てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

浅野祐一 『図解雑学・諸子百家』

 諸子百家 (図解雑学)/ナツメ社

短いですが、浅野さんのものは単独であげておきたかったので書きました。

  ①古代中国の文明観―儒家・墨家・道家の論争 浅野裕一著 

  ②浅野裕一著 『黄老道の成立と展開』

  ③浅野裕一著 『墨子』

と3つ書いてきたのでこれで取り上げるのは4回目になりますね。『古代中国の宇宙論』と、『古代中国の言語哲学』の二冊にあと手を出さなきゃいけないですかな。

 この本はタイトル・表紙を見ると初心者向けの簡単な解説と思わせといてどっぷり詳しい話になるので、初めて手を出そうという人は敬遠するかも。というか昔敬遠した気がします(^ ^;)。それでもイラスト入りなのでおすすめといえばおすすめですね。まあ、昔メモったところとかぶる以外のところで気になったのを、メモしました。莊子のとこなんか面白いと思いました。

 

 従来の説では焚書で易の中に儒の思想を隠すために、易経が生まれ発展していったと考えられていた、へぇ。確かにそう考えると筋が通りますね。んで、新史料で昔から易経は存在していたことが明らかになったと。なんか焚書が過大視されてますね。
 魯の恵公は周の儀礼を学ぶため、周の史官角を招いた・派遣してもらった。その後も彼はこの地にとどまった。墨子も彼の子孫に学んでいる。ということは、孔子も彼から学ぶことは出来たはず。むしろそれをしなかったことがポイントだろう
 墨子集団の思想集団としての純化・組織化は軍律によるもの純化の理由、以前書いてませんでしたけど、ここではきっちり書いてありますね。当たり前のことで省略したのか、うっかり忘れたのかどっちなんでしょうか?防衛技術のプロで、それが売りの思想集団≒戦闘集団なのでそれが原因なんでしょうけど、刺客などのような「士」の観念ですよね。そういう精神が導入された。最初は学者というか、仕官目的の文人がメインだった。請け負いで城の防衛という仕事をするようになって、そちらの仕事の需要が大きくなると、そういう「士」武人が参加して、そういう傾向が生まれたということでしょうね。

 同じような暗殺者は当時いくらでもいたはずで。そういう暗殺の意味合いが始皇帝暗殺が象徴するように、ありえなくなったことが、墨子集団の衰退とも結び付けられるわけで。無論、郭解などがいたように、イキナリそういう命をかける刺客が消えていったわけではないでしょうけどね。そういや始皇帝暗殺が最後で良いのかな?他に有名な暗殺はあったっけ?呉楚七国の乱のきっかけの太子殺害は暗殺とはいえないだろうし…。実利を求めないために非中国人説が唱えられる程。当時の我、「士」たらん!とする人間が多かったことを考えると、別に墨子集団の献身に違和感はないですけどね。

 道、抽象的非人格神。絶対神のようにあれこれ指図しない。道が天地を産んだ考えに対して、太一生水は太一→水→二つが天→三つが地というプロセスになっている。天地が場所を変えると高き山があり、低い大地があると差があるように、天地=道にも差異があるという考え。これは実態としての道・水から万物の成り立ちを逆算したが故だろう。中原なら道・Wayやルートの絶対性は通じるが、それ以外ではピンとこなかった故かな。こちらのほうが言われるとすんなり納得できるが、老子に吸収されたと*1。『恆先』という書があり、これは万物の起源は「
恆」だとする。何故このような起源を問う思想が出てきたのか?と書いてあるが、古代ギリシャと同じ理由だろう。原子の結びつきのような発想に至らなかったのが東西思想の差異として注目すべきところかな?

 荘子、始めにある・ないという考えが問われ、そうするとある(ない)がある・ないが問題となる。そしてつぎにはそのまたある・ないが…となって無限に続く。人知で解き明かすことは不可能。人知の価値認識には限界がある。にもかかわらず言論でそれを説明しようとすることは不可能・無意味。ありもしない真理を説く弁論・思想家は偽り。全ては相対的な判断にすぎない。その中で唯一存在する絶対的なもの、道がある。道に間違いはないとすると、この世にあるもの・起こっているもの全ては正しい。道の決定は全て正しく、人が行える自由意志など存在しない。一神教の神的発想ですね。その制限・運命を引き受けてこそ、初めて人はその鎖・縛りから自由になれるとする。ハイデガーぽいですな。

 孫子は、日本では臆病とみなされていた。孫子はあくまでの当時の国際関係や社会背景によって組み立てられたもので、万能ではない。環境・前提が変われば当然通じなくなる。
『曹沫の陳』という春秋の兵法書では、正面戦闘が基本となっていて孫子の発想はなかった。陳と陣が紛らわしいのはしょうがないですが、P232現代語のところで「陳」の字になってしまってますね。勝ち方が問われる時代とそうでない時代の変化がポイントと。

 孫子は人間が臆病という前提で組み立てている。呉子は人を大事にすることによって、勇敢な戦士を作ることを前提にしている。孫子の戦略の前提を知って、それを覆すことで、相手の戦略・戦術の前提を破壊しに来たのか?前提が通じなければ自ずと相手はそれに見合った戦略・戦術が立てられなくなり、不利になるし。まあ「士」や儒教に見られる「王道」の当然の延長上の発想なのだろうけど。

 BC512晋が鼎に刑法を書く。法の公開。
礼は庶人に下らず刑は大夫に上らず。この前提を覆すのが「礼法秩序」であり、荀子が考えていたものだと思う。まだ確信していないから予想だけど。「礼法秩序」の前に皆が全て平等に扱われる。身分によって違う論理が適用されない。勿論、前提は身分秩序だから身分秩序の論理はあるけれども、賞罰の原則は平等に適応され、どんな卑しい人でも賞されて出世し、その逆もまた然り。結果韓非子の法家思想に行き着く。韓非子の場合、優秀な自分・君子が失敗して末端の貧民・賤民に落ちるということを想定していないが故とも考えられるのではないかな。

 ※追記、礼法秩序で思いついたけど、そういう二元的な世界、貴族・士大夫的な世界と庶民の世界、上層と下層ではっきりルールが別れていたという前提があった。で、春秋→戦国と時代が経つにつれて、政治も軍事も身分の上の人間だけのものでなくなっていく。大衆が力をつけてどんどん参画していくわけだ。身分の違うものが一緒になって協力する場面が出てきたり、ときに対立したりする。そういうときにどういうやり方でやるのが既存秩序を乱さずにうまく協力できるか、どうやって紛争を調停するのが一番いいのかということになってくる。その国内で身分の違う者同士が上手くやっていくための統一的なルールが必要になってくる。これまでの二元制では上手くいかなくなった結果、最終的には法という形でルールが統一されることになる。始皇帝を見ても明らかなわけだが、その前段階として、一番最初に登場してきたのが、孔子儒家の「礼」だったと考えられるわけだね。貴族、身分の高い者に法を守れ!刑に処されろ!とするよりも、礼を一般大衆というか、身分上昇を願う下級貴族や上昇してくる上級庶民に守らせるほうが早い。彼らは出世・成り上がりたいのだから、ニーズがあるしね。結局、孔子の礼というものは述べて作らずで、先例・前例をただ踏襲したものと言いながら新しい秩序を作ってるという典型的な例。ひょっとしたら中国で確認できる最古のケースかも知れない。本当に周時代の、理想時代のそれを復活させたら、当然その身分上昇・階級上昇というニーズを満たせないわけだから、昔のそれをただ調べて教えたわけがない。法源というもの、礼の本義というものを研究して、それ故に現代ではこれがふさわしいという新しい礼を作って提供した。だから階級が動揺する社会にあって、それが新しい社会を作って安定化させる上で貢献があった、国を統治する支配者層に需要があったということだろう。礼を身につければ、士官出来る、雇用条件を満たすということなら、そりゃあ広く一般にウケただろうね。

*1:後の道教が、水を重視して老子の思想を第一にしながら道を説くことを考えると象徴的な話ですよね、始原に帰れというのは人の・宗教の本能ですよね