てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

「焼身自殺」について 身命を賭した訴えというだけで政治主張を肯定するべからず

 「焼身自殺」について一言。実際は怪我で助かったらしいのでカギカッコ付きで表現しておきます。

 ツイッターでこの話が回ってきましたが、話題になっても取り上げることはしませんでした。というか、なぜNHKやテレビが取り上げないんだ!みたいな好意的な声が多かったことにかなり疑問を覚えました。
 無論、何やってんの?馬鹿じゃねーの?という冷笑的な態度にも同意できませんでしたが…。

 三島由紀夫となぞらえるような人もいて、どう見てもそれは違うだろう…。正直尊敬する三島をそんな軽々しく出して欲しくないです。

 焼身自殺というのは、例えばチベット仏教僧のように信仰をもち、そういう宗教的生活を送り、かつ中国の弾圧下にあるような人が抗議の行動としてするから、米欧メディアでも好意的というのも変ですが、まあ肯定的に報じられるわけですね。というよりも中国非難という色合いで。

 彼がどういう人物で政治的主張のためにそういうことをしたのか、まだわからない。そういう段階で、集団的自衛権反対で自殺したからと言って、即好意的な反応をしたり、なんでNHKは報道しないんだ!みたいなリアクションを取るのはちょっとおかしいと思いました。

 日頃から真面目な人物で、家族も亡くなって、思い残すところはなくなった。そしていろいろ考えぬいた挙句、ベストな手段がこれだった。また遺書などを通じて、非常に思慮深い人間で、その主張に理があるということがわかって初めて、肯定的な評価を与えるべきでしょう。

 伝え聞くところによると、ベトナム戦争の時に、日本人でそのようなケースが有ったとか。その人はきちんとした主義主張があったようなので、評価をするとしたらそういう主義主張がハッキリして、その言い分を理解してからするべきでしょう。

 もしかしたら、単に個人的に追い詰められてやけくそになっただけ。パニックになった結果ということだってありえます。そこに大義などない個人的なわがままなのかもしれません。それがわからないうちに、背景がハッキリしないうちに、あーだこーだ騒ぐ気が知れないです。チベット仏教僧のように、戦争で苦しんだ背景を持つ家の出身で、このままでは信念を貫いて生きることなど出来ないという背景がなければ、彼の行動を評価することは難しい。背景がわからないうちに騒ぐべきではないでしょう。

 日本の防衛政策・安保政策に失望して、青年が割腹自殺したという事件があったらしいですが、そういうものを軽々しく褒めてはならないと個人的に思います。なるほど、君の言うことには理がある・筋が通ってる。だが、なんで自殺するんだ。自殺したってなんにもならないじゃないか。現実を変える苦難の道をいくべきだ。
 ありきたりのセリフであんまり好きなものではないですが、普通はこうなるでしょう。

 かつて松本人志が、自殺する奴はアホと報道しないといけない。そうしないとマネが出る。自殺した人を苦しかったでしょうとか、かわいそうになどと報道すると、今苦しんでいる人が、じゃあ今自分が死んだらそう思ってくれるかなと自殺を啓発してしまう。だからそういうふうに肯定的な態度を示しても、最後にはでも自殺した奴はアホですと〆ないといけない―と言ってましたが、本当そのとおりだと思いますね。

 三島のような特殊な例を除いて、自殺を軽々しく肯定的に扱うべきではない。特に自己の政治主張と重なる場合において何をか言わんや。憂国青年の自殺を評価しながら、集団的自衛権の解釈変更の自殺を否定したり、逆に前者を否定しながら後者を肯定するというのは、明らかに自分の政治声明に都合のいいように物事を解釈するやり方ですから、そういうことをやってはいけません。
 産経などは、その割腹自殺を肯定的に報じたと言いますから、もしそうだとしたら、命をかけて政治主張・抗議をすることを肯定しないといけないでしょう。自身の命をかけた行動であるなら、何でも許されるというのは危険な発想だと個人的に思いますが。
 その主義主張に共感できる、誠にそのとおりだ、彼は素晴らしい人物であった。しかし、なんで自殺なんだ?自殺する奴はアホ。そうやって〆ないといけません、公共報道機関ならなおさら。
 諸個人でいろんな価値観がありますから、あるとするなら、自分の顔と名前を出してきちんと是非を論じた上で、自己の主張として肯定すると断言するのならわかりますけどね。誰が言ってるかわからないような形で無責任に自殺を肯定するような空気を作るべきでないと考えます。

 日本のような自殺しやすい風土、自殺という名の他殺を許容してしまう・見過ごしてしまう価値観がある社会なら、なおさらどうして自殺しなければならなかったのか、どうやったら防げるのか、その解明に焦点
を当てるべきだと己は考えますね。
 ※追記、そういえば松本人志の自殺したら負け発言での炎上というか騒動がありましたね。そのことについて特に書きませんでしたが、あれについては松本人志という人間が停滞・老化しているという現実があるんでしょうね。「死んだら負け」と主張した時点では、報道の問題があった。何の配慮もなくただ自殺した人を憐れむ・同情するという問題があった。そして現在はそういう問題がなくなったわけなんですよね。そういう時代の変化についていけていない。その重要性はもうぐっと低下したのに、まだそういう持論に固執している。
 また彼は強者、そういう強者が自殺するような弱者についてする主張ではない。弱者・被害者がどうして苦しまないといけないのか?どうやったらこういうイジメ問題をなくせるのか?という話なのに、そういう対策や制度変更を訴えずに「死んだら負け」と主張することは、要するに弱者・被害者自身で問題をなんとかしろと言ってるに等しい。極論、テメーでなんとかしろ・自己責任だということになる。学校や社会におけるいじめをいかになくすか、どうしたらいいのか?ということを、社会において重要な役割を担っている・発言や一挙手一投足が注目されるスーパースターでありながら、自分が世のため人のために何が出来るか!何をすべきなのか!ということをなにも考えていないわけですからね。そりゃ叩かれますよね。
 こんな駄文、誰も読まないと思いますけど一応補足しておきますが、ここで松本発言を肯定しているのは自己の政治主張に自殺という手段を利用しているからですね。時にその主張に賛同できることがあったとしても、自殺という手段を軽々しく認めてはならないということ。いじめなどで弱者・被害者が自殺に追い込まれるというケース・前提とは全く違いますからね。勘違いする人はいないと思いますが、両者は状況がまるで異なるということですね。それを容易に混同してはいけないということです。