てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

ふしぎなキリスト教 読書メモ

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

 読んだ個人的メモを。というか「ふしぎなキリスト教 批判」でぐぐると拙ブログがトップに来るのは何なんですかねぇ…。他にいくらでもきちんとした解説ページがあるでしょうにね(^ ^;)。そういえば、「振り向くな君は 打ち切り」もトップで出てきますね。「振り向くな君は」単独ワードでも四番目に来ちゃってるんですが…これは一体…(ドン引き)

 

 

 まあ、言うまでもなく、キリスト教理解のための本というより、近代理解のための本。近代を理解するためには、近代化の背景・土台となっている思想を理解しなくてはならない。キリスト教の論理、思想といったものが近代理解の鍵になっている。そういった問題意識で社会学者が書いたものであることに注意。

 

 宗教学者でない、また宗教学的観点から書かれていないのだから、足りないところがあるのは、あるいはその視点から見て違和感・おかしい点があるのは当たり前。メインロジックを無視してなんだかんだ言ってもしょうがない。佐藤優氏は信仰者でありながら、さすがにその違いを理解していたようですね。どっかのブログで佐藤さんが「批判はとるに足らないこと」と書いてあるのを見ました。

 

 メインロジックを無視して読むのなら、批判なんていくらでも出来る。この観点から読めば、こういうことになりますが、この点はいかにお考えでしょうか?と質問するならともかくね。自分の望むことが書かれていないから、批判するあるいは失格だ!なんていうのは学問の基本を知らない証拠。

 

 メインテーマが「近代理解」、そのためのトピックが「キリスト教」。メインテーマを「キリスト教」として論じる本に比べればそりゃ不十分でしょう。切り口が違うのですから。まあ、そんな前回書いたことは置いといて、内容に行きますか。

 

 ユダヤ教キリスト教がほとんど同じ―という表現は絶対クレームつくだろうなぁ(笑)。まあざっくり語る、おおまかに捉える立場、宗教と縁が程遠い社会・人間への説明としてこうなりますわな。近代を理解する上で、現代社会を生きるとりあえずの知識がほしい人には、これくらいでなんの不便もないわな。

 

 ユダヤ教キリスト教イスラム教とは違い、別に預言者ダメ!絶対!という教義があるわけではない。なのにその後預言者が出てきていないのが面白い。ユダヤ教も確かイエスを認める・ないの違いがあったっけ?以後預言者が出なくなることをもって完成しているんだよね。

 

 イエスの存在はキリスト教を生んだ!というよりか、むしろ最後の預言者であってユダヤ教を完成させた!と見るべきかもね。まあユダヤ教徒はそうみないだろうけど。ユダヤ教は王・預言者・律法学者の3点セットだった。それが前2つの排除によって最終的なユダヤ教という形になっていった。

 

 神官のような存在も昔はいた。それすら排除し、律法学者に特化することでユダヤ教の共同体の一体性は生まれた。王や神官はともかく、預言者だけは民衆の支持があってなかなか廃れなかった、そういう背景があったように思う。律法学者VS預言者ユダヤ教の最終戦争とでも言いますかね?

 

 律法学者の勝利で終わったわけだけど、その戦争で敗れたキリストの意志を継ぐものが、律法学者主体のユダヤ教ではなく、「預言者主体のユダヤ教」という形で新宗教キリスト教を興した。キリスト教の始まりをそういった面から見るとまた面白いですね(キリスト教預言者主体のユダヤ教として見る視点ね)。キリストにしてからユダヤ教宗教改革者ですからね。

 

 以前、どうしてユダヤ教預言者でないのかな?と頓珍漢なこと書きましたけどそりゃ当たり前ですわな。出てきたら一体性が保てない。預言者排除で革新性は皆無に近くなったが、保守性は完璧に近いほどに高まった。究極の保守主義思想でこそ民族の一体性保たれるというシステムですね。

 

 対して、キリスト教とは革新丸出しのような宗教。信仰以外余計なものいらないのだから。こんな思想を唱えたら、そりゃユダヤ教の皆さんは怒り狂いますわな。保守政治家にゲイこそ正常な人間だ!この主張を認めろどころか、お前が間違っているというようなものだもの。保守政治家は怒り狂うでしょう。

 

 イエスの前身としてヨハネがいて、彼もイエスほどではないけども相当な革新的な改革を主張した預言者だったろう。そして一定の理解を得ていたこともわかる。だからこそユダヤ教の一体性を崩しかねない革新思想を、律法学者は血眼になって排除にかかったのだろうねぇ。泥棒より思想犯の罪は許せない!とななったと…。

 

 イエスの父はヨハネという妄想を思いついた。これで一本面白そうな小説が書けるんじゃないか?処女懐胎とか処刑とか色々結び付けられるしなぁ。

 

 「ふしぎな」という言葉の意味は一神教的文化背景がある地域・人からするとそれがスタンダードなのだから、不思議なんて感じるはずがない。それが当たり前の感覚。しかし我々日本人は全く違った常識・背景を持ち、一神教的素養に乏しい。故に一神教の発想を「ふしぎ」と感じる。この日本人から見ると「ふしぎ」=欧米の常識を理解しよう―そういった視点から始まっている。

 

 そういう前提から、詳しくない人間が近代の土台であるキリスト教の発想をどう理解していくべきかというスタンスですね。逆に彼らからすると一神教とはまるで異質な常識・価値観からスタートしている日本人の価値判断は理解できない。向こうの人が書いたら「ふしぎな」日本(or教)になるでしょうね。

 

 新書形式故の限界、これでもかなり分厚いんですけどね。文量に制約がある。ユダヤ教キリスト教、近代への影響の三部構成。キリスト教を理解するためにはユダヤ教を知らなくてはならない。個人的にユダヤ教のほうがもっと知りたいんで、ふしぎなユダヤ教を出して欲しいですね~。二冊に分けて欲しかったな。 ユダヤ教からキリスト教へで一冊。んでそのキリスト教が近代へでもう一冊。―と二冊にわたって出せばもっと詳しく書けたでしょうからね。

 

 世界宗教には前提となる思想・宗教があってそれを乗り越える形になっている。キリスト教だけユダヤ教を否定しながらも、内部に旧約聖書として組み込むという独特な二重構造を持っている。

 

 仏教はバラモン教を否定し、イスラムは影響を受けていても旧約のような形で保存せずにクルアーンで再解釈し直している。否定しながらもそれを保存するという、旧約・新約聖書という二重構造を取るのはキリスト教くらい。相対立・矛盾するものを、同時存続させるというのは偉大なものを生む定理ですね。

 

 丸山真男は宇宙誕生の論理を三つに分けられるとした。神の創造一神教タイプの発想、その対極として日本のようにまるで植物のように自生してくると考える発想。そしてその中間に神が宇宙を出産するという三つの論理があるという。なるほど強力な神を必要とする文化と、自然崇拝で宇宙観が違うのか。

 

 実際聖書に宇宙創世が長々書かれている。無論人も神が作った。ユダヤ教はものすごい長い歴史の下積みの上で成り立っている。いきなり既成品既製品としてポンと出てきたわけではない。しからばユダヤ教一神教という独特のロジックは一体いかなる形で作られてきたのか?いつ原型ができたのか?が問題になってくる。

 

 始まりはまあ戦争の神ですね。そうでなくては、あの時代&地域では戦争で勝たなきゃ生き残れませんからね。当時の「ユダヤ人」はいろんな背景を持つ寄り合い所帯で定住農耕民と張り合うためヤハウェを祀る祭祀連合を形成=契約をして社会ができていた。ウェーバーいわく「誓約共同体」だと。

 

 無論、ヤハウェは数ある神の一つでしかなく、カナンの先住民はバアル神・ペリシテ人ダゴン神・モアブ人はケモシュ神と神を祀っていた。偶像崇拝が禁止されたのはこれらの神を禁ずるため。ウェーバーは技術がないから、信者を惹きつける魅力ある偶像づくりで競争した場合、負けてしまうから禁止したと言っている。なるほど。

 

 偶像崇拝は神官階級の優越に繋がるからダメと思っていたが、同じ共同体内でも分裂を作る。更には他所のモニュメントが優れていたら、負けた!と感じるからだろうなぁ。大仏とかスフィンクスとかでかいものに絶対説得力で負ける。ならば根本的にそんなものは無価値だ!とする戦略に出るしかない。そもそも巨大モニュメント=国力そのものだしね。大国なら国家プロジェクトとして絶対やるだろうけど、小国はそれやっちゃダメですね。

 

 このような経緯があるから、当然ヤハウェ一神崇拝までには数多くの衝突があるわけだ。王妃イザベラがバアル神を拝んで預言者エリヤがバアル神官450人を皆殺しにするといったような宗教対立もあったと。規模が大きくなって王の時代になると預言者が王を選ぶようになる。王でも預言者を無下にできない。

 

 預言者が神の権威を帯びているから、民衆も預言者を頼りにする。ユダヤ教預言者を中心とする時代、またソロモンやダビデと言った一大王国を作る王を中心とする時代を経験していることがポイントかな。そしてバビロン捕囚、滅亡と虜囚の苦難。普通ならこれで神の権威は消滅する。霊験ないから。

 

 ところが、また故郷の地に帰ることができるようになる。これによって神が反省を迫るための懲罰や、意味がある苦難というストーリーを成立させることになった。民族の神でなく、世界を支配する神だからこそ、全てのことを決定できるという論理になった。逆におもいっきり格が高くなった!んですね。

 

 ヤハウェとの繋がり方は三つ。生贄&儀式をする祭司、預言者、律法学者。イエスの時代には祭司はサドカイ派、律法学者はパリサイ派と呼ばれて社会を取り仕切っていた。バビロン捕囚以後は律法学者が預言者を弾圧して、登場しにくくなっていた。見つけ次第、預言者を潰すから社会的に無力になると。

 

 最終的に神殿が破壊され祭祀もできなくなる。当然祭司も無力になる。よって律法学者だけが力を持つ形でユダヤ教が完成する。こういうストーリーがある。儀式廃止で無力化はともかく、預言者が無力化されていったのはなぜだろうか?強固な支持背景があればいかに弾圧してもしきれるものではない。

 

 預言者が政治と結び付けなかったからだろうか?王を選んで、王がユダヤの王国を再興できるような時代でもない。最早その地で支配に甘んじるしかない国際環境故に、預言者は支持を得られなかったのだろうか?打つ手のなくなった預言者の暴発とも見て取れるもんな。自身が神&救世主とかのロジックは。

 

 いずれにせよディアスポラ、亡国の流浪の民となって、その歴史の中で預言者が力を持った時代がないというのは注目に値するなぁ。預言者&王で独自の国家を作るよりも、ネットワーク化して、一定の影響力を当該地域に持つほうがより安全だったということなのかしらね?他所で国作っても何百年も持つほうがレアだしね。

 

 一神教で想像するのはパンテオンのような、多神教的形態の発展の形。征服を進め、他の神をひれ伏せた最高神が更に優越して行って、他の神も排除されて~というロジック。しかしユダヤ教はそうではない。エジプトのファラオ信仰・太陽信仰のような強国の最高神は永続し得ない。ご利益目当てだから。

 

 国が滅んだら神通力も失われる。逆にユダヤ教は恐ろしい神。むしろどんどん罰を与えてくる。マイナスの面のほうが大きいように見える。しかし他の最高神が「国のための神」なのにたいして、ユダヤ教は「神のための国・民」になっているから。故に決して滅ぶことはない。主体は神故に決して滅びることはないのだ。

 

 イスラエル王国が滅んだことも、当然ユダヤ教に大きな影響をもたらした。様々な預言者が警告したし、ユダのヨシア王はモーセの律法の書を「発見」したとして宗教改革を実施。偶像排除に、多神教状態をやめさせた。つまりユダヤ教純化の必要性に気づいて、民族の団結政策を進めたんでしょうね。

 

 イスラエルの同じ民が滅ぶ。強制移住で民族の一体性の脆さを痛感したんでしょう。王自体は国家消滅後よりも、いかに戦うか!の強い国造り政策だったかもしれませんけど。北部には後から改宗してユダヤ教徒となったサマリア人が生まれたと。イエスの時代でも差別される。興味深いですねサマリア人は。

 

 ユダヤ教のように外面規範を徹底的に高めると民族の一体性が保たれる。外面規範によって民族を規定する発想は非常にユニークだ。どこから来たのだろうか?まあ古代社会なんて身分制で、身分に応じて全く違う文化を持つからなぁ。服装・外見でひと目で分かる。それどころか話方・所作まで全く違うしね。

 

 民族・国家、そういった組織が崩壊するのを目の当たりにしてきて滅ばない集団はない、帝国に同化・吸収されない集団はないと悟る。しかし特定の教団だけは違う。また辺境の民など文化レベルが低すぎて同化しようにもできない集団がある。そういったところからヒントを得て完成させたのではなかろうか?

 

 そういう意味で外面規範を重視する儒教は「中国人」という概念を現代に至るまで保つにふさわしい装置だったんだろうなぁ。まあ同等の定住文明と接してこなかったというのが大きいのだろうけど。今でも潜在的儒教が主体宗教なのだから、中国人はアイデンティティ・クライシスに陥ったら外面規範に戻ったりするのかしらね?

 

 ウェーバーの『古代ユダヤ教』でもバビロン捕囚(約六十年)という長期に渡る強制移住にもかかわらず信仰を保持したことを最大のテーマにしている。一神教、神との契約という形にすると国家は滅んでも民族は消滅しない。というか国家なき民族がそれ単独で存在してもしょうがないということでもあるが。

 

 確かに民族は消滅しないかもしれないが一体性は保てても果たしてそれが当時のユダヤ人にとって本当に幸せなことであったかどうかはまた別問題で気になるところ。むしろ放棄して同化の道を選んだ人のほうがはるかに幸せ・豊かな暮らしを送ったのではなかろうか?こういう問題が出たからこその金融業かな?

 

 このようなジレンマはあっても、結局アッシリアなどの大帝国でも必ず滅ぶ。その時代の人間にとって帝国に仕えるか、ユダヤ教を選ぶか選択が難しいことには違いなかっただろう。そこで受け皿を用意してやる。ユダヤ人であるなら生きていけるという地域ネットワーク網、金融業で社会を支えたという図式なのかな?

 

 まあユダヤ人=金融はイメージで、確かに豊かな人も多かっただろうけど、それで全ユダヤ人を救えるほどの力があったなんて到底思えないけどね。そこんところがどういうシステムになっていたのか気になるところ。ユダヤ教二重規範だから金持ち・貧乏人でも同じユダヤ人で連帯するのは容易かったろうし。

 

 ユダヤ教イスラム教も外面を拘束する宗教法がある。ちょっと観察すれば教徒だとすぐわかる。ユダヤ教負け組の一神教イスラム教は勝ち組の一神教一神教の起源を見てわかるように民族の一体性を保つための弱小国家・民族の苦心の策、発明であったわけだ。それがイスラム教になると大成功の勝ち組になる。

 

 おそらくムハンマドもそこまで成功するとは思っていなかったのではないか?アラビア半島イスラム教国家を作るくらいで。ユダヤ教イスラエルで宗教国家を形成しているようにそれくらいの一宗教民族国家を形成するつもりだったのではないか?それが成功しすぎてしまったのが、イスラム教の問題の本質ではないだろうか?

 

 ウラマーというもので治められる国家組織もユダヤ教のラビ・律法学者で治められる構造とよく似ている。イスラム教は成功したユダヤ教と考えるとよく分かるのではないか行政・帝国の運営がフレキシブルに行われにくいから、宗教主体の国家は世界国家・世界帝国になりにくい。

 

 ムハンマドが世界統治を視野に入れていれば、その運営システムを考えておくはずだが、どうも視野に入れていたとは思えない。まあ寿命・時代もあったんで仕方ないんですが。アラビア半島以外は柔軟に!とかだったらどうなっていたのかなぁ。宗教家に帝国運営能力がないからウマイヤ朝になったわけですしね。

 

 ユダヤ教はともかくキリスト教でもイスラム教でも預言者が重要な宗教であるから、その後バカバカ預言者が出てもいい。短期的混乱が嫌なら数百年に一度偉大なる預言者が現れる!でもいい。ムハンマドが否定したのはユダヤのような律法学者主体の統治体制を視野に入れていたからだろうね。預言者は邪魔。

 

 儒教も仏教も世界について普遍的・合理的理解をしようとする。一神教もそうだが全知全能の神が主体となっているところが根本的な違い。人格神故、対話が可能。仏教は自然法則で世界が支配されており、それを悟ることを目的とするから対話はありえない。儒教も自然を政治でコントロールするという発想。

 

 自然を政治で動かすために古典を修めることが重要で、それを修めると自然を操れる。天・理や気といったものには当然人格はない。故に仏教・儒教も対話という観念はない。せいぜい詩。しかし一神教では人格を持つから神と人との対話が可能になる。訴えでも感謝でも、とにかく神との不断のコミュニケーション=祈りをする。

 

 他の宗教では運が悪いとか、悪い神のせいで解釈される苦しみ・苦難も一神教の場合は神の試練となる。一神教の教義の下では苦難は諦めるものではなく、立ち向かうものになるわけだ。なるほどね。繰り返すと、神との対話・祈りこそ人と神を絶えず結びつける教義の主体行為となるということか。

 

 ヨブ記のサタンは悪魔ではない。神の僕で審査官みたいな感じ。あいつの信仰をテストしましょう!と神に進言。理由もなくヨブは神に苦しめられる。これはひどい!と訴えても神は逆に雄弁に過去の武勇伝を語る。論理性はない。最終的にヨブは悟って前以上に幸せになるがこれは話として蛇足。

 

 ユダヤ教・民族の運命、そのものをヨブは示しており、結果豊かになれるかどうかなんておいといて、神の意志・苦難をそのまま受け入れろということ。信仰とは苦難を試練として受け止め、将来の理想のための過渡的プロセスだと理解することにある。

 

 そういう試練の教義がなかなか理解されなかった故、グノーシス主義善悪二元論が強い影響力を持った。勧善懲悪の論理は古代社会にあっては必然であっただろうからね。むしろグノーシス主義という課程、一時的野合は必然だったでしょう。教義が洗練されなくければキリスト教は根付かなかっただろうし。まあ、よく言う成長するためのプロセスとして重要な失敗体験ってやつですね。

 

 偶像崇拝はなぜいけないか?偶像によって人と神を結びつける。見ることのできない神に対して、これが神だよと明示する。偽りの人と神との結合になる故。つまり多神教などで像を作るのは神との繋がりをイメージしにくいから。存在しないものを存在すると説得力をもたせるには逆に表現しないことがベスト。

 

 アリバイを偽るために事細かく説明すればリアリティは増してもかえってぼろが出るようなものか。「存在しないというロジック」に対して、存在していないと論破するのは不可能。普通はいかに神が存在するかと説明するのに苦心惨憺する。この神学ロジックの難問を存在しないと説明することで解決したわけだ。

 

 一神教儒教・仏教が登場してくる背景に、これまでいた神の否定という共通項がある。社会が混乱して再建しよう!というロジックが働いているから既存の手近な神を否定する。既存の宗教体型では再生不可能だから、新しい社会構成秩序を主張し、当然古いそれは無価値・無力になる。

 

 ヤハウェ一神教の論理では、ヤハウェが神を作ってこれまで世界を任せていたとはなっていない。故にこれまでの神を拝むことは許されない。偶像崇拝は人が勝手に神を作って拝むこと=自分を拝むことだから許されない。テオクラシーの発想のもとで民主主義とは真逆の発想なのが面白いですね。

 

 儒教を見ても、鬼神はインチキ。そんなものを祀る奴らは殺せ!とならないし、仏教でも仏が一番偉くて神はそれに従属するサポーターのようになっている。神も人と同じく悟りを学ぶ者、まあ同級生感覚か。そこにこれまでの神は絶許!という排他的論理はない。これが一神教と他の宗教を別つ重要なポイント。

 

 推測だがおそらくエジプトの宗教も仏教・儒教のように既存の宗教体系を否定して新しいものを創りだした。が、あの地域では珍しく一神教のように既存宗教を根本的に否定するという形にまで行かなかったと思う。豊かで厳しい環境ではなかったから、そこまで徹底した論理は生まれにくかったのではないか。

 

 シリア・アラビア半島といった場所で一神教が生まれ、成功したのに対し、メソポタミアやエジプトといった豊かな地では花開かなかった理由を考えるのもまた面白いことですね。日本人の多神教の感覚は、世界標準の一度既存の神を追放した宗教感覚と真逆。だから日本人の感覚だと宗教音痴になりやすい。

 

 偶像崇拝がいけないという論理はマルクス主義の論理と実は同じ。疎外→物象化→物神化になって、人間の労働力こそ本当の価値実態なのに、それが商品・貨幣・資本になり、物神崇拝されるに至る。そして自分が作ったものにもかかわらずそれを拝んでいる転倒した世界だから資本主義が行けないという論理。

 

 マルクス主義の資本主義批判を参考にすると、一神教偶像崇拝批判がよく分かる。Godでないもの、人の業を崇拝するから。つまり神の御業を崇拝しなくてはいけないのに、神の教えを意図的に、あるいは誤読して崇拝することになるからですね。神の論理に背けば当然、失敗・破滅ですからね。

 

 ヤハウェに形があるという考えはなかった。士師記(judge、王政までは裁判をしているような人が戦争の際には臨時の軍事指揮官となっていた時代)には戦争の際、神の加護を象徴するアイテムは箱を使っていた。普通は神の像を掲げるが、出来ないから輿・椅子の上にヤハウェがいるということにしていた。

 

 で戦争に負けて一度ペリシテ人にその箱を奪われる。祟りがあってペリシテ人が箱を返した。箱=アーク、ノアの箱舟も英語で同じアーク。その後キルヤト・エアリム→ヤハウェ神殿に移される。神のいる場所から、契約の石版が収められるものへと変わる。

 

 だが創世記に神は人を神に似せて作ったと書いてある。これだと神に姿形があることになってしまうが、これは創世記がバビられてる間に洪水神話・バベルの塔とか創造神話メソポタミアの価値観に触れてから作られたから。そして姿形の問題は、人の生きる次元においては、神と人は似ていると解釈すれば筋が通る。三次元だと人とあんまり変わらない姿だということ。んで神は何次元でも存在できる超越した存在という論理。

 

 ユダヤ教も仏教も儒教多神教の克服、ウェーバー風に言うとEntzauberung脱呪術化という面がある。小さい規模なら多神教の自然崇拝や特殊な習俗でいいが、大きくなるとそれでは組織運営が厳しくなる。そこで民族・部族の垣根を超えた普遍宗教が必要になる。普遍宗教なのにユダヤ教は帝国・政治権力と馴染まない(ユダヤという枠内においてのみ「普遍が適用されるから。こうなるとほかの人間・民族をユダヤ教同化するしかないのだが、まあ国力がなかった。中国なんかはその逆の例でいわば成功したユダヤ教の性質を儒教も持っていると見ていいだろう)。

 

 仏教も儒教一神教も民族・部族の垣根を超えた普遍宗教。中国なんか地&血縁原理は色濃く残った。これはアテネギリシアも同じ。しかしギリシアアテネにはギリシア人なら!みんな同じや!という中国の儒教のような普遍宗教が生まれなかったんだよなぁ。アレクの普遍主義に包括されて消えちゃった。ギリシアにおいて発達せず、中国では発達したのはやはり地理的要因が大きかったのだろうか?

 

 ユダヤ教は政治権力に批判的である。これが古代社会において非常に特異。普通は強力な王を称賛する。ダビデくらいで王はあまり良く書かれない。アブラハムゲーリーム=寄留者。米のグリーンカードのようなもので、様々な権利の制限があった外国人だった。苦労して墓地をやっと手に入れたなど書いてある。

 

 都市社会、貨幣経済で寄留者から苦労して這い上がっていった。貨幣経済で部族社会が解体しても、ヤハウェの義務の下一致団結。安息日奴隷解放規定、孤児・寡婦の落穂を拾う権利など、カリテート=社会福祉規定が含まれていった。弱者の宗教故、同じ民族への保護概念が極めて強い宗教として発展したわけだ。

 

 弱者の宗教、民族の一体性、同民族への保護。ヤハウェという絶対神の下で同じ人間であるが故に守らなくてはいけない。王も奴隷も同じユダヤ教徒として守らなくてはならない。だからこそ政治権力に批判的、チェックが厳しい。預言者が王を選定し、長老たちが承認し、王の政治に預言者が文句をつけられる。

 

 多くの宗教では預言者は宮廷の顧問官のようになって政治権力と親和的。まあ神官ですね。しかし預言者は民衆の側にあって権力を否定する。ウェーバーいわく預言者には4つの特徴がある。本人の意志とは関係がない、報酬を貰わない、特別な修行を必要としない、そして権力に批判的という4つ。

 

 預言者がいっぱい出てきて書としてまとめられる=ネビイーム。そしてバビられた後、モーセ五書・トーラーが成立する。律法学者がヤハウェとの契約を預言者なしでも読めばわかる、契約に合致しているか反しているか判断できるので律法学者の影響力が強くなっていく。で件の預言者受難の時代に入る。

 

 エズラ・ネヘミヤを最後に預言者が出なくなる。偽物を弾圧するのはインチキだからいいとしても、もし本当に預言者だったらエラいことになる。なんでそこまで極端に排除できたのだろうか?これまで定期的に預言者は出てきたのだから出てくるものと考えるのが普通。預言者殺しの恐怖を感じなかったのか?まあだからこそ、その預言者殺しキリスト教誕生の動機になったんだけど。

 

 本物の預言者の条件はウェーバーいわく、これまでの預言を踏まえていること。預言が現実になること。他の預言者に認められることの3つ。無論、判断は難しい。イザヤも預言が外れて一時預言を控えたことがある。預言者もニセ預言者を必要とする。混乱期には各々の預言者が預言する。本物はその中の極僅かだけ。

 

 イエスベツレヘムで生まれた=ダビデ王の系譜を示唆したり、イエスの数多くの伝説・奇跡がある。イザヤ書のメシア預言の実現とか。普通にイエスユダヤ教宗教改革者として振舞ったが、イエス=神の子といった誇張を盛らなければキリスト教として広まりにくいと考えたパウロの創作という気がする。

 

 旧約聖書を見ても最初は神話、後にだんだん現実の社会情勢を反映してリアリスティックになっていくのと同じように、また高祖の神秘的脚色・ロジックが後の史書に必要されなくなっていくように、新しいものの始まりには話を神秘的に作るもの。そういった性質で新約聖書を見るべきではなかろうか?己はパウロにより布教のための神秘が行われたと見ますね

 

 預言者エリヤは生きたまま天に上げられた。イエスもエリヤの再来と言われていた。イエスは特に神の子である必要はない。マルコ・マタイ・ルカの福音書では人の子として言及されている。おそらくイエスは神の子という論理ではなく、人の子という論理で動いただろう。神の子はパウロによる格上げだろう。

 

 人の子はメシアを意味する言葉だが、聖書学の田川建三氏によれば、一人の人間を意味する普通の言葉でもあったという。その両義性を意識してイエスは曖昧戦術で行動していたのだろう。宗教改革者としてのイエスユダヤ教の根本を否定するような、神の子という過激な論理で行動していたとは考えにくい。

 

 ユダヤでは尊称で父と呼ぶ表現があり、イエスヤハウェを父と呼んでいたから神の子とされたのかも。山にこもり独身主義で祈りを中心とするエッセネ派がある。当然関係性が薄いからあまり出てこない。ヨハネもイエスはこれに近い。が、行動をする点が異なるのでイエスをナザレ派と呼ぶ人もいる。

 

 イエスガリガリのイメージだが、結構飲み食いをしている。きっと現世との調和・折り合いを視野に入れていたのだろう。ユダヤ教の終末ではユダヤ民族が世界の支配者になるが、キリスト教では個人に審判がかかる。集団救済が個人救済に変わる。死者は男女関係なく天使のようなものとして復活する。

 

 神の国に入れないものは火で焼かれることになっている。枯れ枝の表現があるが、いちじくの実が実ってないから、枯れてしまえ!と怒ったんなら、イエスは俺のお気に入りの~~がおいてない!こんな店潰れてまえ!という現代っ子に通じるものがあるな(笑)。。意外と聖書にはイエスの人間味が多いのかもしれん。

 

 神の子を捧げて罪を贖うというのはイサクとの等価交換という論理化。大事な一人息子を生贄にせよ!と命じたその代償だと。論理的に成立しなくもないが、苦しい気がするなぁ。ストップかかってその後繁栄なら辻褄が合うんだけど。不正な管理人、ぶどう園の労働者、放蕩息子、一匹の羊の例え。まあ貧民救済のロジックですね。

 

 カインとアベルの理不尽さは意味不明だけど、神の絶対性が強い、どうして世の中は不平等・不公平なのかを説明するには最適な例。伝統主義ですよね、伝統を説明する後付の神話。マリアとマルタの例え話はより日常生活に近い話で結論はともかく、共感しやすい話。時代ごとの問題意識の違いが面白い。

 

 12人の弟子の中で能力があったのはユダくらい。後は普通の人。パウロギリシア語が出来たから国際派対外支部として布教を担当。そのまま国内で布教を続ける国内派があったが、エルサレムの活動拠点が奪われてできなくなった。本来主眼ではなかったのかな?国際的な布教は。故にパウロは誇張したのか?

 

 福音書パウロの解釈、聖霊によって神と人が結びつき、神の威光が働いたと考える。パウロは器で自動書記。これは道教の教典にも同じ考えがあったな、確か。教会分裂は金がなくなったから、合同会議をやる国力がないからと考えるとキリスト教の多様性の一貫をまた説明出来ますわな。まあ辺境だしね。

 

 東方教会ウェーバーのいうケザロパピズム=皇帝教皇主義。ローマ教会がラテン語を採用した理由がわからないとあるけど、ギリシア語だと東のほうが文化的レベルが高いから従属してしまうからだろう。西方で独立するためでしょうね。あとドルイド教とかそういったものに柔軟に対応しなくてはいけないから。色々教義を現実に合わせてごまかしやすくするためでしょう。

 

 ドルイド教のなどの影響力が強く、キリスト教に改宗しても自然崇拝など異質なものが西欧のキリスト教に残り続けた。教会の実態はなくローマ教会も神父や教会の任命権くらい認めろと、聖職叙任権闘争となった。それくらい西方のキリスト教は実態が乏しかった。でゲルマンの封建制下でようやく定着すると。

 

 ラテン語という言語の力で商業・外交のネットワークを形成する。また結婚の秘蹟化。正当な結婚の承認なくして相続の資格が無いことにする。これで相続争いに強い影響力を持つ。聖職者は独身だから相続はない、官僚機構の成員は封建領主からリクルートする。跡継ぎ以外は教会に少し土地やって押し込めた。

 

 イスラム教は宗教法があって、自由に立法ができない。しかしキリスト教は強い影響力を及ぼす時代があったにせよ、根本的なロジックとして世俗法として拘束する教理をもたなかった。自由に法を作れないと近代化は難しい。でもユダヤはできてるんだけどね…。世俗法がないから、より理解しようと努力する。

 

 宗教改革で自由に布教したいという動機がキリスト世界にはあった。他にはない。トマス・アクィナス神学大全自然法論では神の法、自然法、国王の法という階層構造。神の法は書物にはないが、自然法は観察して発見できる。自然法を通じて神の法を理解しようという発想になり、自然科学が発達した。

 

 日本はアニミズムでもの作りに抵抗がない=高技術力。だが考えることには向いていない。中国・インドなどでも物を作る人より、考える人が偉い。イスラム偶像崇拝の影響か?政治・法律・商売は上手いがものづくりはダメ。無論自由な立法も、日本も立法ヘタ。ヒンズーもカーストで労働力確保が難しい。

 

 神道は既存宗教体系、多神教の克服を目指した普遍宗教ではないからアジアでもかなり特異だろうなぁ。ヒンズー教はどうなんだろ?強力な三神ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーの下に再構成される、神話の再編があるからやっぱり多神教的性格を残しつつも普遍宗教と言えるんだろうなぁ。