てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

中国古代農民叛乱の研究/木村 正雄

中国古代農民叛乱の研究/木村 正雄

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まあ、相変わらず適当な読み方になるんですけど。気になったところをチョコチョコ書きます。中国古代専制主義を支えた斉民制という論じ方から、感じたこと。いわゆるウィットフォーゲルの東洋的専制主義の影響か?巨大な治水が強力な政治権力=皇帝を必要とし、それゆえマルクスいわくアジア的生産様式、東洋的な強力な専制体制が生まれるというあれの系統の話か?

 己としては中国古代には奴隷がいない、つまりギリシア・ローマ的な民主主義=奴隷制社会ではないという話で、うんうん、やっぱりね。で、それは何故そうなのか?それがいったい何をもたらすか、そのことで中国という社会はどういう社会なのか!?という重要な話になると思うんですが、スルーです(´-ω-`)。残念。

 それはさておき、この問題意識が何か見えてしまって、うーん。一次農地、二次農地という定義をして一次農地=旧来の構造で生産力は劣るが、不安定性に強い。そして二次農地が新しく開拓されたものをさし、そこでは大きな生産力を持つが、いったん治水がだめになると、帝国・中国全体がそれが再生するまで、混乱するにいたる。二次の開拓余地がある国、渠などを大々的に整備できた秦の台頭。漢にいたってさらにその開拓が進み帝国が安定していく話。なるほど、なるほど。おおまかにはなっとくいくロジックなのだが、治水=帝国というのは正しいのかなぁ?西嶋さんなんか魏晋頃農業生産方式が技術向上で塢などの小さい単位でも十分に生産できるようになり、大規模な治水に乗り出さなくても十分な生産が出来るようになったって言っていたしなぁ。このころは自壊だけども、秦・前漢黄河の治水=国家の生命線という理解でいいのかしら?と、まあちょっと不安になりますね。そこのところが。そりゃまあ治水というものが重要な要素を占めるでしょうけども、大規模な治水ができなかったら国家、帝国として成立せず、できたら帝国になるっていうそれだけだと無理があると思うんですよね。もちろん氏もそれが全てだ!なんて言いはしないのでしょうけど。王朝末期に治水ができなくなるのはある種必然で、じゃあ帝国・王朝が新生するとき=治水ができるときか?うーん。だったら、もうちょっと当たり前のように治水・洪水の話が記されてどんな本でも触れられる情報だと思うんだけどなぁ…。

メモ書き

 p6、兼田の防止=斉民制の維持。

 p8、第二次農地=新県=一家5~6人100畝を基礎とする。

 p9、土地兼併の防止=限田

 p10、董仲舒限田がでてくるのは武帝頃で、それまで必要なかった。対策として豪族から没収しようというのではなく、切り開いて民に与えようというもの。まあ典型的ですね。こういう対策としては。所得制限したら反発買うので未開拓地を開くしかないわけで。王莽は始めてその対策に乗り出し、そして失敗したというわけです

 p14、均田制=古代=斉民制の維持。何とかして国家内の所得格差を埋めようとしていたわけだが、結局その豪族対策が上手くいかなかったわけですね。まあ北方王朝の一族殺し合いなんて結局のところ限られた公田の奪い合いですからね。王朝開いていたとしても、本当に力があったかといわれると?ですし。豪族連合体の性格を抜け出せなかったのが実情じゃないでしょうかね

 p15、中国の奴隷は生産奴隷ではなく、家内奴隷。じゃあこの奴隷って何をやってたんだろう。ケガレ仕事か100畝=成人男性が耕す適正値。名を持った斉民が耕す原則。

 p17、本籍主義の人頭税原則。だからこそ商人による債務奴隷、経営を禁止。

 p20、府兵制はこの斉民制、人頭税&国民皆兵原則への回帰であるが。要するに人頭税による体制でないと国家として維持できない古代の時代であったということ。唐になって、そのような農業=斉民原則の国家から離脱するんで、ようやく生産体系から見ると次の段階に移ったというわけで。光武帝から義務兵役制が消える。納税と兵役こそは民主主義の要。その一方兵役が消えることで民主主義的な平民の地位の維持が消えるのは当然。曹魏の兵戸は民主主義回帰、兵役を果たすことで平民の地位復活に戻るか!?ではなく、一部の民に兵役を任せるわけだから、分業。結局この平民を基盤とした国家制度は西魏に至らないと戻らないわけで。晋の場合はまあ後漢的な制度に戻ろうとした反動と見ていいのでしょう。各地の兵役廃止していますし。魏は違う方向を示そうとしたんだけども、やはりそのモデルを時代の制限ゆえに提供し切れなかったということで。なんか、匈奴とかウガンとか内徙させたのも一部の専門兵、分業化=専門軍人育成を図ったと見えなくもない。北方に藩屏として節度使が置かれるみたいなそれと近い感じがしないでもない

 p24、農業に必要なのは高温多湿ではなく、乾燥と洪水。

 p28、大規模な治水水利を必要としない原始的なそれを第一次農地。周時代国が1000以上あったのもそういう小規模だから。晋以後は周時代の回帰ですね。

 p34、第二次農地=新治水技術・鉄など。これを多くもつ国家が最終的に勝利する。

 p43、農業にとって水の管理が絶対。水により農地を管理し、農民を支配するのがこの時代の特徴。

 p44、旧県は独立度が高い。新県は中央依存度が高い。政治的混乱で治水が出来ないと真っ先にこの新県、第二次農地が影響を受ける。

というロジックであるなら、この第二次農地消失=大規模治水の不可が、統一王朝が形成されなかったわけになるのだけれども、北魏とか西魏とかこういう大規模治水で第二次農地、新県がどんどん生まれていったっけ?そこのところがはっきりしないとなんともいえないなぁ…。

 p48、塢は旧県による軍事農耕集団。

 p49、北魏の均田制はこの荒廃した無主地に第二次農地を作るもの。牛四頭までに耕地を与える。牛=豪族、豪族との妥協。

 p50、戦国時代の十万単位の死者。人口比に対して土地が大きかったとあるけど、逆にこんだけ戦争に動員できるということは人口過剰だったのだろう。開墾余地はまだまだあったけれども。関中移住策や黄河での治水水利事業が武帝以後行われなくなる。すなわち帝国としての国内開発頭打ち。以後兼併時代

 p53、よくいわれる銭納による商人の農民収奪。初期ならともかく永続的に収奪され続けるということはありえない。学習しないバカだけ。現物納だって諸物価を操る政府が得をすると叩かれるのに、結局どっちやねんといわざるを得ない

 p54、銭納・金属貨幣制は農民を苦しめるという説。商業の衰退=現物納、貨幣物質の枯渇ではない。結局この時代の商業の衰えは各地の分離独立、囲い込み、荘園化による自給自足ですからね。ものすごい小さい規模で取引がされたんでしょう。商業停滞で身分格差が生まれたことは間違いないでしょうし、塢というか郷里社会での社会が完結すること、ミニ教団化。生産技術の形態変化、何か新技術があったのかなぁ?まあ、その荘園内で自給自足できるように、いちいちマーケットにアクセスしなくても賄える体系が確立された事が大きいんでしょうけど。耕せる土地がない以上、豪族お抱えの職人みたいな感じで人が管理・確保されたんでしょうけどね。郷里を守る例のあれですね。

 天下を意識しなくなったというか、引きこもり現象というか。それを何がもたらしたかということですよね。まあお決まりで言うと清談的な老荘なんでしょうけど。何らかの価値観の転換があるはずなんですよね。その価値観の転換で社会生活上重要になるものが変化したわけで、その変化が巣ごもり的なものをもたらしたはずなんですがね。晋に見られる奢侈現象はその裏返しといいますか。これまでの価値基準だと政治家は経済に手を出してはいけなかった。しかし魏晋以後政治家=経営者にまた戻るわけですね。奢侈に手を出して豪遊するというのも一つでしょうが、ハイそうですかと統治者が価値規範をそう簡単に変えるかどうか…。老荘的な内静、桃源郷的な、新芸術・文化形態から考えるべきか…。

 p55、牛あると耕作2.4倍可能。

 p56、江南は均田制が出来ない。湿潤・天水農耕で可耕地、不可耕地の区別がない。よって第一次・第二次農地の区別がない。国家権力による規制が弱い。豪族的大土地所有になる。まあ孫呉がガッピ抜けなかった一番大きなそれですね。所詮君主も最も大きい豪族に過ぎないというか。機動力、それぞれの判断で動くような水戦ならいいんでしょうけど。陸である程度の規模で動けないから、効果的な戦力にならないんでしょう。だから800でボコボコにされるんですね。本当に孫子読んだのか?といいたくなってしまうような軍制は、それを打破するような政治経済環境を整備できないからなんですね。王朝交代ごとに民田放棄、国有地の再生拡大が行われない。土地制限、均田制も行われない。中央権力を確立することが出来ない、これこそが江南が華北に経済力では対抗できても軍事的に敗れた理由でしょうか

 p57、均田無理=人頭税的租庸調も無理。戸による差がある課税、両税法的やりかた。ああ、そうか江南の所得差を前提としたものが後の両税法に繋がったのか。均田制が崩れて、江南のそれを採用したんだ。安史の乱、以後は中国は江南化したんだ。西魏で均田制が実行できたのは環境的にベストだったんでしょうね第一次・二次それぞれちょうど良くあるし。結局華北・江南統合してしまうと、原則的に均田制を整備出来ても、やはり無理が出てきてしまう。そういうところが隋崩壊の要因でしょうか?そして両税法に移るのも江南・華北的な先進地域を取り込んだゆえの必然的出来事なんでしょうね。んで以後は地主=佃戸制度に移っていって、斉民制は姿を消すと。どうでもいいけど、ウクラードなんて言葉はじめて見たわ(笑)。これ今の人つかうのかな?斉民制、格差なき社会を国家理念としていたわけだが、そもそもそういうものが維持できるはずがない。時代が変わってもそれを引きずり続けたのが中国独特の歴史、中国史たらしめる一大要因でしょうかね。

 p60、中国における生産体系=専制主義というようなテーマを掲げているみたいです。専制というか政府権力の一元的な状態、支配といってもいいのは近代化してもどこでも見られた現象であって、それはテーマになるんでしょうかね?まあ、そこで民主主義&資本主義を育成するのにどうするかってことを考えたいんでしょうけども。19世紀以後の欧州くらいしか見られない特異な現象を何故他の場所で起こらなかったかと分析するのにはあんまり適していないと思いますけどね。斉民制というものを採用して、奴隷制が存在しなかった理由をもっと掘り下げた方がいいと思うんですが。あのインドですら奴隷大国ですし、ギリシアなんて人種差別大国ですからね。中国古代のこの時代は人種差別なき大国で国連表彰ものですよ。
 ああ、そうか忘れていたけどこの人種差別の欠如が外面規範の儒教がもたらした最大の美点でしょうか?儒教には人種差別というか、それはもちろんあるんですけど形式を備えたら外人・出身がどうとか関係ないですからね。あと政治を上手く納めたら聖人ですから、統治者層が異人でも問題ないですからね。日本書紀の日本を治めるのはすめらぎのみというイデオロギーに比べると雲泥の差がありますしね。まあ今の中国ナショナリズムなんかそのイデオロギーが入ってるといえなくもないですけど。唯一の美点だったのにそれすらなくなっちゃいましたね

 p78、河堤防の管理の重要性。王莽~混乱で治水水利機構が破壊され、その管理が重要となった。騎都尉をもってこれにあたる。典農校尉じゃないですけど、騎都尉で治水なんていう前例があるんなら、西園校尉にこういう意図が合ってもおかしくない気がします。特に曹操なんか騎都尉のときに治水とかもその役割のひとつとして期待されたんじゃないでしょうか

 p79、秦末漢初、生産力たる労働力を戦争に送り込んで治水管理が出来ずに生産が落ちる。渠は泥ですぐ埋まってしまう。

 p85、前132年、二度にわたる大決壊で武帝が十万人の労働力で治水。しかし三度目はあえて手をつけない。天人相関で政治を糾さずして治まらない。塞いでもすぐ崩れるという現象から、人為的に天意に逆らおうとすることは良くないと考えられた。70万人を新秦に移し、関中開発を主眼とした。治水が出来ないときは関中開発。これポイントですね

 p94、前102大河に等しい決壊。関東五郡国で365万中200万難民化。分流による治水対策に。

 p100、前39、前17の決壊を治水しなかった理由に財政不足ともう一つ禹河でないから。そして結局ほうっておいて、河の跡にそってまた耕した方がいいという意見が主流となったから。しかし禹河を探せとか、九流だからやるやらないとか当時の意識がうかがえますな。どっか書いてあったかどうか忘れましたけど、王莽=禹だったんですね。破滅的混乱を正すには有徳の士に禅譲しなさいという流れだったんでしょうね。まあ、治水やってから禅譲しろよと思うんですけどね。治水のために禅譲をと因果関係がひっくり返っているのが面白いところでしょうか

 p106、治河は明帝時代から。

 p107、青・徐大洪水で多く流民。

 p108、赤眉=農民反乱軍。生産組織が復活すればいつでも元に戻る。

 p192、陳勝=農民反乱軍で、一般平民主体の乱。つまり国民皆兵の制度、100人=50人×2のワンセットで片方が戦争しているとき、もう片方が耕すから。戦争がなくなって政治システムとして成立しなくなったわけですね

 p199、陳勝は秦=水徳、相生説で木徳と考えて蒼い帽子をつけさせた。

 p219、城陽景王信仰が赤眉を父老共同体でありながら、社祠で数百~数千家が限度の郷里的体制を超えて数十万に及ぶ集団を作ることを可能にした。

 p221、第一次農地=豪族反乱。第二次農地=農民反乱

 p222、呂母の乱は初期において反官的だが、次第に性格を変えて農民反乱集団に。

 p227、青・徐・兗に第二次農地は広範に集中し、流亡農民が集中していた。

 p231、貧弱な農民集団にもかかわらず、眉を染めたのは彼我の武装に区別がないため。

 p234、民集団の目指すは平和な生活であるから十万近い軍団でも更始帝に降伏した。まだまだ統一されていないから、直ちに帰って第二次農地を復帰させることはできない。更始帝=愚物とあるが、こういう評価があると信用できないなぁと感じてしまう。

 p235、力子都集団の解体の失敗。結局更始帝はこの戦後経営で民集団を解体して安心させることができなかった。

 p244、三輔の第二次農地は特別な配慮が加えられていた。赤眉によってそれも荒廃する。結局ここも敵に回してしまい、略奪するしか自活できなかった彼らは山東にかえる。

 p245、赤眉はまだ十余万いて余力があったが、真主たることを光武帝に期待して降伏。

 p256、銅馬も寇掠で成り立つ、農民集団、光武は食を奪いに来たものだけ討って、後は守って食糧尽きるのを待っていればよかった。元は徐・兗で河北に渡る。渠帥の名がはっきりしないところが、豪族反乱集団と違うところ。結局いかに勝つかではなく、いかに負けないかなんでしょうね。強い戦力を集めることより、いかに負けない組織を作るか、根拠地を確保するか。そういうほうが重要ですね

 p292、20年まで豊かな関中に向かおうという流れがある。更始・赤眉でそこすら荒れる。これが大きな転換点、次の段階へ移行するきっかけでしょうね。王莽にしろ、更始にしろ、結局この農民集団がへばるまで根拠地=長安で、関中という補給地があり守っていればいいわけですよね。むしろなぜ守りきれなかったんでしょうか?王莽が20年くらい守って、少しずつ拠点を増やしていって、危機を安定させてもおかしくないんですけどね。軍歴ないからでしょうかね?やっぱり。

 p388、劉氏の血筋では劉永のほうが上ではあったが、在地性がなかった。そして政権の多様さも。光武帝は第一次農地を押さえ、流浪する農民集団の処置もよかった。

 p405、青徐の黄巾。冀州での反乱が終わったあと、そして今度は黒山。

 

 p441、三輔・南陽益州流入が五斗米道に。流入してくるものを改宗させるため、義舎を設ける。この二つがそもそも経済の中心。西域から関中、三輔、南陽というルートが初めからあったのではないか

p445、南陽から西に五斗、東に黄巾。

p446、祭酒=古代郷里指導者の名前。赤眉から見られた指導者の称号。

p450、前期と違って後期の黄巾はもはや宗教的結社性はない。青徐の黄巾衆100万も(実質10万)、大部分は流浪する農民に過ぎなかったのだろう。蒼天なんかに出てくる100万の信者というのはありえないわけですね

p455、黒山・白波などその他の反乱も一括して広義の黄巾、農民反乱集団と見ていい。馬超の挙兵の原因に第二次農地の流民をみる。豪族と農民のミックスで見る。

p457、天下の中心洛陽という意識。だから馬元義の準備があった。王莽のときも中都で、北都邯鄲、南都宛、西都成都、東都臨輜。なのに首都長安ってのが意味がわからないな…。曹魏のときの五都との違いを考えると面白いかも。許と譙は近すぎですよね。晋は五都ってないですね。なんででしょう

p458、桓帝ころから王朝交代の願望が出てくる。流浪民増加。平均な民は一家に男を二人以上持てないから、張角は平均郡県民より上、豪族ではない。客や宗族・部曲を率いていない。鉅鹿出身でありながら鄴で蜂起している。そこに客居していた。

p460、五斗のように宗教国家を建設しようとしていた。皇帝による帝国ではない。

p463、青徐の難を避けて劉虞のもとに100万流れ込んだように、豪族でさえ難を逃れて東へ、西へ移動した。純粋な農民のそれや反乱を見るより、郷里秩序を代表する豪族、名士でもいいけどそれに従って動きも見るべきなんでしょう。反乱の影に豪族移動もあったでしょう

p465、第二次農地を回復させずに返してもまた流浪するだけ。専門職業軍人として屯田に従事し、在地の生産集団とは異質の存在となる。いわゆる于禁の略奪話や、呂布の騎馬で中央崩される話が出てくるわけだが。青州兵は本当にそんな活躍してるのかね?あんまりどころか、他にまったく出てこないからなぁ…。初めて降服したものが青州兵ですから、以後はあんまり必要とされなかったんでしょうか?屯田地は多くても、屯田兵自体はそれほど多くなかったんじゃないでしょうかね?豪族に供出させて。そもそもこの時代人口比に比べ10万くらいの物凄い少ない兵力ですからね。

 

まあ、いろいろあとでまた考えよう。

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