てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

世界の歴史を見れば秦漢帝国とは途上国・後進国である

というテーゼを掲げて、この時代を説明してみようと思います。
 歴史を見ると人口グラフは常に右肩上がりです。そりゃそうですわね。時代とともに必ず生産力上がったり、発明品が出てきてイノベーションがおこるんですから。時たま、戦乱なり、疫病、飢饉などといった現象によって、ガクッと減って、そこから復活するという揺れはありますが、これは誰もが当然の事実と納得するでしょう。

 さて前回まで長々と書評を書いて紹介してきたのはこのテーゼを立証する材料として必要だと思ったからです。そもそも三国時代を語る上で一つのポイントになるのですが、秦漢~隋唐までを一つのスパンとしてみなくてはいけません。そういう視点なくしてこの時代を読み解くのは不可能でしょう。
 西嶋さんも分裂するからには分裂する理由があり、統一するからには統一する理由があると述べてました。誠にそのとおりです。決して人物の差ではありません。天才だから、統一できた。あるいは劣った人間だから統一できなかったとか、そのような結果論で人物の能力を測ることも間違いですし、中国=1つというような、どこかの共産党のような発想で「大中国」が所与の前提としてそんざいするというものの見方で捉えることも、また歴史を語るものとしては歪んだ見方といわざるを得ないでしょう。
 Chinaに発生する国家は大規模なものである、また小規模国家が乱立することもある。今回・この時代は何故、そのような形態になったのか!?そのような視点で捉える必要があります。無論それは民のニーズだったり、時代の要請だったりに他ならないわけです。政治・軍事・経済上から、どの国家の誕生もいかんなく説明できます。まぁ、当然不確定要素・偶然の結果もはいってきますので、結果に対して後追いで理由つけてるだけだろうといわれたら、その点は否定できないのですけどね。

 なぜ「秦漢帝国とは途上国である」のか?それは隋唐と比較しての結論。では唐帝国と一体何が違うのか?唐帝国を研究するに当たり、これまでやったらめったら分裂して、内ゲバでぐちゃぐちゃになってきたそれまでの王朝の歴史を振り返ると、唐もまた武則天の頃には直近の隋のように再生不可能な大混乱に陥ってもおかしくない状況でした。しかし、それどころか彼女により、統一された国家として安定的な発展を遂げる帝国の道が整備されました。中国史の皇帝の中で、ベスト5に入る彼女の功績を色々紹介したいところですが、ここではノータッチ。*1
 重要なのは安定的な帝国たらしめた理由はなんであるか?ということ。帝国を安定化させた要因は何なのか?さまざまな制度・システムが成熟した結果、統一・安定した帝国になったわけですが、ここで何より強調したいのは江南ですね。江南開発こそが中国を一つ上のステージ上げた絶対的な理由=経済上の安定をもたらしたと見るべきでしょう。
 泰斗宮崎市定が唐に至って財政国家に転換したと述べたように、国家としての性質が全く変わった。この違いがそれまでの王朝と明確に違う重要なポイントなわけです。江南の生産力、経済力が安定的な国家を作った。そしてその傾向は以後の歴史を見てもわかるとおり、中国の中心とは最早南(の生産力)であるということがわかります。明にしろ、中共の北伐にしろね。*2
 妹尾さんだったかな?都市の置かれる場所、両都制の位置が東西(長安、洛陽、開封)から、南北(北京・南京)へと重要性が移っていくと指摘していたように、これまでの歴史ではヨコのロジックがメインだったが、南の生産力が重要になってから中国はタテの動き、タテの論理がメインに移り変わっていくんですね。
 この大きな流れは中国史を捉える上で絶対に抑えておかなくてはならない流れでしょう。隋唐帝国に至って江南が本格的な経済の地として開かれたという違いこそが、秦漢帝国との絶対的な差であるといえます。もちろんここではそこに注目して論じてるだけであって、他の諸要素を無視しているわけではないので、変なツッコミを入れないように。

 そして人口の推移を見てみると興味深いことがわかります。前漢武帝の頃の人口が推定3600万(?)らしいです。おそらく正確な統計が取られなかったのでしょう。なのに政権末期、AD2の平帝はほぼ6000万人というおそらく最盛期に近いデータをはじき出しています。また後漢の157年桓帝時のデータでは、900万近い急激な伸びを見せて5600万という最高の数値をたたき出しています。さて、この数値が意味するのは一体なんなのでしょうか?おそらく平帝という時代も政権末期で急激に国家が把握する人間の数が膨張したと類推してかまわないと思います。その前の皇帝や、10~20年前に7000万人だったり、6500万人という最盛期を迎えて、人口減少、把握口数減少に至ったとは考えにくいからです。
 では、この末期政権における急激な人口膨張は一体なんなのであるか?これを考えない限り、この時代の大きな流れがわかることはないでしょう。普通人口=国力であり、政権末期はその把握戸数・口数が減っているもの。桓帝時のデータが4000万を切っていれば、王朝の国力・財力・動員能力が、低下したというロジックが成り立ち、これによって衰退・混乱は無理なく理解できます。しかし、それどころか逆に人口が増えている。これは一体何故なのか?どうしてなのか?川合安さんも人口が減る要因はあっても、増える要因はないと書いていました。
 まず考えられることは匈奴の分裂に代表されるように、遊牧民の大量南下。於扶羅が漢を頼ってきたように、当時はかなりの混乱時にあったと想定される。しかしかといって、900万全てが遊牧民であるわけはない。多くて数十万。百万も説明は出来ないだろう。
 これを考える前に身分制を頭の中に入れておかなくてはならない。当時の社会は言わずもがな、身分制で奴隷がいる。奴隷というとヘンな教育を受けている私たちは「あなおそろしや!非人道的!」といったわけのわからないリアクションをして、奴隷制というもの受け止めてしまう。が、奴隷制の本質とは生産能力を失った人間の保護です。*3
 万人が生産手段を持っていて自活できるのならば奴隷制など必要ない。そうでない時代には奴隷という身分を作らざるを得ない。奴隷は人間としての尊厳は奪われたとしても、命を失うことはない。税金を払う必要がないし、食も保障される。もちろん社会によっては奴隷に落ちたものを一生這い上がらせない硬直したシステムを導入した。そしてそういうシステムを導入した国家はリスクを抱え込むことになるため、帝国・王朝が崩壊するときにはその奴隷が不安定要素に繋がる可能性が高かった。この奴隷のように永遠に不当な扱いをさせない、人間としての尊厳を保障しようという観念が必要であったからこそ、一神教が生まれ、世界宗教となって世界中に大きな広がりを見せたわけですね。
 この時代は後の国家が把握する人口が800万ほど(三国合計)に急激に低下したことが表すように、平民=納税義務のある一般市民が、急速にいなくなった時代です。人間はいる。しかし徴税して国家を支えてくれる人間が圧倒的に少なくなってしまった。国力が衰える=地方貴族の力が大きくなる。自己の領内で多くの奴隷、または庇護民を抱え込んだ領主は、豪族でも貴族でも何でもいいですが、お互いネットワークを張り巡らし、中世的多元性のようにそれぞれの独立を協力して守るようになる。国家として、大きい規模での政治体が、支配者階級にもその下にいる生活を保護されている庇護民にとっても好ましくなかった。大多数の生きている民にとってふさわしくなかった、小規模の連合が当時の政治規模・社会規模としてふさわしいからこそ、漢末~唐初400年以上の分裂時代が続いたんですね。
 いつの時代も大規模国家、帝国が好ましいとされる時代は商業ネットワークが確立されているときと相場が決まっているものです。その商業ネットワークの崩壊こそが帝国を崩壊させ、帝国を復活させなかった理由ですね。

続く(続) 世界の歴史を見れば秦漢帝国とは途上国・後進国にすぎない

*1:今見ると、そもそも歴代皇帝をひっくるめて誰がナンバーワンだとかそういう序列をつけること事態どうだろ?という気がしますが。まあ当時もざっくり重要な人物で、誰が1位・誰が2位なんてことは考えてなかったと思いますが

*2:まあ、宋とかその時代以降北方の石炭も重要になるので南>>>北みたいにまでは言えないのでしょうけどね

*3:勿論落伍した者を苦しめるという負の要素があることも当然、負の性質を見逃しているわけではないので注意