歴史を鑑にすることはマルクス主義ではありえない
過去記事の再掲です。元は10/10に書いたものです。10/10に書いたものは今回で最後、この時期に書いたもの多かったんですなぁ。
ドラフトあり、事業仕分けあり、そんなことがあっても、全く関係ないことを書こうと思います。最近眼が痛いな~と思ってます。やはり近視がまた進んだのか、パソコンで小さい眼見てると負担が大きいんですかね、やはり。メガネかけてやると痛くなくなるのかな?でも普段からメガネかけてると、負担がね~。あんまりメガネかけたくないんですよね。
ツイッターで書いたことでもまとめて、小沢さんがどうして証人喚問を拒否して、最高裁に持ち込むか―とか書くのもいいですけど。また今度。ブログ書くのも結構、一苦労なんで短めでいきたい。コメもまだあんまり再開してません。更新チェックも全て出来たかどうか心配…。
一言だけ、博士の『ソビエト帝国の崩壊』から引用、応用して。
「歴史を鑑とする」という中国の主張(ロジック)がある。これに含まれるのは唐太宗が息子に帝鑑というマニュアルを送ったように、中国人の歴史観とは過去に起こったことはそのまま正しく応用できるという発想。つまり、変化が起こりようがないから、過去のことをそのまま行う伝統主義になる。過去に発見された事実がそのまま正しいことになってしまう。
しかしユダヤ教を始め、一神教は異なる。革命・最後の審判のように、歴史法則は変化しうることを前提としている。神義論的に言うと、神が歴史法則を自由自在に作り変えられることになり、歴史法則は根本的に可変するものであることになる。
つまり中国が歴史を鑑とするというのは共産主義を掲げる以上、根本的におかしい。マルクス主義を採用している彼らはいったい『資本論』をちゃんとを読んだのだろうか?マルクス主義では封建社会、資本主義社会など、それぞれ独自の社会の歴史法則が存在し、その経済矛盾から崩壊すると書いてある。つまり別個の歴史法則が作動するという前提に立っている。
中国が歴史問題でイチャモンをつけてきたら、日本の政治家はマルクスの資本論にのっとって、日本には日本独自の歴史法則が作動し、中国には中国独自の歴史法則が作動すると一言言えばよろしい。さもなくば米欧の自由民主主義の歴史法則に鑑みて、チベット・ウイグルの自由化、民主主義化を断固として要求すると言わなくてはならない。少しでも逃げてはいけない、一度逃げればあとは急な傾斜を転げ落ちるがごとく主張できない外交になる。
なによりもまず、歴史認識などといってくることは内政干渉であること、これをハッキリさせるべし。内政干渉を持ち出せば、中国は必ず引っ込む。民主主義・人権と歴史認識をまずは取引せよ。外交の始まりはそこにある。
- 作者: カールマルクス,Karl Marx,今村仁司,鈴木直,三島憲一
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