てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神①

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第一章 問題
 
一、信仰と社会分化
 資本家・経営者・上層労働者にプロテスタント系の人間が多い。もちろんそれは原因ではなく、ある程度結果であるとも言える。元から豊かでないと、その地位に付けないという要因があるため。だが16世紀独で富裕な都市、交通・自然に恵まれた経済発展した都市がプロテスタントに帰依した、プロテスタントを選択したのはなぜか。
 
 経済的伝統主義から脱却したため、思想上も同じように伝統主義的なものから脱却し、新しいものに結びついていったという面があるだろう。だがここで重要なのは、経済的に開放された富裕な都市などが宗教改革で教会から開放されたのではなく、別な支配形態に変わっただけという事実である。とりわけ、今以上に規律が厳しいカトリック支配に不満を感じていたわけではなかった。
 
 類例略。17世紀にニューイングランドと、一時英本国をカルヴィニズムが支配した。現代の我々からは到底許容しがたいカルヴィニズムの規律を!である。この一見奇妙な事実にこそ注目しなければならない。新興階級は厳しい規律を欲し、このピュウリタニズムの専制支配こそ、資本主義の契機になったのである。
 現在の人間からすると宗教と教会の支配などふざけるな!といいたくなるようなもの。だが、当時の人間はそれが足りない、もっと厳しい戒律が欲しい!と要求したのだった。新興中産階級がいやいやでも環境上仕方なしにでもなく、ピュウリタニズムを「自ら進んで欲した」のである。
 
 それを裏付けるようにカーライルはthe last of our heroismと形容した。市民的階級にとっては空前絶後とも言える英雄的行動を示したのは一体なぜなのだろうか?
 
 統計を見るとドイツでプロテスタントは近代的営利経営にカトリックより多く携わることが分かる。結果にすぎないものもあるが、プロテスタントが原因になっている事例が明らかに存在する。宗教的動機=経済的地位向上というリンクが見られるのだ。
 
 民族・宗教上少数者にあるものは、政治的支配者の地位から締め出されるため、否応なく営利生活、経済的方向に進出していく傾向が見られる。ロシア・東プロイセン地方のポーランド人、ルイ14世時代のユグノー、英の非国教派・クウェイカー教徒、そしてなによりユダヤ人がそうである。ところが、カトリックはそのような境遇でもそうなることがない(経済的地位向上に関心を示さない)。対照的にプロテスタントは「多数派でも少数派でも」、「支配層でも被支配層でも」関係なく、この経済的合理主義への愛着を示してきたのである!
 
 ―カトリックプロテスタントは経済的地位について、このような相反する性質を示している。こうである以上、外面的条件だけではなく、内面的動機にこそその理由が求められるべきであろう。
 
 一般に好まれる説明はカトリシズムが「非現世的」で財貨に関心がないというもの。またプロテスタンティズムは世俗化を進めた結果「唯物主義」をもたらしたというもの。そしてカトリックは禁欲的で安定を好み、プロテスタントは享楽的で世を楽しむという思い込みにつながる。だがプロテスタントの初期の事例を見る限り、事情はまるで異なる。真逆の結果になっている。
 
 そのようなロジックではこの問題をとけない。重要なのは一見相反することのように思われる非現世的・禁欲的で信仰に熱心ということと、資本主義の営利生活に携わるということは、相互に内面的に親和関係にあるということ。
 
 類例略。特にクウェイカーとメノナイトがその二つが強く結合していた。メノナイトが兵役を拒否したのにもかかわらず、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が産業の育成に不可欠だとして、それを許容せざるを得なかったことがよく示している。
 
 つまり「労働の精神」であれ「進歩の精神」であれ、プロテスタンティズムによって喚起された精神は現世の楽しみとか、「啓蒙主義」などといったことから程遠いのである。むしろ真っ向から対立したのである。モンテスキューが英人を信仰・営業・自由の3つにかけて卓越した民族としている。政治上の自由と信仰にも関係が見えてくる。資本主義だけでなく民主主義にも当てはまる(まあ資本主義と民主主義は同義だから当然だけども)。
 
 ※コメントに海外からの居住者が商業・金融に携わって、それらに優れていること。また移住する=これまでの社会環境から切り離されると人は熱心に働くということが書いてあります。少女が生地から切り離され、人が変わったようにはたらく話。言うまでもなくバビロン捕囚のユダヤ人、ゾロアスター教徒、米の植民地もそう。また入植先の宗派によって更に異なる傾向を見せている、独自な要因として作用しているとのこと。これに似た傾向がジャイナ教にあると、どんな傾向なんでしょうかね?ジャイナ教は。
 ある宗教の理想が実際の生活態度にもたらした影響の差異はしっかり抑えておかなくてはならないというコメントがありますが、ウェーバーのテーマそのものですね。初めの理想が全く異なった影響を与えて、現実に現れるというのはね。意図と結果が全く違うもの、真逆どころか全然関係のない事柄に結果を及ぼすということがある!これがポイント。
 
 でまあいつものごとく、限界・枠を設定しますね。膨大かつ多様性を持つ歴史現象を定式化しなくてはならないこと、解明する対処の特性及びどのようにして問題を解明すべきかという前提の話をすると。これが真理で他のはインチキだ!とかそういう狭量な話ではなく、あくまで現象を解明するために一つの方向性・アプローチから迫ったに過ぎないというやつです。これがわからない人はとんでもない誤読、主張をしますからね。
 
 本筋とは関係のないいちゃもんレベルのツッコミを入れて来られると書き手としてはぐったりですね。ブレンターノさんがそうで、ゾンバルトさんも読み損なっているというか、方向性の違った批判でウェーバーは何度も、いやそういう話じゃないんだと注を入れています。私が―を知らないと思っている、ここでは当然そのことは関係がない。かと言って当然そのことを無視していいわけではない。あくまで資本主義の精神を論じる際に問題になることだけを取り上げている―とかね。
 
 
二資本主義の精神
 「資本主義の精神」という大げさなものを論じるが、初めに定義することはできない。歴史的個体としてその文化意義を論じるために、様々な例を上げて迫っていき、最終的に結論付ける。歴史的現実をそれぞれ関連させ、複合体を導き出していく、組み立てていくものだと。勿論この答えが「資本主義の精神」のすべてを意味するものではない。あくまで一性質の話。
 
 ベンジャミン・フランクリンの事例、自己の資本を増やすことが義務であり、倫理になっている。そこに独特のエトスが現れており、このエトスが重要。ヤーコプ・フッガーの儲けよう!という意識と比較して、彼の精神は倫理と結びついたものではなく、商人的冒険心・個人の気質である。対してフランクリンは倫理・道徳と結びついていることを述べる。
 
 こういった精神こそが今我々の近代資本主義の根本になっている。インドとか中国とか過去どこを見ても、資本主義はいくらでも存在した。しかし今我々が生きている社会における合理的精神・経営に基づく資本主義、「近代資本主義」というものはそれと決定的に性質を異にするものである。その近代資本主義を過去の資本主義の類型と根本的に分かつ理由になったのが、この資本主義の精神にある。
 無論これだけをもってして、近代資本主義の全てを解き明かす事にはならず、社会的・歴史的背景も考察しなくてはならない。が、近代資本主義の精神というものがなくては近代資本主義は成立しない。それを成立させるための独特の行動様式があり、人々がそのルールを守らない限りどうやっても成り立ち得ないのだ。そのような独特な習俗がいかにして成立しえたのか?どうやって人々はそれを身につけていったのか?その人間の内面の変化に注目してウェーバーはこの論文をあらわしたというわけだ。
 ヤーコプ・フッガーのように、歴史を観察すれば似たようなメンタリティを持っている人間はいるだろう。だがそれは個人や特殊な集団に於いての話であって、それだけでは意味が無い。まあヤーコプ・フッガーではさらに、倫理・道徳と言った性質が抜け落ちているので、そこから発展・展開のしようがないわけですが。狭い範囲内だけではダメで、社会の常識として根付かなくてはならない。一社会内で大多数を占めないといけない。この点余英時氏なんかは決定的に誤解をしていますね。「二重規範」を理解していないがゆえにそうなってくると思うんですけどね。
 
 ※ゾンバルトは近代資本主義の結果そういうエトスが生まれていったと見ていますが、ウェーバーは逆、そちらのエトス・心理・精神の面から近代資本主義の性質を分析しようとしていますね。
 
 フランクリンは外観を装うことが有益だとして、そこに功利主義、儲かるから善徳という利益中心の価値観がある。ドイツ人がアメリカ人の善徳に偽善を感じるのはまさにこの点になりそうだと。だがやはりフランクリンには貨幣で幸福や快楽を求めようという目的がない、貨幣を獲得すること自体に目的がある、自己目的化している性質がある。営利こそ人生の目的であって、貨幣を使って欲を満たすことは目的になっていない。
 
 彼はどの教派にも属さない理神論者でありながら、Berufの観念で説明している。そうなる人=職業を通じて貨幣を多く獲得する、生み出す人こそが有能である―という意識が彼に根付いているのである。こうした有能さというのは彼の著作のすべてを貫くテーマになっている。
 言うまでもなく、極端な例であるとしても彼一人が変人で独特の思想を持っていたからこういう主義を抱くようになったのではなく、このような価値観が根付いていた、当時の人がこういう考え方をおかしなものと考えていないこと、社会背景の当然の帰結としてフランクリンという人間が出てくることが重要なのである。仮にフランクリンが存在していなくても、同じような人がかならず出現して、似たようなことを言っていただろうという環境がポイント。
 
 ※合理的・合理化という言葉についてのコメント、合理化という言葉が多種多様な意義を持ち、その価値背景が問われなくてはならない。そうなることこそ、この論考の意味があると。
 周りから見ると到底そう思えないことでも、特定の宗派からするとそれこそが「合理的」と感じることがポイントなのだということですね。合理→合理→合理!なんていう歴史・社会発展はありえない。むしろこの論考で説くように、実際は宗教生活の非合理こそが現代の合理とも言える資本主義の道筋を作ったのですからね。
 合理が非合理を、非合理が合理を生むからこそ、人文科学・社会科学の意義があるといっても過言じゃないですしね。まあ合理→合理→合理√はまさしくマルクス的な価値観を念頭に置いているかと思われます。あと功利主義思想とかね。そんな単純に階段登るようにやっていけば社会現象を解き明かせる、問題発見・解決ができるんなら苦労しねーよっていう所でしょうかね、まあ全くその批判に同意するんですけども。
 その思考・発想の裏側こそが不合理!絶許!ですからね。合理!ええやん!をひっくり返すと不合理とか悪を一義的に定義して叩くという発想ですね。それをなくせば問題が解決する、良くなるというおめでたい単純二元脳。そういう危険性にいち早く警鐘を鳴らしたということでもウェーバーの偉大さが際立っていますね。
 
 職業を義務とする独特の思想は近代資本主義の結果として生まれたものではない。
 無論、現実の社会と思想が相互影響しあって発達したのであって、どっちが先とか後とかそういう話ではないのだが。少なくとも資本主義社会に自然に移行して、自然に近代的な思想・行動様式になっていったという発想は否定しているわけですね。自然には決して生まれ得ない発想、その得意・異常とも言える根源はプロテスタンティズムに端を発しているというわけです。
 
 このような倫理を各人が習得していなくても、一旦近代資本主義社会が成立すれば、社会はひとりでに動いていく。既製のものとして資本主義経済組織が一旦出来れば秩序(コスモス)として労働者・経営者を縛る、鉄の檻となってそこに従うものをパージするようになっているから、否応なく人は規制秩序のルールに従わざるをえないようになる。
 ウェーバーは近代資本主義社会が発生した初期、萌芽期、成立事情を取り扱っている。そしてそれがどのように移り変わっていったかという側面にスポットライトを当てているわけだ。そこが注目すべき点、うっかりすると見過ごされてしまうポイントであるから、そこを論じているわけですね。極めてスケールの大きい話ですから、当然読んでいて抜け落ちていたり、これはどうなのだ?と言いたくなる点がでてきますが、まずはウェーバーの論じる仮設・テーマを抑えないといけません。本筋から外れた相手の言いたいことを無視した質問は質問になりませんからね。
 
 この規範に従わない労働者は失業者として市場の外に放り出されると。経済的淘汰を受けると。淘汰によって資本家・労働者が育成されていくわけだが、同じように「淘汰」は始発点、スタート地点にならない。物事の始まりとして説明にならない。では、その「淘汰」はどうやって生まれたのか?まずそれに適した職業観念・生活態度が存在していなければ「淘汰」の判定自体ができない。そして何よりその判定を下すためには、万人が同じ判定基準を共有していなければならないから。だからこそその判定基準がどうして生まれたのか?=職業倫理がどのようにして成立したのかをまず解き明かさなければならないのだ。
 
 昔っから同じ基準で運営されていたならともかく、近代資本主義のルール・基準はそれ以前のものとは全く違うわけで、ではそれがどうして出来たのか?まるで違う基準になった理由を説明しないと淘汰の概念自体を説明できないわけですからね。淘汰自体の観念がそれ以前に登場していないのですから。
 
 そうした「理念」などというものは経済状況の「反映」、「上部構造」として生まれるなどといった素朴な唯物主義的史観では説明がつかない(後述)。
 
 ベンジャミン・フランクリンの生地マサチューセッツでは彼の以前から、資本主義の精神が見られたし、ニュー・イングランドでは他の諸地方に対して利潤にあざといことに非難が見られるのに対し、南部ではそういった批判は見受けられない。南部は大地主によるものであり、対してニュー・イングランドでは牧師、知識人、小市民、職人、自営農=ヨウマンらの宗教的結合によって生まれたものであった。
 いうまでもなくこれは唯物主義が想定するのとは真逆で、状況が異なっている。金持ちのほうが貧民を虐げていない。これから成り上がるもの、むしろ金持ち未満・小金持ちが虐げている。
 
 上部構造論者が言うように容易くこういった理念が成長していくものではない。むしろ敵だらけ。フランクリンが古代・中世の人間であったら袋叩きにされたことだろう。そしていま資本主義に転換しようと奮闘する国においても同様のことが見られる。
 
 また「営利の衝動」がなかったから、牧歌的で物欲がなかったからではない。ロマン主義が幻想するような auri sacra fames 呪われた黃金への飢餓―と無縁だったからでもない。むしろそういった貪欲な精神はいついかなるところでも見られるものである(ウェーバーいわく冒険的商業ドカーンと一発デカイ山を当てちゃるぜ!というメンタリティ)。ウェーバーが言う精神とはそういう精神を指しているのではない。むしろそういった精神はウェーバーがテーマにしている「資本主義の精神」とは真逆の態度である。
 
 イタリアの労働者のようにそういった態度は資本主義の発達を阻害する。「訓練のない自由意志の実行者」は労働者として適さない(ちょっとカギカッコが本文とは異なりますが、おそらく自由意志があっても、その自由意志を市場のルールにそって発露できない、ルールを守れないということでしょうか。自由意志がなければ創意工夫につながらないのでイノベーションが生まれませんから経済が発達することはない。だがルールを守った中で協業してくれなければ、自由ではなく放埒になってしまう。市場が機能しなくなるというところでしょうかね。ちょうど日本のブラック企業の逆の、ブラック社員のような感じでしょうか。余計なコメントですがブラック企業とはそのようなルールを守らないブラック社員に対して過度な規律・統制を強いるものではないでしょうか?そうでないと社会・経済、会社が回らない。自分たちはホワイト社員なのに、なんでこんなブラック社員扱いされるんだ!というのが日本の状況でしょうか?そして公務員たたきというのは自分たちホワイト社員に比べて公務員はブラック社員!絶許!という構造かもしれませんね)。
 
 一身なげうって海外へ富を見出すのは戦争・海賊と同じ。他所の社会、規範外の人間に対して暴利を貪ろうとしうのはいつでもあったもの。コムメンダ・徴税請負・国家への貸付、戦争・役人・宮廷への金融…これらは冒険としての資本主義的営利活動。そこに倫理はない。また、伝統社会が崩壊して、資本主義が起こり、新しい社会が生まれるようなケースでも、その営利が倫理的に肯定されるようなことはおこらなかった。倫理上許されざることであるが、やむを得ず後ろ向きに承認する、仕方なく寛大に扱うというレベルでとどまってきたのである。その承認が史上始めて肯定された事、定型化されたこと、この事実に注目すべきなのである。
 
 ※ゾンバルトはアルベルティを例にあげてフランクリン以前に似た道徳があることを示したようですが、このアルベルティの例も「家政」レベルの話であって、そこに倫理・道徳は伴っていないとします。ピューリタンからすると家族の名誉重視など「被造物神化」、フランクリンにはない貴族主義だと。カトーなどに経済的合理主義はあれど、industriaという観念がキリスト教以後異なってきており、修道士の禁欲という影響を受けて、世俗内的な禁欲にまで発達していく。彼らのはエトス・倫理ではなく、処世術にすぎない。彼らの場合貨幣への注意を欠くことは、資本の胎児を殺してしまうことになるため、倫理的罪悪になる。
 アルベルティが教会の聖職者の地位にあったとしても、そこに宗教的観念を結びつけてはいないのである。個人的にその事実は後のプロテスタントの職業倫理を生み出すための必要なステップになっていたと思います。重要な社会背景の一つなんでしょうね。―って思ったら、そのままのことが書いてあったわ。近代経済理論・政策に重要な役割をはたしたとね。ブレンターノがこのことをそういった視点から指摘していると、んでウェーバーは、いやだから、プロテスタントの倫理と資本主義の関係を論じているんだからそこは関係ないだろ…と書いてますね。
 そしてポイントになるのはこのようなアルベルティの著作は学者くらいしか知らない、一般的なものではないのに対して、フランクリンは小学校に小冊子として配られた誰でも知っているもの・話だったということ。フランクリンはピュウリタニズムの生活規準を乗り越えた人物として引用した、これは英の「啓蒙主義」に対するものと同じ。ピュウリタニズム→「啓蒙主義」→近代資本主義√ですかね。啓蒙主義は近代資本主義を促進させる要素になった気がしますけども、その間のステップとして必ずしも挟む必要はないのかな?
 ゾンバルトのDie deutsche Volkswirtschaft im neunzehnten Jahrhundert, S.123 oben ―これを鋭い定式化を伴う諸大著であり、彼と見解をことにする場合でもこれを踏まえた上でないといけないとしていますね。さて、ゾンバルトの定式化とは何でしょうか?
 
 資本主義の精神は倫理の衣服をまとった規範の拘束と常に戦わなくてはならなかった。これを伝統主義という。ウェーバー自身はこれについて明確な定義は下していませんね。まあ小室の定義で十分かと思いますが(あれ?大塚定義か?それとも丸山定義なのかな?あやふや。解説見ると伝統主義の解説があるので多分大塚定義でいいのでしょう)。伝統主義の精神としては給料を倍にしても労働者は働かない。その分働かないで済ませようとすることを例にあげています。よってもし労働者を働かせるなら逆に賃金を下げないといけない!
 無論そうしても、そのような労働者が質の高い労働を生み出すことはありえないわけですね。賃金が低いということは労働力を安く調達できると言うことではないと。労働市場で低廉な労働力を確保できることは資本主義を発展させる上で重要だが、そうした「予備軍」が多ければむしろ労働集約的経営への移行は阻害されると。
 
 サボってテキトーに仕事の時間を終えて賃金をただもらおうというメンタリティではなく、Beruf天職といった労働を自己目的化するような精神が必要。これは賃金を上げたり下げたりすれば済むものでは勿論なく、教育が必要である。資本主義が成立した今日では容易に労働市場で調達できるが、そうでない場合は難しかった。事例としてドイツの未婚婦人労働者、少女の例があげられている。いくら教育を受けて高い賃金をえることができることを説明してもそうしようとはしなかった。だが、宗教教育を受けた、とりわけ敬虔派地方の少女はその例に当てはまらず、件の条件を満たした労働者となった。宗教教育の結果、伝統的慣習を克服する可能性が最大となる。このように資本主義の生育期に、宗教的要因との関係を見ることは極めて重要なのである。
 一八世紀のメソジスト労働者への迫害、労働用具の破壊などは、英によく見られた宗教的な常軌を逸した行動に基づくものではなく、彼ら独自の「労働意欲」によるもの。ラッダイトのように彼らが働くことが自分たちの地位を脅かしたからかな?自分たちより安い給料でしかもよく働かれては彼らの労働者としての地位(=社会の地位も)は下がりますからね。
 
 ※よって簡単に労働者が調達できない資本主義の萌芽期にはそういった労働者を手に入れるために他所から熟練労働者を引っ張ってくることや倫理的に高い人間を必要とした。ゾンバルトいわく近代資本主義の技術は客観的・科学的、それ以前の秘伝や技巧は個人に結びついていた。勿論、そういった以前・以後と明確に分類できる話ではない、移行期にはそれが入り交じっていた。時にそういった技術面より倫理的資質のほうが貴重になった。そういった人間は伝統や教育によって大きく左右されるのにそういった点があまり考えられていない。それを人種などに求めるのは筋違いであるとしていますね。
 また、宗教と資本主義に深い関係があったということは、次のような好ましくない傾向を肯定するものではない。あるタイプの実業家が宗教が国民には必要だ!と言って自分たちに都合のいいように宗教を使おうとしたり、ルッター派の牧師が当局に同調的になり、特高警察の機能を果たし、労働組合ストライキを排斥した―というこれらの事実を肯定するものでもない。言うまでもなくそういった要素はまた別の話である。ウェーバーが論じている諸現象とは関係がないこと。当然良いファクターがあれば、逆にマイナス・悪いファクターだったり、悪用・誤用も当然ありえますからね。
 
 話を企業家についての「伝統主義」に向ける。ゾンバルトは「基調」として経済を「必要充足」と「営利」という概念に分けた。「必要充足」を「伝統主義」の観念に当てはめて、ほぼ同義だとします。特にそれが「伝統的必要」となるならば。ようするに生きるために必要なだけの富、生活費を稼ぐことが目的か、それとも経営の概念を持ち込んで長期的、合理的、計画的に富を生産する違いということでしょう。特に普段の生活を維持するという観点ではなく富を生産するということに目が向けられているということでしょう。
 
 しかしゾンバルトの「資本」の定義では「営利」の領域より「必要充足」の方が多く見られる。無論、これは移行期に当然の現象。むしろ「資本主義の精神」はしばしばそういった激しい抵抗にあって中断の目に合うのが当然なのである。
 
 資本主義の精神と近代資本主義は、適合的な関係にありながら法則的な依存関係にあるわけではない。にもかかわらずBerufを「近代資本主義の精神」と呼ぶのはこの心情の適合的な形態として近代資本主義的企業家が現れ、逆に(ちょっと意味が通らない)この精神的心情が最も適合的な推進力となった。「逆に」なら、精神→近代資本主義&近代資本主義→精神という相互依存関係、相互連関関係にならないといけない気がするんだが?どうだろ?心情が資本主義企業を後押しし、また資本主義企業がその心情を体現する、より明確な形にしていくという相互連関関係のことじゃないのかな?
 
 そして重要なこととして、この精神と体現者は同一階層から生まれてくる必要はない、別々のことがあると。都市貴族ではなく産業的中産身分、新興の成り上がりに見られたもの(おそらく民主主義の担い手としても同じ)。中小の市民層こそがこの精神の「典型的な」担い手だった。
 
 こんな中途半端な所で一旦打ち切り。70ページも行ってませんが、まだまだ先が長いので、全部終わったら、きりの良い所でまとめ直します。多分四回くらいになるだろうし。んで最後の所は宗教的教理の専門過ぎて己にはわからないので触れなかったり、大幅に飛ばしたりすると思うのでどういうバランスになるかわからないので、一旦中途半端な形で公開します。終わったら整理で。
 続きです→プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神②