てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

藤田勝久著 『中国古代国家と社会システム』のメモ

 

中国古代国家と社会システム―長江流域出土資料の研究 (汲古叢書 85)


 藤田勝久著『中国古代国家と社会システム』のメモ。居延漢簡の研究で永田英正氏が「敢言之」のような、文書のフォーマットの存在を指摘しているとのこと。やっぱ永田氏の研究がここらへんに与えている影響は大きそうですね。まあ読んでも分からなさそうなので読みませんが(^ ^;)。

 中央から各県に伝達された命令は、木や竹簡で副書・保存される。この保存されたもの、過去の事例を頼りに新人・下級官吏は勉強したんでしょうね。こういう行政文書を墓に入れるのはあの世に行って、自分が役人だったとPRするためだと。現世=来世という中国人の価値観が反映されてるわけですな。

 ある書物の成立とその伝播という問題*1があるわけですが、伝播を担ったのは、諸子や外交の使者以外にも封君の客=遊子や賓客がいた。封君・貴族レベルより少し身分が低い人でも『日書』などの占いの本を持っていた。戦国中期以降、楚で書物を広めたのは客が中心となったかもしれないとある。

 今から考えられないことですが、当時の書物というのはそれこそちょっとした電化製品・冷蔵庫くらいのデカさと重さがあるわけですよね。紙ではなく大量の木簡を持ち運びするわけで、移動だけでも大変。更にそれを読み書きできる人材は貴重なわけで、大事な客として扱われるわけですね。当然書いてある文書だけでは無意味で、注釈・解釈が必要になるので重宝されると*2

 文中に呂不韋の『呂氏春秋』があったので思いつきましたが、客を集めて編纂させた次には伝播の段階がある。この『呂氏春秋』を各地に伝え広める客も当然想定されるわけで、各国のトップ要人・封君にも客が行き来したんでしょうな。世を時めく権勢者ならば尚更*3

 楚墓に祖先の系譜や紀年・祭祀関係が入っているというのは理解できるが、卜筮も一緒に入っているというのは現代的価値観からすると理解しがたい。おそらく占い=あの世・異世界からの指示という価値観なのだろう。古代・中世において夢が重視されるのは珍しくないし、意外と占いもある段階までかなり重視されていた気がする。

 太史、太祝、太卜とセットで考えられている。史官が星暦・天文だけでなく、祭祀・占いまで担当する。漢初では同じ「史」の括りだった。これ前者と後者が別れていく契機は何だったっけ?んで王莽辺りでまた一括化していったような気がしたが、どうだったかな?まあいつか調べよう(調べるとはいってない)

 『法律答問』に鬼神の話が出てきている。鬼神に豆爼を祀ったら処罰するとある。奇祠の処罰も書いてあって、王室の規定する祭祀以外に鬼神の位を設けることが奇祠だと。大衆は鬼を祭りたがると。そういうことを考えると前漢末、後漢末に鬼神を祀る集団が発生するのも当然の流れになるわけですな。

 張家山漢簡によると、蕭何は相当優秀だったとわかる。中央の太史がテストをしてトップを県の令史とする。また三年に一度のテストでトップを尚書の卒史とする。その間の郡の卒史であったというのはかなり優秀。しかも御史から中央に召されて固辞とあるから尚更。周昌、周苛も元卒史なのがポイントかな。

 藤田さんは秦の郡県制の原理の不備ではなく、運用において偽造・不正を上手く防止できないところに問題があったのではないかと考えているみたいですね。まあ史料があるわけでもないのでどうとも言えないところですが、漢みたいに初めから県と国の二元制・二重規範じゃないところに問題がありそうな気がしますね。

 中央から地方への伝達においては①壁書、②扁書、③使者派遣による口頭伝達、というものがあると考えられると。そういや地方の官府の壁になんかあったら文書を書くっていうのは中国伝統のスタイルって話を聞いたっけか。②は広場などに文書を提示すること。それぞれ伝達の違いが意味するものを考えるのは面白いところかも。

 大庭氏いわく、古墓から発見された通行証のようなものは、冥土への旅券。前漢中期頃から埋葬品に日用品が増えるとのこと。統一帝国になって「あの世」感が変化したということでしょうかね。

 旅行の際、決められた郵などに向かう=ルートが大体決まっているわけですが、ルートの変更によって経済の繁栄・衰退とかありそうな気がするのですが、実際の所どうなっているんでしょうか?国を郡にしたり、その逆にしたりというのは、その公的なルートを変更させるという意味合いも含まれたりがするのかな?やはり。

 サラリーマンの出張じゃないけれど、定められた任期までに文書を届ければ良いというのなら、ルートの過程においていろんな遊びが出来ますよね。まあ統一されたらそんなにはないだろうけど、戦国時代はそうやって客が色んなところに出入りして、情報収集とか交遊深めたりとかしてたんでしょうね。

 呂后のパパの呂公や項梁が仇を避けて移るとあるが、この時代はやっぱり罪・仇を避ける事例が多いのかな?郭解の事例があるし、彼が死ぬまで民間の空気は相当フリーダム&無秩序だったのかな、やはり。項羽の生地って泗水郡なのか、そこら辺がきっかけで劉邦・沛県集団と結びついたのかな?

 項梁は、獄吏の曹咎や司馬欣と結びつくわけですけども、ある一定の身分の人間には免罪・赦免する権限があったのかな?曹咎や司馬欣が全くの私的な利益・コネのために彼の罪を取り消したというより、その後の会稽での顔役みたいな活動を見ると、調停役として取り立てる的な要素もあった気がしますな

 徳政碑・墓碑・祠廟碑など、県社会・地域社会の結びつきを示すためのそれが後漢に増えてくる。いわゆる豪族化と石碑はセット。まあ有名な話なわけですが、仏教の石窟寺院のようなそれの先駆けという発想はなかったですね。なるほど、言われてみればたしかにそうだ。

 司馬遷は中央の文書・書籍を素材として史記を書いた。地方の行政・裁判などの史料は利用していない。そこら辺から史記史料批判が出来ると良いんでしょうけど、文書が少なそうですね。筆者が言うように、木簡が紙に変わればスリム化が進んで文書行政も大きく変容する。面白そうなポイントですね。

 注にあった岡村秀典『中国古代王権と祭祀』が気になった。こういう祭祀関係は必ず抑えたい。が、昔チラ見してポイ~した可能性も…。このジャンルは当たりハズレが大きいからなぁ。己の好き嫌いが激しいだけなのだがw

*1:書物が実際に成立した時期と、その書物が周知されるまでには間がある。書物・思想が成立して長く時間がかかるケースもこの時代だとザラにあるわけですね。短い時間で伝わるほうが少ないでしょうね。呂氏春秋のように大々的に発表でもしないと短期間で広まることは難しいでしょうからね。まあでもいくつか急激に広めるパターン事態はあったでしょうね。斉で学者として名を上げるとか、何処かの国で大臣・将軍として召し抱えられて結果を残すとか、まあ幾つかあることはあるかと思います。

*2:こういう書物・大量の木簡を持ち歩く姿はちょっとした移動図書館ですよね。当然それを運ぶ下人のようなものがいて、弟子や共同研究者としての兄弟分のような学徒がいたり、スポンサーとしての出資者が同行したり、それはレアケースでも情報や商売目的で旅費を出して、そのついでに物資を取引する商人が付き添っていたり、それを護衛する武人=士としての侠がいたり、墨子の教団のように技術者を伴っていたり、その土地の同郷の人間が同行していたり、ちょっとした旅団・サーカスみたいな小集団だったわけですよね。そういう移動する集団の画を想像すると、なかなか面白いですよね。創作物で格好のネタになりそうな話なんですが、聞いたことないですね。まあそんなに小説読まないんですが

*3:そうか、雑家と呼ばれる『呂氏春秋』の思想というのは、世をときめく大国秦のトップ呂不韋がどういうことを考えているか=今後の秦の政治・外交方針を読み解こうという動機以外にも呂不韋のもとに集まっている諸学者達による思想のアップデートをチェックしたいという思惑もあるのか。あらゆる思想を取り入れて、そこに記す。そして一字千金という方針を打ち出したのは、それこそ間違いなんてありえない=最優秀学者を集めて、最新学説の検討をしてあるという自負そのものだろう。万一、最新学説・新進気鋭の某学者の主張が反映されていないという突っ込みの1つでもあればその学者に即誘いをかけていたんでしょうね