てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

公文書の管理・公開問題などについて大事だと思うこと云々

もう一つ面白かったので紹介&引用情報公開クリアリングハウス・三木由希子理事長氏のものから引用していきます。重要なのはこの方と次に来る瀬畑准教授の指摘ですね。そのとおりであり、非常に大事なことだと思うので引用します。

 ○日本の行政機関では本来は公文書とされるべき文書が公文書として扱われていない。対象を「個人管理の文書」にすり替えて、情報公開の対象から外すという手法が広くとられている。
 ―これこそが現在問題になっている官庁のやりたい放題に繋がっているわけですね。権力を握っている霞が関の官僚たちがそう簡単に権力を手放すはずがない、というか自分たちの責任を追求されることをしたくないわけですね。意思決定の過程を検証される結果、不正の責任追及をされたくない。あるいは過失を問われたくない。故に文書を非公開にする。一体どこの権威主義体制国家なのか?民主主義国家におけるそれでないことは言うまでもないですね。
 ○非公開の審議会である司法試験委員会の議事録を「個人的」に録音できるはずがない。そこで不存在決定の取消し、行政文書の公開の義務付けを求めて、東京地裁に提訴した。結果、録音されたMDは行政文書とは認められたものの、発言者の名前がわかると「自由・活発な議論を損なう」として非開示とされた。また、東京高等裁判所での控訴でも公開義務付けは却下、その他の請求も棄却された。
 ―官庁が組織防衛からこういう汚いやり方を採用するのはまだわかります。しかしそういうどう考えても法治国家・近代民主主義国家の原則に反する行為を裁判所がついにんするということはおかしい。何故、裁判所は請求されたら文書の機密保持の必要性を立証できない限り、公開を命じなければならないはず。日本の裁判所は一体どうなっているのか…。一体誰のために存在しているのか…?
 ○組織共有しているにもかかわらず、「個人文書」と言い張る手法は「加計学園獣医学部新設問題」でも。れっきとした公的な記録文書を、菅義偉官房長官はその文書を「怪文書」と決めつけ、文科省側も当初は存在しないとしていた。のちに文科省は酷似した文書が共有フォルダにあることを認めたが、当初ないと言っていたのは、別の共有フォルダしか探さなかったからという言い訳をした。文書を実際に扱っている官僚が法の抜け道を悪用していると言わざるを得ない。 公文書管理法に改ざんに対する罰則はない。「罰則を設けよ」という声もあるが、罰則を設けても、行政文書として作成する文書の内容は薄くして、詳細は個人文書化したり、隠蔽したりされるだろう。情報公開法によって請求ができたとしても、実際は必要な情報を出さなくていいようになっている。
 ―つまり、情報公開法や公文書管理法などを有効に機能させるためには、検証可能なようにこういう業務にはこういう文書を残しておき、かつ請求された場合に公開できるように保存を義務付けなくてはならない。~委員会の審議内容を必ず記録しておくことなど細部に詰めておかなくてはならないでしょうね。私的な会合などの抜け道を許さないように検証不可能と判断された場合・記録を残さなかった場合は、処罰するという厳しいもの(というかそれが普通なんですが…)にしない限り何の意味もないでしょうし、今後も同じ問題が幾度も発生するでしょうね。 文書改ざんという前代未聞の犯罪が故に話題になりましたけども、それ以前に保存された文書が検証可能でないというそれ以前の問題にあることのほうがもっと重要なポイントなのですけどね…。

長野県短期大学瀬畑源准教授曰く、このような法文書管理のメンタリティは天皇主権時代に遡るものとする。「天皇の官吏」として仕えていた彼らに国民に対するアカウンタビリティー(説明責任)という発想がないのは当然。自分たちが必要だと思うものを保存しそうでなければ捨てるという考えだった。従って、最終的な決裁文書は残っても途中・過程の文書は不要として破棄されていた。
 1972年に実現した沖縄返還の交渉では、当時の佐藤栄作総理とニクソン大統領の間で、有事の際の核持ち込みに関する「密約文書」があった。2009年、佐藤元総理の遺族が遺品整理をしていたところ、自宅書斎からその文書が見つかる。ワシントンで行われた日米首脳会談で極秘に交わされた「合意議事録」。本来なら外交史料館に残すほどの歴史的価値のある公文書、そんな重要な文書が元総理の「自宅」から発見された。そして遺族が、文書発見後、外務省関係者に外交史料館での保管を申し出るも、佐藤元総理の署名入り文書は公文書ではなく「私文書である」として受け取りを拒否!「事実を記録することで後世に資する」ことが未だに重視されていない。
 氏は可能性として、他国のように政権交代が少なく、異なる政権によって過去の政権検証がなされないからこういうメンタリティが生まれているとしています。そして言うまでもなく意思決定の過程を明らかにし、説明責任を果たす重要性で話を終えていますね。
 最後に早稲田大学野口悠紀雄氏が、ブロックチェーンで公文書改ざんを防げという話をといていますが、それ自体は同意するものの、財務省・旧大蔵省の体質変化みたいな話が入口となっています。今回の問題とそれは無関係というか筋違いでしょう。官庁の私権化という問題が本質であり、それ故に官の力を法で縛ろうというのが昨今の流れであるのに、昔と今の中立性の違いとかそういう問題ではない。むしろ超越的な立場で恣意的に裁量権を揮ってきたことについて許容するような態度は疑問に思いましたね。
 最後にどうでもいい話に触れてオチとしてグダグダ感をもたらしたまま、おしまい。