てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

人文科学の削減の話題について 有益性と有用性という視点

 文学部の削減・縮小という話題がありましたので、その話題についてコメントを。他の人が、昔は先進的な知識を導入するには独仏語が英語と同じくらい必須だった。しかし、理系分野の新しい知識なんかは英語で十分カバーできる。むしろなかなか英語化されない、スペイン語・ロシア語・アラビア語などに重点を移すべきではないか?という話がされていました。そういう話なら、理解できますね。

 個人的に思うことは、人文科学というのはわかりやすい有益性とわかりにくい有用性というものがあるということ。法律とか経済学ですか、そういうものは資格などに繋がって、利益・実益に繋がりやすい。まあ、必要性はだれにでもわかりますよね。

 対して、文学などのそれは有益性はない。有用性になるわけですね。ではどういう意味で役に立つのかと言われると、翻訳などを除けば、それはリテラシーだと思うんですよね。

 巷では不正選挙がどうした、人工地震がどうしたなんて陰謀論にすぐ引っかかってしまう人がいますよね。最近ではお笑い芸人が原爆を揶揄したネタを作っていたとか何とか、まあアホくさいとしか言いようのない話がありますが。

 史学だって、そんなに多くの人が歴史を研究する必要性があるかといわれたら、ほんの少しの優秀な人だけでいいと言われかねない。専門文書を読むトレーニングをすることでリテラシーが養われるわけですよね。まあそこに意味がある。有用性がある。

 もし、実学、実利だけを研究する、みんながやるようにでもなれば、有用性のない人が増えることになる。お金は儲かりました、しかしそういうことしかわからない専門バカになって、社会がグチャグチャになりました―なんてことになりかねない(まあ、今がまさにそうなんでリテラシーを要請する人文科学がダメになっているとも言えますが)。

 そういうことをいえば、宗教なんか必要ないから、神社も寺もなくす、僧侶なんかいらないということになるわけでね。メンタルクリニックじゃないですけど、そういうお坊さんがいることで社会秩序が保たれるという時代が昔はしっかりあって、そういうのがまさに有用性だと思うんですよね。

 ―とすると、今の宗教学・仏教はちゃんとその役割を果たしているの?何ていうのは答えようがないのでスルーします(^ ^;)。

 答えや真理というものはいつも同じものであるとは限らない。時代や社会が代わるに連れて変わり続けるもの。そういった基本的なことを知らないと判断を誤ることがある。

 基本的なリテラシー、常識や良識というものを構成する上で人文科学はあると思いますね。広く学ぶことで間違いなく判断力や思考力ということは鍛えられますからね。そういう基本的な知見を持った人を世に送り出すという意義は大きいと思いますね。現在の大学でそれができていれば…の話ですが。


 ついでに、大学で教えているうまさということで、思いついたことを書きます。大学教授で、優秀な人はいくらでもいると思うのですが、優秀でも説明がうまい&授業が面白い(説明の巧さという意味で)という人は殆どいないと思います。

 大体優秀な人というのは、飛び抜けているので説明が下手なんですよね。因果関係の論理を2つ3つ平気で飛ばします。本人が理解できるのでね。そういうのもあって、授業が上手い人は滅多にいない。説明の仕方が上手い、わかりやすい!という人は少ない。

 昔は、学問・大学というのに権威があった。故に大学に行くような人はたいてい、本を読んだり、そういった教授を尊敬して権威ある人の話を聞こうとしていた。しかし今はそういうものに対する権威・価値観が軽くなっていますよね。

 それが壊れたのは学問・学界自身の責任か、社会の責任かというのはあると思いますが、いずれにせよ軽くなってしまって、「わかりやすさ」が重視される、求められる事態になったという気がしますね。

 本当は優秀なのに「わかりにくい」から、そういった一流の学者の説が伝わらない、世に広まらないのだとしたら、寂しいことですね。「わかりやすさ」が大事だということは否定はしないのですけど、池上さんとか今でしょ先生とか、橋下さんやビートたけしさんが出てきた、もてはやされている社会背景と共通しているんじゃないかな?なんてことをふと思いましたね。