てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

脱原発運動・脱原発デモについて、高度な政治運動・判断となりうるか?&デモ代表と会談という疑問

 個人的に最初に脱原発デモを見た時に思ったのは、危ういなという感想。

 日本には政治運動の風土がない。アメリカの選挙のように一年かけて予備選挙を行う。政治運動が当たり前であるという感覚がない。対照的にあちらさんには民主主義におけるコストとして国民の政治参加というものがきちんと根付いている。

 日本には民主主義のコストという観念がない。最高のシステムであり、このハイテク洗濯機を導入すればスイッチひとつで後は何もしなくていいくらいの、電化製品感覚でいる。

 民主主義というのは、「でも、お高いんでしょう?」→「ところがどっこい国民は日常的に政治参加をしなくて良い、お上にお任せ!」→「ええ~、衝撃のこの価格!」―かどうだかは知らないけど、民主主義のコストについて熟知していなかった。政治参加しなくていいものだという誤認があった。

 民主主義・資本主義の原理・原則は多くの人間が参加することで質が高くなるというもの。参加しなければ必然的にそのクオリティは落ちていく。

 まあ、そもそも日本に民主主義という制度は自生的にホイホイ生えてきたものではなく、外来から輸入したのだから、いきなり民主主義の原理を理解してそういうふうに行動せよ!と言われても出来るものではなかったのだが。

 脱原発運動が左翼の変な運動に吸収される恐れは十分にあるし、この国民運動が暴発して、変なムーブメントになる。カルト宗教に吸収されたりね。平和運動とか、女性のなんとか会とか、明らかに理屈の通じない感情だけで動いているわけのわかんらない運動の勢力が伸びるのではないかという危惧を一番初めにパッと思いました。

 んで、まあそういう意見を表明するのは大体原発推進派ですね。だからといって、別に己は原発推進派ではないし、重要なのはこの視点だけではダメだということ。一方だけの視点ではダメだということ。重要なのは両義性、両方の矛盾する立場から利点・欠点を同時に考えられること。

 もちろん、民主主義のコストとして国民が自覚的に政治に目覚めて、自ら行動しようという発想・観点は素晴らしいもので、一人でも多くの人が関心持って行動しようということは、これまで常識としてなかったのだから、これ自体画期的で賞賛されるものでしょう。安保闘争と比較して、これがどれだけより理性的なものになっていくかどうか、それがポイントでしょうね。

 日米安保は別に議会解散してれば、首相が所信表明やら、日米安保の意義をこんこんと国民に説明していれば、民の信頼を勝ち取って普通に与党は勝ったし、すんなり物事は進んだだろうと。しかし民意を問わなかったからこそ、ああいう暴動・暴発に繋がってしまった。―と博士は言ってますが、今回はどうでしょうね?民意を問うたら、急速な脱原発以外、原発を止めてもきっちり電力マネジメントが出来るんだ!という信頼出来る有能な政治家がそう訴えれば、まず脱原発が勝つんじゃないでしょうか? 

 己が危惧したのは、脱原発運動・政治運動というものを一点で捉えていないか?ということ。政治運動・行動は点(=短期的)ではありえない、線=長期的なもの。一瞬ガーッとやって、ハイおしまいというものではないということ。文化祭ではない。それをきっちり認識している人がどれだけいるのかという危惧ですね。

 十万人でも、二十万人でも一瞬集まって盛り上がったらハイおしまい、政治家はこれを問答無用に受け入れろ、口答えは許さん!みたいな態度は論外ということです。一年でも三年でも十年でも、政治運動は継続してやらなくてはいけないということですね。なんで政府は動かないんだ!おかしいじゃないか!っていう認識は甘い事この上ないわけです。

 絶え間ない民衆の政治活動・行動―これこそが民主主義のエトスなわけですね(By丸山教授)。

 それを勘違いして急進(?)的な運動に取り込まれやしないかという危惧。だからといって、この運動をそういうおすまし決め込んで他山から批評して、愚民の群れが蠢いておるわ!理性的に判断できない愚か者め!黙れ小僧!なんていうのも、同じくまたもちろんダメなわけです。

 原発を今後も使うにせよ(付き合っていくにせよ)、脱原発に動くにせよ、それぞれのコスト・ベネフィットを勘案しながら進んでいくわけで、☓か○か、イエスかノーか、そんな単純な話ではないでしょう。今後どっちか一方に選択が一元化されるなんて到底ありえないですよ。よっぽど革新的な技術が生まれて脱原発しかありえないとでもならない限り。

 何か脱原発と推進でお互い罵り合っている。意見・論を交わして日本にとって最良の選択・政策を考えようという姿勢が見られない。発想が乏しい残念なお友達が非常に多いという気がしますね、ツイート見ていると。
 挙句の果てには反対意見の晒し合い、貶めあい。アホですね。脱原発を主張する奴なんてのはこんなアホだ!なんていう極論を平気でいう人を見て、なんか気分悪くなりましたね。そんなこというなら、異なるスタンスの人間を短絡化して、デモン化するのが推進派だろと言われるのがわからないんでしょうか?

 これは推進派だけではないから根が深いんです。どっちの方にもおかしいのがいるんですね。程度が低い人間が自派に混ざっていた場合どうするんでしょうね?そちらのほうがある意味争点になったりして。

 なんというか、一方の視点しか持てない人が増えたというか、元から多いというか。コーヒーのブラックか、ミルクオンリーしか飲まない人がいますね。混ぜて飲め、混ぜて。混ぜて飲まなきゃこの原発の問題を論じることなんて出来ないんだということが理解できない人が、なんか多いなぁ~という感じ。

 多分、6:4とか7:3で決着がつくような感じになる。なんで10:0でしか物事を考えられないんですかねぇ…。

 まあ、己もたまに深く考えずに短絡的なツイートしますから、あんまり強く言えないんですけど。反対意見を言われても、それを許容するくらいの懐の深さは持ち合わせているつもりです。それが許容できない人の多いこと多いこと。まあ、今に始まったことではないですけどね。
     

 ※元は二本だったものを面倒くさいからひとまとめにします。ちょっと違う趣向でもうちょっと補足。
 原発デモというのはれっきとした政治運動なわけですね。岩上さんなんか、これまでとはまるで違う「普通の人」という表現を気に入っているのか、その普通の人押しでしたが、これは非常におかしいのです。デモに参加するのが本来普通の人ではダメなんです。二位じゃダメなんです。

 無論、プロ市民・既成の政治団体の人間・特に左翼的な人間は論外ですけどね。政治運動とはこれまで興味関心のなかった人が動いた!的なもので本来あってはならないのです。クララが立った!山が動いた!なんてのは論外なんですよね、実は。

 民主主義というのは不断の絶え間ない市民の政治参加・監視というのが基本論理ですから、その基本論理が作動していなかった日本においてそういうことを過度に主張するのはちょっとどうなんでしょう?自己の無知・怠慢をひけらかしているようで恥ずかしいんですけどね、己なんか。

 本来自分たちの怠慢プレーであって、一塁に走らないわ、ベースカバーできないわ、基本プレーを疎かにしているチームが、きっちりやるようにしました!なんてドヤ顔で言い出しても、殺意を覚えるだけでしょう?普通。

 まあ、だからといって、これまでそういう政治活動にコストを払う感覚がなかったのが、きっちり関心を持とう!今度は政治をやるぞ!となる重大な転換期なので駄目だ!駄目だ!なんて言いません。むしろ今未成熟だった日本人が民主主義制度のルール・マナーを習熟して成長する過渡期なんでね、それ自体非常に喜ばしいものです。

 ココらへん前回の続きで繰り返しになりますが、重要なのは今後、デモやって、あ~あダメだった。もういいや、かえーろ、やーめた―じゃなくて、これからなんですよね。俺たちの戦いはこれからだなんです、まだはじまったばかりなんです。

 脱原発で自分の政治主張・スタンスをどうするのか?何が何でも原発ゼロ!後の政治懸案はぜ~んぶ後回しでいい―という人から、いや原発は必要で、安全に使える徹底的な透明化・日本官僚を排除したシステムに!という人まで多種多様。その政治スタンスには反米~親米といったものから、経済的には成長・拡大絶対派だったり、反中央集権で地方政治をどうするか~とか様々なポイントから色んなスタンスに分類されるわけです。

 その様々な中から自己のスタンスを明確にし、多少異なるスタンスの人としっかり論じあえるか?自分はコッチ派だから、あなたのコッチ派とは異なる。しかし今回の選挙でこういう結果になったから、仕方がないが自分達のこの意見は引っ込めて妥協する。当然の理に基づいた判断・妥協がきちんと現実の政治の場でできるのか?

 そういうところがポイントですね。そういう主張も、相手の意見の尊重も、妥協も何も出来ずにいたのが、これまでのサヨクというか学生運動アノミーテロ集団でありましたから、そういう変なのに陥らないかどうかというのは日本の社会を占う上で重要なことだと思います。

 前回ちょっとイラッとしたのも、そういう基本がわからずに相手のスタンスの違いというものを無視して、何がたかが電気だ(#゚Д゚)ゴルァ!!みたいな人がいたからですね。そら、自分と関係なければたかが電気になるでしょうよ。自分の人生で自分は大切なのに、人にとってはどうでもいいものなんていくらでもあるでしょう、気づいていないだけで。その人達の大事なものを踏みにじらずに生きてきたとでも思っているのか?アホやろ。人間なんて絶対生きている上では、自分の重要のないものについて、たかが~で生きてるに決まってるやん。


 そしてその話につながってくることなのですが、首相が菅直人の仲立ちで何故か代表と会談するという話。( ゚Д゚)ハァ?

 おかしくね?なんで脱原発の代表なんているの?いやね、その代表という人が予備選挙のように、脱原発十万人くらいの人の前でスピーチして私の意見は~とか政治スタンスは~とかやって、その上で選ばれた代表というのなら分かるんですよ。でもそうじゃないでしょ?

 みんなの新任を得ていない勝手に代表名乗ってる?これなんて組織なんでしょうね?いかがわしい事この上ないのですが…。だいたい会談もクソも、実際野田さんの意見・主張が正しかったら、もしそうでないにしても話し合いの交渉の結果半年間だけ動かすとか、そういう結果になった時、その交渉結果をみんなに広めて納得させて、デモ解散させなきゃいけないんですよ?そんな能力無いでしょう?

 代表の権限もない、デモを解散させる実力もないのになんで勝手に交渉しているのか?わけがわからないよ。(◕‿‿◕)

 結局交渉して、なんにもならないんでしょう?ただ首相はあったという、話を聞きましたよという言い訳で、代表は自分たちは代表で首相に意見を言いましたという政治上のなんかポイント稼ぎなんじゃないでしょうか?全く不毛だと思いますけども。だいたい仲立人からして怪しいし。

 で、結局何が言いたいかというと、話のオチとしては政治団体化して、予備選挙のように自分たちの政策・政治スタンスをどうするかという作業をしなくてはならないということですね。数を束ねて、その結果自分たちの代表を選び出して初めて交渉をすることができるわけですから。

 脱原発運動とは政治団体化=票、政治家への圧力・交渉力を構成せずして成功はありえない

 無論、デモというものも重要な政治行動ですけどね。そういう当たり前の事実をすっ飛ばしてなんとかなるという考えを抱いている人が多そうなんで、まあこういう常識を書いておきました。知らない人が多そうなんで、ぜひ周りの人に教えてあげてください。
 ※田中康夫さんがツイッター菅直人さんから原発代表との面会外されちゃった(ゝω・)テヘッって呟いてました。やっぱり、脱原発代表ってのはプロ市民なんでしょうねぇ…。

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