家格に応じた離婚・再婚の話
てぃーえすのワードパッドさんの文章([後漢]糟糠の妻の修羅場 [後漢]宋弘の妻)を読んで、ちょっと思いついたことを書きたいと思います。
光武帝が宋弘に姉を娶らせたかったときのセリフ、「尊くなれば交わりは替り、富めば嫁が替わる」―これは別におかしいことでもなんでもなく、身分が上がって社会階層が変わる。階層が上にあがっていく場合、それにふさわしい家柄の嫁・舅を持たなくてはならない。そういう時代の常識を意味しているのでしょう。
無闇矢鱈に女に手を出す色ボケ爺になるという話でもなく、普通に商売で一定の業績・規模を備えるようになったら、バックアップとして政治家と結びつくのが割と当たり前だったと思います。清官と言われる人が個人としては清廉潔白でも、一族の中に商売をやっている人がいたりとかよくあったようですしね。まあよく己が言う、経済資産を政治資産に転嫁するというやつですね。
んで、郭泰伝に出てくる黄允のエピソードもその一例で、出世のために離婚をするという話だと思いますが、離婚をする際、協議離婚に失敗すると大変なことになるということを示している話であるともいえます。そもそも高官・貴戚に生まれが貧しい男子でも「これは出世の見込みがある有望な人間だわい」と、山崎豊子の女系家族バリに婿として引き立てられるというのは、そもそもそんなに頻繁には起こらなかったような気がします。まあ大抵、同格の家、お互いの家が釣り合う家柄間で、婚姻が結ばれるというのが常だったようですから。
そこでもし黄允が嫁を変えて出世するというのなら、それは元嫁・元舅にしてもそんなに悪い話ではなかったと思うんですよね。離婚で血縁関係が切れるにしても、これまであったコネ・政治資産は継続する。それが離婚でブチぎれて悪事を洗いざらい告発して失脚させるというのは、よほどやり方がまずかったのでしょうか?双方損をするだけでメリットはないように思えますが。
それだけ妻の身分が低く、最後のかましっぺ、死なばもろともだったのか。子供が残せなくて、家に影響力を行使しようがないから、離縁したら自分は大損になったとか?それとも同格の地元の有力者の人間の家柄であり、地元より中央のコネを重視して、本来黄允と嫁の家に期待されていた役割を黄允が無視することになるからなのか?新しい嫁、袁家の人間と結婚されると利益どころか不利益を被る図式になっていたのか?*1
そこらへんどういう構造だったのか気になるところですね。
ただまあ、宋弘のケースなんかは皇族の嫁を娶ることよりも、地元の意識、地元政治家としての都合を最優先する、あるいは嫁の家柄を重視するということなんでしょうけどね。自分の周囲の政治資産・地縁・血縁優先で、中央政治にシフトしないと。
婚姻=同盟みたいなところがあるので、ここら辺気になるところではありますね。政略結婚という単語もあるくらいですし。
曹操が丁夫人と離縁して、卞夫人が正妻になったときも丁夫人を上座において厚遇したとかありますし、地方での曹家・丁家の結びつきを考えるとむしろ当然のことだったのかと。あと彼女は子供が生まれなかった。離縁して家を出て行ったのも感情的もつれ、いざこざというより単純に子供がいなくて正妻としての条件を満たせなくなったとかそういう要素も大きいのかもしれませんね。子供がいない自分が正妻であれば生母といざこざを招くとかそういう配慮が働いたとしてもおかしくない気がします。
後妻マニアというのも趣味・志向というより、そういう何らかの要素が関係しているんでしょうね。メリットがある。秦夫人の連れ子秦朗とか尹氏の何晏とか、そういう子どもがいるということは、政治資産としての価値が高いということだったんでしょう。
離婚でもめてしまうということもあっただろうし、円満離婚でのちも関係性が有効に機能したケースも十分あったんでしょうね。長子でも跡継ぎになれないのに、この離縁がかかわっているというのは大いにあるでしょうね。そもそも嫁を変えて家の政策方針・路線を一から変えるわけですからね。そりゃ跡継ぎにはなれませんね。しかしその場合、新しい跡継ぎの子が死んでしまったらどうするんでしょうね?やっぱり長子を差し置いて一族から養子を取ってくるんでしょうかね。あるいは妾の子ですかね。新しい方の嫁を母として仰ぐということでおkになりそうですかね。
まあ当然、平時と戦時におけるそれは違ったでしょうしね。曹操は異姓養子も乱世なんだから仕方ないじゃん。あんまり責めるなよってどっかでいってましたし。こういうのは後漢から門閥・貴戚というのが固まってくるのでかなりポイントになりそうな気がします。気になるところですね。
離婚した後も当人の一族と元嫁と現嫁の一族が仲良くやってた。ジョイナスしていたことがわかるような実例があるといいんですけどね。
[後漢][その他]西南夷 あと関係ないんですがこれを読んで、夷とか狄とか実際の文献ではあんまり方向に関係なく結構ランダムに異民族名がつけられていることを思い出しました。西だから西戎って決まってるわけでもないんですよね。これってやっぱりそういう傾向ごとに分類して、当地の民族にあてはめていたんでしょうかね?
夷というのは一人弓という字の合成、つまり弓を使うけどもせいぜい名手がいる程度、集団組織能力・軍事力はないよ。そこそこレベルだと、夷。戎は西ということもあって、けものだが、やっぱり矛を使ってくる=そういう軍事能力がある。特に定住的なものに使われるのが戎。狄は火を持ったケモノ、北と言えば馬をイメージするが馬の字がないのはやはり相当昔にできたからか?北という漢字は逃げていく様を文字にしたと言われますし、昔は強くなかったんでしょうかね。だが遊牧民が定着してからは馬中心のそれをさすようになったとか?騎馬系なら狄を使うとか?南蛮は虫とあるように、もうそのまんま動きが鈍い集団を意味する。鈍くてたいしたことない異民族には蛮を使うとか、そういった使い分けとかなかったんですかね?
トーテムの違いとか、文化レベルの指標とか身体的特徴とかで何か使い分けがあったんじゃないかな?と思いますが、別にそういった違いもなく本当に適当に名前を付けていたんでしょうか?
*1:婚姻同盟が離婚で、同盟解消というケースが有るように、政略結婚が離婚で同盟関係が破綻するということだったわけですね、このケースは。同盟解消だけでなく、敵対関係のある家に乗り換えるとかあったから、こういう強硬な態度に出たと考えると筋が通りますが、実際のところはどうだったのでしょうかね?