てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

逆説の三国志(3)の前に、袁術編書く前に


 さて、せっかくひろおさんにコンタクトされて、書かないってのももったいないんで、書きましょうか。あんまり、三国志系書いても人気ないし、書いてもしょうがないかな~って感じでほったらかしてましたが、まぁ、リクに答えますとか書いてある以上書かないわけにもいかないだろうし、書きましょうか。

 よく考えたら、董卓―漢末に生まれたモンスターではない・霊帝―暗愚・亡国の君主ではないで、理由書いてないしな…(^ ^;)。まぁ、いいか、霊帝論は己が書かなくても論文がもうあるし、董卓は書くと長いし、めんどくさいから簡単に。
 ○貨幣改鋳=インフレ・経済崩壊説→誤り、当時の貨幣状況から言えば、それが必ずしも間違っているとは断言できない。その後曹操政権になっても貨幣経済は復活していない。むしろ物納、絹・米などとあわせて成立する時代。己もそれは立証できないが、すくなくとも董卓がアホだから悪鋳をやったというのはおかしい。それなら元に戻して、ハイ解決になるはず。そして重要なのが、貨幣の値が崩れた=貧民の借金がチャラになったということでしょう。値が崩れてタダになるんだから、そのうちに借金返せばいいわけです。董卓の政治は貧乏人に熱烈に支持されたでしょう。無論その後に混乱が待ってるわけですがね。
 ○農村にいる人間をひったてて、殺した。悪逆非道の例にしてるが、これは宗教に注目すればなんらおかしいことではない。当時祭祀というのは今でいえば政治・言論活動に当たる。勝手にこれをやれば法に触れる=処罰は当たり前。後漢では三人以上の群飲禁止であったり、特定の祭祀に関与して処罰された例がある。無論董卓の場合はかなり厳しい弾圧・処理になる=過酷な対応・厳罰主義、だからもし失敗したときや、処置が不当だと思われたときは不満が高まりやすい。そもそも彼の統治方法は遊牧スタイルで、それを漢に持ち込むのは無理があった点は否めない。


 まぁ、要は悪逆非道と言われてますが、そう別におかしなことをやったわけではなく、充分理解可能なものだよということですな。そして単に、董卓を書いたわけではなく、重要なのは正史の偏向性。正史は大本営発表だから、嘘をつく。特に近代歴史学以前の史料というのは、それが残される=正当性確保のためというのが常道であるから、どうしてその史料が残されたのか、書いたのは誰でどういう目的で書いたものなのかという偏向をしっかり認識しなくてはならない。

 董狐の筆という言葉があるように書き手によって、実際あった出来事がどんどん歪められて記される。歴史に記す=真実・事実をありのままに書くのではなく、そうあらなければならない理想を書き残すわけですから、それが一体なんなのかということを理解しなくてはならない。

 貧民の人気取りをやった以上、董卓はある一定の人気、民の支持が確実にあった。これは間違いない。しかし史書には民は董卓が死んで喜んだとしか記されない。それは書き残した士大夫層がそう思ってるから(士人・士大夫とか細かい言葉の使い方は気にしないように)。士人達は自分たちの気に入らない政治を行った董卓=軍人に対してよく記すはずがない。当初は彼らも董卓と折り合おうとしていた。しかし、董卓が言うことを聞かない、自分たちの政治とかけ離れていることがわかると暗殺、伍瓊は単独で殺そうとするわ、荀攸達は暗殺計画練るわで、ドンドン彼らの支持を失って、排除されるわけですね。

 面白いのは、董卓は間違いなく、あの当時どの軍とぶつかっても負けない最強の軍団を率いていたこと。演義なんかじゃボロクソに負けてますが、実際は孫堅以外まともに戦えた軍はないです。それでも天下を取る事はできなかったんですね。同じように最強の軍を率いて一時期并・幽・冀・青にまで勢力を伸ばした公孫瓚が挙げられるでしょう。界橋の戦いであってたっけ?で、一回敗れると、もう、ぼろぼろ。一気に天下取りレースから落脱するわけです。補給が続かないから劉虞を倒すと、ただでさえ士人・名士の支配が弱いのに、ますます反発されて何もできなくなって、ひきこもって乱世を終えるわけです。無論このひきこもり策も、あながち誤りとは言えないわけですが。

 反董卓連合っていうのは面白いもので、あれ実際は関東諸侯の乱ですからね。あれを反董卓と捉えると、連合とすると全く歴史の流れがわからなくなる。蒼天なんかだと、天下に名だたる武人が一斉蜂起!みたいに書かれてますが、実際は冀州兗州といったグループが立ってあとは、傍観。当初公孫瓚も、袁術も、陶謙もスルースキル発動しているわけです。一枚岩どころか、利権をめぐって蠢(うごめ)いて、諸侯が虎視眈々と天下取りレースを図っているわけです。まあ、殆どの人は趨勢がはっきりするまでの様子見でしょうが。

 あ、ヤバイ時間がない。しかも書きたいうちの半分も書いてない。ちょっと一旦中断。
 そういえば、ひろおさんに聞きたいことが、宮城谷三国志だと、曹丕関羽攻めがあって、襄陽城が疲弊し、曹仁を見殺しにするわけにはいかないから。孫呉が攻めてきたら護りきれない-という理由で襄陽城を破壊してます。劉曄かな?、彼は孫呉劉備と戦ったあとで、そんな余力ないから大丈夫ですと言ったけど、結局壊した。んで、荊州は戦わずして孫呉のものとなった。みたいなことが書いてあるけど、これは事実でしょうか?城壊して、諸県・郡が孫呉のものとなったなんてあったかな?と。それが事実であるなら、満田さんの本に蒋琬費禕が一転、南下して襄陽城を攻めてますから、再建築したことになります。それがいつ頃かわかりますか?わかったら教えてください。別に急いでるわけでもないんで、気になっただけなんで、わかればということでお願いしますm(_ _)m