てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

朱子学 思想について中国心学の稜線―元朝の知識人と儒道仏三教/三浦 秀一のメモ

中国心学の稜線―元朝の知識人と儒道仏三教/三浦 秀一

¥9,975 Amazon.co.jp

 というわけで、読んでみました。朱子伝 (平凡社ライブラリー)/平凡社 三浦國雄著の続きです。中国思想の流を把握したかったわけですが、うーん、わからん。Ciniiぐぐると、

副榜挙人と進士教職 : 明代における地方学官と郷試考官の一特徴

明代科挙「性学策」史稿 王門朱得之の師説理解とその莊子注

人己両忘--陸西星『道徳玄覧』を論じて王道『老子億』に遡る

明善・觀我・野同--明末における桐城方氏の家學とその繼承

明代荘学史研究のために--荘子注の出版と「成心」および「渾沌」解

元末の宋濂と儒道仏三教思想 宗濂『竜門子凝道記』と元末明初の諸「子」

金朝性理学史稿--13世紀前半の北中国における程朱学と新道教の交錯

金元の際の全真教--范玄通・王棲雲から姫知常へ

金末の宋学--趙秉文と李純甫,そして王若虚

宋末元初における幾つかの「老子」首章理解--劉惟永編集・丁易東校正「道徳真経集義」の思想的位置-下

 と、まあいくつか出てきたのですが、流れがわかんないですね。・中・小と構造があって大きな思想の話をまず抑えないと、基本問題・構造がわからない。その大構造の話がないのかな?中構造・小構造のはなしばっかりで素人の己にはなんとも理解しきれませんでしたね。まあ一応読んだのでメモ書きを。

上篇 金への道学の輸入

 p58、金の科挙は詩賦課が重視された(出世が早い)。古典の解釈・知識などは揉めるし、それだと漢人に勝てないからかな

 p61、趙秉文、宋学輸入なのに、王安石以降実践が軽視化したと、現学問・科挙の空虚の警鐘。

 p100、金末には河朔人士の反乱、王朝の中心は南にシフトし、河南が中心となる。この時期の北方からの人口流入過多と三融合は関係ありか?政治の変革が思想の変革を生むという例のパターンがありそうな気がする。あるいは曹操の北方遊牧民の強制移住と、道教や詩の重視のような政策と何か共通点を見いだせるのではないか

 p102、李道謙、科挙童子課→(兵役の可能性から)全真教へ。儒は宗教という扱いを受けていなかった。道・は宗教扱い。モンゴルの儒にわる元朝統治階級の「儒」だったのか?元においてはこれまでの統治階級における「儒」のようなものは不在のまま運営されていたのだろうか?貴族制ならばその貴族をまとめる思想として全真教などが機能していたのだろうか

 p105、住民俘虜=奴隷となる。その再編のための全真教の隆盛かな?貧民救済は勿論あっただろうし。

 p112、河朔の士民10分の2が全真教に。「清浄」の教理に道教の呪術的なものはなかった。禅も、サンガの特定戒律なし。仏と道をたして融合して、イイトコどりか?簡素化の反面現象として、自称者・勝手に名乗るものが現れ、しかも低俗なものが出てくる。拡大に伴う組織規律化の失敗か?末端が腐敗する。

 p117、殺人・貪欲な渡し守の入信(賤業に求められる改心機能)。この時代、このような河で生業をする階層を抑えことはやはり全真教の影響力拡大に大きな影響を与えたのだろうか?北方を喪失して、その支配下から南下する際に、また河を挟んだ国防が重要な意味を持った時代なら尚更

中篇 元は全真教・天師道・チベット仏教などが盛んになる。1204年の翰林学士院の提言(また1264年のクビライなど)など、儒と道、孔子老子のミックスが行われた。儒教はそれらが全盛の時代にそういった方面で生き残ろうとしたということか?珍しく自己修養の修行などが重視された時代になっていったか?

 至元年間の老子尊崇は黄老思想=経済政策としてのそれがあるのだろうか?前漢時代の経済政策としての黄老思想と相通じる性格がありそうな気がするのだが

 p321、科挙廃止政策―は金に始まるものか?推薦制度に拘ったのは、科挙の弊害に基づくものなのだろうか?またあるいは征服王朝ゆえの少数民族で管理する必要性故か。官僚地主=郷紳化の防止か

 p329、長い中断の後科挙再開でやり方が分からなかったために役所が混乱した。

 p334、合格者の底が浅い?その後の無能でも露呈されたのだろうか?まあこれまで科挙官僚を作ろうという基盤もなく、学問も盛んでなかったのならその後の学者たちから見てレベルがお話にならない状況だったのだとは思うが…

 p339、1333年、また科挙中断。儒者自身にも原因あり。果たして元の科挙導入によって望まれていた政策・効果とは一体だったのか?それが果たせなかった?もしくは改革の失敗か?改革による望ましくない結果でも出てきたのか?モンゴル貴族らの反発とか

下篇 宋

 p351、禅師千巌と論戦し「方外の交」。仏教の重要性=般若心経注釈

 p358、六を「心」の学問として位置づけ、と釈一貫させる。

 p359、仏教批判、朝に置ける隆盛と腐敗。権勢や利益で政治教団化する。中国において仏教はほとんど必ず腐敗する。これが重要テーマか?儒は内省せず、いずれにせよ儒仏とも本質をわきまえるものは少ない。

 p364、「心」と「経」の一体化。

 p368、王釋(漢字が出てこない…)小人儒・儒と現状の知識人を批判。

 p370、宋濂の心学の批判、改革実用の重視故の心学批判。理論・境地高くても、実用性がなかったということか?天=グローバル経済・実利追求思想か?復興・復国および領土拡大でバブル経済になる。そして功利主義思想が生まれ、伝統儒仏は勢いを失った。経済拡張期も過ぎて、経済が下り坂となり、政治危機も相まって再び儒仏思想を見つめなおす、危機克服のため学問需要が高まり、伝統思想復活という流れかな?まあたいていどの時代でもこういう傾向になりそうなものだけど。

 つまり興国と亡国では必要とされる思想が違うわけですね

 p408、「子」ブーム、元末江南で戦国諸子を真似て子を名乗る。 p414、朱子学&内丹説セット。それぞれ「子」で格物致知を追求。

 p434、明では子は父母(庶子はその母も)、の喪が三年と、喪の意味が重くなっている。父存命で実母一年、庶子の母の喪必要ないというのが覆えされている。官僚対策かな?

 p440、仏道を政治的に利用したい朱元璋にとっては宋濂は格好のブレーン。無論宋濂も何でもかんでも従うわけではない。対立する点はあるが、さりとて衝突まではいかない。朱元璋いわく、宋濂は古今の典故に精通しているが、実際の政治には不足。ただし今の儒者では文章能力ベストとも。

 方孝孺は宗族の和をもって自己実現が出来ると、学問の中心に据えていた。だから永楽帝にあえて逆らって死んだのだろう。王朝&皇帝に殉じたというよりかは、学問に殉じて死んだ、殉教したと見るべきかもしれない。出仕拒否という選択肢はなかったのだろうか

 p468、逆らう儒臣をポイ捨てする洪武帝に、彼ら儒臣に挽回の機会を与えた宋濂。

 p469、粛清=元以来の南人官僚と地方豪族の関係切断という目的があった。元や清がそれをしなかった理由はなんだろうか?異民族政権だと必要がないのか?

 p472、宋濂の心学は個人の恣意的な文章活動の典拠になる。

 p475、永楽帝の心学への言及によって「心学」の内容は固定化される。テーマとして論じにくくなった。以後英宗復辟。1459年に無冠の者が提言するまで心学の上奏はなかった。

 p481、王守仁の心学は明晰、科挙官僚の統治能力を求めるもの。

【おまけ】

浄土真宗の教えが越中職務上の「穢れ」に寛容性をもたらしたというのを見かけまして、そこで肉食を忌避するあまりクル病が風土病になったというのがありまして、肉食とクル病の関係ってのを思いつきました。もし肉食によってそういう病気対策といった面・性質があったとしたら、クル病対策ということで肉食に違った説明が出きますね。

 肉食妻帯という「日本仏教」のさらなる過激化は、朱子学とかと関連してみると面白いと思うんだよね。日本仏教がああいう方向に進んでいったのは中国での仏教の衰退、宋学の登場が背景にあると思う。日本もまた中国と同じように仏教が滅んでしまう!仏教消滅の危機感こそ日本仏教のさらなる過激化の要因。両者の相関性を研究している人はいないのかしら?

 そういうことをかんがえると、ああそうか、どうして気づかなかったんだろ。家康はあれほど一向一揆に苦しめられた経験を持つ、過去がある。当然家臣が再び裏切ってそちらサイドに立つことを想定する。それをいかに防止するか!ということを考えたに決まっている。んで、上で書いたように、じゃあどうして中国は仏教を克服したのか?それは朱子学があったから。つまりそのための朱子学か。家康はいわば仏教・浄土教キラーとして朱子学を官学に導入したんでしょうね。中国の士大夫階級のように朱子学によって統治階級を作って民との結合を防ぐ。徳川幕府儒学導入っていうのはこのためか。今更気が付きましたわ。