てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

浅野裕一著 『黄老道の成立と展開』

黄老道の成立と展開 (東洋学叢書)/創文社

 読んだのでメモを公開。うまくまとめようと思いましたが、まとまらない。まとめるのめんどくさいので、メモ書きのまま思いついたことを公開。ページ数も章割もろくにメモってない。誰が読むんだこれ(笑)。まあ、この本に収録されているものは、島根県立大学の論文検索すれば読める物が多いので、気になったものは実際に論文をごらんになるのがよいかと。
 浅野先生は、「なるほど!そうか!スゴイなぁ、流石だなぁ」という指摘があって、非常に参考になった。その一方、「え、何それは…」という変な論理も展開されるという非常に困った人・本というイメージを抱きました。
 『諸子百家*1も一応読んだのですけど、どうも、先学で擬古派的なものが流行っていて、史料に対する疑問が大いにつけられた。そういうのが盛んになった時代があって、何でもかんでもとにかく疑う傾向に疑問を呈し続けてきた。結果、新資料の発掘で自分の指摘が正しいことが立証された。故に史料に書いてあることを疑うな!という思いが強い方なのかな?『史記』にある秦崩壊のくだりを無前提に受け入れている姿勢などは個人的に、うーん…となる。
 まあ、いずれにせよ、この時代をやる人は避けて通れないのでしょう。氏の理論・主張を継承しつつ、批判して退けるということをやる。そういう感じになりそうだとみましたが、現状、今の学会で氏の主張の受け取られ方はどうなっているんでしょうかね?

以下、私的メモ
 天人相関説、天道思想を説く「道家」。上帝が直接語るのではなく、天候や災害、実りなどを通じて応えるとするもの。天道=自然法的秩序。西欧的な自然法ではなく、中国的な発想による「自然法」。善行・悪行は自然法による報いがあると考える。詩経(いわく「荒ぶる神」)も、孔子荀子も、天は応えないと言っている。そういう思想も昔から存在したが、天・天道による「自然法」・禍福の法則が説得力を持って信じられていた。
 老子と『国語』越語下篇の范蠡型思想の共通点、兵学的な共通性。戦争への慎重な態度、軍への強大さを頼む態度の否定。堅ではなく柔。
 范蠡の道は有意志・人格神、老子の道は抽象的非人格神という違いがある。
 『経法』、諸理論を取り込んだ政治思想。范蠡は呉越が中心であり、天下的な視野はない。
 黄帝書・『十六経』、黄帝への仮託。この仮託の対象となったことが、黄老道への発展、大きな影響を与えたとみなすべきか。鬼神・尚賢などの発想は墨家から影響を受けたか。黄帝は3年山ごもりをしている。*2勝利後、蚩尤を器物にしたり、人に食わせたりしている。
 四面八眼伝承が四臣に変化。太平道の軍事思想の根拠か?天地人と兵の相関性、のっとらざればなすべからず=逆に言うと、のっとるならやれということ。
 黄老とも、仙人化伝説があり、結びつけられる。仙人になるために学ぶならともかく、祀ることについては筋が通らない。黄帝が仙人になっていなくなり、木像・衣冠・廟に各々が黄帝を祠る。黄帝死後直後ならまだしも、時間がかなり経って伝説的な人物になってからの祀りはどういうことなのか?やはり祀ったらパワーを発揮する、福をくれるという例の考えに基づくものか。*3
 前漢頃ならばそれで良くても、前漢末期にはそのような道士の取り組み・献策などがあって一度失敗している。失敗の先例があることが知られている後漢においては、黄老の力を借りてどうにかしようというのは説明がつかないと思うのだが…?禍福の法則を信じる民衆には関係ないということなのか。150~200年単位の昔の話なんか一般庶民には関係ない、検証することが出来ない彼らにとって当然関係ないのかな。
 官=儒=孔子、民=道=黄老という思想の二元構造という枠組みが統治者階級と被統治者階級で存在していたということか?
 道教の先駆けになる巫祝のような存在、道士が影響力を増して、その地位を確立させていた。結果、彼らの偉大なる先祖として、尊敬の対象となった結果なのか?官=儒=孔子なら、民=道=黄老のような発想だろうか?官の人間、社会の上層には影響がなかったが、彼らはともかく、それ以外の民間秩序・中間層や下層の人間にとっては道教・仙人的黄老思想・秩序こそが、あるべき秩序と考えられたということなのかもしれない。社会・経済不安が高まれば高まるほど、道教・仙人的秩序が力を持ち、逆に安定すればするほど公的・官的儒教秩序が力を持つという構造かもしれない

12・13章、范蠡思想の淵源は、尚書及び国語及び周語・晋語。
 師の計然・同上+左伝・周礼、越の地域性に合わせた教えが范蠡型。詩書や礼法は文身断髪の土地には無意味。荊人は鬼を畏れ、越人は機を信ず―だからこそ天道思想における禍福・吉凶予想・指導になったと。まさに相手を見て教えを説いたわけだ。
 黄帝のような内面的倫理は無敵。心の綺麗さの主張は立証が不可能。蛮人だろうがなんだろうが、キレイと言う論理を展開すれば誰もそれを否定出来ない。礼法が心のパワー、心をキレイにする一つの方法論という角度から見れば、道の教えも方法が違うだけで目指すものは同じと捉えられる。禅も仙人化も同じ。先祖代々の系図・歴史マウントを内面の実力という論理で乗り越えられる。命数などの先祖の功徳という徳パワーを内面の力で乗り越える。功徳パワーが尽きれば尚更か。
 要するに、吉凶禍福の因果応報論というのは、無学文盲に親しみやすい・教導しやすい。彼らにわかりやすいから、そうやって教え諭す事が行われる。陰謀論みたいなもので、民はそういうもので動く。民の不満を沈めるのに一番いいから国教に取り込まれるまで至った。それとリアクションが一番わかり易い。「民のための」国という点では、民がそう信じる以上、国教として必要になってくるという構造。古代・中世では、非論理的であるがゆえに論理的というやつ。密教顕教が両立して併存する状態、密教顕教の二重構造のようなものか。漢になって幅広い「士」階層がいなくなり、階層が分裂化したことも大きいかな?でもそうすると、唐や宋など豊かな時代になって幅広い「士」階層が存在したと考えられる時代に、この思想が消えてなくなっていないのはおかしいことになってしまうが。ふと、唐や宋の「士」というものが気になった。侠と士が近かった戦国のような時代とどう違うのだろうか?

 14 老子の陳人説と宋(沛)人説。陳を名乗ると=老子をイメージされるから、陳を名乗れなかったという要素があるのかな?袁術には。計然の師は老子という伝承。范蠡はその地を去ったあと、祀られる。人が祀られる唯一の事例。例の周の史官の話。
 15、斉へ渡って、そこで黄老道が発達すると。これ、逆はありえないのか?斉の黄老道から越へ渡ったというのはないのか?まあ奇跡を起こしたわけだから、当時の稷下の学者は大注目したはずだし、取り入れられるのは至極自然の流れなのだけど。司馬遷が「みな黄老」と見たのは、漢代の隆盛からの逆算。当時はそれ全てが「黄老」と一括りにして言えるものではなかった。漢代に至ってそれぞれの学・思想が結合した。『管子』の心術は老子の道や、天道の黄帝と共通要素はあっても、違うもの。当時は別物だった。同じカテゴリーとして捉えることは出来ない。

 16、黄帝尊崇は威王・宣王に見られ、范蠡型思想の黄帝への仮託は湣王・襄王くらいの頃に行われたものと考えられる。越においては中原の古代帝王の伝承が乏しいゆえに仮託されなかった。斉において仮託がなされたと考えられる*4。陰陽流兵学、鬼神や自然観察、瞽史の天道思想には吹律聽聲や占星術による戦争の勝敗予測が含まれていた。
 『経法』に星、『道原』に星と氣の語が登場し、范蠡型思想の「徳虐」が『経法』では文武に、『十六経』では「刑徳」などと、その思想を吸収・変容した様がわかる。が、占星術や五行などをその理論には取り込んではいないと。
 
 17、樂毅の子孫、樂瑕公・樂臣公を祖とする黄老思想老子の必然性がよくわからない。樂毅由来による出処進退の結末、また二人の趙の滅亡から斉へ移る経緯、亡国が老子のそれと重ね合わされた結果なのだろうか?周の崩壊と、戦国諸国・秦の崩壊。亡国が老子を強調するポイントなのか?そういや秦の統一前の、斉の隆盛&崩壊も重要なポイントなんだよね。樂毅一人によって失敗する斉(孟嘗君とかいろいろいるけど)と、そうならなかった秦というのがポイントか。そこら辺の事件・背景なんかも秦の法治思想の根幹になってくるのだろう。*5

 法術思想、黄老は刑名もある。曾参のそれは黄老の一形態にすぎない。それを黄老の代表例のように扱うのは疑問。幅広い当時の学問の主流、「斉の学」とでもしたほうが妥当に思える。韓非子の法思想を秦のそれとして、否定的に論じるのはどうなのか?そもそも韓非子を処刑しているし、秦の国情などを考慮に入れないとまずいのでは?―理論的欠陥というけど、当時には必要がなかっただけで、先行法思想を検討してもしょうがない気がする。現実政治と関係がないものを信用しなかったか、そういう人間を採用しなかったか、新中国・統合によって新しい思想・法・道徳を創りだすのではなく、単純な秦化=押し付けを図ったか。また神仙思想に封禅など、祭祀とはいえそういう諸思想と接近・触れている。それをどう捉えるのか?祭祀だけで全くそういう思想・要素がなかったとスルーして良いのだろうか?皇帝観念と自然法は矛盾しないと書いている。そこを掘り下げないのはどうなのか?
 皇帝の論理的必然性がないために、絶えず証明しなくてはならない。明主・法術の士がない場合は?まあ思想の本だから、思想的な面から説明するのはしょうがないんだけど、これはどうかな?戦国時代の「天道思想」みたいなもので、実力=繁栄で民心を繋ぎ止めるという発想は特におかしくないと思うのだが。むしろそういう統一による繁栄・プラス効果の頭打ちとかそういう方から論じたほうが意味があると個人的に思うのだが。
 帝王・王公の延長としての皇帝号。実情により可変するもの?東帝・西帝。実情ならば、一度、帝(帝王かな?)になってから、統一達成で皇帝というワンステップを挟むはず。何故一度帝という位を挟まなかったのだろうか?秦王→秦帝→(秦)皇帝になるのでは?三代目が秦王という称号に戻したのも実情の変化にあわせて可変する証左というよりは、戦国体制への回帰上・外交上の理由だと思うのだが…。皇帝号が上帝を意味するものならば、天子という称号と矛盾するのでありえない。
 論理に内面的必然性がないために、皇帝・天子概念は自然法とは結びつかない。個人的求福段階にとどまる(?)。うーん、ここのところはどうなのか?それこそ、この時代に自然法観念が採用されなかったという結果をもってしての逆算では?単純に当時は特に検討するに値しなかっただけだと思うのだが。

 
2部11章、皇帝と法術の所で、秦の崩壊ストーリーを史記からまるまる採用している。留保付きであればともかく、あの史記の悪意に満ちた記述をそのまま真実として受け入れるのは史料の性質上どう考えてもおかしい。二世と趙高の無能・暗愚などなど、ありえない。結果からの逆算・後知恵になっている。注5の町田氏への批判で、始皇帝が上帝と同一視する神秘主義と合理主義による支配が矛盾すると書いてあるが、この時代は、神秘主義は合理主義であるのだから、別に矛盾しない。どういう意味で「神秘主義」という用語を使っているのだろうか?秦・始皇帝が「神秘主義」を徹底して嫌った、弾圧した。そしてそういう「神秘主義」を含まない「合理主義」を政治思想の核としていたという根拠はどこにあるのだろうか?  
12章、ここにあるように、秦の法治の失敗を見て初めて、そこから逆算して「黄老道」が生まれた。失敗からの学習・郡県制と封建制の折衷、君主と臣下の併存・現状維持を目指した。要するに場当たり主義、都合のいいもの・採用主義が黄老プラグマティズム的な要素が多分にある。現状を把握したうえでの妥協理論。当然前提が変われば不必要になるし、封建制がなくなれば廃れるに決まっている。その指摘がないのは何故なのか?
 高祖の功臣らとの功績後の領土・権利の分かち合いや賢者招聘策のように、秦と比較して漢は開かれた国家だった。要するに天下の士など一定以上の階層が参画する余地が秦に比べて大きかった。漢と秦の違いというのは、開かれた国家かどうかという違い。当然秦のような法治国家のほうがはるかに効率は良いはず。秦は効率性に優れていても安定はしなかった。漢はその逆効率性を二の次にしても、安定性を重視した。

15章、秦漢帝国批判。西嶋説はともかく、増淵説の墨侠だと君主権が強大すぎてダメ、ほんまかな?墨家についての読んでみてまた検討しよう。
 マルクス的な強大な古代帝国が存在したという前提から始まるがゆえに誤りを犯した主張・論理が出てきた。それについての否定、誤りを指摘する点はもっともなのだけど、マルクス主義的な発想の主張を否定せんがために、無理矢理強力ではなかったという前提からスタートしていないだろうか?否定したいがために、それこそムキになって強力どころか無力だったという理念を無理くり持ち出しているような感じに見られた。否定的評価のために逆算して論旨を組み立ている感あり。
 呂氏の乱も、どちらかと言うと、呂氏を中心とした諸勢力の殲滅のためだろう。裏切られたのが呂氏の方で、裏切ったほうが功臣集団。審食其(しんいき)・晁錯と王朝安定のために、何度も粛清をしようという動きあったことがが象徴的。呉楚七国を見れば、失敗したとはいえ斉の哀王のように丞相に呂氏を送りこむ政策は極めて妥当な策だろう。

 漢の皇帝権力の本質を見逃すと言って、増淵の高祖集団の人的結合・関係が間違っているというけども、高祖集団の性質と、漢のその後の皇帝の性質というのは自ずから変化していくもの。高祖集団から高祖の皇帝像の分析が本質と外れるというのはおかしいのではないか?始皇帝武帝をくくって、秦漢帝国とみなすのがおかしいという提言・見方はともかくとして、武帝が一時的な逸脱というのはどうなのか?むしろ権力の必然的な展開・発展系とみなすべきだろう。武帝のようなタイプもあれば、逆に恵帝のようなタイプにもなる。状況状況によって可変するのが当然。武帝を例外として、それ以外が国家原理に忠実であるとし、そちらを本質とするというのは同じ間違いの裏表の関係でしかないと思われる。
 そもそも封建制が漢の国家原理ではない。貧しい下層出自の成り上がりの彼らに、国家原理があるとみなすほうが難しい。封建制が原理で譲れないものであるならば、削減後になぜ藩屏として昔のような強力なそれを復活させないか説明がつかない。氏の言葉で言うと、無理くり「国家原理」という観念を持ち出すからこうなる。「武帝以前」と「武帝以後」を一括して同じ王朝として捉えるからおかしなことになる。国を残したのはその要所にそういう機構を残しておいたほうが良いからというだけ。また、王国に漢の藩屏を期待するというのはそもそもナンセンス*6。晋の八王の乱のように、クーデターの芽以外の何物でもない。王莽の事例を以って国家原理逸脱からの当然の帰結というのもまたナンセンス。逆算・後知恵に過ぎない。その王国を削減することで生まれる帝国の制度的な強化・完成。その合理性の指摘なくしては何の意味も持たない。

 曹参、儒を集めても良い案が得られず、蓋公・黄老思想を採用。反乱の際に曹参の斉軍が用いられたということを考えると、安定させるために斉が重視された、かつその治をみると、豪族の支配力との妥協が重要だったというところか。そう言う意味では呂母=琅邪・赤眉の乱も関係してくるのか?恵帝の問いについて何もするなというのは、二世皇帝の先例故だろう。何があっても二世だけは無事に治世を全うしてもらわないと困るということ。劉邦死後、自壊すると多くの人間が思っていただろうから(対症療法としての黄老思想の一つの実行方法か)。大形徹いわく、酒飲んで政に関与しないことで過酷な秦律の骨抜きを図ったと。法律の性質が変換されたから、秦漢を同じ性質で見てはならないとあるが、基本として同じ法律が採用されている方を重視しても間違いではないだろう。延長と捉えるか、異質性・同質性を見るか、要は論じ方次第。そしてどちらか一方を過度に強調するのは明らかな誤りということ。
 黄老思想は有効、武帝時代の中断がなければその後も有効だった―とあるが、その根拠は示されていない。対症療法としての時代状況の産物、時代が変われば自ずと通用しなくなる(先程もそう書いたけど)。無論、それに合わせてさらに自己変容を遂げれば話は別だが、それは最早黄老思想と呼べないだろう。何よりも、有益・有効ならば、武帝死後真っ先に黄老思想の復活が論じられ、実行されるはずである。また後漢光武帝が採用しているはずである。しかし実際は、ご承知のとおりそういうことにならなかった。そういうことが起こらなかったというのは、つまりもはや時代にそぐわなくなって、採用する・国家統治の思想として使い続けるメリットが無くなったということ。

 黄老道が秦・法治・始皇帝の失敗から生まれたとするならば、同じく武帝以後の儒教も、その失敗の逆算・対策から生まれたとみなすべきなのだろう

 3部2章、孫子呉子には陰陽流兵学がない。墨子荀子も天の決定論を否定する。
 3、鄒衍、人間社会の改革。そこら辺が始皇帝に受け入れられた理由か。天・宇宙がこうなっている→現実社会もこうなるというロジックを信じたのか?大地理説→拡大策?それもあるだろうけど、統一&拡大は軍事大国の力学からごく自然に起こること、当然な流れだしなぁ。理念・思想によるものと単純に考えるのはどうだろうか?まあそういう思想的背景もあったと思うのだけど。鄒衍が投獄され、天に嘆くと5月でも雪が降る。董仲舒も雨を自在に降らせた≒超能力者。
 始皇帝・曹参・武帝(封禅)、政治のトップから儒教儒学者に三度チャンスが与えられていたのに、そのチャンスに応えられていない。結果、董仲舒のようなことになる。

 五行篇に見られる唯心主義。六神通など。有徳者は天の声を聞いてわかる。柳下恵は遠く離れた囚人の刑を思うだけで減刑させ、孔子は歩兵進撃の鼓吹を連想した途端、名剣夏の盧剣が現れた。
 氣・性・理と人倫の関係は、孟子・子思の孟子・大学・中庸と同じでこの学派に間違いない。ひょっとしたら若いころの孟子本人が書いたものかもしれない。
 墨子には、儒が一族郎党練り歩き寄食する様子が書かれる。葬儀の際にみんなで食事にありつくと*7。井戸や屋根に死んだ親の姿を探すのは唯心主義の発露。方術による治療や巫祝、精神病などもそう。社会の底辺の俗儒は方術士であり、たくさんいた始皇帝の処刑もそのため*8。鄒衍の学んだ儒教もこの系統、荀子ではありえない。
 董仲舒孔子と天道を結びつけて公羊学を再解釈した。淵源が同じ鄒衍の学説を再吸収するのは必然か。董仲舒的公羊学=神秘主義を盛り込んだものである以上、官学もそういう傾向を帯びてくる。全体的にそういういかがわしい物が肯定されることになるわけですね。漢が誕生するのは当然だったとか、そういう思想が公的に正当なものになっていけば、当然民間でもそういう神秘主義的なものが力を持つのは当然なわけで、この流れが民間秩序として道教の隆盛に繋がると見るべきでしょうかね。公羊学とのちの道教の隆盛は関連しているんでしょうね、きっと。ということを考えると、公的な・官にある人間は黄老を祀るなんて馬鹿臭えということを感じていても、民心を安定させるために、彼らの訴えを聞き入れて祀ったということなんでしょうかね。*9*10

 民間経済への介入、統制・計画経済≒ソ連的なものと想定して論じているのか?武帝に敗れた黄老道で終わり、最後の末尾に張角がちょろっと出てきて、黄老道の復讐かもしれない…で終わりという無理やりなオチの付け方。うまい整合性がつけられなかったので、おもいっきりぶん投げましたね、これ(笑)。文章書いて最後のオチ、シメに困って悩んで、うーんどうしようかなぁ?という時にこういう締め方やったことあります(笑)。武帝までの「黄老道」という思想・学は斉の学問だから、その中心地がダメになる、成立しなくなる何かがあったのか?もしくは兼併が進んで学士もいなくなったとか。まあ京の太学というか、学術の中心が移ったことが大きな要因だと思うけど。斉から洛陽へ学術の中心が移る過程というのも都の機能というものを考える上で非常に重要なんじゃないかな?という気もするけどどうなのかしら?公的秩序=儒と、私的民間秩序=道の図式には、中心としての都における学問秩序・門生ネットワークと、そこからはみ出た周辺の人間という要素も見いだせるのではないかな?

*1:※参照―浅野裕一湯浅邦弘著 『諸子百家〈再発見〉』。参照2―浅野祐一 『図解雑学・諸子百家』

*2:黄帝にしろ、老子にしろ、神仙的な要素が強い。そのビッグネーム二人から成立した黄老道。かといって黄老道系の思想は神仙を中心とする思想ではない。あくまで自然法的秩序からうまく解釈できる二人という性質が強い。この神仙的性質が後漢など、時代を経れば経るほど、強調されてくるところがポイントか。

*3:漢の劉氏のように偉大な先祖でもいれば、偉大な先祖を祀ればいいが、大衆にそんな先祖はいない。土着に有力な土地神でもいればいいがそうでない場合は、誰か偉大な人物を祀る必要性がある。それに選ばれたのが黄老ということと見ていいだろう

*4:色々な思想、学問が古代帝王になぞらえられたり、仮託されたものだと考えられるのだろうが、どうして黄帝・黄老のそれが目立つのか?他の仮託の事例が少し気になる

*5:個人に依存した斉(秦以外は殆ど全部そうなのかな?)と組織化・法によるシステム化をした秦という構図。特定の勢力や個の能力依存を嫌ったが故の徹底した法治・システム化&統一後の失敗という流れがありそう。武断から文治へと漢は長い時間をかけてようやく後漢に至って完成させた感があるが、秦はそもそも法治主義なのにその文治が弱かった。武断時代の名残りを断ち切るという視点が足りなかったと見ることができそう

*6:その期待がゼロだったとは言わないが、それを見越して作られた制度とは到底思えない。周の時代からすでに同姓王朝は藩屏として役に立たなかった事例があるのを見れば言うまでもないし、もしその役割が期待されていたら、折に触れて藩屏のそういう機能が弱まっていると朝廷で議題になるはず。

*7:以前、何故葬式でタダメシ食いができるのだろうか?と書いたことがありますが、こういう社会慣習が一般的にあったんですね

*8:始皇帝による焚書坑儒儒学者殺しというのは、まっとうな学者ではなく方術士だと考えると、社会不安を煽る道士という前述の公的秩序と民間秩序の二元ロジックにうまく当てはめて説明付けられるのかもしれない。儒教的な方術士が消えて道教的な方術士しかいなくなったとみなすのが自然ですかね

*9:偉大な祖先がいなければ祀られるのは黄老しかなかったと書いたが、当然孔子がいた。しかし孔子は当然すでに祀られていて、神通力も逸話通りさほど強くない。イエスのように奇跡を起こしていない。黄老のような神・仙人になった人間のほうが神通力がありそうだ&祀りたいとなるのは極々当然。老子=浮屠説などがあれば尚更。のちに孔子の神格化も進んでいくが、孔子の人生を見ればわかるように一神教的全能神にはなりえない。故に道教・仏教と併存することになると。

*10:黄老学・思想と老荘思想はまるで違う。前者は現実主義・プラグマティズムで、後者は相対主義・懐疑的思想。初期は神仙思想や神秘主義の入り口はあってもその要素は弱い。桃源郷のような楽園願望、逍遥には楽園・理想郷は本来なかったが、学問から宗教の過程で含まれるようになっていく。こう言うと論理性の後退や異質なものの混入のように思えるが、宗教性・宗教要素がなければ大衆には受け入れられないために絶対に避けられない現象だろう。儒教は葬儀祭祀以外取り込まなかった。宗教化が不徹底だったので、道教が必然的にそれ以外の宗教要素を取り込んでいったともみなせる(そもそも黄老思想から老荘思想というステップ・流れ自体が現実性のないものなわけで、現代的視点から見ると合理的なものが時代が経つにつれ発展していく流れと逆行するものに映る。時間経過と共に合理化が進むという発想自体ウェーバーの指摘を待つまでもなく虚妄なのだが、この時代はこれまでの興隆期からの衰退期に入った中国の当時の情勢をよく示していると言えよう。物質がなくなりまずしくなれば、文化は精神的な内面に向きあうしかないわけで、宗教化の時代も当然)。
 非政治的・隠遁思想を見てもわかるように現世乖離を良しとする。仕官してそこで結果を出すことが目的の黄老思想とは真逆。同じ老子を思想の内に含んでいても思想的に真逆の存在と言っていい。黄老思想は政治や兵学、軍事的実績・行政の実績を求めることからも、両者の思想に連続性・一貫性はないように思える。仮にもしあるとするのならば、曹操のようなプラグマティスト・現実的な政治家が実学として学んだ。色々な黄老思想・斉の諸学の古典に注目して、現実でいかに上手く成果を出すかというノウハウを吸収したパターン。
 まあ、黄老学という単位・枠組みが消えたことでわかるように、そういったノウハウはすでに実体験として各政治家・官僚などの自家薬籠中として消化されていたととらえるべきなのだろうけど。彼らは現実政治の力学を当然理解して、家や一門・学問の門下生に伝えていたはずなので絶対曹操が熱心に実学としての黄老思想・斉の学研究が不可避だったとは言えないのだが。前漢末から後漢再興の辺りにそのような現象が起こっていれば、曹操も間違いなくそうしたはずと言えるのだろうけど、そういう根拠になりそうな事例が果たしてあるかしら?
 ただ当然黄老思想の開祖的存在として老子という人間・思想に興味を抱きやすかった事は考えられる。何より范蠡のような軍事学がある。政治技術もさることながら、軍事ノウハウは中々学びづらかった・継承されづらかったはず。軍事研究の過程で黄老学を学ばなかったとは考えにくい。『孫子』の研究の過程で必然的に触れていったはずなので。
 そこで実学を入り口として老子を学んだ・好んだとしても何の違和感もない。結果、文治主義としての老荘思想に注目した。前漢の文治政策であった儒教の全国的制度化はもう失敗したので使えない。儒教制度を廃止しようとしたとは思えないが、それを補うもしくは二本立てにするなどで、新しい文治主義システムが必要になると考えたはず。それが詩などの文章政策で、その一環として老荘思想もあったように思える。淮南子などのそれを取り入れて、玄学的な学問から入って、最終的に宗教化した道教に至るまで取り入れようと考えていたのではないか。老荘思想と玄学が仙人思想や不老長寿などの道教的なそれと結びつく・道教化することまで想定していたかは微妙だが、様々な思惑から民間秩序=道教的秩序のコントロールとして管轄下に置こうという何らかの意図はあったのではないか?曹操には、黄老思想老荘思想をそういう意味で仲介した、結びつけたという要素がありそうに思える。
 上にそういう意図がなくとも、下・大衆たちは道教教団が老子太上老君として神格化した時、黄老思想であれ老荘思想であれ、老子という偉い神様がおっしゃったことという感覚で包括して受け取っただろう。彼らにとっては願いを叶えてくれる神様かどうかがポイントで、どうでもよかった。学者の権威という意味では黄老思想だろうが老荘思想だろうがなんでも偉い学者様として通用しただろうし(逍遥で現地名所を訪問して遊ぶ、そこで道教の信徒に説法(でいいのか?)をすれば求心力が高まるので道教的知識を高めていったという流れかな)。玄学という学問・学者が宗教としての道士としての要素も必要になっていく。宗教化不可避という時代の転換点、五胡十六国辺りの混乱・混迷の方が重要か。あとは曹魏曹叡辺りの道教化・道教現象がどうだったかくらいか、ポイントになりそうなのは