てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

元少年A「絶歌」出版について

 神戸で連続児童殺傷事件を起こした酒鬼薔薇こと元少年Aが手記を出版したとか。それについて一言二言。

 なんか長くなりそうなのと、ひょっとしたら誤解を招くおそれがありそうなので、先に結論を書いておくと、今回の出版はすべきものではなかったし、許されるものではなかったと考えます。先にそこだけ一応はっきり書いておきます。


 永山則夫北村孝紘 (リンクはWikiの該当事件です)といった死刑囚の手記があるという話を聞いて知りましたが、犯罪者の手記というのは一般的に売られているものなんですね。知りませんでした。あの市橋達也(彼は死刑ではなく、無期懲役ですが)の手記も売られているとか。死刑囚の時点ではまだ死刑を執行されてない、法的な罪を償い終えてない,しかし少年Aは償いを終えている。

 つまり、もう今後社会に出てくる人間ではない、社会によって刑に処せられる人物の「生前の告白」は許されるが、社会に出てきた場合は許されないのか?ということになります。この基準はどうなのか?既に一般人になった場合の、元重犯罪者の告白は許されるべきではないということでいいのか?  個人的には、犯罪者の手記自体がNGとされるべきではないのだろうと思います。アメリカなどでは「サムの息子法」と言われるような法案があって、犯罪者がその犯罪内容を告白することで収入を得ることを禁じられているようです。今後日本でもこのような立法は不可避になるでしょう。

 日本でこのような法がないにせよ、印税収入を自分のものにせず、遺族への賠償金や然るべきとこに寄付するなどのことは当然求められますよね。出版にあたってそれがはっきりしていないことは大問題でしょう。また遺族に事前に連絡をしていなかったというのも大問題。まあ、今回の出版は取るべき大事なステップを色々飛ばしてしまっているのが問題でしょうね。

 社会が非難するから出版してはいけないだったら、出版文化は成立しない。出版されない以前から非難されて出版できないのならば検閲社会を招くことにもつながりますからね(勘違いされそうなので一応書きますが、だから出版は許されるんだということではなく、ちゃんとした基準のもとで&慎重な判断のもとで行うべきもの。当然禁じられて然るべきるものは禁じられるべきだということですね)。社会的非難を招いても、遺族の反対があっても出版するという判断はありえると思います。

 重大犯罪事件には背後に重大な社会問題、社会の病理がある。その問題を解き明かすために研究者は事件を研究する義務、詳しく知る義務がある。犯罪心理学とかそういう専門家はそのためにいますからね。社会学だってこういう問題を解き明かすために、次なる犯罪を防ぐために研究する人がいるでしょうし。

 しかし、それは出版という手段でないといけないということではない。一昔前なら、大多数の人は論文を読むことなど容易には出来ないから、出版という必要性が理解できたが、今はネットがある。ネットで簡単にPDFでダウンロード出来る時代に果たして出版する必要性がどこにあるのかという話になる。

 つまり「売る」という行為にこだわる必要性がないわけですね。そこが一つのポイント。児童教育に携わる人以外あまり買って読む必要性は殆ど無いと思いますので、その必要性があるかと言われると疑問だと思います。

 また遺族感情を傷つけるからという以上に(これはこれで、では遺族がいなかったら許されるのか?という話にもなってしまうのですが)、非難を浴びる要因は遺族の反対があるにせよ事前に話をしなかった。もし筋を通して説得したが反対された、しかし社会的意義があるので出版しましたというのなら理解できる。しかしどうもそういう姿勢ではないのが気になりました。

 太田出版の弁明のページで、小年Aはどこにでもいる普通の少年と書かれていました。しかしあの少年Aというのは決して「どこにでもいる普通の少年」ではありません。以前名古屋の大学生の事件で書きましたが(※名古屋の女子大生の事件ではなく佐世保の事件でしたね→佐世保女子高生殺害事件について)、彼は性的衝動と殺傷本能が組み合わさってしまったという特殊なケースです。彼をそのような扱いをして広く知られる必要性があるという主張はかなりズレていると感じました。

 また、こういう未成年の犯罪は、変な模倣犯というか信奉者を作る可能性がある。中二病といいますか、アレくらいの年頃では殺傷行為を変に褒め称えるという青年期特有の病気とも言えるものがある。それを抑制するためにも、元少年Aが社会的に承認欲求を満たすようなものにしてはいけない。その配慮が欠けていると思いました。

 読んでないので、彼が苦しんでいる・社会復帰して生きたいという願いがあるとかそういういいメッセージがあるらしいので、それにはならないという要素もあると思うのですが、この作品は文学的表現が多用されてるとも聞きました。

 これは絶対されてはいけないし、編集ではねつけなければいけないところだったと思います。これは「手記」つまりノンフィクションとして価値がある体験記であって、「文学作品」として評価される類のものではないと考えるからです(手記はそれ自体が文学だとかそういう話はご勘弁下さい)。

 その時自分が感じたことを自分の言葉でより正確に伝えたいということもわかりますが、文学作品のように独特の言い回しや比喩表現を使って、自己の文学・文章能力の高さを認めさせよう、社会に認められて承認欲求を得ようなどということが作品を通して見られるのはあってはいけないと思います。

 忘れましたが、どっかの媒体でカーテンを開けるのを処女膜が開かれたとかそんな表現がされているというものを見たんですが、正直何言ってんだコイツ…となってしまいました。表現もそうですし、何のためにこの本を書いてるのかわかってるのかお前?とイラッとしました。

 元少年Aは異常な犯罪者だったが、文学的能力がある人間だったなどということが認められることがあってはいけない。こういう「文学作品」になってしまうのならば、それこそジャーナリストや精神科医や心理学者など複数の人の手を経たまとめではどうしていけなかったんでしょうか?

 本人との対談を通じて、そのインタビューを専門家が分析してとかの方が良かった気がしますね。少年犯罪や、その他の犯罪で然るべき人間が、然るべき分析をして内容をまとめる。そういうしっかりとしたルートが確立されていないことが今回のようなことに繋がったのではないでしょうか?


 で、そんなことはさておき、己が感じたのは、少年犯罪にせよそうでないにせよ、我々の社会は重大犯罪者でも社会復帰を許すという法制度、社会制度を前提としている。そういう制度下で生きている。むしろ、あのような犯罪を引き起こした彼が、社会復帰したあとちゃんとまっとうに社会生活を営んでいるのか?また罪を償うためにボランティアでも、普通の労働でもなんでもいいですが、社会に貢献するようなことができているのか?罪を悔いて、それを償おうと再出発することができているのか?そちらをメインに当てるべきですよね。

 犯罪についてウンタラカンタラなんてどうでもいい話で、それを書き起こしてどうするの?という感じですね。犯罪者が社会復帰して、反省して罪を償う。それが出来なければ、社会から孤立感・疎外感を招いて却って重い刑というか、むしろ新たな犯罪を引き起こすだけになるということも考えられる。少年犯罪についてどう取り組むべきかと社会で考える上で気になるのは、彼が今どう生きているかですよね。

 それをさしおいて、悲惨な事件を「消費」すること、彼の承認欲求を満たすような形にしてしまうのはかなり問題だと感じます。むしろ、今回の出版というのはこの元少年Aが今社会から孤立して疎外感を招いてる、社会復帰や少年犯罪の対策・取り組みに失敗しているということなのでは?と思いますけどね…。彼が遺族から非難されても出版せずにいられなかったというのはそういうことなのでは?と推測していますが…。

 いずれにせよ、少年法をただ厳しくして終わりとかそういう話ではなく、犯罪について&服役したら出所して、はいオシマイみたいな杓子定規の対応ではない抜本的な取り組みの改革をすべきだと思いますね。社会復帰の道が乏しい罰刑では、再び犯罪の道に追いやるだけだと思いますし。


 ※追記、コメントでも書きましたが、このようなものの出版というのは彼の欲求・動機に基づいた出版ではあってはならないという当たり前のことを書くのを忘れていました。むしろ社会や学者が主体となって、彼に当時の辛い記憶を蘇らせる、もう許して下さい・勘弁してくださいと彼が苦しんでも罪と向き合わせるのが普通。主体は社会や書き手であって、彼は受け手にならないといけない。決して彼主導になってはならない。
 その当たり前のことをしなかったことは大問題ですよね。しかも実名を公表しないままという自分に都合のいいやり方で告白している。このようなやり方は今後許されるべきではないでしょうね。出版界のルールとしてこういうことを許さないという文化を作らないと法規制されますよ。その法規制は必然的に業界に変な縛りを産んで、業界を停滞させることに繋がる。他の出版社は断固抗議すべきでしょうね。会合開いて非難声明を出すべきでしょう。