てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

道教読書録③

道教の世界 (「知の再発見」双書)/ヴァンサン・ゴーセール

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p20結婚により階級が上がる=子を持つ=組織の拡大であろうか?階級ごとに経典、守るべき規律が異なる。このなかには古代中国の神を信仰するなというものもがある。

 星や道そのものを敬ったが、既に死んだ英雄を敬うことはしなかった。血に飢えた悪魔と考えていた。菜食主義(数ある人間の過剰競争の排除だけでなく、食糧を減らして生きる人間の規範のためというのがあるな)。

 道教は各地に溶け込んで宗教組織が成立しても統合はされなかった。

p23、憑依・降神術によって、経典を更新する。一度限りの啓示ではなく、何度でも更新がされる。

p25、米道は儒教の死者崇拝やいけにえの儀式を否定した。

p28、しかし死者崇拝や生贄の儀式、民間信仰に接近していった。宋になるとこれが加速し、各地で崇拝されていた真人を教義に組み込んでいく。先天的な神に対し、死後英雄が神になるのを後天の神とした。人と神の中間体としての英雄。悪魔祓いの儀式への積極的な参加。明以降国家と対立、排除。

p41、宇宙=天体を解明することで、あらゆる理が理解できると考えた。儀式で星の形どおり歩んで尊神を招く。つまり天体の理をなぞることで神と交われるわけだ。

p73、内丹術が目指すもの、妊婦のように赤子を丹につくり、赤子が、頭から生まれると内丹術の完成となる。

緯書と中国の神秘思想/安居 香山

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讖緯というのはものすごい当時の宗教意識を象徴するものなので気になっていたのですが、うーん。なるほど!というようなものではなかったですね。道教と讖緯というのは相似的に発達、双子の兄弟のようなものですから、何らかのことが分かるかもと思ったんですけどね。こういうのは誰か天才的な人間でてこ内と分からないでしょう。思うに、天文の過去のデーターを全部調べて、そこから惑星とか星の動きをどう考えていたか、逐一当てはめて検証すべきだと思うんですけどね。なかなかそういうことをしようという人は現れないでしょうね~。己も天文志かったるくてやりたくないなぁ(^ ^;)と思いましたもん。

p62、本人が緯書の重要性を説かれる方だから、分かっているんだろうけど、本来合理主義の儒教神秘主義に走ったというような表現がある。これはどうかな?むしろ幅広い包括的な思想を含まざるを得なくなったことは、イデオロギーとしての、国家理念としての成長を意味する。

p120、彗星=凶兆。カエサル・アグリッパの死と関係付け。

p203、王莽は息子を4人中3人殺している。気になるのは彼が成功していた場合、則天武后のような形になったかどうか?最後の一人は皇太子として決まっていたのか?周こうたん路線の可能性もあるからなぁ。

 ついでに出てきたから、そういえば麒麟とか鳳凰とかこうりゅうとかあるけども、これって奇形獣でいいかな。一角獣は多分鹿とかだろうし、鳳凰はなんだろう良くある渡り鳥の迷い込んだ珍しい鳥とか、奇形のでっかいやつとかかな?竜はなんだろうな?鯨とか?

p215、崔発は符命革命の貢献で説符候となった。

p216、劉歆が王莽の革命ブレーン。後漢の鄭玄みたいに大学者が革命の手助けをするもの。

p219、光武帝は図讖革命、王莽は符命革命。(九錫、2服、3音楽、4朱戸、5階段9つ目酒。服や音楽の重要性はわかる。朱戸?階段は、そういう高い建物に住めっていうメタファか?んでやっぱり酒ね。酒造りってのもやっぱり神事かな。特別な意味合いがありそうだ。そういやなんか神と酒って深い関係があったな。忘れた)

p229、正朔・服色を改める。農業にふさわしい暦を定めること。服や旗を正しい色に改める。漢は赤の旗・服。秦は黒の―。ということは魏は黄色のそれか。曹操が魏公になったときすでに、公府では旗とか服とか黄色に改めていたのかしら?んで、晋は金徳=白か。白服ってなんか変な感じがするなぁ。喪服みたいな官服をみんな着ていたのか?当時の喪服は白ですからねぇ。

p232、成立がはっきりしない孝経。春秋~漢初=分かってないも同じ。相当遅いのではないか?孝という価値観は昔からかなり強かったものではあるだろうけども、必ずしも絶対の価値観ではなかった。オヤ殺しの話などいくらでもあるし、近親相姦のようなものも。というか規範が緩かった守らなくても現実重視、現実が戦国のように流動的な世の中では二の次だった。それが漢帝国化して統一基準が生まれたころ急速に強化されていった。まあここでいいたいのは下だけではなく上の統治階級にさえも適用される形となっていったということ。漢のときに董仲舒の公羊学から春秋同様に重視される。だからこの二つの緯書が多かった。

 そもそも忠義というような、君臣秩序の忠という観念はどれくらいあったのか?日本の戦国時代のように秀吉くらいしかな礼がないような状態だったのでは?史記の話で君主のあだ討ちはあったか?刺客列伝は仇討ちだけど個人的な話だから適用しちゃダメよ。朱子学的な絶対忠義みたいな観念ね。朱子学になって初めてそういう大義名分が出てくるしやっぱりないかな。孝を擬似忠義・忠誠観念としてまずアナロジーとして導入されたと考えていいのではないか?そういえば述べて作らずとかあったけど、誰か忘れたがソシュールの筆記性の限界の話かなんかとこじつけていってた。これって単純に政治情勢が安定していない現実があって、一義的に教理・ロジックを作ってしまうと、変化に適応できなくなってしまうからというだけだろう。もし孔子が完成版!とかサルでも分かる!とか聖~~といった書物で教理を述べて確定していたら、間違いなく後世の帝国規範・基盤の宗教、イデオロギーたりえなかっただろう。この点はキリスト教論理の不完全性と相似であるといっていい。

p243~5、緯書のタイトルは3文字。五帝=星神の名前三文字から。また儒教論語の章タイトルは二文字。道教荘子は三文字。

書と道教の周辺/吉川 忠夫

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 時間的にパス。あまり有効なものになりそうがないのでいずれ読むリストの方で。ただ文字と道教のその後はやはり注目していたので、この点をもっとはっきりさせたいなぁ。文字を書くということは蒼頡が文字というものがあることに気づいて、神々が自分たちの神聖性を損なわれたと慟哭したなんてあるように、文字にはある種の神聖性がある。呪術性と言っても良いけども、単に情報伝達ツールとしてみていなかったということ。新しい書体を作ろうとした彼らのなかに書くことによって、その書体によって、聖なるパワーを持たせようと言った野心があったと見て間違いない。野心というか宗教的動機があるということね。王羲之・陶弘景ら南朝文人が単なる貴族的文化の一形態だけで文字の新書体を発達させたわけではないと言うこと。草書体は神が乗り移った状態で書いたもの。言霊ならぬ、字霊のようなものと言っていい。書かれたことが実現するというもの。こういうことを考えると霊帝が着手した新書体の意義の大きさが良くわかるなぁ。

講座東洋思想 3/著者不明

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宇野精一さんという人の東京大学出版の物。あんまり役に立たなかった。思想だけ見てもやっぱダメだな。政治とかその他の状況と総合的・多面的・複眼的なものがない。チラ見で、読んでもあんまりなさそうと判断しました。

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