運動と階層を考える
ツイッターで目についたものから大学・運動と階層云々を考えました。そんな話。
東大上野ゼミみたいなところには出版業界的にウケが良い・コネがある。帯に有名人からの推薦コメントがあり、書評で取り上げてもらえば、新書で3万部くらい見込めるとか。上野さん周辺の本ってはっきり言ってアレだと思うのだけど、なんでそういう出版関係のコネがあるんですかね?コネがあるならなんでもやれるなら、第二・第三の上野さんが出てくる可能性も…?己が知らないだけでそういう構造は一般的、そういう人がたくさんいるんでしょうか?
上野千鶴子氏や浅田彰氏などが台頭してきたのは、それまでに存在してこなかった量産された大学生の需要に基づくもの。出稼ぎ労働者・就職で上京してきた世代がありました。まあ大学生頃から上京してそのまま就職するという流れがありましたが、まず学生運動みたいなものがありましたね。そこで彼らは「連帯」を作った。
学生運動・政治運動というものが下火になって、また誰もがそういうのに打ち込むわけではありませんから、そういうものに参加しなかった人が求めるのは勉学。大学生ですしね。さすが大学生!と言われたいわけです、インテリぶりたい。また自分たちが新しいムーブメントを作りたい、時代の中心になりたいみたいな欲求が確実に存在していたでしょうしね。
どうも、マルクス主義ではうまくいかないぞと気づいた人、ブーム感覚で捉えてそういうものにもう飽きた。また、マルクス主義だと、上の世代が「オレのほうがマルクス主義知ってるぞ、良いか、マルクスはな…」と言い出してうっとおしい。そういう構造を打破するためにも、左翼の新文化のニーズは存在したわけですね。
田舎から都会に単身出てきて、そこで家族を築いた人達なんかが創価学会の担い手になったといいますが、まあそういう孤立しがちな人達を宗教で結びつけるという需要と供給の図式なわけですね。地縁がないので、有力なコネでもなければ、早々人と人はうまく連帯出来ませんからね。
学生運動・政治運動なんかが盛り上がったというのも、地方のエリートが上京して、自分たちこそ!国を変えねば!と思いがちなのと、そもそも地縁がない若者だったから運動を通じて「連帯」する必要があった。学生運動みたいなものを通じて、そこからコネを作るという背景があったからですね。
今で言う、文化資本・芸術とか音楽とかそういう特別な教養がある人は、それで文化人といいますか、社交界みたいな仲間入りができるので孤立しない。差別されない。蔑視から逃れるための手段ですね、学生運動も文化運動も。学生運動なんかやってたら、馬鹿にされるだけでは?と今の人は思うのでしょうが、新聞社とか上の方にはそういうことをやってた人とか普通にいますからね。そういう価値観が尊ばれていた時代があって、それが結構最近まで続いていたことを留意しておいて頂きたいと思います。
まあ、新文化運動で勝手に「連帯」を作るだけならまだしも、どうも上野先生なんかみていると、「暴力性」というか「攻撃性」を見出さざるをえない。フェミニズム運動が既存社会の変革を目指すなら当然、不正をただすわけですから「攻撃」になるのはおかしくないのですが、そこにおかしな「攻撃性」がある。
まあ、最近の左右を問わない政治運動の暴力性に共通するものでしょうかね?学生運動然り、どうも言論におけるバトルにとどまらずにやらかしてしまうというか、明らかに正常の範囲を超えてまで「攻撃」してしまう。
「連帯」を求める人々は、根源に強烈に繋がりたいという欲求がある。多分「潜在的な欲求」だと思いますが、それが一度「運動」という形で他者の人々と結び付けられると暴力性につながりやすくなる。明治時代の民権運動みたいなメンタリティですかね?
なんでしょうか?多数派になったことがない、少数派であったがゆえに、他の多数派を見下している、意見を聞く必要が無いと思うのでしょうかね。
忘れてましたが、はじめの話に戻って、そういう運動ありきで、今の出版とかそういうコネが成立しているんでしょうかね。そしてその構造が今でも残っていると。そういうことなんでしょうか。
社会にこれまで存在しない階級の中から、運動によって確固たる地位を確立しようとするゆえに、自然と階級闘争にならざるをえない。そして一つの格好の攻撃ターゲットとして選ばれたのが「オタク」だったと。*1
差別されないために、他に差別されるような対象を作る。そのため「オタク」が外から作られたという要素はあるのかもしれない。田舎者、貧乏人、無教養=文化資本がない人間への差別意識が強い時代だっただろうし。彼らは既存の教養・文化資本からどちらかと言うと積極的に目を背けた人達でしたしね。
まあフェミニズムに限らず、子供文化の延長であるオタク文化は殆ど誰もが叩きましたが。
今の反フェミニズムというか、彼らに対する厳しい声というのは反動というかカウンター攻撃なんでしょうね、オタクたちの。根底には理屈のおかしさというのが第一でしょうが。慰安婦関係でムチャクチャなことを言ってた上野さんはきちんとした批判・反論などされたことはなかったんでしょうか?
オタクも新しい階級・階層を考えないと表現規制など、文化を守れないかもしれませんね。オタクのための「文化運動」が必要ということかもしれませんね。オタクにかかわらず、新しい階級・階層を構成する新しい何らかの「運動」が出てこないと社会は変わらないということかもしれません。
日本の大学制度は、階層構成原理として始まった。生まれがどうあれ、大学を出れば、その「なんとか大出身という身分」を獲得出来た。昨今の文系大学縮小・廃止というのは、その役割を終えた、時代が変わったという要素があるかもしれませんね。
昔の大学生はよく勉強した、というかよく本を読んだみたいな話がありますが、知的向上心・意欲とかそういう物以外にも、獲得した身分・ブランド価値をラベルだけだとバカにされないように必死に努力したという背景があったかもしれませんね。自分の身分を落とす行為になってしまいますし。
今の大学生が勉強しなくなったというのは、「大学生」という身分が根付いた。固まったからでしょうね。それと昔の方がまだ上に言われたことをただそのままやったということでもあるんでしょうけど。
あとは、わかりづらいですからかね、大学での勉学がどういうふうに役立つかわからない。先が見えないものを無闇矢鱈に学ぼうというのは、大学受験で受験勉強で頭を固められてしまえば、もう不可能になるでしょうしね。
まあ、そんなとりとめもない思いつきを。階層といえば、そのうち書きますが、やはり民主主義には貴族が必要。貴族制度を考えるべき時が来ているのかな?と英外交を見てて思いました。庶民からでは限られた種類のエリートしか輩出しえない。英のように貴族層・労働階級層ときちんと階級・階層闘争やらないと、育まれないということも思いました。政治混乱・無知無理解は間違いなく階層・階級のあやふやさに基づくでしょうからね。
重要なのはいつも下級貴族・士族ですが、今の日本は貴族が「上級貴族」ばっかりになってダメになっているということなのかなとふと思ったりもしましたね。*2