てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

テレビ朝日の暴力的な引きこもり対策について

 

 テレビ朝日の番組で、引きこもりの特集をやっていた。それが、当事者を無理やり引きずり出すというもので批判の声があがった。

 本人の同意がないのに、親の同意だけで無理矢理引きずり出すという行為は普通はありえないもの。この件については精神科医の斎藤環氏が異議を唱えており、それに完全に同意した。

目次

斎藤環氏の悪質な業者に対する批判

 斎藤氏いわく、このような引きこもり問題では、当事者の信用を1~2年かけて築くもの。こういった無理矢理引きずり出す行為は、解決にならない。間違った対処法であると。過去のアイメンタルスクール事件という実例を上げて、その過ちと全く同じである。その組織は過った対策で死人を出した。再び同じ過ちを招きかねないような報道をすべきではないと批判。

 引きこもりというものが精神的な問題・ある種の病気とみなせる以上、そこにケア・治療という面から向かっていかないといけない。それを無理矢理暴力的に対処するのでは、問題の解決につながらないことは明らか。また更に悪化させる事も考えられる。

 何より本人の同意を得ていない、気持ちを無視する人権侵害の疑いの強い行為。こういうことを許容してしまう空気が恐ろしい。こんなこと許されるはずがない、しかし「火事になったら、傷害・殺人に走ったらどうする」という理由をつけて行われる暴力的な対策を許容してしまう人の多いこと。まとめのなかで、斎藤氏は手塚ヨットスクールのようなものが許容されてしまうことと重ねあわせてみていたが、人を暴力的に教育することに寛容なのは一昔前から変わらないようだ。

 手塚ヨットの場合は、暴力的な人間。親や家庭・教師や学校などで暴力を振るう人間、いわば学校での暴力問題が支配的な時代だったからこそだったように思える。このケースとは問題の背景が違い、当然引きこもりは人に攻撃を加えるというタイプではない。手塚が称賛を得たのはある程度の効果があったからだろうが(当然その分問題も多かったわけで)、この件で手塚方式に近い、矯正するやり方が一定の効果を発揮するとは到底思えない。

 

 斎藤氏が欲望の欠如という指摘をしているが、社会的地位の確立という名誉・名声欲の欠如という視点は興味深い。その視点からでは、どうやって立ち直らせるのか?どういうケアをすれば、彼らは社会復帰出来るのか?しっかりとしたケア・アプローチを確立した上であたるべきだろう。*1

 

ひきこもり=救済が必要な弱者ではなく、迷惑な存在

 また、まとめの中にこのようなものもあった。就労支援のサポートステーションがブラック企業のような洗脳・タダ働きを前提にしているという実態があるという。

 

 以上のことを考えると、今の世の中ではひきこもりというものに対して、治療やケアが必要。社会的な支援を確立させて、彼らを立ち直らせようという捉え方ではなく、「出来損ない」や「迷惑もの」と捉えているということだろう。「引きこもりなんていうのは、わがまま・甘えであって、しばき倒して無理矢理働かせるべきだ。本人の意向なんて関係なく低賃金・劣悪な環境で、文句を言わずに働け。」―ということだろう。

 

 一度社会のコース、レールから外れると出来損ない扱いされるのが今の日本の教育・社会制度。本人の意志による自由な選択を許さない。畑で取れる野菜のように、収穫時期が来たら、実ったら働けというもの。そのコースから落ちた人間は出来損ないだから、そんな出来損ないが劣悪な環境で働くのは当然だということだろう。なんと弱者に対する厳しい社会であろうか?

 

  一時、再チャレンジとやかましく言われた時代があったが、一時的なそれに終わって、結局何も変わらない。落伍したものは決して這い上がれないのが日本社会制度。この制度に一向にメスが入らない。つい先日義務教育にフリースクールを認めるかどうかという話があったが、未だに自由なカリキュラムに基づく教育が許されない現状を見ても明らか。いじめに対する制度的な対策がない以上、いじめが許容されているのに等しい現実がある。にも関わらず被害者に対する救済はない。一度構築された教育制度に抜本的メスが入らないかぎりは、日本の引きこもり問題も改善されることはないだろう。引きこもりと教育制度は一見別問題だが、構造的に根が同じ、繋がっている問題に見える。

 

過った対策で悪質業者を肥え太らせる隙を与えるべきではない

 件のテレビ朝日の番組で取り上げられた支援団体の話に戻って、その団体は施設に元引きこもりの人を受け入れて、就労支援などをしているようだが、そういった資金は一体どこからでているのだろうか?公的な支援事業とみなされて、こういった組織に補助金が流れているのならば問題だろう。また親が月々いくら払うという話もあった。だとすれば、これは形を変えたオレオレ詐欺のようなものではないだろうか?引きこもり対策には、その親に対するケアも必要。親子両方のケアが不可欠だと斎藤氏は言う。親のサポートなき立ち直りはありえない。これでは金で厄介払いをされたという新しい心の傷を作るだけではないか?

 

 もう一つ気になったのは、就職先として介護があったこと。その映像が流れていたのだが、これは問題である介護の人手不足・引きこもり問題というのを一手に解決しようというたくらみがあるのではないか?「ひきこもりを暴力的な手段で「更生」させる。矯正させて、真人間にさせて介護に従事させる」これで一石二鳥という社会問題の対策としてあまりにもふざけた発想が根底にあるのではないだろうか?*2

 

 BPOも問題とせず、弱者へのケア意識の欠如は根深い

 社会問題の対策・解決法としての見当違いな発想、世論の落伍者・弱者に対する異常な厳しい視線。自分とは異なるものへの無知・無理解と人権意識の欠如。迷惑なものには暴力的にあたっていいという発想などなど、非常に今の日本社会の病理・問題を表していて興味深い事件と感じた。なお、BPOという放送をチェックする組織は、この件についてはノータッチのようだ*3。ひきこもりという問題について理解がまだまだ浅いということだろう。この事件が、「昔はこんな無理解・ひどい行為がまかり通っていたんだよ?」「ええ~それはひどい」と言われる日が一日も早く来るのを願うばかりである。

 

ホームレスに見る弱者への無関心

※忘れていた視点として、ホームレスの視点があった。たとえばホームレスというのは、普通の道を外れた人間である。彼らのような普通の生き方をしていない人間について、なぜけしからん!とならないのか?けしからん!となって、社会から関係を断ち切られて孤立している彼らに、住居を用意して、仕事を世話する。そうやって社会復帰を手助けするようなことが一般化されていないのは何故なのか?

 ようするに、落伍者については出来損ない・迷惑者という冷たい視線を投げかけるだけで、彼らに手を差し伸べるということはしない、考えない。日本社会という空間において公的な視点が欠如しているということだろう。バリアフリーという身障者、弱者に対するケアがなされる時代になって、大変喜ばしいことだが、こういった社会的弱者について一向にケアが進まないというのはどういうことなのか?*4「日本社会の不寛容・冷たさ」ということを我々は真剣に考えなければならないのではなかろうか?

*1:今回の件で斎藤氏に興味を持った。

ひきこもり文化論 (ちくま学芸文庫)

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「ひきこもり」救出マニュアル〈実践編〉 (ちくま文庫)

「ひきこもり」救出マニュアル〈実践編〉 (ちくま文庫)

 
ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (ちくま文庫)

ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (ちくま文庫)

 

 ―この辺りの著作に手を出していずれレビューを書いてみたいと思う

*2:またその施設には、いじめで学校に通えなくなった・不登校の人がいた。いじめ問題にも、いじめられるもの=社会の落伍者という性質がありそれについての対策は未だにない。何故被害者が苦しまなくてはならないのだろうか?

*3:

<BPO>テレ朝「引きこもり」番組「取り上げる理由ない」 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

*4:思うに、身障者にはかわいそうという視点があって、配慮しようということになる。しかし、ホームレスなど落伍者には可哀想だという感情が働かないから配慮しようとならない。労働による協同共同体をベースにする日本においては、協同の枠から外れた人間には異常に冷たいということかもしれない。いじめでの不登校も学校で協同をしない存在というのが大きいということなのか?