てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

前半―諸葛孔明と卑弥呼 著田中重弘

久しぶりに三国志関係を更新。以前褒めた田中重弘さんの『諸葛孔明卑弥呼』。しかし、最初のところ以外、日食についての考察以外ほとんど納得できるところが少なかった。うーん (´・ω・`)ショボーン、という感じですね。

 

 また、例によって気になったところの抜書きと、拙注釈、太字は己の感想です。

諸葛孔明と卑弥呼―『三国志』が解く古代史の謎/光風社出版

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 p15自分で自分の首を切り落として死んだという名誉を与えられた項羽。平泉候や玄武候などの項氏は劉姓を与えられるという名誉に俗する。敵に名誉を与えて勝利後の統治をうまくする。これが孔明にも応用されたのではないか?後世の孔明評価が高いものの一つに、この孔明利用化があるとする。単に陳寿が蜀人士を見捨てるな、なめるな、きっちり評価しろ!っていう主張と司馬家、晋王朝のクーデターの正統化のための利用のほうが、より正確だと思うけど。無論、その点を否定はしないが

 

 p16孔明は他の有能の士を吸収する能力に欠けていた?四川は貧しく体格が貧弱、そこで体格のいい山東人の孔明は君臨することができた。

 

 p17孔明が失敗したのは軍票政策に頼ったから。軍人として模範人、しかし経済人としては犯罪者、わが国の旧軍人と同じ。そうだろうか?むしろ経済的には管理経済でそこそこうまくやらないと統治なんかできないと思うが。孔明の手腕が高く、あとの人間が低いという意味ではない。中原の生産力が回復してしまえば、必然的に辺境の傷ついていない安定した経済力である蜀の価値は衰えるに決まっている。相対的にパイの規模が全然違って、対立できなくなるのだから

 日食情報は未開な国をコントロールする最適な手段となる(王莽の通貨切り上げで、通貨を使っていた高句麗がダメージを受けて、日本に渡来してきた。この流れはもっと重視されてしかるべきだと思う)

 

【一章】

 p36孔明が北伐に出たのは四度、そのうち三度が冬。

二二八年、春、郡山を攻撃して失敗し、続いてその冬、散関を出て陳倉を包囲したが、糧食、武器とともに切れて退却。

二三一年、春二月、再び軍を出して郡山を包囲、六月、糧食が尽きて撤退。

二三二年、冬、諸軍に米を運搬させて斜谷口に集め斜谷の邸閣(食糧庫)を整えさせた。

二三四年、春二月、斜谷から出て五丈原に陣を造営させ、そこで秋の八月に病没した。

 個人的には戦争をしにいったというより、国内に負担を与えないため、経済的理由から屯田やら交易やらで、食を確保しようとした面が強いと思う。というかその要素を見なくてはならない。何度も軍を動かしたのは、疲弊するという面が大きいという指摘もあるだろうが、そのとおり実際に何度も行軍をして軍隊の統率力を確保しないといけない政治状況にあったと見たほうがいいだろう。軍事国家、軍隊で正当性を保とうとする国は戦争を定期的にしないといけない。孔明が絶大な権力を握っていたと見るのは後世の思い込みで初期は、その権力基盤の確保がまずあったはずだから。そう考えると街亭の失敗がいかに重いものか良くわかる

 

 p45 第一回北伐はインフレ退治のため。首都だけで絹布が回って、インフレになる。それを退治するために戦争。外で物資を調達して、絹布が外で消費され、その分 通貨価値、供給量が下がるということ。蜀の絹布は木蚕(やままゆ)から作られる茶色っぽいもので、北で通用しなかった。撤退するとき趙雲と鄧芝の軍は脱走しなかった。趙雲が殿で、軍需物資を確保したため。その後蜀でしか通用しない絹布で行軍をする。逃げても必ず帰ってくるから。この行軍の秘訣が木牛・流馬方式だった。行軍なので牛以上、馬以下の速さが好ましい。

 p47三郡寝返った後失敗したのはこの絹布を強制的に流通させ、インフレが起こったから?つまり経済政策の失敗に基づくのだろう。

 確か、この北伐のときは住民は強制的に中原に持っていかれて、人がほとんどいなかったのでは?強制的に流通させることは、つまり蜀経済圏に組み込もうとしたことになるが、そんな無理なことをするだろうか?軍事作戦遂行中に?根拠は何なのか?イマイチ不明

 

 p48無謀・失敗を悟らなかった蜀。さて、本当にただ無謀とだけいっていいのだろうか?もちろん無理、無謀であるが、そうしなくてはならない経済的状況もあっただろうし、イデオロギーもあっ た。漢朝復興という一応の大義を掲げる蜀漢としては必然。現実的利益にならないからといってやらない類でもなかろう。そもそもが勝って初めて意味があるゲーム。勝つまでやめないに決まってる。孔明の死後も同じやり方で蜀は魏の周辺を攻め続けたのを見るとそれがわかる

 ようやく二五八年に宦官の黄皓が政務の実権を握って、軍事行動をストップさせられた。しかし沓中(長江の一大支流嘉陵江の上流白龍江に沿う肥沃な盆地)という羌族との交易路に拠点を置いた大将軍姜維には絹布は貴重な貨幣として使えた。だから姜維黄皓を無視して辺境工作を続けていた。またそこにはコルク材や白檀が 産出されていた。高度約千mの高地であるが日照時間も長く蜀の支配地の中では別天地のようなところであった。孔明が最初の北伐(二二八年)で蜀の支配下に置いた地方である。しかしその交易や土地の生産力は限られていた。結局最後は広大な黄河平原を支配していた魏に負けてしまう運命にあった。それでも孔明とその意志を継ぐ将兵たちは北伐を止める気はなかった。それはなぜだろうか。この問題を読者とともに徹底して考えて行きたいと思う。と言っておきながら明確な結論が明示される記述はない

 

【二章】

 p59赤壁の場所がわからないのはそこに人が住んでいないから。赤壁も烏林もいたるところにある。戦場はひとつではなく、流動的に布陣を変えながら行った可能性はないのだろうか

 

 p67春の増水期を利用して、晋は呉を落とした。233or32年呉を破って長江中流を制圧。当時は乾燥していたため軍馬でよく、水軍を拡充しなかった。赤壁のときは来た風を利用して一気に渡ろうとしたところ、南海台風が来る。がけが川の流れに沿ってあるわけではないので、隠れて作業をする場所はいくらでもあっ た。季節に応じて流水量が四倍にもなる。

 

 p70司馬遷も五十四年と一ヶ月の日食の周期は知っていた。史記は逆算記録法で書かれている天文の知識なくしてできないから。

  建安十二年、赤壁の戦いにこの日食が実際にどう評価されて、どのような影響を与えたかについては全く記録がない。記録からわかるのは漢の献帝が日食を前に してあっさりと政治の実権を曹操に渡してしまったこと、またその原因については全く記述がないという二点だけ。西洋でもギリシア時代、あるいはそれ以前から知られていた。「カルデア人の知恵」だとか「三サロス周期」として伝えられたものが有名であるが、正確なそれはバビロン以来の天文観察記録に依っている。すべて過去の記録を基にしているから天文官やその一家の秘伝がものを言ったのである。記録さえあればほぼ百発百中で日食を予言できたのである。

 

 p71日食の予報は特に雨が降らない地方や余り降らない地方(鮮卑、売胡などが支配する地域)に対して効果があった。しかし雨が多く雲が常にかかっている地方(主に南の地方)では余り効果がなかった。これも意外なことであるが、諸葛孔明の支配する土地がそうなのである。これは重要なことである。

 蜀の領地は首都の成都のある、平野をも含めて太陽の光が余り射さない地方である。雲が出ていて太陽光がさえぎられる日が多い。成都で年間わずか千二百時間しか 日が照らない。ちなみに東京では千九百四十二時間である。大阪では二千八十五時間である。広い中国でも四川省は最も日照時間が少ない地方なのである。上海 や武漢では大体東京、大阪と同じであるが、北京では二千七百七十八時間もある。中国文明の発祥の地方である西安、洛陽地方では二千~二千五百時間もあり、 天文観測には理想的な条件を持っている。

 曇りだったら日食が見えない。すると日食による動揺に付け込んだという説が通用しない可能性もある。赤壁のとき日食で動揺したところをたたこうと思ったが、実は曇りであまり観測できなかったのではないか?そして魏の側だけ、故郷の人間が日食に踊らされる。本国内部の同様に、補給の輜重隊やら賦役の雑夫などがその情報をもたらして、軍が動揺していったのではないか

 

 p72占い師を独占して民心を安定させた魏。魏が史上初めて行ったかのように書いてあるが普通に古代どこでも見られる話では

 

 p74 四川の石灰岩大地では農業に根気が必要で人が動かない、そのため方言が強い。南方、四川では季節変化が一定しているから、占い師、天文の役割、重要性は低 かった。五条原は水を引けば、開田できた。石灰岩でセメントを作り土木作業をしていた。中原にはないので、蜀だけの技術。

 

 p77呉は穀物と銅銭が産出したが、蜀はそうでなかった。不作時に穀物、豊作時に絹布を使って市場をコントロールする。

 

 p79当地の商人との通商ルートを司馬懿に絶たれる。

 p80特定地域にインフレが発生するから、そしてそれがいずれは中央に波及するから、魏は蜀を滅ぼした。しかし実際はかなり長い期間放置している。インフレというより国家はなるべく偏りなく物資の供給を行う=管理経済だから、敵対する国家がそのバランスを乱すのがイヤだからだと思うが。インフレもあればデフレもあるだろうし。というか古代の経済状況をあまりそう単純に捉えられない気がするなぁ

 263は208の日食から54年絶ってしばらくした後、おそらく262年11月、ということは蜀の崩壊は日食による人心不安に付け込んだのだろう。ちなみにさらに計算すると316年12月つまり西晋崩壊の年にまたしても日食が起こっていることになる。実際には劉淵が降伏を受け入れたのが11月だから、まだ日食が起こる前。日食が起こって混乱する事を防ぐためにひざを屈したという可能性もあるいずれにせよ、政治上の事件と日食とのリンクを無視すべきではないだろう

 p82、陳寿が「三少帝記」で、宮中の事柄は秘密であるから明帝を継いだ斉王の出生の秘密を知る者はいなかった、と書いているように本当のところは何もわからないのが普通である。わざと後代の支配者がわからないようにしてしまう。前政権の復活を恐れるからである。斐松之は明帝の母弧氏は武帝とその子文帝が袁紹の城を陥落させた時に囚れの身となって後官に入ったとき、明帝は既に二歳だったとしている。

 p83明帝は三十六歳で病死し、しかも実の子、男子が一人もいなかったと「三国志」は伝える。明帝に子どもをつくる能力があったからこそ二十三歳で世嗣ぎの太子として選ばれたはずなのに不思議である。周囲から後継者としての正当性を否定されたからだと思われる。

  明帝は、王后、夫人以下十三の位階を持つ后妃を持っていた。それでいて一人の子も授らなかった。全く不思議である。もうひとつ不思議なことは魏朝では最初の武帝(曹操)が六位階の后妃、文帝が十一位階、明帝が十三位階と段々后妃妾の数と位階の数を増やしているのである。位階ごとに何人の妻后があったのかは 不明であるから総数もわからない。しかしその子(男)の数は武帝(曹操)が二十五人、文帝(曹玉)が九人、そして明帝が〇人と一代ごとに数が減ってきているのである。

 魏は外戚に権力を与えはしなかったが、后妃に対してかなりの処遇をした。淑妃が相国ないしは諸侯王と同格、淑媛は御史大夫ないしは県公と同格、昭儀は県侯、昭華は郷侯、脩容は亭侯、脩儀は関内侯、捷(にんべん)仔は二千石、容華は真二千石、美人は比二千石、良人は千石と対比されてい た。更に帝の母を皇太后、祖母を太皇太后と称し漢代と同じく幼帝の時には実権を与える制度にあった。

 外戚の代わりとしての婚姻制度。王家に結びつく婚姻関係を強化することで支配力を強めようとしたのだろう。ハプスブルク然り、ムハンマド然り、婚姻政策はもっと注目されてしかるべきではないだろうか

 

  謎を解く鍵はそこにある。二十五→九→○と数字が進行する過程で司馬氏の工作が働いていたのである。根拠は?もちろん司馬家が暗躍したことは確かであろうが、具体的プロセスや曹家が当然予想される司馬家台頭に何の手も打っていないのはおかしい。司馬一族は后妃制度を利用して実権を握ってしまうのである。明帝は三十六歳で死んだから、仮りに子があっても元服前後かそれより幼いということになる。そうすると明帝の母甄氏が本来の皇太后として実権を握ることになるはずであるが、甄氏は黄初二年(二二一年)に死んでいる。その死因は「三国志」では誅殺ということになっている。

 本当に誅殺された(つまり夫である文帝の命令)かどうかは疑問があるが殺されたことは確かである。その母を殺された明帝は毛后を殺した(二三七年)という。その原因は後に三少帝の時皇太后として司馬氏のいうままに動いた郭后への寵愛が原因だという。

 最初から司馬家が台頭していたというよりは、むしろこのとき初めてリーダーシップを確立するために司馬家と手を組んだと見るほうが自然ではなかろうか

 

  不思議なことに郭后は寵愛を得ていたのに明帝の子を得られなかった。更に不思議なことは毛后が景初元年(二三七年)に殺されていたから、后になったのがその翌年、明帝が危篤に陥った時だということである。明帝がすでに意識不明となったか、自意識をコントロールできなくなってから皇后となったのである。

 根拠なき推測に過ぎない。強引過ぎる、推測するのはかまわないが、断定調で書くべきではない

  郭后は黄初六年六月、利成都(場所?人?)の将兵らが郡をあげて反乱した時殺された太守の徐質の妻であったと思われる。名家の出ではあるが身分を剥奪され て後宮に入れられた。明帝が即位(二十三歳)すると非常に寵愛され夫人(女官の位)を拝命した。それから十三年後明帝が死ぬと、生れが正確にはわからない 斉王曹芳を皇帝とした。

 政争の敗者を妻としたすなわち余計なバックボーンが、後ろ盾がないので好都合だったということだろう。または政争の敗者たちの取り組みを図ったか

 どうしてそのような者が皇帝の位につくことになったのかを暗示する事件がある。その二年前の景初元年(二三七年)明帝は才人以上の女官を集めて少宴を催し た。その時毛后も招くように郭后が進言したが明帝はそれを許さず、その催しを知らせないようにした。狭い後宮内のことであるから当然そのことが毛后に知れ、彼女は「昨日は楽しゅうございましたか」と明帝に聞いた。それを聞いた明帝は側仕えの者を秘密を洩らしたということで十人以上殺害したと伝えられている事件がそれである。

 後宮を巡って、母親の家を巡っての権力争い、次期政権の確立、次期政権の主導権争いである。この全体像が己には良くわからない、見えてこない。実質大奥の政争のようなもの、次期政権のビジョンにもかかわってくる重要な事件のはず、うーんいったいどういう構造なのだろうか

  この時明帝の子どもまでが殺されたとは考えられないし、また本当に明帝がそのような命令を出したのかどうかもわからない。しかし明帝の死後に郭后の座が確立される体制はできた。郭后が自分が名家の出で他の妃よりも高貴なのにもかかわらず、冷くされて子どももできないというので恨んだ結果他の妃やその子どもを殺させたのではなかろうか。

 仮にそうだとして、雑記、穢史の類にまでそのような血なまぐさいケースが完全に抹消されるとは考えにくい。やはり根拠なき推測にしか感じられない

 

 そこで「魏書」をよく読むと明帝の死後、魏の少帝が立つと直ちに郭后(既に皇太后)は自分の父親の名誉回復を計ったことがわかる。父郭憲曹操の敵である韓約(=韓遂)を助けた。郭憲は韓約をかくまったがそこで韓約は病死した。その病死した男の首を斬りとって田楽・陽邊らの曹操の部下は武都に滞在中の曹操の下に送った。

  その時、田楽らは手柄を立てた者の名の中に郭憲の名を列ねることを申し出たが、郭憲は「彼が生きている時ですら手を下すことができなかったのに、どうして死人の首を斬りはなして功績を求めることができよう」といって断ったという。しかし列記された名前の中に彼の名がないのを見て不思議に思った曹操がたずねるとこうこういうわけだと答えた。そこで曹操は田楽らとともに彼に関内侯の爵位を与えたという。この話もその真偽が疑わしいが、郭后の夫が領地での失政が原因で死に、彼女もこれまでの身分をすべて奪われて後宮に入った不名誉を回復するための作り話だと考えたい。

 つまり、郭氏とは曹家政権、魏王朝になる上で、既得権を剥奪された没落貴族のような存在。その権力闘争の敗者グループにあたる郭氏が再び中央のツテを探して、司馬家をその相手と見出して、結びついた結果と考えていいのだろう。司馬家が台頭した理由はまさにここ、没落帰属達、漢時代の既得権剥奪組み達を、再雇用した点にあるのではないか?そういう意味でも当初から絶大な権力を誇った司馬家が着々と地位を固めたというより、中間ぐらいの司馬家がその役目を満たすのに適切だったから、台頭してきた。当初は殆ど恐ろしい存在ではなかったし、国家権力・政治を左右する存在ではなかったと考えたほうが自然ではなかろうか

 

 彼女が皇太后となった直後、その兄弟に再び関内侯の地位を与えようと考えるのはむしろ当然のことだろう。「正始の始め、国家はそのことを嘉してその子に再び関内侯の爵位を与えた」と「三国志」巻十一にある。

 更に彼女の身内と考えられるもう一人の郭が出てくる。郭脩である。この男は蜀に寝返って厚過されていた。それがどういう事情があったのか蜀の四英の一人と称されていた費緯が宴席で楽しく飲み、酔いつぶれていたところを刺殺してしまった。無論、その場で斬り殺されたのであるが(二五三年正月)、その年の八月、彼は魏朝によって英雄とされ、長楽郷公を追封され、その子に爵位を継がせ、奉車都尉に任命し、銀千餅、絹千匹を下賜された。

 この件は「三国志」を注釈した裴松之もあきれ返ってものがいえないという程の破格の扱いである。これは曹操曹丕らによって冷遇されていた連中をひき立てた司馬一党の策略だと考えてよい。その手はじめは明帝に冷くされ、子どもを生めなかった郭后に対しての工作であった。晋は魏が有名無実の婚姻関係を結んで敵の一族を懐柔して行く手を封じ、逆に不満を抱く連中を味方にして権力の座を固めて行ったのである。

 この暗殺事件が魏王朝の郭家支配確立のきっかけであった事件であったことになる。この時代ほとんど軍事功績がなかったことを考えればこれがいかに大きなインパクトをもたらしたか想像するに難くない。四英体制が終わる。その後の後継者は正統性がほとんどない。政権が末期に入ったと誰もが思う。全く関係ない人間の功績を結び付けたということも考えられるが、これによって一族を繁栄させようと凶行に駆り立てたと見るほうが自然。そしてそのとおりになった。
  また、殆ど役に立たないと思われていた没落グループが身を挺して国家の敵を討ったことになる、英雄的行動を果たしたわけである。この事件によって、没落組みの復興が規定路線として成立したのではないだろうか?滅亡までの十年はむしろ、蜀王朝の衰退と、魏→晋禅譲までの基盤固めと見るべきだろう。
  そして曹爽の行動の影には、このような没落組み復興を押さえつけるといった焦りがあったのだろう。既得権の復興をさせないために、軍事功績を積み上げようといった焦りがあったのだろう。そしてその失敗のため、毛沢東文化大革命のように、文学運動といった内政上の大改革に走ったのだろう。要は権力闘争に走った、当然支持されず、大非難を浴びて失脚と。そういう流れで理解してかまわないのではないか?

 ※追記:うーん、まあ既得権の復興→焦りかどうかはわからないけども、曹爽政権の新政治体制となんか関係あるかもしれないね。実際没落復興組と司馬家の関係が強固なものであったら曹爽はもっと警戒するだろうしなぁ、まああんまり考えなくていいか。

 

 斉王がその弧后(元 服とともに娶った女性)を嘉平三年(二五一年)に亡くした時のことである。帝は王貴人を次の皇后としたかったのに張夫人を皇太后らによって無理やり当てがわれた。この時の帝の不満が「三国志」の注釈家裴松之が記録してくれた「魏書」にある。帝は「魏の家は代々皇后を立てるのに専ら愛を基準に選んできた」と 言ったとあるのだ。これは常に寵愛された郭氏が明帝の病死の直前に皇后となるのが不自然であることを裏づけてくれる材料である。

 結局、政権安定を計って力のある張氏の一家を味方につけようとした政略結婚は、逆に司馬氏に替えて夏侯玄を大将軍にしようという陰謀が企てられるところまで行った。それが発覚して皇后の張氏は廃された。皇帝(斉王)も追い出されて地方の県の公とされてしまった。それでもそれから約二十年間生きて四十三歳で亡くなったとあ るからほっとする。

 

 p93関羽は塩の不正取引に最後までかかわっていた。その関羽が斬られることで、蜀人民に対する有効な支配方法を失う。劉備荊州攻めもこの塩を取り戻すためというのがあった。岩塩があってもまだその時代塩を作る技術がなかった。

 なぜ劉備に塩賊、盗賊たちが支持しなかったのか?孫権らに斬られた?

 p99劉備ら三人が死ぬことで塩専売ルートがなくなり、財政に困るようになった。曹操が彼らを処刑しなかったのも、この塩ルートにかかわること。

 p107インフレ混乱=通貨絹布=軍票のせい?

 p111鄧艾の軍屯、胃河流域五万人で年五百万石。

 

20000字エラー出たので分割します。一本で分割か・・・。分割、下書き保存→後編で前編消されたし(゚Д゚ )。再UPだから、どこかおかしいところがあるかも、なんかもうやる気なくすわ…。何回目だこのエラー。