てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

後漢国家論のおまけ 後漢書からちょっとした思い付き。

 ブログを再開したら、なんか頭重いな~。と思ってたら、カゼ引きました(笑)。再開してすぐまた停止(^ ^;)。んで、日曜ずっと寝てました。鼻炎なんで年中鼻水出てるので、カゼと気づかなかった。熱は無かったし、なんかのどの調子悪いな~ぐらいで。何で眠いんだろうと思ったけど、ああカゼか~。中途半端なカゼでした。高熱で二、三日起きる事も出来ずに汗だくで昏倒するのが、カゼとしてはベストなんですが。ビタミンC採って、体を更新する。そうじゃないと人間四季に適応して上手く生きていけませんからね。最低年二回暑い用、寒い用に更新しないと人間はダメなようになってますから。若けりゃいいですけど。年取ったら自然の摂理に適応しないと無理ですね。
 無理といえば、PC使っているとなんか脳がだめになりますね。脳が腫れます。睡眠でも十分に体・脳が休まらなくなりますね。これからはちょっと一日二回休憩とって頭を冷やすことにしよう。かえって休憩とってやった方が能率がいいですね。一日15時間を越えると作業は能率を落とすと高岡さん言ってましたけど、まあ、そんなやってませんが、やっぱりちょっと休憩挟まないと能率が悪そうです。
 
 んでまあ、あと2日の間に後漢書のラストと矢野先生の本を返却しなきゃいけないのに、なぜかまた近藤さんの本の猫の妙術とかまとめなおすという意味不明なことをやってました。われ破っていかんとすれば、敵もまた破ってくるとかね。ああ、禅学おもしろいな~。とか完全に明後日の方向いってました。山田先生の本大学にあったのになぁと思ったら、なんか史学の専門のセンターに取られてるし。ああ、めんどくさい(´-ω-`)。
 全然ストックが減らずに作業が終わらないこともさもありながら、なんか展望が見えないのでちょっとまとめがてらに色々書こうかなと。後漢書から取ったメモもまだ文字起ししていないから、見返すのもめんどくさいし、感でやります。本当はある程度ビジョンを設定しないとやりたくないんですけど。まあ、いつもいい加減なものだし、そうに違いない!100%これで間違いない!なんていつも思ってないですから、メモ書き程度で残しておくのもいいでしょう。
 
 光武帝とか更始帝とか、これ諱?劉備とか曹操とかの名前って、その当時現実には呼ばれていないんだっけか?実際なんて呼ばれていたか分からないのかな?王莽だったら、なんて皇帝の名をつけたのだろうと、ちょっと気になってました。というのは更始帝というのはあきらかに始皇帝を意識した名前ですし、彼は王を20人くらい封じて項羽の覇王みたいな体制を念頭においているんですね。王莽も新という当時の情勢を刷新するような意味合いをこめているんですが、結局刷新どころか、後漢という既存体制の再建で終わっちゃってますからね。まあ実際はその中に前漢と全然違う要素が含まれましたけど。皇帝の名前とか国号とかそういう当時の常識には非常に敏感なので、食いついちゃうんですよね。そうそう光武帝について。光武帝はなんで光なんだろう?スッゲーってことを表現したいことは分かってましたが、逸周書だと、前業を良く継ぐとかいう意味らしいんですが、まあそうなんでしょうけど、それよりはこれは霍光を意識したんでしょう。別に何でもいいですしね。文武帝でもなんでも。
 
 まあ、そんなのはどうでも良くて、後漢書読んでいて気になるのは王莽伝がどうしてないのかということ。なんで彼を立てないの?少なくとも王莽の行為だったり、価値判断だったりをしっかり書いてから、そうして王莽をしっかり評価してから後漢の話に移っていくべきだろうと誰もが思う。しかし書いてない。漢書が完璧だから?まあ、そうともいえると思うけど、もう一つ、己は彼の行動が史書に記す上でかなり障害になったという気がするんですよね。まあ、王莽のことくらい当時の人間なら誰でも知ってたでしょうけども。
 というのは士人の価値基準、清だったり、貧だったり、通儒だったり、好ましい項目を彼が全部抑えちゃってるからなんですよね。学を修める、金儲けしない、困ったものに分けたり、助けてやる。これが彼らの重要な教義ですからね。唯一政治に直接参与しないという点でしょうかね?あとは皇帝になったりしない(笑)。まあ、なりたい!やろう!なんつって、なれませんけどね。生徒会長じゃあるまし。
 王莽が何故失敗したのか?そういう分析が非常に薄いですね。まあ近代的、西洋的、歴史学的『歴史』じゃないからしょうがないんですけどね。三国志や楚漢戦争のように文学としてどうしてこの時代が成立しなかったのかと考えると、これまた興味深いことが言えると思います。というのは、劉秀のサクセスストーリーはしょぼかった人間が皇帝に成り上がる、統一の完成で結構面白い話になるはずなんですね。ワタミの社長とか、孫正義の自伝みたいな感じで。ところが全然話題にならない。
 なぜかといったら、キャラが立たないから。劉秀は史書の筆法でなんか頼りない人間っぽく書かれているし、その他の脇役もなんか一様でキャラ立たない。もし劉秀が少しずつ力をつけて、ラスボスとして強大な王莽をたたきのめす!なんて分かりやすい構図なら良いんですが、なんかの世界タイトルみたいにはじめのチャンピオンはどこへやら状態。二転・三転しちゃって、誰こいつ?みたいなチャンピオンがタイトルホルダーに。王莽→更始帝→赤眉とまあ、どんどんラスボスがダチョウ倶楽部のどうぞ、どうぞ、お先にどうぞのように変わってしまう。これじゃあ話が盛り上がりませんわなぁ(^ ^;)。漢・三国時代が本来の歴史学的価値からするとそんなに研究されるものでもないのに研究者がいるのに、この分野はそれはそれは(笑)。まあこういう偏った状況になってしまうわけで。
 大体赤眉ラストどうなったか知ってますか?大体ラスボス誰かも知られて無いでしょうよ(笑)「はんすう」ってやつです。もちろん変換出てきません(笑)。漢字はこれ、樊崇。グーグル変換では出てきましたが一般の人の脳裏には出てきません(笑)。ラストは一大会戦ではなく、降伏ですからね。降伏実現党ですよ。最後に長安大決戦とかやれば、まだしも話になるのに、降伏されちゃったから物語にならない(笑)。絵になる場面が無いんだもん。そりゃストーリーテラーも話し作れませんわ。三国志なんかいくらでもありますからね、名戦場・名場面が、だから実際はどうあれ脚色したい放題に書ける。だからこそある種戦国時代のように捉えられてるんでしょうけど(もちろん戦国時代とは全然違いますが)。
 南陽で、あれ汝南だっけ?忘れたなあ。どっかの城で100万で囲んでも落とせないという楠正成バリの話と、劉秀一人で突っ込んでいって周りを奮い立たせて、少数で大軍を破ったやつくらいかな?絵になるとしたら。ああ、宛だっけ、籠城は。

 そんな話はさておき、当時の話を。劉氏の徳があったから、政の恩恵があったから劉氏待望が起こって光武帝になった…わけじゃあ、ありません。禅譲によって嬰はどこ行った?と思ったら、彼普通に擁立されているんですね。更始側であれ、赤眉であれ、劉氏の誰かを担ぎ上げるのなら、最もふさわしい人物でしょう。王莽にしてやられた本来の皇帝ならば、彼に位をお返しして初めての忠臣、王政復古でしょうよ。これほど理にかなった大義名分が無い。しかしそういった問題意識がかけらも無い。これのどこが劉氏、皇室忠誠ですか?馬鹿も休み休み言いなさい。
 んで、彼普通に処刑されちゃうんですよね。これに対する悲しみや、慟哭なんてかけらも出てきません。何でこういったことを見落とすのかなぁ…。朱子学はこれ論じてない気がするんですけど、どうでしょう?結局政治体制の刷新、新体制が必要だから、彼はありえない人物なわけですね。次期リーダーとして。
 じゃあなぜ、劉氏が何人も立てられたか。それは既成の利権もってる集団が単独では独立できなかったからでしょう。その集団のまとめ役が必要だったからです。後漢末見れば分かるように、あれだけ地方に根付く集団が出るともうやりたい放題です。当時はそこまで行ってなかった。あるいは根付いていても中小であって、広範囲に及ぶものがなかった、そういうことでしょう。
 楚漢戦争=項羽劉邦戦争に見られる様相と全く違いますね。このときは劉邦のように卑しい身分でも出世できるし、ヤクザ・商人のなり上がりが可能でした。宮崎市定氏が自由な市民社会、そして市が確立されていたこと、そのアゴラから口頭で史記文学が生れたとおっしゃっていますが、このように戦国のような分裂期、多様な国家が並存している自由競争状態にあったときは、どんなものでも身分上昇が可能な実力主義・競争社会だったわけです。
 ところがまた氏が言うように、後漢にもなると郭解といったような市井の一親分が社会に大きな影響を与える状況は消し飛んでしまうわけですね。ヤクザだったり商売だったり、これまでその人間関係でも官に上昇する、身分上昇が可能だったのが、なくなるわけですね。もう東漢の時代末には既にそうだったんでしょう。官の人間関係だけに固定化されてしまうわけです。帝国が整備されていく必然的な状況といえますが、階級固定化が進むんですね。自由な市を背景にしたものから、特定の門閥主導に移っていくわけです。こういうのは史記なんかみるといかに当時の社交、人間結合が自由に行われていたかという状況と対照的ですよね。この点は重要なので別枠でまた。
 階層固定化現象、これが中国において前時代どこにもなかった現象だといえますね。大きな変化・転機だと。西漢東漢を漢という括りで同じものとしてみることはあんまりないと思います。しかし東漢を魏晋とは別の枠で見るよりもむしろ唐に至るまでの一時的なゆり戻し、逆ベクトルである統一の力が働いたものとして捉える見方はないんじゃないでしょうか?魏や晋を一時的な統一とみるように、東漢自体も一時的な統一過渡期的な現象として捉えるべきじゃないでしょうか?世界史的流れから見るとそう見た方がしっくりくるんですよね。これもまた詳しく別で。
 楚漢戦争の時は一時劉邦が六国の王を復活させようという話がありました。それでも止めました。伝統主義では過去にあった政治がアホのようによみがえってきます。欧州のナポレオン以後、あっという間に昔の王制が蘇ったこと然り。危うかったですが、前漢ではそれどころか帝国が誕生するという、伝統主義のかけらも見られない現象が起こりました。しかし後漢では劉氏王朝の復活という、変革はあっても前時代の制度を受け継ごうという伝統主義が多分に見られる改革・革命と相成りました。この伝統主義的性質の復活も決して見過ごせない点ですよね。
 
 話が別な方向に、次書くことのテーマを先走って言ってしまったので、新漢戦争の話に。王莽の時代の話を見るとやっぱり東西なんですよね。中国の主な視点が。王莽が登場して山東に重税がかかる。つまり西、長安による最辺境で豊かな地である山東から収奪する。丁度、後漢が西方から収奪しようとしたように。というか収奪するようなものがあるといえるかどうか?収奪というよりかは放棄、手をつけないという言い方のほうが正確か。安保の最前線という意味合いで、西方を支援しなくてはならない。で、その支援をどれ位するか、そのためにどの位税負担をするか。これが漢に共通する重大なテーマだったはず。
 王莽が遷都せずに国家を建て直そうとするなら、その負担は当然東にかからざるを得ない。赤眉の乱が起こったのもそういう背景からでしょう。呂皇后の体制が崩壊して、ここから次期皇帝が登場するか!となったときも重臣が跳ね除けたのも、斉のあたりから皇帝が出てしまうと、遷都されて国家が変容するからでしょう。政経一致しちゃったら、斉を中心とする序列、同心円的な国家になっちゃいますからね。国家バランスが保てなくなっちゃいますし。政は西に、経は東に分かれることで上手く国家が成り立つわけですね。そうすることでうまく交易ルートが成立して全体が潤うわけです。
 で、赤眉なんですが、彼らは面白いことに、帰りたい (´;ω;`)とホームシックになるんですね。だから西へ攻めないと逃げちゃうなんて言ってます。あと各地で女を掻っ攫ったりしなかったって劉秀が褒めてますが、これはイナゴ的に食いつぶしていく寇掠集団じゃなかったことを意味するんじゃないでしょうか?もちろん略奪はしたでしょうけど、どうしようもなく生きていけない人間達の集合体というよりは、重税さえなくなって、略奪してある程度懐も膨らんだらもう十分生きていける。そういうことを意味しているんだと思います。無論、無政府状態になって、五人組のような連座制の重い罰が最早機能しなくなったことが大きいんでしょうけど。
 赤眉も黄巾も東から起こってますけど、黄巾はあくまで東中心であって、現象自体は全国的なものですからね。そういった点で赤眉と黄巾には全く違う性質があると思います。黄巾は最終的に庇護を求めて、軍閥と結託したり、南に流れなくてはならなかったですが、赤眉は別にそうじゃないですからね。そういうのは銅馬の方ですから。光武帝が成功したのはそういった東西の流れ、ワクに捉われずに南出身で、北によって根拠を確立するといった南北の視点を持っていたからでしょうか?より辺境に目を向けたマルチな視野・行動にもとめられるのでしょうかね。
 もう一つ目に付いたことといえば、同時の状況のなんか生易しいところ。天下が落ち着いたじゃあ、降伏しようかという談合みたいなやりとり。戦国時代なら考えられない生きるか死ぬか、やるかやられるかの緊張感がかけらもありません。身分の保証?アホなこと抜かすな!命があるだけありがたいと思え!みたいなやり取りもありましたし。降伏交渉すること自体が成立してしまうという変な雰囲気があります。赤眉の人(変換めんどくさいから、人で(笑))が降伏して、その後反乱で殺されてますが、普通はこういう風に処理されちゃうのが当たり前で、とても降伏なんて言えないと思うんですが。
 そういうことを考えると、誰か中国の学者さんが言ってたんですけど、後世の諸王朝と違って漢は民が見放したのではなく士が見放して滅んだ特異な例であるって言ってました。ところがどっこい、禅譲という現象そのものが、つまり前後漢とも民衆反乱じゃなくて、皇帝を支えるその集団の意志がノーを突きつけて終わっているわけですね。黄巾もむしろその後、白とか黒とか色々あわせて、その後活発化してますし。反乱→王朝倒壊ではないんですね。こういうところがいまだ帝国のシステムとして完成していない性質を示すんでしょう。王朝崩壊→再生への期待→改革失敗→反乱へ。こういうベクトルは全然違いますね。
 そういや王莽は出来て、梁冀は出来なかった。官僚の質の違いでしょうかね?やはり。そして王莽の場合禅譲・革命は出来たが、それを支える集団を政権母体としたため、彼らの既得権益に手をつけられなかったことが大きいのかな?失敗した理由としては。王莽のブレーンって何しようとしたのかなぁ?なんか儒教的・宗教的色合いが強くて、法家と合体したのかな?聖人君子が命令したらありとあらゆるものがそのとおりになると考えていてもおかしくないな。まあ、何より戦争に弱すぎたことなんだろうけど。というか劉秀にしても戦争・軍隊・軍人のにおいが殆どしない。戦争というより、戦場処理、政治的判断の性質が非常に濃い気がする。
 
 次はローマの話から色々考えていこうと思ってるんですが、こういう状況は文治国家だが、その中の将軍が力を握っていって最終的に軍人主導国家になる現象と非常に良く似ている。本来この時点で三頭政治のように軍人が台頭してもおかしくないのに、ローマと違ってそうではなく、文人政治が維持され、延命された。軍人皇帝の前の帝政のような状況は後漢末にならないと訪れないわけですね。こういったある種談合で、話し合いで乱世が収まってしまうところに中国の特性を見出すべきだと思うんですがね。そういう風に見るとローマの歴史から比較して中国の政治展開は遅れているわけです。別に早いから優れている、劣っているというものでもありませんが、そういう性質・理由を考慮するべきではないかな?と思いますね。
 ローマは軍隊が活躍する余地がその後も存分にありましたし、軍隊が政治の中心でした。中国の情勢を見ると秦の統一以後は軍隊の活躍余地がないですよね。高祖にしても匈奴にやられちゃいましたし。武帝以後、あっという間に活躍余地はなくなりますし。軍隊活用の余地、軍事が不必要であるということ。これをもっと考えるべきなのでしょうか。よく考えると、地政学閉鎖海closed seaという発想があります。それと同じように中国は中国大陸をある種閉鎖したともいえますねぇ。
 あ、閉鎖海というのは大陸国が海洋国に対抗する手段として湾岸基地を大陸内部から制圧してしまって海洋国が活躍する余地を奪うというものです。こうされると海洋国家はお手上げなのよ。だからそれを海洋国は防ごうね、逆に大陸国はそうしようね。つまりそれが出来るか、阻めるかで世界情勢は動くよという考え方です。
 中国大陸を中国半島というか中原という陸の孤島として捉えると、漢王朝の成立によって閉鎖海ならぬ、閉鎖陸によって中国は戦わずして勝つ状態になったんですね。周辺に中国と戦える国自体ありませんから。というか、これまで言ったように、中国というのは世界の辺境にあって、孤立してますからね。統一によって軍隊自体が必要なくなってしまった。最小限で済んでしまうようになってしまった。戦国時代の軍事需要、巨大需要が統一によって吹っ飛んでしまったわけですなぁ。軍隊需要・軍事需要=開発余地でもありますから、開発投資対象がなくなって中国というのはこれまでとは全然違う時代に突入したわけですね。そういった大きな社会構造の変化に対して生れたのが、階層構造、身分制社会ってことでしょうかね?それこそが後漢国家誕生の理由、後漢国家論になるんでしょうか?戦争を必要としない国家システムという。たいていどんな国家でも軍事・軍人は尊ばれますが、文治政治が発達すると軍隊が嫌われていきます。後漢に見られる嫌軍というか、軍人を中央に上げない、隔離するシステムはここにあるのでしょう。
 つまり魏や晋にいたって軍政と貴族制という相反するものが同時に花開くという矛盾を見せて非常に面白いんですが、こういう流れにあるのですね。帝国の自壊現象はこの軍人皇帝とでもいうべき、軍事復活の流れにある現象なのでしょう。そしてそういったものを否定する帝国システムの文治の面を一層促進させたものが貴族制なのでしょうね。なるほど、なるほど。ああ、そういうことになっているのか。イヤ、最初書こうとしたものと全然違ったことかいてまして、書いてるうちに整理して言ったらこんな話になりました(笑)。自分で書いて、ああ、こういうことかと、自分で驚いています(「・ω・)「がおー(驚きのあまり、壊れました)。おしまい。
 
次また、世界史的な視点から書きます。本当は西域の話を書きたかったんで。
※今見ると、やっぱ散らかりすぎてて、何言ってんだって感じですね。劉秀辺りの話一遍全部拾ってこないと妥当かどうかなんとも言えない。散らかりすぎて使えないものが多いな…。下手な考え休むに似たり。先行研究を読んだほうが早い&有意義ですね(^ ^;)