てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

プロ倫についての一考―規範も大事だけど歴史&社会背景もね(ゝω・)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)/岩波書店

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(日経BPクラシックス)/日経BP社

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)/岩波書店

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 プロ倫を読む。やっぱり予想通り読んでも仕方がない、というか小室・大塚の解説を読んだほうが早いという感想。まず欧州の宗教に興味がある、その宗派に詳しい人間でないと読んでも理解できないだろう、これ。

大塚久雄著作集〈第12巻〉社会科学とヴェ-バ-的方法/岩波書店

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日本資本主義崩壊の論理―山本七平“日本学”の預言 (カッパ・ビジネス)/光文社

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 たしか大塚久雄はこの本だった気がします。間違ってたらすいません。小室直樹のこの本を読めば、なお理解できるし、日本の問題も論じてあるのでいいと思います。読んでみるといいですよ、損はしません。

 ああ、今回書くのはウェーバーの「倫理」論文に対する解説ではありません。まあ多少は触れてますけど、個人的感想なんで、よそから何の因果かわからなくとも、起こしに来た人が勘違いするかもしれないんで一応書いておきますが、個人的な感想なんで。ウェーバー知ってる人じゃないと読んでも面白くもなんともないことを書いてますんで。

 まあ仕方ないというのは多くの人が多分読めないという意味で。
もちろん個人的に収穫はあった

 資本家・経営者・上層労働者にプロテスタント系の人間が多い。もちろんそれは原因ではなく、ある程度結果であるとも言える。元から豊かでないと、その地位に付けないという要因があるため。だが16世紀プロテスタントに帰依したのは富裕な都市、交通・自然に恵まれた経済発展した都市だったということ。

 経済的伝統主義から脱却したため、思想上も同じように伝統主義的なものから脱却し、新しいものに結びついていったという面があるだろう。だがここで重要なのは、経済的に開放された富裕な都市などが宗教改革で教会から開放されたのではなく、別な支配形態に変わっただけという事実である。

 経済的に発展して興隆した新興階級の人々が、教会の支配を嫌ったという事実はない。むしろもっと厳しい宗教的規律を求めたという事実を決して見逃してはならない。15世紀末という時代ですらそうだったのだ。カルヴィニズムは16世紀にジュネーブスコットランド、16世紀末から17世紀にネーデルランド、17世紀にニューイングランドと、一時英本国を支配した。現代の我々からは到底許容しがたいカルヴィニズムの規律が猛威を振るってきた(!)のである。

 漸進的に規律が緩くなっていって自由な社会・風土が生まれてきたわけではない。まあ、実際はそうなんだろうけど、その前にむしろ徹底的にビシビシしごくというか軍隊並みの強力な統制・規律を求める社会的空気・風土があったことに注意。ワンクッション・プロセスを挟んでいるわけだ。

 つまり、例えば本来左に行くのが正しいという常識があったが、あまりにも左に行きすぎて、やっぱり左方向に行くのは間違ってるんじゃないか?とその失敗・反省を基に本来正しいと思われていなかった右方向に社会が進んでいくようになったのか。単純に最初っから右に行けばいいじゃんというような基礎があったわけではないことに注目しなくてはならない。

 条件が整わなかったから、右に行けなかっただけで、もしそうなったら当然当たり前のように右に行くという背景・環境ではなかったということを決して見逃してはならないと。啓蒙主義的な合理主義が当時は全盛でありまして、その啓蒙・合理といったものが次第に発展していって、資本主義や民主主義が当然の帰結として生まれたわけではないということ、そこに注目しなくてはならないわけです。当時の人はみ~んな、そういうものの延長に発生してきた、発展してきたんだろうと無意識のうちに考えていた。ウェーバーはそこに、喝!と違うぞ!重大な事実を見落とすな!と提言したから重要な大発見なわけですね。

 子供の頃神童と呼ばれた、いい子が将来立派な人間になるのは当たり前ですが、そうではなくまるでダメの悪ガキが将来なんでこんな社会的偉業を達成する立派な人に!という図式に近いわけですね。資本主義の発生というのは。そこに注目しろよ!とウェーバーは言っているわけです。

 この一見奇妙な事実にこそ注目しなければならない。新興階級は厳しい規律を欲し、このピュウリタニズムの専制支配こそ、資本主義の契機だったのである。

 例えばヒルズ族、ITバブル時代儲かっていた新興階級はどうしたか?豪華な暮らしをしてその金銭を存分につかって贅沢をした。欲を満たしただろう。ところが欧州で近代資本主義が起こった当時、新興階級・成り上がった者たちがしたことは真逆だったわけだ。ここに注目すると面白いことがわかるだろう。

 もちろん当時の欧州でも同じく成り上がった金持ちの一部は、その金銭で欲求を満たしただろう。ところが欧州ではそれが難しかったという時代状況があった、そういう背景が存在した。そこもまた一つの重要なポイントであると思われる。

 経済的成功を基盤に政治的成功に結びつける。これが富を手にした者の典型的なパターン。転化をするわけですね、経済階級から政治階級へ。ローマの騎士身分みたいなものですね。ところが世界の辺境に位置する欧州ではそれが無理だったしにくかった。かなり少数の者しか出来なかったんですよ、おそらく。

 蓄積された富=経済的資産を政治的資産に転換できない時、贅沢や投資によって政治資産・社会資産に転化できない時、どうすればいいだろうか?そうなったら残るは名声に向かうしかない。当時、名声・権威と言えば宗教的なそれしかない。その結果当時の富・力は宗教的資産に向けられたと見るべきであろう。

 ウェーバープロテスタンティズムの内面倫理が非常に独特である、独特なロジックを持っていることに注目して、このロジックが近代資本主義を形成する上での種子をはらんでいたことを論じるわけだ。んでまあその延長上として、ウェーバーが世界中の宗教を研究して、この近代資本主義の誕生につながるようなロジックはプロテスタンティズムにしかありえないロジックであったと主張するんですね。

 おそらくそれは正しいんでしょう。正しいんでしょうけど、だけども、ではどうしてそのような世界中の宗教・倫理・規範をチェックした時そのようなロジックが諸宗教に内在されていなかったのか?まあ全くないってことはないんだろうけども、思想上・社会背景上、そういった萌芽はあっても壁にぶつかって消えてしまうんでしょうね。普通の社会だったらそうなるんでしょう。

 問題は欧州といった社会ではそうならなかったという歴史上、社会上の環境だと思うんですよね。だからこそプロテスタンティズムの倫理が生まれたわけで。歴史背景・社会背景、実際の歴史を見てどう展開していったのか、歴史的展開で右に行ったり、左に行ったり揺れていったはずなんですよ。資本主義誕生のために好ましい出来事や反動的な好ましくない出来事(反動的って表現するのもおかしいかな?)、そういうことが歴史的事象・イベントとして色々あって、普通の地域西アジアとかインドとか東アジアなら、潰れていく・消えてなくなってしまうものが、欧州だけそうではなかった・そうならなかった。そこにこそ注目すべきだと思うんですけどね。

 宗教的規範・倫理が重要だったということはわかりますが、宗教単独で存在するわけではなく、社会や歴史的相互連関関係で発展・発達してくるものですからそれを見ないといけないと思うんですよね。宗教史・思想史単独で論じた場合、物事の本質を性格に見抜けないと思います。やるなら社会・歴史的背景、さらに相互連関関係の中で展開を一つずつ抑えないと正確な研究にならないでしょう。

 余計なコメントを若干付け加えると、もちろん別にウェーバーが間違っているというわけではなくて、まず現実の問題を見て内面倫理というものがどうなっているのかというポイントにウェーバーは食いついたんですね。ほう、おもしろい!いっちょ世界中の内面をチェックしてみようかしらん?ってなもんだったと思うんですよ。事実膨大な記述がありますからね、ウィクリフがどうだった、ツヴィングリがどうだったとか、細かい諸宗派がこうだった・ああだっていうのが、事細かにいくらでも出てきますし。

 そういう細かい話が幾つも出てきて、ページ数・分量が膨大に膨れ上がってきているので、ウェーバーが本を書いたと思われているんですが、そもそもこのプロ倫って『論文』なんですよね、そこを忘れてはいけない。本どころかその一節や一章にすぎない論文なんですね、これ(長すぎだよ!!!Σ(゚∀゚;))。

 注目すべき、世界的発見・テーマプロテスタンティズムの内面倫理が資本主義を生んだ!!というものが書かれているから大著に見えてしまうんですが、これは前触れ、前フリにしか過ぎない。オードブルで行ったら前菜くらいの感覚。

 そういう大きな絵が見えていないからこそ、見当違いな批判や誤解も生まれたんでしょうけどね。まあ、文章が複雑・下手すぎて読めないってのもあったでしょうけども(> <)。いや、ホント大塚・小室のような解説がないと10回・20回読んで、考古学のようにロジックを発掘する作業から始めないといけませんからね、これ。

 ちょっと話がそれましたが、要するに彼は不幸にも途上で世を去ってしまったので、研究が途中なんですよね。このあとイスラムやって、内面的規範とは?とでも言うような結論を一回出して、おそらくそこから実際の社会・歴史的展開を深く掘り下げたりしたんでしょうね。だから別にウェーバーが間違っていたとかそういうことじゃなくて、研究の途上だったから、注目するポイント・食いついたポイントが内面的規範だったということだけなんですけどね。ですからイスラム研究が終わったあとどういう方向に進んだか非常に気になるところではありますけども。

 もうひとつちなみに、よくゾンバルトウェーバーなんて社会学の泰斗争い、近代資本主義の分析について問われますけども、ゾンバルトが論じてるのは近代資本主義の発生に貢献した現象についてであって、ウェーバーが論じている近代資本主義の誕生とは似ても非なるものなんですね。そもそもVSみたいなどっちがただしいのか!?なんていう問題じゃないんですね。

 例えるなら、ウェーバーが問題にしているのは、子供が今まさに生まれて、どうしてこの子・将来人類に大貢献する偉大なる人物・偉人は生まれたのか?というのを両親の出会いを論じるのに対して、ゾンバルトはこの子が成長していく幼児期・小学生くらいの時期を論じているようなものですね。注目ポイントが違うんです。

 いやいや、資本主義なんてものはいつでもどこでも生まれるようなもんだよ~くらいの軽い感覚ならウェーバーのようなロジックにはならないんですね。ウェーバー近代資本主義のロジックは唯一の現象、世界中一回こっきりの驚天動地の現象だ!この時・この場所・この状況…っっっ!これを逃したら二度とありえないミラクルなんだ!という意識があって、そこに注目しているわけですね。いきなり資本主義をさも当然の現象のように分析されたら困るんだよぉぉぉ!っていう意識があるんです(なぜかひめはじけの口調)。

 んで、ポイントとしては普通の社会なら経済→政治へ転向・転化する。特に商業で成功したら、絶対土地を買ってそれで食っていく方向にまず向かいますからね。ところが欧州のような貧しい・制限がある環境・状況ではそれが不可能だった。よって経済→宗教というふうになった。多分日本の宗教勢力なんか見ても、チベット仏教なんか見ても、そういうのは特段珍しい現象ではないと思います。社会・歴史上あるべきこと、普通に見られる現象のうちの一つでしょう。そもそもローマ教会自体がそんな感じですもんね。

 本来ならカトリック・ローマ教会化するんですけど、そのアンチテーゼとして始まった以上巨大な宗教社会勢力になることはありえない。そのエネルギーを向ける先が経済なり、政治なり、宗教なり、文化なり向けていくものがないわけですね。余計なことを言うと、ルネッサンスなんかそのまさに文化バージョンなんでしょうけども。おそらくすでにルネッサンスという先行者・集団がいたことで、これもダメッッッ!と行く先がなくなった。封じられてしまった?さて、じゃあどうするか?となったわけですね。

 あとはもう個人の行動・規範を絶対的に律して、高めるしかなくなったということなんでしょう。勘違いしてほしくないのは別に全くやらなかったわけじゃないと思うんですよ。政治的転向・転化もやっただろうし、宗教―・文化―もまあ、チャンスがあったり社会上空白があればそこに進出もしていったはずです。ただし、その新しい社会勢力、プロテスタントや新教が向かった先というのは名誉だったということですね。

 環境的制約から、社会階級・階層の上昇が難しい。それができるのはほんのひとにぎりという背景があるわけですから、じゃあ残った人たちはそういう内面倫理を磨くことで、自分たちの価値を高めたんでしょうね。そもそも経済→宗教や文化ってのは実力というより、内面=人の心に訴えかけるものですからね。ここでも目に見える権力ではなく、権威を抑えようという動きの萌芽が見られますね。hard powerでなく、 soft powerですか。

 なんて言えばわかりやすいですかね?奉仕活動や寄付を社会上層の人はやって信頼や尊敬を手に入れますね。富と名声を交換するわけです。それと同じように本来の契約なら、ここまでやるのがその人の義務、それ以上のことをやることは求められていない。だけどもその約束・信義をきっちり果たす。そうすることで人間的価値・名声を高めるわけですね。

 宗教的ルールを絶対守る、倫理・規範を高めて立派な人間であるという誇りを獲得する。それこそが制限された環境の中で培われていった唯一独特の資本主義を生み出していったベースになったということなんでしょうね。だからこそあんなにホイホイ海外に富を獲得しに出ていったわけですから。

 まあ、こういったロジックでウェーバーの内面規範の補足をしておきたいと思います。宗教的ロジック展開よりも、こちらのほうがよりポイントとして重要だろうと思いますしね。

 そもそも社会が変わるとき、パワーバランスが崩れて新興階級が出てくる時ってのは、自分たちの登場を肯定化するためのロジックを必要としますからね。旧権威がそれをホイホイあたえてくれるなら、こういう新宗教・ロジックが出てくる必要もないんですが、そこは伝統主義のお約束、新興宗教のニーズを満たせるわけないんですね。

 新興階級の登場にそれを支える新思想・新宗教の登場がスムーズに行く事。また欧州の多様性を見ても然り、諸地方で様々な教団が行動をしたように、テストがいくらでもできること、ひとつの色に塗りつぶされずに、実験地が確保されたこと。培養地がいくらでもあったこと。新階級も新宗教教団のありとあらゆる組み合わせテストをする余地があったことが重要なんでしょうね。

 ※どこにこれ残そうかな?と悩んだ結果小室博士のところにしたんで余計なことをさらに書きますと、博士も近代資本主義を論じる上でウェーバーの一回こっきりの発生の問題と、資本主義を機能せしめる倫理・精神を多少混同しているようなところがなくもない気がします。現代のように資本主義が常識くらいまで広がり、技術も進歩した世の中になるとちょっと違うんですよね。資本主義の社会を無から、ゼロから創りだそうというのと、既に基礎ができてからの社会だとまた少し違う。まあ、倫理・内面的基礎づけがないと近代資本主義は成立しないんですけどね。中国なんか見てもわかるように、その精神・エトスがなくてもできちゃいますから。

 まあ、博士に聞いたら、ああそう読まれちゃった?そういう意味で書いたんじゃないんだけどね。そこひっかかるか~、じゃあこういうふうに表現したほうが良かったかなぁ?ははは、(こやつめ)っていうレベルにすぎないんでしょうけどね。

 ※追記1、そういえば以前書いた話で、ルターcallingと訳していない!ということで大騒ぎしている人がいるという話をしましたが、ルターの核・ポイントはberufの観念でしょう?第一ドイツ人のルターがcallingにこだわる必要性がどこにあるのか…?callingがなくては論が成立しない!なんていう要素がそもそもどこにもないんですけど…。プロテスタントが発展していく上で、どこかで誰かがcallingを使い始めたということでしょう?なんでそれが問題になるんですかね?どこにもウェーバーはルターがcallingという観念を生み出したんやで~!(ババーーン)なんて書いてないんですけど…。

 ※追記2、コメントで書いてて思ったことですが、プロテスタント職業に貴賎なしの概念をもたらしたことが近代資本主義を発生させる上、成立させる上で非常に大きい役割を果たしたわけですね。むしろ先にそちらの要請があったというべきか。まずはじめに身分差別される人がいた。商人・工業人だとか、職業=身分ですから、仮に経済的成功を得ても、何だお前らは!と同じ人間扱いされなかった現実が先にあったわけです。

 まあ、このへんは江戸時代いくら金を儲ける大商人でも公的な場ではかなり下の侍、ド貧乏侍の下座に甘んじなければならなかったことを見てもわかるように、社会地位・階層的上昇は許されなかったわけです。

 

 職業&身分で差別するな!っていう社会背景がまずあって、そのあとにそれと予定説・救済が結びついていったということなんでしょう。だからこそ、神は既に救済している人を決めている。努力は無駄無駄無駄無駄無駄ァ!という論理を倒錯させて、180度真逆にひっくり返して件の予定説ロジックを生み出したわけです。

 普通の人は努力(=禁欲)なんて出来ない。が、しかし!最後まで!努力を!し尽くすことが!できたなら!、それは!神が!あなたの救済を!決めていた証拠なんだ!Ω<な、なんだって~!という因果関係を真逆にしたわけです。

 労働・商売の結果で生まれた利潤を隣人愛として肯定したわけですね。要するにこの隣人愛・利潤があればあるほど救済された証だ!と。だからこそ、そこにインチキして騙したりしたら意味がなくなるわけです。マモニズム、結果を無視したとにかく銭じゃあ!銭さえ稼げたらなんでもええんや!なんてのは絶対許されなかったわけで。汚いことして稼いだら成金として避難されるように、身分上昇が認められるわけ無いですからね。

 身分上昇を社会に認めさせる、身分差別を打破するにはやはり実力・能力しかない。能力を発揮し社会に貢献するものこそが正しいのだという、ある種階級闘争のようなものがカルヴァン教団の本質だったんですね。

 身分上昇の手段としての闘争という性質を見逃してはならないと思いますね。似たような現象は世界中どこにでもあったでしょう。しかし帝国に集約されてしまうその他地域ではその自由競争・身分闘争というのは自然と壁にぶつかってしまうということなんでしょう。インドのカーストを見ればわかるように、自然に社会に一つの階層として組み込まれて、ある時点でその逃走は終わりを告げると、伝統主義社会に回帰して集約されてしまうと。

 最終的に伝統主義社会から解放された西欧の風土、多様性=自由競争がなくなることがなかったという点こそが己は重要だと思いますけどね。そういう意味でEUなんてのはマイナスの点もあるんですけどねぇ。そういうところはなかなか指摘されないですね。

 その能力主義こそが資本主義につながっていく大きな要因でもあります。能力主義という点に注目しさえすれば世界中に資本主義を生み出す内面的動機が丸でないとかはやはり言いすぎなのだろうと感じますねぇ~。

 人文主義ヒューマニズムは人第一でカルヴァンの倫理、神こそ第一と間逆なんですよね。ところが今言ったような能力第一=身分解方で結局ヒューマニズムに貢献していくのが面白いところですね。