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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

網野善彦著『日本社会の歴史』を読んでいて思った、『逆説の日本史』への疑問

本・読書―批評・批判・感想・レヴュー 歴史関係の話

 

日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)/岩波書店

日本社会の歴史〈中〉 日本社会の歴史〈下〉

 網野善彦氏の『日本社会の歴史』を読んでのメモです。というか、パラパラ読んでいて、『逆説の日本史』への疑問がいくつか出てきたので、それについてコメントしていたら、もはやそちらのほうが主題・話の中心になっているような、いないような?まあそんな話です。日本史あんま興味なかったので、そんなによくわかっていませんが、いつものようにとりとめもない思いつきメモが中心です。

 ※井沢さん・逆説の日本史の批判でググってくる人のために、その箇所だけで太字強調にしておきます。その箇所だけ読みたい人は太字強調の部分を探してそこ以下を読むとよろしいかと思います。①話し合い絶対主義②造り変える力③軍隊の廃止は言霊思想に基づくもの―の三点ですね。一応最後におまけとして天皇の死穢と遷都についての疑問も書いてありますが、それはそこまで間違っていると指摘するほどのことでもないので、太字強調していません。

 

連合国家から中央集権国家へ】

 元々、首長連合連合国家として大和政権は始まった。それが中国化・仏教化を取り入れることにより、強力な政権づくりを進めようという段階に至った。大王を強力な君主にする、君主を主体とする国家へと作り変えようという動きが起こったわけですね。まあどこの国・地域でも、ある程度の規模を備えたら必然的に起こってくるケースですね。支配領域が大きくなったら、これまでの方式から切り替えないとうまく行きませんからね。ボトムアップ型からトップダウン型へ切り替えようとするのは、よくある話で珍しい話ではないですね。

 この時代に仏教化が重要だったのは、神道連合国家の論理が通底している、セットとして機能していたから。連合国家の構造から脱するためには、新宗教の採用・仏教が最適だったということなんでしょうかね、やっぱり。

 儒教的な君主になるには正当性が乏しい、またそれを支える官僚も用意できない、儒と仏の論理を取り入れつつ、なんとか運用できるシステムを作ろうとした苦心の産物が十七条の憲法ということでしょう。儒教的な法論理の導入も十七条の憲法には見える。それとも参考にしただけで、本来の律令制とは似ても似つかぬ「オリジナルな律令制」をなんとか作ろうとしたということだろうか?儒教仏教用語を散りばめただけで。実際の運用がその思想をどれくらい反映しているか、まあそんなところがポイントかな?*1

 当然、そんな強力な改革を実行するパワーが有るはずない。国家のリソース不足(ダイナミックな改革をする軍事力も経済力もない)&法制化による新政治を始める土台がそもそも無い*2。ということは、強力なトップダウンの改革を可能にする要素が最初から存在しないということだから、当然既得権益神道を排除しよう&既得権を持つ豪族を一掃しようなどという発想になるはずがない。これが和をもって貴しとなすという結論に結びついたということだろう。これまでとは全く違った新しい論理の導入を唱えながら、新秩序についていけない既存秩序の有力者を排除することが目的ではない。そういう排除をしないということを最初にPRする必要があったということだろう*3。新しい国家政治の新理念を打ち出す時に、実力も十分にないのに、「今後は中央集権やるから、お前らは今まで持ってる権力全部捨てて、俺に従え。俺が仏or儒教君主で一番偉い存在だから、当然従うよな?」的なバカなことを言い出したら、当然有力豪族は反発して反乱しますから、そういう風に受け取られないようにそういうメッセージを極力排除しようとしたのが一七条の憲法だということでしょうね。

 また、十七条の最後には「一人で物事を決めるな」となっている。最後にわざわざ、一人で物事を決めるようなことはするなと念押ししているのは、強力な君主制を志向する制度と思われないため。そう思われたら反感を買って失敗する。無用の反発を招いて改革を頓挫させないためには、決して既存の実力者を無視しない=既得権を排除するものではないというメッセージを打ち出す必要があったからだと見做せる。当然この強調は、改革を進めようとしている国家権力の弱さを意味している。中央集権国家を作るための改革でありながら、その集権化の否定が含まれている・最初と最後に打ち出されて、穏健な改革をすると強調されていることにこそ、注目すべきであろう。*4

 

【十七条の憲法=「話し合い絶対主義」ではない】

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)/小学館
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 というわけで、逆説の日本史の疑問というか、そのおかしい点についてコメントするわけですが、これまで結構逆説の日本史についてコメントしてきたのかな?よく覚えていませんが、まあいずれにせよ好意的に書いてきた気がしますが、今頃日本史の本を読んで、これは明らかに違うなということを思ったので書いておきます。多分、「十七条の憲法は話し合い絶対主義によって出来ている」という話はこの巻だった気がします*5

 その「話し合い絶対主義」なんですけども、これは明らかに違いますよね。十七条の憲法は和をもって尊しとなすというのが一番最初に来ており、これは儒教でも仏教の論理でもない、日本オリジナルの価値観によるものだという風に書いていたと記憶していますけど、前述通り中央集権改革をしたいがそうするだけの実力がないということから生まれた妥協の産物と見るのが妥当。

 この「話し合い絶対主義」というのは山本七平さんが先に説いたものみたいですね。山本七平さん全集を結構読んだ気がしますが、この話は読んだものかな?どうだったかな?山本さん面白いのと微妙なのとで落差がかなり激しかった気がしますね。

 まあいずれにせよ、話し合いで決められたものは何でもかんでも正しいと考える不合理な思考様式のことを指すわけですけども、これは前近代人特有の不合理・理不尽な思考・行動様式の一つにすぎないわけで、特に取り上げるべきでもない気がしますね。輪番制みたいなものが中東の政治であったりしますけど、権力を統合できない土地柄では、無理やり中央集権制・統一的な権力を持ち込んだり、一元化を図ると却って混乱することから、権力をあえて分散して併存・分立を良しとするという政治制度がとられることがあります。中央集権制を導入するとうまくいかない土地柄では何より利権の調整、意思疎通が優先されるわけで、日本の政治・社会史で話し合いが優先されてきたのも、その一形態にすぎないでしょうね。

 ですから「話し合い絶対主義」というものがあるから、十七条の憲法の最初と最後で「何事もよく話しあえ」ということが強調されているわけではないのですね。日本人独特の論理・日本教があるからこそ、何よりも優先して和をもって尊しとなすという論理が生まれたわけではない。全ては突出したパワー持つ統一的な権力(≒政治機構)が存在しないことによる現象なわけです。そういう現象・現実があって初めて、話し合いを重視して、意見調整して物事を進めていきましょうという慣習が生まれて、根付いていっただけですね。

 十七条の憲法の時点においても、強力な改革を実行するパワーが無いから、各地で権力を持つ諸勢力に一定の配慮を示さざるをえなかった。突出した力を持つ勢力がないから、話し合いによる意志調整・利害調整が優先されたという現実があるだけですね。

 「話し合い」が重視されていたのは間違いないわけですが、そういう背景から来たものであって、「話し合い絶対主義」という思想・宗教が先にあってそれを成文化したいから、十七条の憲法に和をもって尊しとなすという論理が一番初めに書かれるようになったわけではありませんね。

 「話し合い絶対主義」というものが、その当時既に存在したかもしれませんけども、少なくともその「話し合い絶対主義」が存在したからこそ、十七条の憲法が和をもって尊しとなすというものを重視して打ち出すことになったというのはありえないでしょう。あったとしても、前述通り絶対的な力がないがゆえに意志調整が優先されたという論理に比べれば、遥かに後ろに来る論理でしょうね。それこそがポイントとは到底言えないでしょう。

 井沢さんはこのような日本人独特の論理・行動様式というものがあると考えていて、それを過度に強調しているからこういう論理展開になるんだと思います。まあ、そういうものがないわけではないんでしょうけども、前近代人・前近代社会にはいくらでもそういった類のものは見られるわけで、決して日本や日本人だけの話ではないと思いますね。

 

【発祥の地を離れたら形を変えるのは当たり前】

 逆説の日本史 (3)だったと思うのですが、ここで芥川龍之介の「造り変える力」というものを持ちだして、日本に来るとあらゆるものが本来の形ではなく、日本独特のものとして形を変えて定着する。変化するという話があったと思うんですけど、これは別に日本独特のことではなく、キリスト教仏教でもなんでも、時代・土地が変われば、その形が変わるのは当然のことだと思うんですよね。

 他の文化圏から自国にないものが輸入される時、形を変えることのほうがむしろ多いと思うんですよね。その社会、社会システムが変革を求める。あるいは新王朝誕生などでその新しい国造りのために必要な機能があり、その要請に沿って形を変えるのは当然。仏教なんかちょうどいい事例ですよね。日本仏教だけでなく、チベット仏教なんて本来の仏教とは似ても似つかないものでしょう。 東南アジアの諸仏教に詳しくないのであれですが、本来の仏教とはやはり形を変えて存在しているはずですし、マレーシアやインドネシアイスラムだって、中東のそれとは違っている。まあ芸術でも文学でも流行りの思想でもなんでもいいのですが、当該国のニーズ・時代背景によって大きく形を変えて定着するというのはむしろどこでも見られることであり、珍しい話ではないでしょう。カリフォルニアロールみたいなもんです。こういった変化・変容を日本独特の現象だとして、ことさらとりあげて日本の特異性を強調する必要性があることだとは思えないですね。

 

天武天皇のクーデターなど】

 どうでもいいですが中大兄って、ビッグブラザーですね(笑)。こんな下らないこと思いついても、誰も書かないでしょうけど、日本の国家誕生の黎明期にビッグブラザーがいるという皮肉。大王にはならずに称制という形で政治をとることにしたのは、白村江という課題に対応するためか。しかしクーデターの挙句、最高指揮官として指揮をとって敗戦したのにもかかわらず、よく失脚しなかったものだ。

 でまあ、死後壬申の乱で政権はひっくり返るわけだけども、大王天武は吉野に少数の手勢しかいなかった。それが伊勢神宮神託を得て、周辺豪族の支持を得て逆転と。天皇家氏神となって特別な存在になるわけだけども、現御神と称したり、周囲に大王は神ですと詠まれたりするが、権力の絶対化ではなくむしろ相対化を意味すると思う。神である以上、仏教儒教的なそれではない=絶対君主には成り得ないという構造があるわけだから。神となぞらえられるのに権力に制限がかかるロジックが存在するのは、せいぜい日本くらいではなかろうか?皮肉なものである。*6

 天武の権力奪取・クーデターは権力の絶対化というよりも、むしろこれまでの中央集権改革の反動化であって、天皇・大王権力の失墜を意味することに近い。少なくともその要素を背景に持っていることを見逃してはならない。当然仏教にも手を出して、中央集権はやるのだが、自ずと限界がある。筆者は神という権力の大きさがなせた業と見ているようだが、むしろ逆だと思う。自己の権力基盤が弱い結果であり、天智と同じように死ねばどうなるか、言うまでもない。唐・新羅関係が安定して、大国との戦争という外交的リスクがなくなったのなら尚更。


 都を中心とした大道、七道制。畿内からの方角で東海道南海道西海道と、ああ、だから北海道っていうんだな。ていうか未だに北海道の道だけ根強く残り過ぎじゃないですかね?というより北の海っていう海を通りますかね?超こじつけに思えますね(笑)。

 

【女帝持統・恵美押勝道鏡
 女帝持統は則天武后の影響を受けたのは間違いないのでしょうが、彼女の場合どういう政策で新しい世の中を作ろうとしたのか?上皇という新しいシステムは女性ならではなのか?それとも母ならではというべきか?白村江の敗戦が未だにあとをひいているという感じ。それが恵美押勝の乱に至って、道鏡に国譲りという形になっている。

 道が整備された結果の天然痘。まさかこういうデメリットが有るとは思いもよらなかったか?またルートが開かれるということは、それによる富めるものと貧しい物が少なかったとしても必ず生まれる。浮浪者・貧困対策としての仏教=鎮護仏教。結局新しい問題に対応できない、国家をコントロールしきれないという事情から、中央集権路線を完全に放棄する。それを実行したのが桓武天皇ということなのかな?恵美押勝は武力によって強力な国家を形成し、朝鮮や中国・大陸の力を手に入れることで、日本にそれを逆流させて解決させようという発想であり、道鏡の場合は仏教という宗教の力によってそれを達成しようという発想。まあ三者三様の対策と結果という感じですね。

 恵美押勝道教も面白いといえば面白いけど、どちらも非現実的なプラン。地方の女官を大量に進出させたというから、その点でもまた新しいオリジナルな権力構築プランがあったのかもしれない。当時は女性の方が文字を覚えやすかったというか、学習意欲が高かったのかな?源氏物語然り。日本の地形、狭くて分断された地形上、文字の受容もまた大きかったのかも。人口密度と文字の影響力的な相関性があるのかな?あと、道鏡天皇といっても、禅譲・跡継ぎオンリーなのだろうか?称徳が上皇で、道鏡天皇という形にはならなかったのか?称徳がいなくなったあとの身の安全の保証的な意味合いはないのか?皇帝と宰相の関係のように、皇帝は実際に政治を執ることはしないが、政治を執る宰相を任命する人事権は持つ。上皇天皇という実質的な宰相を一定の任期内に用いるという政治体制を採用しようとした可能性はなかったのだろうか?

 

桓武天皇による中央集権路線の放棄】
 中央集権・統一的な国家づくりを放棄して、貴族・豪族の力を借りる路線にシフトする、まだ未開拓の地である東の開拓に専念するのが、まあ妥当なのかな?鹿嶋社「神賤」、神社にいる兵士。平民が兵士・兵卒義務をこなせない。権威・権力のある神社だからこそ、安定した条件で兵卒を雇える・確保できるという流れか。そして国家は平民軍団を廃止、郡司の子弟からなる健児を採用すると。明らかに中央集権・既存システムの限界から、それを放棄して、貴族など実力者・有力者の力を借りるという路線転換ですね。既存秩序では容認出来ない地方実力者の権力を承認する代償に、彼らから兵士を供出させる。

 井沢さんは正規の軍隊を廃止して名前を変えるということを言霊に基づくものだと言ってましたけど、地方有力者の既得権を容認してでも、畿内の改革や東国への開拓を優先する。また、負担の重い兵役を廃止して民の負担を軽くして統治の安定を優先するという現実策ですよね、これ。言霊は関係ないですよね。正規の軍隊を廃止して、健児というものに名前を変えた。これは自衛隊と名前を変えれば軍隊ではないという非論理的な態度、言霊によるものだと井沢さん説明していましたけど、そもそも国家の正式な軍隊と非正式(非公式かな?)な独立部隊*7である有力者の私軍は成り立ち・意味合いからして異なるもの。当時本文読んだ時、完全に一から新しい軍隊を作ったように読めましたが、全廃したわけではないんですね。ミスリードに読めてしまいますが…。言霊思想があったことに異議はないですが、この事例を以ってして言霊思想によるものとするのは明らかな誤りだと思いますね。あと、そもそも未開拓地というか、その当時そこに住んでいた蝦夷と呼ばれる諸勢力と戦争をしていますよね。実際定期的に戦争をしている時代に、軍隊を廃止したと論じてしまうのはおかしいですよね*8。公式の軍隊・既存制度から脱却して、有力者の私有・私的な権力を認めて、兵卒を供出させる制度に切り替えたと論じるべきではないでしょうかね。

 そういや死刑の廃止というものもあったけど、国家の公式な法による死刑の実行がなくなったということであって、ちょっと違うんじゃないかな?それこそ死刑廃止が話題になっていますけど、国家機能がちゃんと機能している現代の社会での死刑廃止と、この当時の全国的な国家行政システムそのものを廃止・形骸化していく流れの中でのそれは話が異なる気がしますね。多分、権力委譲した先の地方政治では有力者が領域内で死刑を実行してたんじゃないでしょうかね?どうなんだろ?

 東北での戦争も、平安京の造営も、途中で断念―当時の国力を裏付ける象徴的な話ですね。

平城上皇嵯峨天皇

 平城上皇と嵯峨の衝突。天皇上皇体制という二元権力の初めての衝突、まあ正帝・副帝対立みたいなものか。ローマの正帝・副帝と違って、軍隊基盤のそれではないが。平城京にこだわった平城、守りやすさ?対東北の軍事機能とかか?まあその周囲の豪族の支持などの関係だろうけど。嵯峨は平城を抑えこんだあと、東北のこれ以上の戦果は断念して、天皇位を譲り既存システムの安定化を図る。上皇の政治と後宮の女官の政治介入はセットと見ていいのだろうか?京への貴族の集住、都市貴族が生まれたのはこの頃。首都機能の強化が図られたということか。大極殿から大裏に政治の場所が移り、文書行政も徹底される*9

 そして天皇は政治を主導する立場から、権威として望むようになる。まあ中国流の君主のあり方、いわば皇帝化を取り入れたということですね。律令制の解体と天皇の宣旨で任命により新しい官制が決まっていく。後の官司請負制へと繋がると。平安京が貴族政治の舞台化が進むことと天皇の実務放棄は、治世の安定化という共通項で結ばれるわけですね。貴族という統治階級・階層を作って、彼らと一定の権力を分かちあったほうが、政治は安定するわけですね。そういう路線をこれまでずっと選んできたので、その必然的帰結がこれなんでしょうね。畿内へのルートも開かれて、中央と周辺の構造が確立されて、貴族化と、まあそんな流れなんでしょうね。

 

 あと最後におまけで死穢の話。死穢というケガレがあるために、せっかく国家プロジェクト的な規模で資金と労働力・マンパワーをつぎ込んで作った都にもかかわらず、都を放棄してしまう。死穢というケガレの話がありましたが、遷都というのは政治権力の創設のためにあるもので、死穢は二次的・三次的要素ではないかと思うのですよね。自分を支持する政治基盤となる有力者が多い土地を選んでそこを新都とするのが世の常ですからね。あと当時はまだ国家の黎明期ですから、未開発のところが多い。場所を変えて一から新都を作っても、旧都は開発されて残るんですから、都市開発や国土開発みたいなものなのではないでしょうか?だからそれの成果が出なくなったら、止めただけなのでは?まあ死穢から逃れるために遷都をしても、新都開発で得られるアガリが採算合わなくなったということかもしれませんが。

 そういえば天皇が死ぬことによる死穢があるとして、ある時期・段階で死穢が克服された理由が説明されていないのはなぜなんでしょうかね?死穢を気にしなくなった時代、もう大丈夫だということになった理由付けが公的にないのはどうなんでしょうか?あっちらこっちら遊牧民のゲルみたいに遷都をしてきたのに、その理由付けがないまま、もうそんな時代じゃないでしょ?みたいな現代っ子のノリで済ませられるものでしょうか?

 また平城京平城上皇は遷都しようとしているわけですよね。死穢とはいえ、ある程度の時間が経過しさえすれば、呪力が弱まったからもう大丈夫。OKという発想になるのも自然ですが、それならそれで、そのために強力なお祓いなどを祭祀として特別に実行する必要がある。そういう儀式について特に触れられていないのはなぜなんでしょうか?死穢があるから遷都という論理はかなり弱い気がしますね。あっても二次的・三次的なそれのような気がします。ケガレとその清め・お祓いが重要な思想だったとは思うんですけどね。そのケガレと清め・お祓いも時代によって変わっているはずなのでその変遷を抑えないと、なんか大きな捉え間違いをしそうですね。

 

いつもの様に長いので分割します→続・網野善彦著『日本社会の歴史』

 続編は、逆説の日本史についてはあまり触れていません。足利義満暗殺説が?位の事しか書いてませんね。

*1:まあ、そういうのは、結局実際十七条の憲法の公布以後、文書行政がどう変わったか。実際にどういう法が運用されたかということに尽きるのでしょうが。当然、当初の意図と結果が異なるということもありえるのでしょうが、まずは実際どういうふうに法=政治が実行されたか、地方に適用されたか、実際にどんな政治になっていたのかを見なければ話にならないでしょう。というかそもそも文書行政をやっていたのか怪しいレベルですけどね、当時は。ですから初めから自ずと立法・立憲自体に限界が存在するわけで、まずそこを抑えないと意味が無いですよね。殆ど実力者への委任という時代ですから、そもそもこれは憲法なのか?法治なのか?という当たり前の前提を問い直すことから始めるべきだと思いますけどね

*2:思想的に借り物であって、儒教仏教を本土の人間以上に知り尽くして新論理を提唱できる人間、天才的指導者がいない。また仮にいたとしても、官僚や役人というそれを実行して制度を支える階層がいない

*3:むしろ注目すべきは、日本史上初の法制化を伴う改革において、既得権の退出と新興階級の新権益の承認という改革の基本が行われなかったことだと思うんですけどね。改革というのは、政権交代で話題になった予算の組み替えのように、これまで割り当てられた古いものを切り捨てて、切り捨てたその分を新しいものや他に振り分けることですからね。要するに何を捨てるか、何を切り捨ててその分を割り振るかということ。排除の論理が働くわけですね、それが働いていなかったことに注目すべきでしょうね

*4:当然改革には過激な改革と穏健な改革というタイプがあって、過激なものであればあるほど、当然反発を招くわけですね。一番初めの改革である以上、失敗は絶対にできない。記念すべき第一回には、政治の軌道を安定化させるためにガチガチの安定度を重視して、実行や成果は二の次にしたと見ることも当然出来るでしょうね。まあ、二度目の改革で抜本的な改革は本当に出来ましたか…?(小声)と言われるのもまたお決まりのパターンですけども。

*5:逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 の方だったかな?多分どっちかだと思います

*6:もちろん、神>仏教儒教ということを推し進めようとしたということも考えられるので、それを進めようとしていたというのならば、また話は変わってくると思われる。仮にそうだとしても、当時仏教儒教は先進的なものとみなされていたわけで、その論理化は相当難しいことに思えるが。

*7:補助軍的な位置づけということでいいのかな?多分

*8:あれ?実際戦争をしているけど、戦争なんてない!これは戦争なんかじゃない!というために、言霊思想で兵士ニュアンスを消すための健児というネーミングだとか、そんな論理展開でしたっけか?それならまあセーフになりますかね。正式な軍隊と有力者の私兵、補助軍を正規軍に格上げしたという要素に触れていない点では問題だということには変わりありませんが

*9:文書行政の完成度はその政治の完成度・レベルの高さと直結する。この頃のレベルは一体どのくらいなのだろうか?