てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

E・H・カー著 『歴史とは何か』(一章)

歴史とは何か (岩波新書)/岩波書店


 E・H・カーの『歴史とは何か』に触れていなかったのでちょっと触れてみたいと思います。
 個人的に重要ポイントと思えるところを強調。感想部分もね。一章と二章は歴史学を学ぶ者にとっては、今や常識といえるところですね。もうカーさんがこう言ってくれたら有難い、わからない人がいたら、「カーのこれ読みな。カーという大家が既に語っているから」で説明しなくていいから楽でいいですね。

一章 歴史家と事実
 歴史とは何か 知識が全てを解き明かすことができる!という信念があった時代、一九世紀には全ての史料を余すことなく収集さえすれば歴史は完全なものになると考えられていた。完全な知識、完全な理解は可能だという思想だ。
 一八三〇年代ランケが道徳主義的歴史に抗議をし、「事実の尊重」が主流となった。英では経験論と結びつき、主観・客観の区別の徹底へと進む。料理をする時、魚屋で魚を買って調理をするように、然るべき所から史料を揃えてきて、史料を以って歴史を書くというやり方が歴史学のフォーマットとなった。

 歴史的事実とは何か? 歴史的事実とは歴史家が重要だと認識して、記されたもの。カエサルルビコン川を渡ったこともそう。その事実は他の誰かが道を渡るという行為と同じ事だが、無論歴史家はそれには注目しない。注目されないから当然歴史に記されない。歴史家の解釈にすぎないことを独立した客観的な真実だと信じるのは誤り。

 歴史的事実が生まれる過程 安物を売っていた商人を野次馬が殺したという些細な事件、これをクラーク博士が講演会で持ちだした。これで歴史的事実になるか?論文・書物・脚注に載ることでそうなるか?おそらくこの事実を解釈した主張が多くの歴史家に認められて初めて歴史的事実となる。
 歴史的事実とは解釈に基づき、歴史上のすべての事実の中に解釈という要素が含まれている。
 「ペルシア戦役におけるギリシア」というテーマをかつて研究していた時、一五~二〇冊の関係する書物を全て集めた時、この時代に関係する知識全てを揃えることが出来たと思えた。これは正しいか?
 無論そうではない。この史料集はかつて誰もが知っていた事実の中から歴史家がこれこそ歴史として残すにふさわしいと篩にかけて他の情報を削ぎ落してしまった結果であるのだから。古代史・中世史において、当時の事実全てに手が届くと考えるのは錯覚である。ピュリが言うように古代・中世史には脱漏が存在する。しかし本当の問題はそこではない。
 ギリシャの歴史の多くはアテナイ視点で記されており、テーベやスパルタから見た視点は記されていない。また奴隷や市民以外の人の視点も同様に存在しない。私達が今知っている姿は選別された姿。それは偶然ではなく、これこそ歴史に残すに足ると信じた人達が意識的に選別したからそうなるのである。

  同様に中世史を見ると当時の人々は宗教に深い関心を抱いていたとあるが疑問に思える。なぜなら史料といえば年代記であり、その作者は例外なく宗教の理論及び実践にしか眼中になかった人達だから。史料・史家の偏向(当代の常識)の問題がつねにつきまとうことになる(史料は歴史家の手によって偏向する。近代史以前は「残されなかった史料」という問題がつきまとう)

 その他の史料が既にない以上、ロシアの信心深い農民像というのが革命で打ち壊されたようにはいかなくなる。史料が残されていない以上、裁判所に訴えようもない。バラクルー教授いわく「我々の読んでいる歴史は事実に確かに基づいているが、正確に言えば事実ではなく広く認められている判断である」。(歴史は事実ではなく判断)

 古代・中世の史家となると、史料がある近代史を羨むが、近代史家は彼らのような無智を自覚しないことがある。近代史家は重要な出来事を発見し、また重要でないことを非歴史的事実として捨てることが要求される。決して客観的事実を収集することが歴史ではないのである。
 アクトンは文筆家から百科全書編纂者になることを嘆いているけども、このことは当時「歴史とは何か」という必要性が歴史家になかったことを意味している。
 現代利用できる様々な文章が存在している。しかし歴史家がこれを研究し、解読するまではそれは意味を持たない。歴史家が手を加えて処理をして初めて使えるようになる。そう言っていいのなら、歴史的事実とは処理過程なのである。(歴史家が手を加えて初めて歴史になりうる。歴史的事実とは歴史家の処理過程である)

 ワイマール時代のドイツの外相グスタフ・シュトレーゼマンが膨大な文章を残し、その華やかな西欧外交が注目された。しかし実際彼は東方外交にも常に熱心だったがそれは注目されなかった。英米にとって関心があるのはそちらだったから西方政策が注目され、東方政策は関心が払われなかった。もし編纂された史料だけが残り、大戦で原典が失われていたら、そういったことはわからなくなってしまっただろう。
 また外交会談記録の特徴であるが、シュトレーゼマンが説得的で相手は根拠に乏しいように描かれている。チチェリンの文章があったから別の視点から検証できるが、そうでなければ彼のみの偏った見方になってしまう。事実や文章は歴史家にとって大事だが祭りあげてはいけない。決して事実や文章だけでひとりでに歴史は描かれないのだ。(史料だけでは歴史学は成立しない、歴史家の手・能力が左右している。歴史家の役割・価値判断の大きさに注意せよつまり同じ歴史家でもその人によって解釈能力・あるいは見地から大きく異なって解釈されるということが重要になる)

 ローズ博士はチャーチルの『世界の危機』はトロツキーの『ロシア革命史』に匹敵する素晴らしい本だが、背景に歴史哲学がないとした。が、そもそも歴史に意味が無いと考えていたのではなく、歴史の意味は自明だと考えているからこそ歴史哲学が背景になかった。
 一九世紀のリベラルな歴史観というのはレッセフェールのようにその分野に性を出しさえすれば、自ずと正解にたどり着く。限りない進歩という至高の事実に到達すると楽観していた。それはエデンの園で裸で歩いていたようなもので、今我々はその恥ずかしさに気づいたところといえる。(歴史をただ単にずっと研究さえしていれば自ずと正解がわかるという楽観論があった。数学の問題やパズルのようにずっと時間をかけて取り組んでいれば、いずれ必ず解けるというそういう認識が常識だった時代があったのですね)

 
歴史家が歴史を作る 歴史哲学に重大な貢献をしたコリングウッド(『歴史の観念』著者)いわく、歴史哲学とは過去そのものでも、それに関する歴史家の思想でもない。その両者における相互関係を扱うものである。※本文だと「相互関係における両者」だけどこっちの方がいい気がするが?関係性に注目せよ!じゃないのかな
 ある歴史家が研究する歴史とは、何らかの意味で現在にも生きた過去である。背後に横たわる過去の思想を理解できて初めて生きた歴史になる。つまり歴史とは、その時代の歴史家の思想が歴史となって再現されたものである。だからオークショット教授の言うように歴史とは歴史家の経験。歴史家だけが作ることが出来、歴史を書くことは歴史を作る唯一の方法となる。
 (事実は価値・思想から切り離されて独立に存在することはありえない。歴史的事実を研究するにはまずその背景の思想を理解せよ。価値判断・思想を持った歴史家がその視点から歴史的事実を書くことによって初めて歴史が成立する)
 歴史上の事実は決して純粋な形で我々の前に残るわけではないから、記録者の心を屈折して通ることに注意しなくてはならない。
歴史家の視点が歴史の解釈に反映されている事に注意ということですね。単なる出来事・事実の羅列が歴史ではないということですね

 まず歴史家を研究せよ まず書物を読む際に事実ではなく、書いた歴史家に注意すべきである。ホイッグの伝統を世に伝えるために『アン女王治下のイングランド』を書いたトレヴァリン博士の目的は巻末に要約で述べられている。事実はともかく解釈としては一つの価値をなす。
 歴史書を読むときは歴史家の心が反映されている以上、読者はその心を読み取らなければならない。頭に歴史家のざわめきが耳に入って来なければ、それはあなたが聾であるか歴史家が愚物かのどちらかである。歴史家は店先で魚を買うように単純に歴史的事実を手に入れはしない。大海から釣り上げるように見つけてくる。いかに解釈する材料を見つけてくるかということに歴史家のセンスがかかってくる。
 歴史家は自分の解釈のために都合の良い事実を獲って来るから「想像的理解」が必要である。ブルクハルトが三〇年戦役で教義を国家の統一に優先することは馬鹿らしいことだと評価したが、これは国を守るための戦いで死ぬならともかく、宗教の戦いで死ぬのは愚かだと教育されていたからそう考えたこと。

 カーが研究しているソ連の英語文献は、ソ連側の立場・心情を理解したものが少ないゆえにどうしても悪意あるものとして解釈されて文章に残っている。歴史家は自分の書いている分野で心を通わすこと
が出来なければ(=相手がどうしてこういう行動・価値判断をするのかということが理解できなければ)、有益なものを書くことは出来ないだろう。(敵の立場・相手の立場になって理解せよ。ツェペリさんみたいな話ですが、文化人類学のようにベースとなる思考発想から攻めていけ!さすれば有効な研究成果できあがらん!って感じですね。)

 我々は現在に生きている以上、完全にその時代の視点に立つことは出来ない。ローマ人の格好をして言語も使って、講義をしてもローマ人になることは不可能。特別な用語を持って解釈する以上、中立ということは出来ない。欧のバランスオブパワーの変化によって、その都度フリードリヒ大王の評価が変化していったのもそう。
 教会内部のカトリックプロテスタントのバランスオブパワーの変化は、ロヨラ・ルター・クロムウェルの評価を変えた。また仏革命を記す仏歴史家は露革命に影響を受けてその評価、記述を変えた。今起こっている歴史によって過去の見方がどんどん変わっており、その影響を絶え間なく受けている。
 歴史家は過去の一員ではなく現在の一員なのである。だから現在の出来事を通じて、過去の評価・見方がどんどん変化していく。絶対的な評価が先にあるのでなく、現在の出来事によってあとからあとから肯定的にまたは否定的に、と評価が与え直されていく。どんどん新しい視点によって再解釈されていく。歴史家の機能は過去を愛するのではなく、自分を過去から解放するのでもなく、現在を理解する鍵として過去を征服し理解することである。(過去の事実に対する
絶対的な評価などありえない。歴史家・立場・視野のあて方によって評価は変わり得る)

 コリングウッドは更に極端に客観的な歴史はなく、ティユモンは一七C仏から、ギボンは一八C英から、モムゼンは一九C独から歴史をそれぞれ眺めたとした。このように歴史学には客観的真理がないということから、どのような真理もありうるというものに変わってしまい、無限の意味がありうることになった。どれが正しいということもなく皆同じようなものになってしまった。しかしだからといって、事実において解釈が働くとはいっても、そこに甲乙がないわけではないし、そも客観的解釈の手に負えることではないという話になるわけではない。
 コリングウッドの仮説は懐疑主義に陥らせる危険性だけでなく、目的の適合性に追いやる危険性がある。ニーチェや米プラグマティストのように目的に適うそれだけを追求すれば、ソ連(又反ソも)の事実を無茶に扱った乱暴な解釈を引き起こす。一九世紀の純粋事実の時代が懐かしくなる程酷いものが目に付くようになってしまった。

 では歴史家はどうすべきか?まず知りうる史料・事実・解釈は全て記すこと。インプットとアウトプット書く作業と読む作業をわけないこと。小説ならともかく、一気に歴史を書くことは不可能である。
 客観的編纂と解釈の理論という二つの難所を越える航行を歴史家はしなくてはならない。
 人間は置かれている環境に完全に自由でも、その奴隷でも、絶対の主人でもない。歴史家と事実の関係はギブアンドテイクであり、解釈と事実をいったり来たりするのであるから、どちらか一方を他方の上に置くのは不可能。相互作用を進めるうちに微妙に変わっていく。

 そして歴史家は現在の一部であり、歴史は過去の一部であるから現在と過去の相互作用でもある。どちらか一方がなくても成り立たない。「歴史とは何か」の最初の答えとして、歴史家と事実の相互作用の不断の過程であり、現在と過去の間の尽きぬことの知らぬ対話ということができよう。(解釈と編纂、歴史家と歴史、現在と過去―その絶え間ない相互作用、やり取りの過程こそが歴史学)
一章ここまで。続き→E・H・カー著 『歴史とは何か』(二章)