てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

荀勗とXun Xu and the Politics of Precision in~の話

 あめ @Xun_xuさんという方が 「Xun Xu and the Politics of Precision in Third-Century AD China」という荀勗の本、もち洋書をツイッターでつぶやいていました。せっかくなのでそれの感想を書きたいと思います。

 まあ最初はやはりタイトルなんですが、the~sですから三世紀の政治的スタンスの話だと思うんですけども、このprecisionという言葉は正確性とか精密性で機械とかそういうのによく使う単語みたいなんですけども、政治とか歴史で使う言葉なのかな?preciselyならわかるんですけどね。あんまり名詞で使うべき感じじゃないんですが。まさか仏語のprecis=要約を名詞形にしたわけでもなかろうし。まあ、だから荀勗と三世紀中国の諸政治、いろんな重要事件だったり、政党・派閥だったり、政策的主張だったり、そういういろんな三世紀の政治状況をより精密に分析しようぜ!ってことなんだろうと思うんですけどね。諸政治(現象)の(精密)分析ってとこですかね?訳すなら()ははずさないほうがより意味がわかって良いかな?まあどうでもいいかそんなこと。

 三国以後の晋あたりは詳しいことまったく把握していないんですけど、一応Wikiあたりから、荀勗はもちろん荀氏一族で、母が鍾繇の娘(鍾会の姉)というエリートですね。司馬昭時代からの功臣でいわば晋建国の元勲ですね。恵帝=暗愚で、司馬攸=本当の皇帝になるべき名君!なんていうわけのわからない史書のロジックを真に受けている人がたまにいますから、彼も司馬攸の政敵で賈皇后を後押ししたことでかなり評判が悪く、正当な評価が得られない人物でしょうね。まあ、そういう意味で彼を正当に評価しなおそうというのはかなり意味があることだろうとファーストインプレッションを書いておきます。

 >私はこの問いに挑んでみたいと思う。「why in such a context was precision often a difficult aesthetic to accept?」

 文脈がわからないのでなんともいえませんが、倒置かコレ?前後見ないとわからないな…。おそらく「なぜこのような文脈(背景)において、precisonはしばしば受け入れがたい美的価値観となってしまうのか」―ちょっと自信がもてませんが、ようするに政治的状況と文学・思想・芸術である荀勗の主張するそれが政治と文学らで簡単に一致しない。政治派閥と、芸術派閥の主張のそれがずれていることなどをいいたいんではないでしょうか?特にこれから晋という新王朝の思想的中枢を築こう!という偉大な作業に着手するという意識がある時代の話でしょうから。晋という王朝をどう見ていたのか、理想と現実の国家的理念、理想を作り出す話ですから、そこに食いついているんだと思います。この時代の芸術・文学なんて政治思想そのまんまですからね。

 荀勗の二面性、偉大な思想家と悪徳政治家。矛盾した荀勗をどう取り扱うか筆者の手腕にかかっていますね~。己なら悪徳政治家は無罪といつものごとくそういう立証に持っていくでしょうけど。

 いろんな芸術の観点から統合して分析してみようというのはいい視点だと思います。そういう細かい思想だとか暦法天文学・医術とか注目しなくては当時の常識は理解できないですから。

 荀氏の系統には易経とつながりがある!袁氏といえば孟子易。やはり易はこの時代の主流思想として見逃せないですねぇ~。諸学を横断して整理付けたり、未来予想を期待される当時の歴史学においては易の重要性は言うまでもないんですけど。

 この時代の音楽って音階ですら五行と一致していて、正しい音楽を奏でれば人・自然も治まる・良くなるというアレですからいかにこの世にふさわしい音楽を、音律を設定するかということに血道をあげたはずですからね。その重要性は、そのまま彼の学者の偉大さに跳ね返るのでしょう。漢→魏→晋と朝服の色・音楽はそのつど変わっているはずですからね。何色だったっけ?青か白だっけ?覚えていないや(^ ^;)。しかし魏・晋と服の色を何回も改めて、一家の負担は大変だったろうな~そのつど慎重だし、個人の詩なんかにこんなにころころ色が変わって良いのか!?なんて嘆息があっても良いと思うんだけどないんだねぇ~。まあ、言ったら殺されそうだからね~。

 Donald Holzmanの阮籍研究なんてあるんですね。こういうところまで西洋の学術も研究の手が伸びているんだなぁ~と関心。結構中国と日本人くらいしかこういう時代手をつけていない印象があった。

 ①洛陽での「プレ正始(220-239)」②240-249(文学的清談、曹爽)③250-265(竹林の七賢)④265-316(西晋)。そういや、曹丕曹植もギョウでお友達集めて文学パーティーやっていましたね。この時代の庭園あたりでの、文学論争なんてのは政治家の資金集めパーティーを連想させますね。正始文学ドストライクか?それともちょっと後の話かな?

 おそらく中国はいつでもなんかあったら、理想王朝周に返れ!という運動がありますから、この周回帰ムーブメントをプロテスタント運動、キリスト教の根本に返れという宗教改革のそれと比較して考えたのでしょうね。まあ、大体周の時代どういうことやっていたなんかわかるはずもなく、結局なんだかんだいってオリジナルになるんですけどね。

 >征呉計画が、自分たちの預かり知らないところで進んでいたことに荀-賈党が憤慨し、彼らの征呉政策は戦争推進派の張華党と感情的に対立

 最後の大規模軍事行動で皇帝の主導権を発揮しようとして将来めんどくさそうな功臣を外そうとする、まあいつの時代でもある動きですよね。結局派閥闘争なんですけども。 

 「荀氏の周王朝」は、曹丕の推進した「復古」と同じ!?コレはなかなか興味深い話だが、詳しいことが書いていないので残念。荀氏の五十年に渡る法と音楽の研究がのちの地位の基盤だったわけですが、特定の名門がその地位を確固たるものにする家学の存在がすべてですね。この点曹操魏王朝が諸門閥を優遇するビジョンを持っている晋に取って代わられるのは必然だったでしょうね。科学ならぬ家学の時代。主流学問で後塵を拝さざるを得ないわけですからね。あたかも4世紀以後のキリスト協会のごとし。このような役割を果たしているところに注目ですね。

 なんだろう?薄葬令、葬儀に対する過度な礼を控えることは、豪族の権威だったり、儒教的価値観だったりを抑制する機能を備えていたはず。しかしそれが進めば進むほど、文学的価値観が重要になる。埋葬する文章・碑文のような記念、メモリアルになる送られる文章の価値観が飛躍的に高まったはず。皇帝が文章を書くわけないから、まあそれなりの国家からのアレが送られたんだけれども、それ以上に名門が送る文学的価値の持つ送辞みたいな文章が重要になったのだろう。かえって門閥強化につながったのかもしれないな。薄葬令は。

 荀粲が門閥的価値観を否定していた動きを見せるのが、なんか袁家における袁コウを連想させますね。なんだろう?やはり頴川なんていう商業の中心地にあるところでは必然的に葬儀も豪華になって、葬儀礼だったり墓碑だったり、いろいろ発達したんだろうか?そういう特別なスキルを持っていてもおかしくないと思うのだがどうだろう。薄葬令なんか荀氏はかなり苦労したはずだが、というか頴川全体のそういう名門・門閥はどう対処したんだろう?

 まあ、いつものように何でもかんでも宦官と対抗した正義!清流!だからそこら辺はあんまり真に受けないほうが良いとは思う。

 いわゆる親曹爽というスタンスから挽回するために新王朝建設に思いっきり協力したという話は聴くけども。結局その後の政治勢力・パワーバランスがどうなったかという話に過ぎないような気がする。だって曹爽いなくなったら、もう完全に司馬>皇帝家という逆転が目に見えていましたからね。というか曹爽一派に集中していたからですが。司馬は二人息子いましたけど、曹爽以外誰が宗室担い手権力者いましたっけ?これ曹爽が排除したんだっけか?

 

まあ、とりあえず思いつき、コメント的な感じでちょいちょい書いて見ました。ツイログ→http://twilog.org/Xun_xu

こちらをどうぞ。見ないとわからないでしょうしね。

Xun Xu and the Politics of Precision in Third-C.../Howard L. Goodman

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これですね。たかっ!2010/3って最近ですね。

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