てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ドラゴンボールの話、「少年性」「楽しむこと」「受け身」

 銀河孤児亭さんのドラゴンボールの論評が読んでいて非常に面白かったので、それを読んで思いついたドラゴンボールの感想を書きたいと思います。

 話のきっかけは鳥嶋編集長でのインタビュー、ドラゴンボールフリーザ編で終わらせておくべきだったというやつからですね。これについては過去にコメントしていましたね(昔こんなのを書いていました→鳥嶋編集長のインタビュー)。

 ブウ編は物語の負債の精算。ピーターパンとして大人になりきれない悟空やベジータが、その問題に直面し解決しようとする物語と解すると、ドラゴンボール全体の話の回収としてはきっちりしていると。物語の整合性の取れてなさ、作品としての失敗感、悟空やベジータが迷走・あたふた・グダグダこそ実はポイントになっていると。

 そこで「大人」として問題を解決するのがサタン。影の主人公という感じすらあるサタンですが、悟空はあくまで少年性が命になる主人公。その悟空が大人の論理で物事を解決すると物語が破綻してしまう。故にサタンという「大人」(個人的には政治家というとしっくりしますね)が必要だったということになるのでしょうね。

 本来、「大人」になるなら、大人の論理・話し合いの力や法の力、政治力などで物事を解決しなくちゃいけない。しかし悟空にそれをさせることは出来ない。悟空にはヤンキーや侠者としての性質があって、あらゆる現実の価値観から隔離された隠者・超越者でないといけない。日本のマンガ・アニメや特撮ではヒーローはあまり表に出て私こそがヒーローですというのをやらない。なくはないですけど、実は世界を救っていると言うかたちを取って正体を知らないという型が多い。ドラゴンボールも決して世に出てわれこそが世界を救っていますよということをしないタイプ。そうすると現実の価値観にとらわれる、巻き込まれてしまって話が制約・制限されてしまうからですね。煩わしい現実の論理から解放されるにはそういう影の主役・ヒーロー的な方がストーリー・物語上都合がいいですからね

 そういうことを考えると、足りない政治力を持った「大人」政治家、現実の論理を引き受けるヒーローというキャラは不可欠。サタンというキャラがブウ編で出てきたのは必然だったんでしょうね。

悟空は何のために戦うのか。悪の敵を倒すためではない。仲間や市民を守るためでもない。悟空は戦うことを通してより良い人生を送るために、人生をより良いものとするためにこそ戦うのだ。「不当な力で自分もしくは正しい人々をおびやかそうとする敵」に「ズゴーンと一発かます」のは、あくまでそのついでに過ぎない。
 ベジータが言う「だから、相手の命を断つことにこだわりはしない」とはそういうことだ。
 それこそが亀仙人のくれた教えであり、ドラゴンボールという漫画における数少ない「正しさ」だ。
 だからこそ悟空はピッコロ編のラストバトルにて、一度は友の仇や世界の命運を背負って殺し合いを演じたピッコロ大魔王との再戦を、あくまで「天下一武闘会の決勝戦」という楽しみ事、お祭り事として最後までやり切ろうと頑なになった。悪の大魔王との決着が「場外負け」という大会ルールによって決するオチの美しさと心地よさは、悟空が最後までドラゴンボールの「正しさ」に殉じたからこそ生まれたものだ。
 楽しく生きてる奴が一番強い。楽しく闘ってる奴が一番偉い。それこそがドラゴンボールの「正しさ」だ。

(引用ここまで)


 悟空は守るために戦うのではなく、楽しむという正しさのために戦う。「楽しさ」こそが何よりも大事。それはワンピースがルフィが「この海で一番自由なやつが海賊王だ」と言っていることに通じるものがありますね。ルフィは「自由」と言っていますけど、その自由はやはり≒楽しむことですからね。

 なぜ楽しむことが大事なのか?大切なのか?バトルモノと言われる漫画ですが、出てくる敵を次から次へと倒していくだけではストーリー性が成り立たない。話として成立しない。用心棒が頼まれて悪い奴を駆逐するのでは、金のため・生活のために力を振るうのと変わらない。

 バトル漫画では「強いものが楽しさを求めなくてはならない」(もちろん、「楽しさ」の代わりになる何かでも可)。強くなりたいものが強くなりたい!だけで終われば、大山倍達の言葉ではないが「正義なき力は暴力」なりとなって、強者の振るう力にメッセージ性・正当性がなくなる。

 それは当たり前のこととして置いといて、「戦いを楽しむ」の他に、敵を殺さないという一貫した悟空の態度が大事だということについて。なぜ悟空は相手を殺さないのか?子供の頃はフリーザを殺さずにエネルギーを与えて助けようとしたことについて「何やってんだ、こいつ…。バカじゃねぇの…」とドン引きしました。周りのジャンプ読者も、それくらい拒否反応を抱いたかどうかは知りませんが、似たような感想でした。口を揃えて「なんで殺さないんだよ」という反応でしたね。

 フリーザ編が一番面白いと思うのは、それまで思想性も何もない悟空が初めて戦う意味を持ったから。まあ本当の初めてはピッコロ編で、「師匠と友を殺された仇討ち&世界を滅ぼそうとする悪を討つ」という明確なテーマがあるので、そちらが初めてとも言えるのですけどね。フリーザ編は悟空が自分の隠されたルーツを知り、そのルーツを辿る物語なので非常に惹きつけられた思い出があります。

 自分が何者かも知らなかった悟空が、自分の生まれ・ルーツを知って、故郷を滅ぼした民族の仇を討つに至るまでのストーリーが非常にツボでした。今思うと、ピッコロにしろ、フリーザにしろドラゴンボールを使って世界的な悪事を働こうとする、その目的のためのボール集め=駆け引きが非常にストーリーを盛り上げていましたね。敵がボールの力に頼らなくなったというか、「願い」を持たなくなった。そういうところが、ドラゴンボールという物語の停滞性というか魅力が失われたところなのでしょう。

 セルがピッコロやフリーザのように野望を叶えるためにドラゴンボールを利用して完全体になるという展開でなかった以上、ドラゴンボールとしてのストーリーの魅力が損なわれたのは必然で、破綻したのはやはりセル編ということが言えるのでしょうか。

 でそんなことはさておいて、話を戻して、フリーザを殺さなかった悟空の行動をまるで理解できなかったのですが、彼は「戦いを絶対殺し合いにしない」んですね。何故か?戦って相手を殺す=排除と考えるとわかりやすい。排除せずに、必ず相手を受け入れようとするんですね、悟空は。強さ=相手の悪事をコントロールをする、制限してやらせないようにするという発想があっても、絶対殺すまではしない。

 悪い奴なんか殺しちゃえよ、自分の周囲にいない何処かへ隔離しちゃえよと小学生は思うもの。しかしそれをすればキリがない。『史上最強の弟子ケンイチ 』でハーミット・谷本とほのかのこんなようなやりとりがありました。
 「気に入らない相手をやっつけてどうするの?」
 「次にまた気に入らないやつをやっつける」
 「それをやっつけたら?」
 「その次にまた気に入らないやつをやっつけるんだよ」
 「でも、そんなことしていたらいつか世界中気に入らないやつばかりになって、延々やっつけることになるよ」

 正確に覚えていませんがだいたいこんな内容でした。「気に入らない」「悪」だという理由で相手を殺していたらキリがないわけですね。際限なく悪を殺すことになってしまう。大悪・巨悪相手の数回の戦いならそれでいいが、際限なく戦っていけば戦う事自体が目的化していずれより小さな悪にまで至る。どんな悪も許さないと必ずエスカレートする。正義だったはずの自分がいつかその巨悪そのものになってしまう。そういうことを許さないわけですね。ドラゴンボールの価値観では。

 ではどうするか?「寛容」の姿勢が重要になる。悪い奴が悪事を働こうとしたら、何度でも懲らしめる。しかし殺しはしない。そういうやり取りを何度も続けるうちにお互いが相互理解して、尊敬しあっていつの間にか「調和」が取れる。相手と自分の共生が可能になっていく。そういう論理があるわけですね。まさに塩田剛三の「合気道とは自分を殺しに来た相手と友達になることです」でしょう。

 『からくりサーカス』もそうでしたが、ラスボスをぶっ殺して、ハッピーエンドという形にはしない。必ず誰もが救われる形にしたい。もしくは悪い事をしたやつに「自分が間違っていた」「悪い事をした」と認めさせて改心させたい。そしてその改心を受け入れて世界を上手く円滑に回したい。それこそが本当の「勝利」だと思いますね。悪い奴をただ力でぶっ殺して勝ちました➖では面白くもなんともない。ただ相手を殺すでは武道にならない。相手を傷つけずに勝つから武道は素晴らしい。そしてさらに先に勝つという論理すらもちこまず、戦いすら発生させない。事前にその戦いすら押さえ込んでしまうこそ大事なわけです。孫子でも言ってますけどね。

 まあ、そんなことを常々感じている中で、ドラゴンボールにそういうメッセージが実は見えるのだと言われると、「ホォ成程」と非常に関心しましたので、そんな話をしました。

■実は主体性を持って行動しない孫悟空
 んで、それだけだとただの感想になってしまうので、プラスしてドラゴンボールという物語でポイントになっている要素に気づいたので、そんな話をば。ドラゴンボールには主体性がないという話。

 初めはギャグ漫画、ペンギン村のようなフェアリーストーリーの世界観だったドラゴンボールですが、そこでポイントになるのは実は悟空は自分からは何もしないということ。

 作品の始まりは、ブルマという少女がドラゴンボールを探して悟空に会い、彼を冒険に誘うというところから。悟空は特に深い考えもなく、非常に軽いノリでついていく。

 そこでたまたまであったじいちゃんの師匠の亀仙人に修行をつけてもらう。そして腕試しとして天下一武道会に参加する。その後レッドリボンとか、ウパの父を蘇らせるためだとか、二回目の天下一武道会だとか、全て自然な流れで決まったことというか、向こうから行動の理由がやってくるんですね。

 強くなりたいとか戦いを楽しみたいという理由で天下一武道会に積極的に参加した!とも考えられなくもないですが、その修行が丹念に描かれるわけでもなく、すごく自然な流れになっている。受動性が非常に強いんですね。

 悟空が自分から、あれこれ考えて計画したり、計算したりして行動するという描写はあまりない。やってくる、ふりかかってくる出来事に対してその都度対応するというのが基本。亀仙人鶴仙人という二流派がでてきたときに、もっと強くなるために、二人の師匠である武泰斗の拳法を探ろうとするなどという展開でも良いわけです。その過程でピッコロ大魔王というのが過去にいて、その封印が時間が来て自然に解けてしまうなどでもいい。しかしいきなり唐突に大魔王復活という形ででてくるんですね。

 これはサイヤ人編も同じ。唐突に兄がやってくる。悟空が自身の強さの理由が気になって、その秘密をブルマの所で研究する、その結果どうも地球人ではないとわかる。そしてでは何人なのか?とルーツを探るために宇宙へ探索に出かける。そのために必要な速い宇宙船を作るために探索して、パーツを宇宙から集めて作った宇宙船でどこかでサイヤ人と出会って〜という展開にはならない。必ず話は唐突に悟空に降り掛かってくるというパターンを取ります。

 悟空というキャラはあれこれ考えてはならない。これはワンピースのルフィにも共通するのですけど(コミックスで尾田氏本人が語っていましたね)、「楽しさ」をどこまでも飽きることなく追求する「少年性」のためには不可欠なのでしょう。悟空は自分から夢・野望を持って冒険に乗り出しませんが、ルフィは自らの意志で海賊王になろうとするというのが両者のキャラクターとしての明確な違いなんでしょうね。

 その受動的な構造がなんか能に似ているなと思いました。どこからともなく現れた幽霊が、自分がどうして幽霊となったのかという経緯を語り出し、そしてなんとなく帰っていくというきっちりきっちりした起承転結を取らないというパターンは能と共通するのではないか?とふと思いましたね。

 ゆるふわ日常モノというものが昨今のはやりですが、実はこういうパターンというのはドラゴンボールに既に原型というか兆しが見られて、それが好まれるのは能の構造に似ているから➖とか言えるのだとしたら面白いなとふと思いました。能の専門家にそういう話をしてほしいな〜とか思ったり思わなかったり。

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DRAGON BALL超画集 (愛蔵版コミックス)