てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

馬車とか日本史ネタ

申し訳程度の日本史ネタ。


○行政文書の話
 吉宗政権には、公文書をきっちり残して、個別の担当者や家で完結させるのではなく、政府組織で共有する。継続的にその政策がわかるように情報化しておくという改革が自覚的に行なわれていた。そして松平定信政権には、政策決定過程が記録としてちゃんと残るようになった。

 ―というような内容のツイートを見て思ったこと。これは松平定信再評価まったなし!というか意思決定を公式記録に残した、内閣政治みたいなのを成立させた的な評価はすでにされているんですかね?まあ、意思決定が間違っていたとして、後から検証&責任を取らされるようなシステムになっていたかというと、それは成立していなかったんでしょうけどね。

 前近代国家だと、この意思決定過程の文章化とその管理ということがなかなか出来ない。そこが近代国家へのテイクオフを阻む要素になるんでしょうね。まあ行政文書化と官僚政治というのはかなり密接な関係にありますからね。江戸時代は戦争をやめて、現状を封じ込めて、その余ったリソースを開墾=農業生産力の増大に向けさせた。次にそれが頭打ちになると商業生産力に向けたというステップがありますが、そのような経済開発時代の政治において担当部署は今どうなっているか、どういう政策を実行しているのかということを、文書に残しておかないとどうにもならないですからね。無論、軍事・政治要素は言うまでもなく。

 吉宗・松平政権が行政文書をしっかり残したがゆえに再検証されて、後世から批判されるというのもなかなか皮肉な図式ですね。批判される史料を残しただけ、まあ大したもんだということも言えるでしょうね。口伝にするとか家老とかが文書を私有してしまえば、そういう都合悪いことも抹消できたでしょうにね。

 やはり江戸幕府が一応軍事政権だったことが大きいのでしょうかね?特定の家・官職が情報を独占すれば、その人や組織が権力を持ってしまい、幕府が骨抜きにされるリスクが有ると吉宗は知ってたんでしょうね。吉宗が知っていたというか、何らかの役職において既にその弊害が出たからこその改革なんでしょうかね?特定の誰かに聞かないとわからないとか、知識を持ったどこかの地方・家とかが権力を持ちだしたとかそういう傾向があったとか?それゆえに何か問題でも発生したんですかね?気になる所ですね。


○馬車の話
 江戸幕府は馬車を導入しようとしたことがある。技術的には勿論可能だったが、馬車の規格に合わせた日本中の道路の画一化と整備=大規模な公共事業が必要なこと、それに伴う維持管理費の増大と既存の流通業者の失業等のデメリットの方が大きいと判断してやめたと。

 馬車という技術革新を進めようとしなかったというのは、変化を拒むのが当時の常識。経済成長よりも政治安定の方が前近代国家の常識だったという視点以外に、やはり当時の国力の限界という要素があったと思うんですよね。

 中国くらい、領土も人口もあればまた別だったんでしょうね。唐が均田制から両税法で財政国家に変わっていくように、経済規模が大きければ農民主体ではなく、都市からの徴税・収入というものも視野に入れる国家に転換してもやっていけたんでしょうけどね。

 またそうじゃなくても、幕府が全国を一つの政治機構に統一して効率的な政治を実行するという発想になかったですからね。技術を導入して、徹底的に効率化を図り、日本という国単位で改革を考えれば、自ずと江戸幕府による「現状封じ込め」という根本政策に関わってしまいますからねぇ。

 馬車を導入するという一大プロジェクトを担う財政に、それを統括する部署、そしてその部署がどんな権限を伴うか…などなど、そんなことを考えただけでも幕藩体制に大きな構造の転換を図る一大プロジェクトになりますからねぇ。まず、それをやりたい!という有力者・引き受け手もいなさそうですよね。田沼なんか馬車をどう考えてたか気になるところですけどね。


元寇の話、戦術の違いゆえに苦戦したのか?
 元寇における一騎打ちの鎌倉武士VS集団戦術のモンゴル軍というのは実はうそ臭い。そもそも外人相手に日本語で名乗り上げる必要性がないから。どうもあの説は国内の公家・宗教諸勢力が自分たちの加持祈祷のおかげで神風を起こして勝った。武士は大した仕事をしなかったという論理が発端の話だと。鎌倉武士は承久の乱から50年以上大きな戦を経験しなかったため、単に実戦経験不足による苦戦と考えたほうが自然だと。

 そういや、江戸幕府でもあっという間に戦争がなくなって兵の動かし方とか、実戦経験乏しくなって怪しくなっていきましたよね。元寇の二回目は流石に対策するので、そんなに未知の相手・戦法だから苦戦したってことはないですよね。公家とかに祈祷力アピールされたからこそ、じゃあ自分たちも魔術=宗教力をつけてやんよ!っていうのが、武士も仏教系の呪術に手を出していくって流れになるんですかね、やはり?後醍醐さんもあんな感じになったのはその流れに関係があるんじゃないかしら?
 
14/11/12に書いたもの。単独で載せるほどのものでもないので、松平定信繋がりでここでまとめます。
 松平定信がコネ・パイプ作りで若いころから熱心であり、こまめに統治の評判のいい大名ところに話を聞きに行ったり、まめに勉強会をやっていたりしていた。そうやって色々コネを作り&評価を高めていた。若いころの政治活動、地盤づくりが後に生きた形になったわけですね。

 江戸城内の高官への配慮にもぬかりはなく、田沼にも進物を送っていた。田沼と距離が遠いわけではなかったんですね。そして政権を取ったあとで田沼派を攻撃する。これはどうも自分の政権への求心力を上げるための計算上の政争。まあ、つまり井沢さんが言うような朱子学の徒だからとか、信仰・信念の問題ではなかったというわけになりますね。

 ここらへんの定信の政治って、幕政の官僚化を促進したことと関わってきそうですよね。彼の重農主義?とでも言うような性質っていうのは、そういうのと関係が深そうな気がしますね。もしかしたら田沼的な重商主義も当初は考えていたけど、情勢が変わって切り捨てざるを得なくなったとかあるのかもしれませんね。

 所と場合によっては商業を奨励するようなことも十分あったんでしょうね。重商主義で、既存の社会構造が破壊されどうしようもなくなってしまうから、農本主義に回帰せざるを得なくなったという背景があるんじゃないでしょうか?彼の官僚制の整備というのも、その管理化という側面と関わってきそうな話ですよね。流民化が治安を悪化させて、社会問題になっていずれ幕藩体制を崩壊させかねないと考えても、ちっともおかしくないでしょうし。

 まあ、問題はそのような定信の官僚制・国家管理体制からの次の世代がいかなる改革を打ち出すかということになるんですかね?安定のために農本主義のようなものを取っていても、いずれは商業を奨励する方向に踏み出さないといけなくなったでしょうからね。