てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

反省というシステムがなければ組織として腐る、信頼はなくなる

 山元教授の安保法制の話と、憲法学に必要なのは真摯な反省 のところで書いた続きのようなもの。批判に向きあう文化が必要、反省をもっと組織文化として根付かせよう!的な話です。

 憲法学は自身の矛盾に向き合うべきだという話を書きました。共産党も同じで、以前書いたように(日本共産党はなぜポツダム宣言を絶対視するのか? )、他者を批判する前に、先に自分達の過去の黒歴史に向き合うべきでしょう。

 昔、ある程度社会で偉くなると批判されない特権があると思い込む文化がある的な話がツイッターで話題になってたことがありました。組織として失敗した時どう反省するか?という文化が日本の社会に根付いていないということなんでしょうかね?失敗や反省をどうするかということを前提において、組織を作らないとそんな組織は簡単に腐朽してしまうと思いますね。

 なんでしょうかね?報道とかもそうなんですけど、自分たちは批判をする側であって、批判されるべき存在ではない!みたいな変な意識が根底にある気がしますね。権力者なんだから、頭下げたらそれでええやろ。あとはわかるな?的な前近代的なものが未だに存在する感は否めないですかね?

 政治家が責任を取る―優秀な学者や専門家、官僚などを集めて意見を出してもらって、方針を決める。決まったら政治家がGoサインを出して、あとはオレが責任を取るから!とドンと構える。とまあ、よく言われることですが、そういう政治家=リーダーを社会が認めない的なことなんでしょうかねぇ?

 そういや、丸山真男氏が「無限責任」という言葉で、そういう性質を分析していたと思いますけども、ただ「なんでこうなったんだ!責任をとれ!」と本来その職務の権限移譲の責任を取らされると。無限にどこまでも責任を追求されるというものがあるなんていう話をしていましたね。

 その逆で「無限非責任」とでも言えるのでしょうか?どこまで言っても絶対に責任を認めない&取らないという。

 なんでもいいですけど、自分たちは「裁く側」であって、裁く権利を有しているという組織ほど、気持ち悪い組織はないので、失敗・反省&責任を取るというメカニズムを組織内に内包すべきでしょうね。

 まあ、議論ではなく、自分たちと所属が異なる「階層」を「攻撃」するというメンタリティが強いから起こる現象なんでしょうか?話し合いで「調停」するのではなく、「攻撃」して身内の怒りを煽って、団結を図り、そのリーダーとして彼らをコントロールする、集団の先頭に立つってことなんでしょうか?

 話し合いで物事を自分たちの有利に進めていこう、社会を変えていこう!とするよりも、自分たちの所属する集団・組織のための行動ということかも?組織の規模がある程度大きければ、その組織をコントロールするだけで美味しいですからね。


 憲法学を詳しく理解して、追っかけているわけではないので言うのもあれなのですけど、世間一般的にはそういう無責任な人こそ憲法学者だ!というイメージが強いと思われます。なので、憲法学という学問の信頼性のために、全体としてきっちりした対応を考えておくべきじゃないかな…?と個人的には思います。

 それこそ、己が結構好きな社会学という学問が、これこそ社会学社会学者!と世間で認知される人によって、「社会学ってなんだよ…」という状況があるわけで…。その状況と重ねあわせずにいられませんよね…。今回の出来事は憲法学が学問として世間から抹殺される危機にあると言っていいくらいのイベントかと思いますね…。

 まさに「危機の憲法学」ですよ…。こういう学問の危機という状況で、気鋭の学者が出てきて、「なるほど、そういうことなのか!さすが憲法学だ」と言わせるようにならないといけないと思いますね。でなければ将来この学問がどうなってしまうやら…。

 経済学においてマルクス経済学が廃れたくらいの変化が、憲法学にも起こらざるをえないと感じています。願わくば国際政治学の知見などを取り入れた研究が盛んになってほしいところですね。