てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

栃木小1女児殺害事件、自白を証拠採用

2005年に起きた栃木県今市市(現日光市)で起きた小学1年吉田有希ちゃん殺害事件で犯人に無期懲役が求刑された。地裁の段階とはいえ、刑事事件で未だに自白が証拠として採用されることに驚きを覚える。

 

 近代裁判とは、容疑者が裁かれるのではなく、検事・検察が裁かれる。刑法で定められた以上の求刑を要求していないかのチェック、国家権力が不当に容疑者を陥れようとしていないかのチェックをする。それもこれも国家権力が強いという前提のもとに立っており、その国家権力側に挙証責任があると考えるからだ。検察が確たる証拠をつきつけられなければ、無罪。いかに怪しくとも無罪とするというのが近代裁判の原則・鉄則。

 

 そうなると怪しい犯罪者が罰せられずにのさばるということに繋がるのだが、それでも疑わしきは罰せずで100人の犯罪者を逃しても無辜の人間を罪に陥れるなかれ、冤罪を出すなかれというのが近代法に基づく裁判。それが確たる証拠もないのに、自白が信用できるからということで裁判所が有罪判決を下してしまう…。これでは日本から冤罪が消えてなくなることはないだろう。

 

 価値観・ライフスタイルが多様化する昨今、怪しいやつだから犯罪者に違いないというのは通じない。いつなんどき、怪しい人間に認定されて、犯罪者扱いされるかと考えれば、そんな社会の恐ろしさは言うまでもないだろう。怪しいやつだから、犯罪者と疑われても仕方がない・落伍者だから、冤罪でも別にいいだろうと言う態度は許されるべきではない。そんな社会は健全な社会ではありえない。

 

 そもそも女児を殺害したのなら、その時点で死刑求刑ではないのか?何故死刑を求刑しないのか?確たる証拠がないから、そこまで自信がないからその分差し引いて、無期懲役という要求だったのではないのか?そんなことでいいのだろうか?

 

 報道を聽く限りでは、容疑者が犯人である蓋然性は十分あると思われる。しかし、物証がない。これで有罪とするのは無理があるだろう。また第三者のDNAも見つかっているとのこと、冤罪の可能性が残されているのなら、物証が見つかるまで判決は留保すべきではないのか?近代裁判の原則として、冤罪の可能性が残されているのなら無罪判決を出すべきではないか?容疑者となった時点で、社会的にかなりの制裁を受けたはず。そして真犯人がでない以上は、今後も犯人扱いされるだろう。新しい決定的な物証を探すという態度では何故ダメなのか?

 

 この事件は別件逮捕からこの取り調べが始まった。そして肝心のその取り調べの録画はないとジャーナリストの江川紹子氏は言う。証拠として採用された自白の録画・映像には、肝心なその部分が欠けている。つまり容疑者が追いつめられていく過程が省かれていることになる。これでは検察サイドは、都合のいいように自白映像を証拠として使えるということになりかねない。

 

 検察の取り調べの過程に疑義が持ち上がって、検証可能にするために、録画という制度が持ち込まれた。が、しかし、自白を証拠とするために用いられてしまうのなら、当初の意図・目的とはまるで逆の結果をもたらすことになると言えよう。自白というもので裁いてしまう調書至上主義からの脱却を果たすべきものが、むしろ自白の証拠能力を強化することになるのならば、本末転倒極まりない。

 

 地裁ということで、前例踏襲でこれまでの調書至上主義を引きずるのは仕方ないことと見るべきなのだろうか?最高裁が調書至上主義を明確に否定して、証拠としないこと。また自白過程の取り調べの抜けがある以上は、証拠足り得ないと指摘でもしないとこの傾向は変わらないだろう。最高裁でのチェックがどうなるか?今回の判決以上に、さらに注目される判決になると思われる。