てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

西園軍についての一考

 昭熹さんの上谷氏の論文の記事でコメントした西園八校尉、西園三軍について、せっかくだからまとめておこうと、こっちに記事で残しておきます。

 その前に清流派・濁流派について一メモ。清濁という官の別。殆ど身分制といってもいいような区分はまるで先祖が罪を犯したから罪人・下賎な身分に、そしてその逆にいいことをしたから統治階級にといった仏教の因果論を連想させる。つまりこの時代に見られる清濁の区別は事実としてあったというより、後世の必要性から、政治的要因から、歴史を解釈しなおした。無理やり蜀を正統王朝と解釈しようとしたように、貴族制の正統性のために清とか濁とかことさら書かれたのでしょう。

 韓国があとになってからこいつは親日か!?それともそうじゃないか!?と後世になって無理やり歴史を解釈しようとする様にね。当時の事情を無視して、現在の政治の要請から歴史を書き換えるのは、あるいはそのフィルターを通して記すのは、まぁ歴史の常ですからね。あんまり気にするべきではないと。ここで死ぬべきではないと。渡辺さんの名士論はその点、清とか濁とかありきではないので、いいんでしょう。ただそれでうまくこの時代の構造を説明できるとは思いませんけど。

 まず疑問というか、勘違いしていたのですが西園八校尉は黄巾の直後、対黄巾専門鎮圧部隊として始まったと思っていました。じゃなくて、むしろ鎮圧し終わってから、その後の戦乱を予想して、新軍設立に至っている。強力な中央常備軍→戦乱 鎮圧ではなく、ベクトルが逆なんですね。戦乱鎮圧→強力な中央常備軍設立。この重要な逆転現象を今まで見落としていました。


 大将軍何進が「『六韜』には天子が将兵を率いるという記述があり、それに倣って皇帝が将兵を率いて四方を威厭すべきである」と進言したのは、蹇碩何進の軍権の問題ではなく、むしろ霊帝がより何進をコントロール下においた皇帝の威光を必要としたということではないでしょうか?大将軍の上に無上将軍=皇帝がいるという明確な意思表示、軍事指揮者としての皇帝という位置づけをなしたことは評価されるべきでしょう(と、コメントでは書いたが、評価どうこういうより、皇帝は権限・権力の小さい部下が並列する、団子になることを好む。蹇碩=宦官も何進外戚もその他士大夫も突出しないことを目指す。その性質にただ注目すればいいわけだ。両方とも個人として権力を持つ背景にない人物で、そのため霊帝に抜擢されたんだろうし)。

 そもそも蹇碩の指揮能力がいつ試され、失敗し、その上で旧来の軍事構造―何進を筆頭とする軍権に任せる方向に転換した契機は何なんでしょうね?非主流派であった蹇碩が軍権を掌握するまでに上り詰め、そして即失った。あと、宦官といえども一枚岩ではない。彼らの政策集団・グループ・派閥とは何なのか理解しないといけませんね。多分明代のように、宦官も官僚も様々な政治的グループに所属して、勢力図は政策でつながるとか、地縁でつながるとか、学派系統でつながるetc…となっていて、かなり複雑多様になっていたはずなんだけども、宦官は宦官みたいにかなり省略されちゃってるんだろうなぁ。宦官とつながっていたことも消されちゃった場合が多いだろうし。宦官と士大夫のつながり特に、張譲趙忠といったような宦官には絶対つながっていた官吏がいる。でも抹消されちゃったんだろうな…。

 蹇碩とか宦官は、まぁ監察・監軍なわけだけども、黄巾の乱では一貫して早く鎮圧しろということを命じている。これは賄賂云々なんて解釈は史家の偏見で、一刻も早く鎮圧するのが当然。軍人、指揮権を握る人間は、戦乱が長期化すればするほど、権力を握ってしまうのだから、司馬懿しかり。董卓だってさっさと解任された。一定期間以上権限を与えないのは当然。

 唐の宦官の監軍と比べると、「軍のコントロールをする宦官」というのがやはりまだまだ固まっていなかったのだろう。蹇碩にも一定期間以上独占させておくのはよろしくないし、三公のコロコロ人事のように、解任したのはまぁ、当然か。

 そういや、黄巾のときの何進は何やったんだろ?あんまたいした働きをしたとは思えないが。孫堅曹操くらいかな、意外に働いたのは。最強指揮官皇甫嵩があとはやっちゃったし。むしろ、以後皇甫嵩外しに動いた軍事人事と見るのが自然かな。ナンバーワン皇甫嵩に、ナンバーツー朱儁を警戒して、何進中心に再編したとか。


 何より注目すべき、おもしろいことは四方から兵を挑発して西園軍を作ったということですね。そもそもこの西園は一体どのくらいの実力を有していたのか?もし黄巾直後にでも、設立されていたのなら、それなりの軍隊に鍛えられていたでしょうが、そもそも実戦経験が殆どない未熟な中央軍。各地から精兵を集めて作る近代的中央軍とは性格を全く異にするわけですね。むしろ郷里からあぶれてしまい、賊化するのを防ぐために徴発したのでしょう。何進が後に各地から募兵を行ったのも、結局この延長上なんでしょう。

 いわゆる信長のような傭兵を集めて、中央常備軍を作って天下統一のようなプランを霊帝が抱いていると漠然と考えちゃっていたけども、そうではないんだろう。霊帝は軍隊を作って、この軍隊で問題一気に全部解決してやるぜ!光武帝の再来じゃあ!みたいなことは考えていなかったんでしょう。

 というのもそれなら、早くから蓄財をさっさと軍備に当てて、早くから常備軍建設に、長期的プランで取り組んでいるはず。西園軍はポッと短期的に出てくるわけですね。ここから考えられることは、西園軍という軍隊は治安・内政目的の一形態に過ぎないということでしょう。おそらく。

↓メモ
  西園軍は一体何をしていたのか?首都に一万近い軍が常時駐屯できたんでしょうか?維持費だけでも相当なもの。周辺に屯田させ、必要に応じて軍として呼び寄せる。そういうほうがすんなり理解できるのですけれども。むしろ霊帝死後において旧来の西園軍は涼州に遠征した事例しかなく、本当に機能していたのか?軍として成立しえていたのか?と疑問に思います。言語も異なるさまざまな出身地の集団をいかにして一つの軍隊として成立しえたのか、ちょっと不思議ですね。だからこそ、また各地から兵を招集した、ということなのかもしれません。そう考えると西園軍の存在の薄さが説明できるような気がするのですけれども。


 雒陽近在の兵=首都周辺に編成され、管理下におかれた者、そして吳匡のような「部曲」として所属していた者、曹操なり袁紹なり、長に従ったもの。バラバラになっていたような気がします。だからこそ有事おいてまた巨大な兵力を集めようという動きになったのだと。

 後に袁紹が盤石な形での董卓討伐を計劃した段階であっても、雒陽にある董卓の軍はそれほど數の上でも多いものではなかったことが、皇甫嵩傳からうかがえるし、王允、士孫瑞等が計劃した初期の舉兵計劃を見ても明らか。

 もともと涼州兵自体は勢力が大きくない。董卓が強力な軍事權を掌握したとは到底考えられないのであれば、董卓が実権を握る背景とは何だったのか?そういえば袁紹は小帝弁も皇位に就けることに失敗しているわけで(後失脚という意味で)、そこら辺が関係あるのでしょうかね?

 やはり丁原の兵がなくなり、バランスが崩れ、袁紹が京では劣る、しかし地方全土を見渡せば圧倒的優位、だから出奔。そこに西園軍を考慮に入れる必要がそもそもない。個人の資質でいえば、あきらかに首都周辺での生活を保障して軍隊を取り込める袁紹のほうに分があったでしょう(豪族ネットワークを利用できるという意味で)。
―以上、メモ終わり

霊帝改革、軍事ではなく内政にあり】
 で、霊帝は一体なにをしていたかと、いわゆる買売官はもともと金銭を納めるのが慣例化していたものを、皇帝の財布に直入れするようになっただけですし。軍備に使っていなかったのなら、昔から飢饉や反乱の際困った民のために庭園を開放して食わせてやったみたいに、彼らの救済費用に当てていたのでしょう。皇帝が直にやる、直に民を救うこれ自体すでに、利権が発生しますし、官を頭越しにして自己の裁量権で改革をやった、そして今後もやるという現われだったんでしょう。

 あと、貨幣価値が著しく落ちていったので、商業を皇帝自らテコ入れする必要があった。宮廷で商売をやったのも、オンザジョブトレーニングじゃないですけど、商売・商業の研修でしょうね。この時点ですでに評価されてしかるべきなんですけどね。あと、後の西晋で楊皇后だっけ?その目を恐れて霊帝のようにバカな振りして商業にはしった。でも結局殺された。司馬チュウだっけだれだっけ?忘れた。むしろ金銭で軍事費調達しようとしたんでしょう。何でそういう指摘がないんですかね?

 ま、いいや、大事なことはその西園三軍の性質。軍隊によって、力で解決するんでなく、軍隊を通して、流浪の民を吸収して、反乱鎮圧に当てる、んで功績あったものに土地を与えて、また戸籍に再編入、良民化。そういう反乱・戦乱を解決するシステムを持っていたんでしょう。西園軍はその一環。それまでは、普通に公式なルートでなされていたものが、皇帝直属、新設官職に編入しようとしたのが、霊的改革の更なる進展だった。そう理解していいでしょう。

【西園軍は反乱鎮圧、正常化システムの一環】
 そもそも、黄巾の乱張角の病死で終わってしまって、官側からすると最悪だったでしょうね。イラク・アフガンしかり、近代軍同士、正規戦でケリをつけたい。ゲリラ戦になるともう軍費がかかって国家は大変になる。その後黄巾残党は山賊・異民族同様、散発的な勢力になってしまって、毎回その都度、その都度やらなくてはいけなくなって、問題が長期化するようになってしまった。この対策を考えなくてはならない。それが西園三軍なんでしょう。

 流民・犯罪者→軍隊・賎民、戸籍に編入して、首都近辺・三輔当たりに組み込むか、豪族の傘下に配分してしまうか、軍隊での功績によって良民、戸籍+土地付与。いわゆる屯田制のプロトモデルのようなことをやっていたんでしょうね。突然変異のように屯田性が出てきたのではなく、もう昔からあって、やっていた、その必要性が黄巾のような内乱で、大々的に高まった。そういうことなんでしょうね。

 反乱を、反乱民もしくはあぶれてしまった流民を以って制す。んで功績に応じて良民に戻す。董卓がブチ切れたのもこの政策によるものだと考えると腑に落ちるんですよ。何で内地が最優先なんだ、俺たちはこれまで苦しんできたのを無視しやがって、そっちを優先するのか!なら俺たちにも考えがあるぞ!ってね。

 西園軍は反乱鎮圧&正常化システムの一環と捉えていいんだと思います。軍事的な面は副次的なものだと考えたほうがすんなり理解できます。だからこそ無上将軍という道教に配慮した称号にしたんでしょう。真っ先に罪人・流民になっているのは道教徒ですからね。というか道教徒だろうが、構わん!降伏許すぞ!っていう意思表示と見るべきでしょうか。

  あと、バラバラだった軍の指揮系統の一元化、軍制改革この面も見落としてはいけないと。メモメモっと。本来皇帝が独占すべき軍権がこの時点で袁紹が中軍として入ってるから、利害関係のもの全員集めて調整しなくちゃいけない。そういう性質を見て取れますね。

 基本的に、都には兵を常駐しないという後漢の大原則があって、それを破って常備軍作るに至らなかったのでしょうから、国家維持システムとしての西園三軍、基本的にはそこら辺で屯田する。あるいは商業とか労役でもやっていたんでしょうか?そういうことなんだと思いますね。何が起こるかわからない危機の時代だからこそ、軍事・商業・屯田・流民対策云々、なんでも皇帝の手足としてすぐ対応できる手足として儲けられたということじゃないでしょうか。すぐやる課みたいな。

 袁紹でも、董卓でも、丁原でも率いる兵は2~3000。その西園三軍が一万~という規模を持つものなら、やはり巨大プロジェクトであったんでしょう。巨大国家再生プロジェクトとしての西園三軍ってことになりますね。