院がキャラとして凄い魅力的。

 このキャラは、「こうこうこういう人で~」という世界観・背景説明があまりない(五部でナランチャとかミスタとかブチャラティの過去エピソードをやってましたけどね。それでもかなり描写は全体の話の量からして短い、1回こっきりですよね)。キャラの説明が乏しいのに魅力的なのは、矜持・「自分はこういう人間で、こうしなくてはならないんだ!」という生き方を見せるからなんでしょうね。その自分のルールにとことんこだわって生きて死ぬからカッコイイ。

 ジョナサンも、シーザーも、花京院もそう。ジョリーンもかな?自分のルール・正義・使命感のようなもの、心のなかの突き動かされるものに従って行動する。これってあれなんですね、三島由紀夫の『奔馬』と一緒ですよね。

 

荒木飛呂彦は三島の奔馬を参考にしている?

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

 

  奔馬では、(ネタバレになってしまうのであんまり語りたくないのですが)若い主人公・青年が自分のルール・正義感に従って行動し、そのために命をかけます。そして死にます。最後の「え?なんで死んでしまうの!?」というのが作品のポイントで、若さというものの美しさとは、ためらわないこと。自分の信念にためらいもなく突っ込んでいけることなわけです。行動が正しいか否かはさておいて、その精神は周囲を魅了してしまう。特に老いた人間にとっては、若者の純真さ・真っ直ぐさが、心を撃つわけですね。

 荒木先生がこの奔馬のエッセンスを理解して、意識的に主人公やその他のキャラにそういう行動を取らせているのか、それとも無意識的にやってるのか気になるところですね。まあ三島さんのこの作品以前にもそういう話はいくらでもあるでしょうから、それ以外の作品で学んだという可能性も大ですけどね。

 

 ジョジョの中でも、ジョリーンが後先考えずにやると決めたらやる!という無鉄砲ぶりが一番際立っていますかね?彼女の魅力というのはそこにありますね。女性は普通そこまでやらないですからね。流石、女ジョジョといったところでしょうか。

 まあ、父親に愛されずに見捨てられていたと感じていた少女・娘が、父の愛を知って、我が身を顧みず父を助けたいという一心からの行動なんですけどね。父親のために誰が見ても危ないと思う行動をする。何やってんだ馬鹿野郎!という、ハラハラする危険なことを平気でする、命がけという状態を通り越して、リスク判断ができない、判断不能状態に落ちっているという危うい状態ですよね。その猪突猛進振りが、周りの男からすると守ってやりたくなるというところですかね?逆ホリィさんなんでしょうかね。

 最後に、6部でもジョリーンが一応死ぬので作品としての完成度が高まるってのはあるでしょうね。「奔馬」精神をジョリーンに見て取れますね。

 

承太郎と花京院の友情がもっと見たかった

 花京院、いいですよね~。花京院って、生まれついてのスタンド使い≒先天的な問題で他者と理解しあえなかった。友人・家族と絆を築けなかった。それが初めて友達・仲間ができた。そのために命をかけた姿が感動的ですよね。花京院にとって、承太郎は初めての友達なんですよね。あとは老人、外人、犬なんで(笑)、同世代・同国の同い年という属性を共有する存在はいませんでしたからね。仲間ではあっても友人とは言い難い。無口な承太郎とはいえ、花京院は承太郎と僅かな他愛のないやり取りに、初めて友人を持った幸せを感じていたはずなんですよね。

 花京院がゲームがうまかったのも、友だちがいなくて引きこもってゲームばっかやってたんじゃないかなという気がするんですよね。承太郎も似たようなもので、金持ちのボンボンで親が有名なミュージシャンで、しかもあの時代には珍しいハーフ(今だとミックス・ダブルですか?)。生まれつき身体も馬鹿でかいですし、周囲と馴染めなかったでしょうね。女嫌いなのも、女にモテて周囲から浮いてしまうことを嫌ったとかあるんじゃないでしょうか?

 故に自ずと承太郎は不良になった。まあ、あの時代はヤンキー文化時代なので、不良になるのは珍しくないのですが、ヤクザボッコボコにしてますからね。かなりのものでしょう。承太郎と花京院は初めての友達だったと考えると、あの二人の友情はもっと描写して欲しかったなぁ~というところ。

 荒木先生、三部のスピンオフ書いてくんないかなぁ~ [壁]|ω・`)チラッ

*1:今頃気づきましたが、ジョナサンはオウガーストリートで我が身顧みず突っ込んでいった。指どころか腕だって失っていい覚悟があると解説役スピードワゴンに言われていますが、実際死んでもいいと思っていたはずです。只の人間の時にディオと相打ちを狙って死のうとしたり、ジョナサンはいつだってジョースター・貴族という誇りのために死ぬ覚悟ができていたわけですね。そういう意味で「不死者」対「死を覚悟した者」という意味もありましたね