てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

袁術・袁紹の政治資産

ツイートの三国志ネタを解放。めっちゃたまってたので。

【洛陽と長安の話】

 そういや前漢から後漢へと移り変わるとき、河南尹に昇格する。そのときって、司隷校尉とか三公九卿の役所とかまるまるお引越しですね。長安の首都機能は一気に空白化したんでしょうかね?

 昔っから中国は副都・両都制みたいなかたちでやってますからね。後漢の登場がこの始まりなんかな?やっぱ。三輔系いますし、西域情勢危うくなったり、遊牧対策の拠点とかそういうところの機能は残ったんでしょうけど、他になんかあったりするんかな~?急速に政治としとしての機能を洛陽に奪われることになった三輔系の人の気持ちやいかに。

 後漢が誕生する前に長安ボロボロになったってのが洛陽首都化を後押ししてくれたんで有り難かったでしょうね。しかし後漢の再建が洛陽復興ってのが重要な意味を持ったんで、長安再興もまた何らかの政治的イベント、色彩を持ってたんでしょうなぁ長安再興イベントって何をしたんだろ?

袁術袁紹の政治資産の話】

 そういや袁術曹操の政策の距離って意外と近いんだよな。袁術の三輔中心は長安主体の前漢回帰。西北列将系統の曹操はぜひとも欲しい人材。しかし孫権とくっついてるんだよね袁術は。なんで地元の頴川・汝南でなく、三輔・揚州といった形なのか?そこが袁術を理解する鍵なんだろうね。

 袁紹と違って袁術って地元のコネ築いたり、政治キャリアで中央ばっかであんまり地方に出て~っていうのがないんだよね。中央でのキャリアが長い分、そこでしか政治資産を築けなかった。その時代の三公九卿が三輔・揚州系。&同輩、同じ年頃・キャリアの出世頭達もそこら辺が多かったっていう繋がりだけかしら?

 ああ、そうか袁術の頴川・汝南系の政治資産、ルートの欠如は孫堅主体で必要ないからだけじゃない。そもそも袁紹と仲が悪くなったのが、袁紹献帝否定以後だから、それまで袁紹を通じて繋がっていたんだろうなきっと。曹操の裏切りと同じく、袁紹の裏切りで頴川・汝南系がごっそりいなくなったんだろう

【姦雄という言葉について】

 漢書で遊侠について「処士を退け、姦雄を進めるもの」としている。姦雄という表現になにか独特な意味合いがあるかもしれないと調べてみた。正義によると、姦雄とは姦猾雄豪のこと。姦猾=ずる賢い者のことで、よく悪官汚吏のこと地方に君臨するそれとして記され、処罰される例として出てくる。雄豪は群雄のこと、つまり乱世に乗じて地方に君臨する、跋扈する面倒くさい存在といえる。漢朝再興の理念が袁紹に託されたのであるなら、その邪魔をしかねない姦雄という表現を許劭が曹操に与えたのは物凄い意味深であると言える。

 姦雄という表現に遊侠としての意味合いがあることもまた意味深であるといえる。曹操はこの時点では遊侠・豪侠として評価されたとも言える。まあ、袁紹なりほかの勢力も殆ど豪侠だったのだけれども。そういうところを見ても面白いかもしれないという話。

 汝南での格付けに曹操がわざわざ出向いていったというのが、袁紹さんに行って来いと言われたか、それとも認めて欲しいという自発的行動。そういう気持ちで出向いたら、「お前は姦雄」宣告。つまり袁紹さんの役に立つどころか邪魔になりますよと釘を差されたんじゃないかな~と思いましたまる

 やっぱ頴川の有名な人に会いに行ってコネを作りに行くんじゃなくて、汝南っていうのは当時の力関係が汝南>頴川ってことか?それとも袁家のように汝南のほうが柔軟な風土があったのかしら?

前漢・哀帝の話とか】

 漢書の本紀を数本チラ見したけど、資産いくら~という表現が多い。当時の経済はまだ金銭で簡単に資産を見積もれた経済状況だったんだなぁ。董卓の宦官ポスト廃止、士を当てるというのは人気取りかと思ったら前漢に前例があったんだなぁ。哀帝の時西王母がやってくるぞ!というデマがあったのが面白い話。

 んで、哀帝については武帝が崑崙に使者をやって、その返礼という意味合いがあるんですよね。これが祝福なのか、それとも漢はもうだめですよという死亡宣告なのか…!面白いなぁ。

 哀帝は夏賀良の進言に従って号を変えるということを真剣に検討して、その後数ヶ月でその案をひっくり返している。情勢不安で動揺してつい…というより、おそらく治国の要術である道士の進言を真剣に検討し、王莽に見られるような圖讖のような瑞兆がなかったからだろう。それがあれば禅譲あったかも!?

 んで、面白いのが哀帝が国号を陳というものにしようとしていること。単に洛陽ではなく、陳あたりに遷都を考えていたのではなかろうか?そこら辺が地理的に袁術となんか関係しそうで面白いやね。あと成という国号について、袁術が成としたという根拠はおそらく周公にあると思うのよね

 孔子の子孫が魯侯(だっけ?)に報じられ、周公の子孫は成に報じられている。つまり袁術はこの周公にあやかって成王朝を開いたのだろうっていう思い込みに基づいた誤解なんでしょうね。実際有り得そうな話だし。まあ、やっぱり漢書を読まないと色々わからないことが多いんだろうなぁ、きっと。読むか…。

 当時は孔子や周公のような成人が出る!500年経ったらその周期・サイクルで聖人あるで!という思想が哀帝を動かして、哀帝がダメだったあとにその願望を引き継いだのが王莽だったんでしょうね。哀帝なんか始めっからいらんかったんや!っていうところでしょうか。

 哀帝の革命は未遂かと思ってたら、国号も実際に変わっていたんです。てっきりステップ踏んで少しづつ革命(?)を進めていく感じだと思っていたので、それがはじめの段階で潰えたのかと。黒歴史扱いだったんですかね?チラ見なんであやふやですいません。

 やっぱ遷都とかプランがどうだったか気になりますね。夏賀良とかバックボーン何かなかったのかしら?例の情勢不安の際には賢良方正直言の士をあげよ~と言ってその中で目についたから採用したけど、後押ししてくれる政治勢力がないから、そっ消しって感じなんですかね~。

【増渕さん読んで思いついたネタ党錮何進さん

 そうそう、もひとつ、増淵さんの新版読んで面白いネタあったわ。党錮の学生についての話。彼らって「客」なのよね。ほっとくと不穏分子になるから京の太学に集めて監視しちゃえ~いっていう発想に近い。勉強で上からの思想統制もできるしね。んで、学生は次第に客的性質を帯びるようになる。

 三万人もいた彼らの本分は就職活動。もしくは名声を高めて郷里ででかい面をすることだから、そっちの目的のために活動する。勉学で名を立てられるのは一部。あとは社交で名を高めようとする。すると浮華、派手な言説で飾り立てようという風潮が盛んになる。あの人は~の才とか、~の再来とかそういった相互格付けで高め合うんだけども、彼らの間で名を知らしめるのは直に有名人に評価されること。しかし機会はないから、文章作ってそれを評価してもらうしかない。つまり詩が流行った根拠はここにあるというね。曹操の詩の始まりは党錮前の社交界・格付け文化と深い関係があるという話。

 ああ、そうか屠殺業の何進さんって普通に南陽の豪族っていうだけじゃなくて、樊噲のように屠狗を生業にするものは任侠と相場が決まっているから、それだけでもう子飼いに任侠の士がわんさかいるはずなんだよな~。そういう人がその後出てこないってことはやっぱり袁紹の奔走の友に吸収されたのかしら?それともやっぱりそういう系列から袁紹とかに顔が利いたことが何進採用の大きな要因だったのかもしれない。

曹操の魏王継承の時の話】

 袁紹にしても董卓にしてもどれだけ強大な勢力でもトップが死んでしまえば政治の人的資産は消失してしまいますから、あっという間に勢力が瓦解してしまいますね。漢を解体できなかったというのも強いと思いますが、時間的猶予がなかったという要素のほうが大きいと思いますね。魏建国は。

 殆ど乱世が終わっているので曹丕曹植もキャリアがあるので、漢朝でも残ってはいけると思いますが、魏王朝でないと築いた権力を維持できないという武将組の問題。あとは家学で袁家や楊家のように何があっても一定の地位を確保できるという訳ではなかった事が大きいってところでしょうかね。

 若いころ遊侠であった曹操さんはその遊侠仲間と墓荒らしをしたことがあってもおかしくない。その結果、墓なんか作ってもどーせ暴かれて意味ないよという結論に至ったゆえの薄葬令だったりして

 RT @daradara3594: 陳矯伝によれば曹操死亡時に卞后は曹丕と共にギョウにいた。つまり彼女は218年7月からの曹操最期の遠征に随行していなかった。だが曹操は翌219年に漢中から長安へ還ると卞氏本人がその場にいないにも関わらず彼女を王后に立てている。何故、曹丕立太子の時のよう遠征前に済ませなかったのか。

 <続>RT陳矯は西曹属として漢中遠征に従軍した後、尚書に転じ遠征軍に先んじて魏国に還されたが、その道中に曹操は死んだという(陳矯伝)。何故、遠征中であるのに陳矯だけを急きょ漢官から魏官に移し、単身ギョウに返したのか。本国に急ぎ報告すべき重大な問題が曹操に生じたからだろう。

 曹操の健康問題が急速に悪化していったというのが自然な話でしょうが、もう一つ漢中で劉備を叩くというのが禅譲プロセスの重要なステップであったというのを思いつきました。夏候淵が死んでプロセスが乱れて、ドタバタしたというのが加わったのかも劉備撃退→論功→曹丕に王位継承プロセスを安定化とか。