てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

相手への配慮なき愛は憎悪と同じである


 「お前たちはいいことをしたと思っている。しかしそれは押し付けた善意だ。悪意と何ら変わりがない」

 コードギアス見ていてそんなセリフがあって、いつか書こうと思っていたけど、なんとなく書かなかったネタを一つ。愛憎一如、愛するが故に理解されない時の憎しみは人一倍大きくなるということがありますが、愛という行為には相手を思いやらないと意味が無い。

 自分が好きだからといってそれを強要するようでは、例えば「ボクが君を愛しているから、君もボクを好きなはずだ」では、ストーカーになる。愛情とは時に刃物に等しい凶器になる。人は敵意を向けられれば敵意で応える。そしてまた愛情を向けられれば愛情を同じように返したくなる。しかしその愛情に応えることができなければ、あの人の愛情を踏みにじってしまったという気持ちになる。愛情に対し、敵意で応えることになってしまう。人は教育=社会化という過程を通じてそれを一番やってはいけないことの一つとして知っている、教育されているから心を痛める。相手も自分もそのことによって傷つくことになる。

 妙齢のおなごには「告白をしたいけど、もし振られて今の友達という関係まで壊れちゃったらどうしよう?」という定番の悩みを抱くもの。その根底にはやはりお互いを傷つけあってしまうという心理効果があるだろう。傷つけてそのままならともかく、愛情がなおも続く関係なのだから当然だ。

 この凶器となってしまったケースはもちろん、相手を思うが故に、そうなってしまった場合。しかしここから相手の気持ちを無視してストーカーと化せば、愛情を強要するようになれば話は違ってくる。ハリネズミのように初めから自分に纏っているハリをなんとかして相手に触れないように、傷つけないようにと苦心惨憺して相手に近づこうとするハリネズミと、自分のハリを相手に突きつけてエサをよこせ!と脅迫するハリネズミくらい差がある。

 愛情と敵意は言うまでもなく本来真逆の観念だ、真逆の観念をひっくり返して同一のものとして混同して漫才のネタとすることがよくあるが、漫才のネタとして次のようなものをやっても、最早通じないだろう。「俺な、絶対OKされる告白の仕方をおもいついたんや」、「へぇ、そりゃどうやるんや、おしえて~な」、「俺を愛さないとブチ殺すぞ!ワレェ!」、「待て待てキミィ!愛して欲しいんやろ!愛する相手を脅してどないすんねん(肩ポン)」チャンチャンというような漫才のネタとして通用しない、ストーカーという概念が一般化してしまった社会というのは恐ろしい。まあ、ネタとして面白いかどうかは別として。

 ストーカーは要するに脅迫・強要である。相手の気持ちを考えない、おもいやりなき善意は悪意そのものである。愛情を押し売りするというのは昨今の社会でどこにでも見受けられるものだが、それがこういう形で現れて最後の形態なるのだろうか?今問題の介護や子育てで、俺こそが介護のプロ!子育てのプロ!介護させろ!と無理矢理寝たきりにしたり、子供を奪い取って最高の教育を施してやるからあんたのような親は迷惑だから消えてくれというようになるのだろうか?そのような傾向が見えなくもないが…。しかも肝心なところには手が回らないという問題を据え置いたままで。

 善という通念は簡単に変わる。だから年をとった人が女の幸せは結婚といって、お見合いを強要して年頃の女性にある種のセクハラとして嫌われる。紹介をした人は自分はいいことをしたつもりなのにつっけんどんにされて、善意を悪意で返すとはなんてやつだ!とさらに相手を嫌う。まあ、こんな事例はともかく世代間ギャップで善意がすれ違いトラブルを起こすなんてよくあること。

 だからこそ相手にとって望ましいこと、さらに相手が望んでいることは何なのかということを考えないと人はいつでも「ストーカー」になる。そして最終的には相手の思うこと、考えていることをねじ伏せるようなことはしてはならないということ。それが失敗・損失になるとしても、事前の説明であの人の言うことは当たっていたと信頼を得ることになるのだから。


 なんかこんなかんじで終わると中途半端感が否めない…。余計なことを書きたくなってしまう話題だから、仕方ないね。もうちょっと書けるけど、蛇足感が半端ないし。まあこんな感じで。

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