世界的トランペッター・日野皓正が中学生に「体罰」した事件について
穴埋めに世界的にトランペットで有名な日野氏が中学生に体罰を振るった話を取り上げたいと思います。特に取り上げるほどのことでもない、当たり前のことですが。この事件について、中学生が悪いというコメントも有り、それへの賛同も少なからずあったので、体罰に問題があるのかないのか、また議論になったので、それについてコメントをしておきたいと思いました。
殆どの人が体罰を許容しないのが昨今の潮流です。個人としてもその意見ですが、未だに体罰容認派がいる。それを肯定する人が多いことも変わりません。
教育・体罰には検証が必要
以前書きましたが、体罰というか教育というのは、5~10年、下手したらもっと長い時間がかかってその成果がわかるもの。成果の検証がなくては教育の意味がない。体罰を許容する、手段として暴力を許容するというのなら、殴る側はきちんと殴られる覚悟をしなくてはならない。やっぱり納得できなかったと10年後に殴られる覚悟を最低限持つべきです。そういう覚悟というか当間への常識・暴力を奮ったやましさを感じる心がないのならば、そんな人間が教育現場に暴力を持ち込むべきではない。
制度化なき暴力は体罰ではなく暴行行為
というか制度化されていない暴力は体罰ではなく私情にかられた「暴行」でしょう。どこの国か忘れましたが、体罰はもちろんあるけど、体罰の場合は①本人に前もって通知をする。②問題のない箇所臀部などにする。③親への通知。④同僚の立ち会い…とか詳しいことは忘れましたが、とにかく厳密にルールが決まっている。踏むべきステップを取った上で行うようになっている。
公共の場で皆に迷惑をかける行為だからこそ、罰則が与えられるという明確なルール化がなされていなければならない。そうでないのは、現場のトップに好きに暴力を用いて良いという裁量権を与えてしまう狂ったシステムと言えるでしょう。むしろよくもまあ、こんな狂った制度を放置してきたなとさえ思えます。
制裁をきちんと制度化すべき
「暴力・体罰は良くない」ーではなく、ルール化されていない個人の私情と区別の付かない「制裁」「罰則」が良くないのです。こういう当たり前のことがわからない以上、明確な制度化がなされていない以上、今後も同じ事件が起こった時に堂々巡りの議論が起こることになるでしょう。
これまでの流れを考えると、戦後すぐに軍隊帰りで体罰が常識の時代があった。校内暴力が当たり前で、それを統制するために教師の暴力が有効な手段だったという時代があった。しかし、そういうものがなくなったにも関わらず、未だに硬直的に教師が生徒を威圧する、ひどくなると手をあげる教師がいる。そういう教師が問題になる事例がありました。
今だと、いじめや生徒に違う意味で手を出す性犯罪的な問題が主流でしょうか。それはさておき、今問題になるとしたら、部活動などの指導での暴力でしょう。甲子園など短期的に結果を出すには、是非はともかく暴力を伴った指導が有効であるという記事もありましたし、成長するためにはつらい経験や苦しくないと成長しないという歪んだ思い込みが社会に根強くあるので、これを肯定する声がなかなか消えてなくならないのが現状でしょう。
最低限、体罰は制限・監視をつけるべき
このようなことを是とする歪んだ制度、部活動などは消えてなくなってほしいのですが、それはそれとして、では体罰的な指導は許されるべきではないのかという話をしたいと思います。個人的に制限付き・条件付きで認められていいと思います。
当然、前述通り、暴力を伴う教育は反対ですが、受ける側と教える側が一致している・納得しているのならば、許容していいと思います。かつて長嶋茂雄氏は「説教止めてくれ、早く殴って終わりにしてくれ」ということを言っていました。説教は苦痛であり、長時間嫌な思いをするのなら、一瞬痛いくらいで解放される体罰の方がいいという人間、アスリートには結構いる。ミスをしたりで厳しい罰則が与えられるのならば、殴られたほうがありがたいという人間も居る(その時点で教育としては本末転倒ですが)。優しさとしての体罰があるということですね。
何を言っているか、何を求められているのかわからない理解力の乏しい人間にとっては体罰のほうがありがたい。成功=褒められる、失敗=殴られるという単純明快な指導の方がいいという人間も居る。であるならば、そういう指導もありといえばありなんでしょう。それで本当に優れた選手が育つか、優秀な指導者になれるのかということはさておいて。
当人たちが納得しているのならば、監視つき・チェックがきちんと機能しているという前提で、許容してもいいかと思います。人が人を殴るという行為は不愉快な行為であり、公共に反するものです。しかしポルノのようにきちんとルールが守られるならば、個人の娯楽を制限する理由はない。体罰集団が、公共社会・体罰否定派に迷惑をかけないのならばルールを守った上で許容するべきなのでしょう(そもそも、そういう風にルールを守れるのならば体罰は問題にならないだろうとツッコミが入りそうですけどね。たしかにそうですけど、それでもルールを守れるのならば、それを認めてもいいという意味で。)。
喫煙にせよ、ポルノにせよ、個人の自由に及ぶ範疇に制限を持ち込む流れはいずれ社会から自由が消えてなくなると警戒する・反対する立場なのでね。まあ、個人の娯楽の範疇でないだろうとも言われるかもしれませんが、それでもルールを守れるのであれば、出来る限り個人の自由意志を尊重したいというのが一貫して変わらないスタンスなので。
当人が納得していても今回の事件はアウト
では、今回の事件も父親が日野氏を尊敬している・納得しているというコメントを出したので、問題ない行為だといえるか?本当は納得していなくても、社会的騒動に発展したがために、そうコメントせざるを得なくなった。これ以上問題になると、日野氏の社会的生命を傷つけてしまう。最悪奪ってしまうから、やむなく矛を収めたという可能性は高いですからね。前述通り、5年~10年経って、社会的影響もなくなった時に改めてコメントをもらわないとわからないでしょうが、それでも今回の事件には問題が多いと考えます。
ポイント、公的な空間での暴力
まず、今回の事件の舞台は公的な発表会ということ。体罰を納得している身内、狭い範囲内での出来事ならともかく一般に開放されている空間であったこと。そこで体罰を行うということは、こういう非難が巻き起こることを見てもわかるように適切な行為でないということ。体罰がありうると納得している生徒とその身内だけの発表会でなかったこと。これがまず一つ。
暴力は場を収める最低なやり方
次に、ジャズという即興演奏では、自由演奏が前提としてあるということ。もともと暴走するような気質の子を、ソロを任せてしまうということが問題。何かの記事で、こういうとき自身が演奏して、その暴走をコントロールするというやり方だってあっただろう。世界的演奏者ならばそういう粋な演出だって可能だったのでは?という指摘を見ました。
それが可能かどうかはさておいて、そういう誰も傷つけない上手い収め方だってあったでしょう。藤原道長だったかな?子供が発表会で急に舞を嫌がって、衣装脱ぎ捨てて舞台で暴れだした時に、腰紐で子供をくくって一緒に踊って上手くコントロールして、崩壊しかけた舞台を見事に収めたとか、そういう話が古典でありましたが、何にせようまいやり方・まずいやり方というものがある。考えられる限り、最低最悪のやり方ですよね。力づくで、相手を押さえ込んで止めるというのは。
体罰が争点になりましたが、怒鳴って殴ってこのあとの舞台はどうなったのでしょうか?想像するにあまりありますよね?周囲の客も、他の演者も「え…、どうすんのこの空気…」と嫌~な流れ、空気になったでしょう。本当の焦点はこの空間が上手く収まったかどうか。大事な発表会は、この暴走した子供以上に、指導者の暴力で台無しになったでしょう。そういう意味でもありえない行為でしょう。この指導者の行為は。
上手く収めるべき、ルール違反は退場させるべきところでの暴力
ジャズというのが即興の演奏ならば、非常時の対処というのも出来ておかしくないのですが、生き方レベルで即興の発想・行動というのはあまりテーマにならないのですかね?武道とかだと違う方の日野さんが有名で、同じくジャズ・ドラムで即興を好む方ですから、さぞうまい収め方をしてくれたと思うのですが…。
普通は、特定の生徒が予定外の行動で問題を起こした。となったら、怒鳴ったりするよりもうまーく、この生徒を連れ出して、「はーい、うそうそ、何もなーい。せんせいと一緒にたいじょー。じゃあみんな続けて~」と笑いに変える。変えられなくても、とにかく彼一人を連れ出して、それで済ませますよね?
暴力がいけないというのならば、じゃあ問題を起こした彼を放置して良いのか?―というトンチンカンな意見を見ましたが、そこで殴るのではなく、普通は退場させるでしょう。野球だってサッカーだってバスケだって、ルール違反をしたらルールに則って「退場処分」が取られるだけです。審判がルール違反に怒って、選手を殴るなんてありえないでしょうに。馬鹿なんじゃないですかね。
指導者・教育者というのはある意味、審判のような公正な判断をする立場という性質があります。選手同士の乱闘を仲裁するのが審判なのに、その審判がルール違反の選手に殴り掛かる。一緒に乱闘を始めるってどう考えてもおかしいでしょうにねぇ。
最大の問題は怒りに任せたこと=教育の視点が飛んだこと
退場処分にすれば良いものを、その場で止めさせて指示に従わせることに頭が行き過ぎて失敗したというのが二つ目ですね。そして何より、一番問題だと思うのは、こういう行為を取ったということは、キレたということです。感情に身を任せた最低最悪の行動だから今回の事件というのは問題であると思うのです。
ルールに則るならば指導に暴力が持ち込まれるのも時にはあるだろうと書きましたが、どう考えてもそこに合理性がない。カーッとなって、怒り・私情に任せたからこその行動でしょう、どう見てもこれは。そこに彼を慮ってとか、彼を思いやってという愛情の欠片もないでしょう。みんなのために演奏を上手く成立させるために、周りの子たちの発表会を守るためにと考えたら、こんな発表会を台無しにする事はしない。
本当の被害者はその場に一緒にいた人々
暴走をして生意気なガキだ!周りの子に迷惑だろう!殴られるのは当然だ!*1というこれまたアンポンタンなコメントがありましたが、そこで殴ってしまえば、そのバカな暴走初号機バカ以上に、輪をかけて大事な発表会が台無しになるでしょう。そんなこともわからないのでしょうか?絶対にそこで殴っては駄目でしょう。指導で殴るならば、そこで殴る必要性はどこにもない。舞台から引っ込んだ袖で行うべきことでしょうに。被害者の子が周囲の子に対する発表を台無しにした加害者でもあるわけですが、この指導者は彼と一緒に発表会を台無しにする加害行為に手を貸したのです。この事件後、関係のない一緒に演奏していた子たちも騒動に巻き込まれたでしょう。それを思うと、本当の被害者は誰なのか一目瞭然でしょう。
体罰を認められないのは、否定する立場になるのは、殆ど間違いなく、こういうバカな行動をするタイプの人間が手をあげる。暴力行為に出るからです。普段から武術や武道を嗜んで研鑽を積んでいる人間は、いかに叩く・打つ・投げる…などを考えるのではなく、いかにして相手を傷つけずに収めるかということを考える。適切な場所、手段ということなど一切考えずに短絡的に行動する手合だからですね。
こういうことを考えてみると、いかに技術があれど、指導者に向かないタイプである。または人間的に研鑽が足りないのではと感じてしまいますね。
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