てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

戦後史の正体/孫崎享②

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)/創元社

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 さて、戦後史の正体 (「戦後再発見」双書)/創元社①の続き

 <二章>冷戦。ココらへんは人物より環境の変化の説明が多いのでそこまで特筆すべきことも多くない。サラッと行きます。占領期日本の経済は死体置場と言われる状態。1946年のGDPは30~34年の16%で翌年でも40%レベル。米は日本を豊かにしようなんて思ってもなかった。

 全ては国際環境の変化による。ソ連との緊張が高まり冷戦、朝鮮戦争によって反共防波堤としての役割故の変化であった。米は少なくとも日本が自給自足できるレベルまで経済力をつけよう、元に戻そうと考えるようになった。それまで四等国にして工業の基礎をフィリピンにでも移してしまえ!だった。

 第二次世界大戦後の米の戦略は独・日こそが脅威で、二国が復活しないように見張ることにあった。しかし冷戦でソの脅威が高まることで、米国内の高まる占領経費への批判もあって日本にそれが負担できるくらいの国力をつけさせようということになった。ここにおいて我々は現在の駐留問題の端緒を見る。

 巣鴨プリズンで戦犯の岸信介は冷戦の経緯を注視していた。それは冷戦こそ彼ら戦犯の生き残る、政治復活・復権の唯一の道であったから。日本では冷戦を予見していた人は少ないようだが、戦中既にチャーチルは次の脅威を国際パワーバランスからソ連と想定して、ヒトラーと講話する気であった。

 リアリズム全盛の時代ではそれが常識。しかし理想主義で動く米、トルーマンヒトラーとの講和を否定。ソ連との共存が可能と信じた。結果は言うまでもない。戦後貧困の中、自由選挙で共産政権ができることはさほど不自然なことではなかったため、あっという間に共産ドミノの脅威に置かれてしまった。

 マッカーサーの構想では非武装中立国連と米の庇護下で保護国として日本を置くというものだった。つまり冷戦がなければさっさと駐留も終わるはずだった。冷戦によって駐留は想定外の長期化へ向かうことになった。半島を防衛ラインに入れなかったため北が侵略を開始したことは有名である。

 米は防衛するかしないのか意志が統一されていないというか、危機が目前に迫ると急遽方針を変更して、戦争に踏み切るという性質がある。当初クウェートに侵攻しても米は問題にしないというスタンスだったが、イラクが侵攻してサウジアラビアに接して急激に方針を変えた。

 氏の知り合いの優秀なイラン外交官は、ウラン濃縮で核開発を進める本国に米の開戦に警鐘を鳴らすと、本国の政策にケチを付けるのか!と上から睨まれる可能性がある。だから直接自分の口から危ないですよ!とは伝えない。しかしイラク外交官の口を借りて、私達がいかに米の意図を読み損なったか過去を見るべきだという形で報告する。これならおkになる、見事な手腕だろう。

 日本の大空襲での経済打撃は25%。食糧事情は最悪で家庭に十分な食料が行き渡るようになるのは50年以降。朝鮮戦争の特需でようやく経済復興を成し遂げることができた。マッカーサーは非武装派だったので日本の再軍備を否定するも、半島の脅威から至極当然本国の意向に勝てず結局軍備を認める。

 ダレスの日本軍事負担強化案を吉田は拒否。まだマッカーサーウィロビーの後ろ盾があるために吉田案を通すことができた。しかし、朝鮮戦争によってマッカーサーが解任されると事情は真逆になる。非軍事化路線の放棄・戦犯解放で公職追放令が緩まり、旧政治階層が次の選挙で復帰を果たした。

 すなわち米の目的=頼りになる同盟国日本再建のために、都合のいい政治家が表舞台に立つ。米の国家戦略・意図が変更になったため、対象パートナーも自ずから変わったということ。鳩山一郎の持論が自主憲法再軍備であったのが何よりの証拠。彼は日米相互防衛条約を唱えていたというしね。

 <三章>サンフランシスコ講和が華麗なオペラハウスで調印されたのに対し、サンフランシスコ郊外の陸軍基地。しかも下士官クラブ。わざわざ序列の低い下士官で~というのがポイント。日本の歴史家は問題にしないが、敗戦国アピールだと注目したのが元外交官の寺崎太郎。

 普通考えられるのが講和→安保→行政協定の順。しかし寺崎は逆だと主張する。条約だと議会で問題になれば可決しないし、コロコロ変わってしまうことがある。そうしないように政府間協定の形にする。そして安保を米に都合のいいように保った上で、日本を国際社会に復帰させると。

 しかしこの時代米国宛極秘文書で、外務省は協定をきちんと条約の形にしてくださいと米に言っている。国会・国民で判断されない物はおかしいというまともな精神がまだあった。協定・合意文書という形でこっそり密約でやろうという卑怯な発想は当時まだなかった。当然米はこれを拒否する。

 寺崎は主権を制限された首相一人が平和条約締結の数時間後に結ばれているのは独立国の条約ではないと手厳しく批判する。書いてはないが、おそらく前回のように結ばなかったら~と散々言われた末の駐留・行政協定であったのは想像するに固くない。喧嘩太郎と異名を取り、戦前米派の彼の米批判は重い。

寺崎は米派で松岡をぶん殴ろうとした人物。その彼が占領期の米に腹を据えかねて独立独歩で天下りもせず、一生を送ったことはもっと注目されるべきことではないか?官僚の矜持・モデルの一人として彼をもっと称えるべきではなかろうか?思うに阿りでなく、国益上の米支持だから岡崎は憤ったのだろう。

 日本人にとっての占領期とは、外務省与謝野氏いわく格子なき牢獄であった。外務省西村氏も言論の自由がないことを嘆いているし、江藤淳の占領期の検閲の著作を見ても、そこにリベラリズムのかけらもなかった。民主主義とはリベラルデモクラシーである。リベラリズムなくして民主主義とは片腹痛い。

 <余談>江藤さんの閉された言語空間は名著なので是非読んでほしい。でも中3くらいの時に読んで、いい加減に読んだ記憶があるなぁ(笑)。部分部分しか記憶にないや。1946年憲法とか本質を抑えてるなぁ、この人は。優れた人だったんだろう。そういや小沢くん水沢に帰りたまへとか読んでないなぁ。

 <続余談>たまに、保守派の大物江藤さんが小沢なんてクソだしw水沢帰れよ!なんていう読んでもないアホが定期的に出てくるんですよね。江藤淳はあまりに世間が馬鹿で政治家小沢の凄さがわからない。一旦引退してぐちゃぐちゃになれば小沢待望論出るから、一回休もうよって言ったんですけどね~(笑)。

 西村熊雄、岡崎太郎、大野勝己等日本の占領を一国の主権・独立を無視したもので、それに阿ることを属国感情だと手厳しく批判した例は斯様に多かった。そして当時それは外務省の傍流でもなんでもなかったのである。やはり大きかったのは言論統制であろう。岡崎久彦氏は日本人検閲官の存在を指摘する。

 高度な教育を受けた五千人、すなわち社会上層にあるインテリが、十分な仕事も食料もないという状況にあって(じゃあ学会活動できるじゃない!)、米支配の占領検閲に協力したこと。以後何かあれば、ドゥドゥンやろうじゃねぇか!さもないと警察にバラすぞ(チャー研)と脅して圧力をかけることができた。これが米が戦後日本を支配した一端 。

 財閥解体後、形成された経済三団体親米派で占められており(要人の名前が幾つか上がるが、この年代の人には有名か?麻生多賀吉くらいしかわからん)。労働運動も民主化支援策としてGHQの手の下にあって育成された。なんのことはない。今の民自のメインスポンサーは米によって作られていたのだ。

 財政界の後押しを受ける自民党労働組合の支援を受ける民主党、水と油のように思われるが、その本質は米によって作られた双子の兄弟。大連立など容易いだろう。米の言う通りに行動させることなど簡単に決まってる。であるからこそ本来ありえないこの二政党の連立を読売がバックアップするわけだ。

 日本の戦後は世界まれに見る寛大な占領は本当だろうか?『日本と米国―パートナーシップの五十年』にはそう書かれているが、そんなことはない。間接統治だから寛大というのは間違い。イラクのマリキ・アフガンのカルザイベトナムのゴ・ディン・ジェムすべて間接統治であり、米の一般的な形態。

 とりわけ間接統治だから寛大な占領という事にはならない。目的は米国式国体の育成であるのだし、被占領国に対する尊重はない。また必ず例に出される米のガリオア・エロア資金。この援助のおかげで上から救われた、経済に役立ったと。しかし日本は米軍の駐留負担をしている。金額的に殆ど同じ。

 つまり米が金を出したからというのは意味が無い。援助を貰わなくても軍事負担をしなければそれで賄えたのだから。おそらく議会へ軍費増大の負担をごまかす、説得するための架空計上のようなものだろう。官僚はともかく、なぜ学者に反米的な言説をするものがいないのか?それは米の育成にあった。

 占領期に米学会を作って、そこで親米学者を育成した。反米的なそれは許されなかった。学者を集めセミナー・シンパ・師弟関係で親米学者の系列を育成した結果だと。なるほど、これで謎が解けた。誰とは言わないが国際政治研究の権威で素晴らしい分析をする人が米よりで、必要以上に日本を叩く謎が 。

 <余談> 戦後すぐなら反省という意味合いからどうしても、研究が日本の意思決定を叩く傾向になってしまうのは仕方ない。が、未だに米の間違いや、日本のその時の主義主張を分析の考慮に入れない人がいるもんなぁ…。他は優れた分析をするのになんで偏ってるんだろう?と不思議に思ったものだ。

 <続余談>ちなみに国際関係と名がつくもので優れた学者は本当に一握り。何を言ってるんだお前は?というレベルがうようよしている。ネトウヨウヨしてます。慶応とか早稲田とかでも本当に変な人いるもんなぁ…。東大は昔から変人枠で変な人がいるけど(笑)。でも東大学者は優秀なの多いね、やっぱ。

 占領は長くても2・3年程になる筈であった。しかし冷戦という国際環境の変化で講和条約はずれ込んだ。日本が降伏したとき、重光も芦田もその後を見据えていた。降伏後即座に講和条約研究に取りかかったのである。敗北から次なる戦い、独立へと既に動いていた。やばい重光も芦田もカッコ良すぎ…。

 【速報】 重光葵芦田均のカッコ良さに惚れる

 軍部は占領継続を主張、国務省ダレスは早期独立を主張。ダレス三方針は早期独立、経済力ありの反共防波堤、基地は米の自由に使うの三つ。重要なのがダレスの基地に対する基本観念。望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間駐留させる権利を米が持つというものだ。これが今でも引き継がれている。

 安保条約を読むと、基地を置くがそこに日本防衛義務は明記されていない。それどころか日本政府の要請に従って内覧を鎮圧できるというのはソ連の周辺国を支配下に置く口実となった友好善隣条約そのものではないか。安保改定までこの不平等条約は続いていく。一難去ってまた一難、いや悪化か…。

 <余談>日本が開国以後、不平等条約に苦しんだということは中学生でさえ知っている。当時代の人はこれを何とか解消しようという共通認識があった。問題がわかっていたわけだ。しかし安保条約の初期が新しい戦後の不平等条約とどれだけ理解されていようか?ヘタしたら高校生でも知らないんじゃ?

 <続余談>いかな国難があろうとそれを危機と認識して立ち向かう国民の団結があれば、問題の半分は解決されたも一緒。しかし安保条約のそれはどうだろうか?米との関係が不平等であるという基本認識すらないのでは、何時まで経っても日本の危機/問題は解決されないだろう。日本よ汝の日は数えられたり。

 孫崎氏は占領期の吉田政権は仕方ないにしてもその後の講和以後も政権が継続されたことは許しがたいと論ずる。独立後必然的に機能が変わる。日本は吉田から新リーダーを輩出して、これまでとは違うということをビシッと示すのが筋。一線を画すべきなのに吉田が居座ってしまった。これは異常だ。

  <余談>吉田茂の従属は占領期には当然の選択肢。だが講和後どうして私の役割は一度終わったと席を譲らなかったのか?それは権威主義的体制の発想。自己の閨閥・派閥に権力を握らせ続けるためだろう。ようするに民主政治のセンスの欠片も当時はなかったということだ。そう批判した人もいなかっただろう。

 旧安保は5条、行政協定は29条。こちらに本質がある。それは日米地位協定と形を変えて引き継がれていることからもわかる。一見、日本の同意で基地返還ができるように見えるが、「要請があったときは返還を合意する」ではなく、「合意することが出来る」となっていた。つまり決定権は日本にない。

 合意が至らなかったらどうなるか?従来通りとなり、基地が残り続ける。つまり米が納得しない限りなんにもならないということである。これは歴史学者シャラーもそう述べている。言うまでもなく現状そうなっていて、実際基地が帰ってこないのだから説明するまでもなかろう。

 さらに親米派で知られる宮沢喜一は行政協定の担当大臣だった。90日以内に協議し同意を得ること、ただし同意がまとまらなければそのまま継続していいという文言に驚く。これでは日数を区切る意味が無いから。結果削除すると、岡崎・ラスク交換公文で復活し、気づいた時には既に成立した後だった。

 交換公文は国家間の合意文章、見つかって都合が悪くなると他の形にしてこっそり成立させるという卑怯技がここに始まる。事実上の密約であり、これは売国行為ではないか?都合の悪いことは隠してこっそり実行するのが吉田外交の手法。立役者の岡崎はご褒美として外務大臣に。

  <余談>以前つぶやいた消費税の議論で、国民に消費税について徹底的にその利点・欠点を述べて納得してもらった上で民意を問うという立憲政治の常道に基づいた手法ではなく、このようにこっそり知られないうちに実行しようという伝統はこの吉田政治に始まるのではなかろうか?

 <続余談>戦後日本政治は消費税の呪いで、審議拒否という悪習・悪文化が生まれて議会政治が死んだと小室直樹は論ずる。が、それ以前に吉田茂の時点で議会が最終権威・権力ではなく、権力者がこっそり実行するという悪習が存在したのなら、始まった瞬間から死んでいたとするのが正しいのかもしれない。

 <続余談> 日米地位協定による駐留米軍への裁判権放棄は明治時代の治外法権の話と一体何が違うというのだろうか?アイゼンハワーによれば14000件のうち9割を日本が自主的に裁判権を放棄したとある。かの明治の志士達がこのことを聞いたら草葉の陰でどう思うのだろうか?

 48年時事務次官吉澤清次郎はこの不平等状態をNATOにある『外国軍隊の地位に関する協定』に引き上げようとしていたが米は応じなかった。つまり独や伊に駐留する米軍は基本的にこれに従い相手国の法律で裁かれる(!!!(゚Д゚ )日本だけ認めない必然性がどこにあるのか!)

 <提案>以前から日本はEUに参加すべきが持論だが、やはりNATOに加盟しないとなぁ。どうにもならんなぁ。今の政治家でNATO加盟を訴えている人間どれくらいいるんだろうか?日韓安保に、日米相互防衛条約にやること山積みすぎ(´-ω-`)。

 片山内閣芦田外相時代、既に有事駐留を提案している。つまり有事以外は国内に米軍はいないという形態。前述通りダレスの意向にそぐわないこの政権は昭和電工事件で僅か7ヶ月で崩壊する。同じく鳩山由紀夫が有事駐留論を展開して失脚したのと似ている(鳩さんは疑獄すらなくマスコミ始末だが)。

 米のエージェントとして日本のドンとして振舞ってきた吉田は再軍備の声に答えられずにパージされた。フサイン、ゴ・ディン・ジェム、朴正煕などと一緒。賞味期限切れでポイ捨て。思うに占領継続にこだわった吉田は軍の復活を恐れたのではないか?米の代貸の地位を軍人に奪われると思ったか?

 鳩山内閣時代の重光外相は米に六年以内の地上軍撤退、更に六年での空海軍の撤退。日本国内の基地はNATOに準じる待遇で相互防衛のみを目的で使われること、防衛分担金の廃止を米に提案していた。米は有事駐留でいいとも考えていた。既に1955年の時点でこのような要求がなされていた。

続き→戦後史の正体/孫崎享③