てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <前>

※例によって長いので分割しました。後半はこちらです→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

 半年以上前からやるやると言っておいてやらなかった莊子の話。これも書き始めて一週間くらいかかりました。ちゃんと真面目にやれば1~2日で終わるだろうにね。いや~ヒドイヒドイ。
 都合上、内篇は後回しで外篇から書きます。内篇の方が大事なのに後回しでどうするのって話ですが、ご容赦を。というか胡蝶の夢とか有名な話をいちいち書いてもな~という気もします。そんなの書いても単なる解説ページになるだけだし、書く必要ないかな?と思ってもいます。
 単なる個人的メモ・気になった事と、その時代背景などの推察です。莊子の主張・思想についての詳しい&分かりやすい解説を知りたいという人はご覧にならないほうがよろしいかと思います。内容読んで面白いと思う人が果たしているのだろうか?こんな個人的感想を書いて読む人は全国に五人くらいかな?そんな物書くなんてどうなの!?

新釈漢文大系〈8〉荘子 下巻/明治書院

 ※ちなみに読んだのはこちらです。訳とか解釈とか色々大丈夫なのかな?とちょっと思いました。もっと良い訳書あったりするのかしら?*1

 全体の構成について 最初は具体的な事例を上げた例え話から始まる。指・馬・宝を入れる箱・袋―具体的なものから道を語る三篇。その次は天の話をする天シリーズ三篇。そもそも天・世の中の仕組みとはどういうものなのかという話。あ、その前に在宥篇があった。天下を治めるという発想がそもそもおかしい、間違っているという話をすることで、天三篇へ話を進めるワンクッションとなっている。その天三篇の次の二篇で通常行われている人為努力・通俗の学問が間違っているという話。で、その次の秋水を含めた三篇でひとまとまり・ワンセットと見るべきなのか、井の中の蛙のように、人はいかに狭い世界でしかものごとを知らないか&知り得ないかという話なので繋がらなくもない。繋がらなくもないが少し微妙な所。
 その次は、至楽・達生で最高の楽しみ・幸せというものがなければ、生命を保つことも不可能という話で人間・人生の限界の話。では具体的にどうするべきなのか?どうやって生きれば良いのか?という話になって、山木篇で用・不用どちらでもダメ。中間こそが身を保つ最善策という処世術の話になる。で最期の一つ前の田子方で優れた人物とその話の列挙・断片集で、最期の大トリに知北遊でこれまでのおさらいというかまとめという感じの構成になっていると思われる。最期は孔子の話でおしまいとなる。
 限りある人知でいかに努力しようが無駄、却って悪い結果を招くオチになるだけ(≒盗賊を利するだけ)。限りある人生・生命で無駄に苦労をするなんて何の意味もない。真理というものは決してつかめないもの、逍遥するだけ。まあ、大体こういう感じか。しかし読んでいて全体を通じた構成が本当につかめないのでイライラしたなぁ…(笑)。構成は振り返ればそんなに難しくないんですけど、一篇のまとまりが本当によくわからない。分かりづらいから腹立つんですよね。読んだ感想が腹立つ・ムカつくってどうなのか(笑)。いや、読んでいて面白い部分はあるし、なるほどとはなりますよ。理解できないところがあるのは当たり前だし、予定調和内といえばそうだけど、やっぱ思想系・哲学系の本・話は内向きというか、自分の世界観にどっぷり浸って延々と語るという性質があってとっつきづらいですね。個人的に思想・哲学系はやっぱり向いてないなぁ・適性がないなぁと実感した所。
 ※追記:ああ、それと、基本的に現世否定というか現代の潮流否定なので、否定のロジックが多いですね。これも違う、それも違う。あれもダメ、これもダメというクレヨンしんちゃんの昔のOP曲のような論理や展開が多いです。その結果、消去法の果てに、最後に残されたダメじゃない部分、間違いじゃない選択肢たちを拾い集めて見事に正解をばばーんと提示してくれるならスッキリもするんでしょうけれども、当然そういうものもないのでイラッとします。まあ読後不良感につきまとわれますね。これを一読して理解できる人間。「知」というフィルターを通さない人間にとっては、「ああそうだよ。そうそう、そういうことなんだよな~」と読んでいてスッキリ爽やかな感覚を覚えるのでしょうか?正直、論理整合性や思想性・哲学性は仏教とかに比べてさほど高くないので、そういうものや後世のものと比べてそんなに評価は高くないんじゃないかなという気がしますね。最初に本格的に論じられた書という意味での評価はあっても*2。まあ言うまでもないことかもしれませんが、基本ロジックは否定と逆説となっていますね。<追記ここまで>
 そんなわけのわかんない個人的読後感・オチを書いたところで、以下拙感想・メモです。
 
<外篇>第八駢拇 仁義の主張を過剰・行き過ぎたものとして否定する。仁義は正道・至正から外れている。
 ※いきなり、莊子とは関係のない思想の歴史背景の考察。宋は思想上、重要な土地という話。楊朱・墨翟は宋の人となっているが、活動拠点が宋ということなのか?言うまでもなく、莊子・莊周も宋の人間で、論敵で梁つまり魏の宰相を務めた恵施(恵子)もまた宋の人。孔子の父の家が元々は宋の出だと史記にもある。魯がある種最初の思想上の重要な拠点であると思っていたのだが、実は宋の方が魯よりも思想上重要だったりするのだろうか?楚と晋(あと周とかも)の間にあったことが中継地となって交流を盛んにさせたということか?衛と宋は殷の遺民であるから、そういった「周なにするものぞ!」的な風土があって、それ故に思想が盛んになったとか?爵位で数少ない公爵の地位にあった宋。爵位上の位置付けで外交や戦争に関わらざるをえず、そういう需要・背景から思想が盛んになっていったりするとか?どうなんだろ。かなり間が空いてしまうけれど宋襄の仁の頃覇者となっていたことが関係あるのかな?
 
 画一化、人間の商品・製品化への反発 指の多い少ないで悩むことに例えて、仁義などをやかましく騒ぎ立てる儒やその他の論者を否定する。ものさしなどで規格を作り物をつくることへの反対。画一化は人の本性の破壊となるから。自然・先天的なものこそが道に適う、画一化はもちろん、思想家の訴える主義主張は後天的な人為に基づくものであり、性や徳に逆らう行為であるとする。仁義はフォーマット、人を一定の規格を備えた商品・製品・マニュアル化する。天性を失った人間、本性を失わせる儒というものへのアンチテーゼ。言うまでもなく、マニュアルは現場知らずの頭でっかちバカ、応用が効かない使えないバカを生み出す。そういうマニュアル学問への強烈な批判となったことは言うまでもないだろう。
 そもそも仁義≒個人が良いことをすれば、社会が良くなっていくという考えがおかしい 初めて仁義を実行したとされる舜を否定する。そもそもその仁義がおかしい。小人は利のために、士は名のために、聖人は天下のためにそれぞれ身を投げ出す。本性を害(そこな)うという点では皆同じ。羊飼い達が読書をしてようが、遊んでいようが、羊を逃してしまったらどっちも同じ(五十歩百歩みたいなどっちもどっち的な例えが好きなのかな?)。伯夷も盗跖も莊子にとっては同じカテゴリー内の人間。本性を害っているのかどうかという点が莊子の思想にとってポイントになる。
 ―という莊子の思想・主義主張を見てみると次のような疑問が沸き起こってくる。では良い本性と悪い本性はどう区分けされるのか?舜と華の関守の対話にあるように、聖人は福を禍を招くものだと恐れる必要はない。道に応じるものならば、それすらも対応することが可能であるはず。折々、金銭・高位高禄・善行を避けるべしという話は出てくるものの、だからと言って必ずしてはならない、絶対に避けなければならないということでもない。本性を全うするというのならば、楊朱ではないにせよ、ある程度の欲求に従う・満たそうとするのも自然のことであるはず。立身出世・高位高官を拒絶することは危難を避けるために良いとして、それこそ敢えて過度な貧困を選ぶ必要性はないはずではないか?それこそ身分に応じて、王にふさわしい本性の全うの仕方、庶人や奴隷の本性の全うの仕方という話になってくるはず。しかし、そういう具体性はまるでない。「なるほど。じゃあ、私も莊子の教えに従ってそういう生き方をしようと思います。どうしたら良いのか教えて下さい」という問いに対する答えがない。世を捨てて自然の中で生きる。出家・修行生活くらい。100か0かの二者極端な選択肢しかないので、広まるはずもない。宗教や学問上、重要なものとして自助努力の論理が整備されていることという要素があるが、道家思想にはそれがない。故に努力して成長をしようという向上心ある人間には受け入れられないことになる。まあ、努力をし尽くして限界・壁に当たった人間が文字通り最後の道・方法論としてたどり着くことはあるだろうが。
 孟子への言及がない莊子 莊子には不自然なほど孟子に対する言及がない性善説や浩然之気という孟子の思想と重なり合う部分があるだけに(仁者無敵とか、思想の非現実性という点でも近しいといえば近しい)、必ずそういう質問をされたはず。なのに孟子に対するコメントがない。生没年が殆ど同じで、同時代を生きた思想家なのに言及がないというのはかなり不自然。孟子孟子なりに一応の論・解を残したにもかかわらず、莊子は残していない。立身出世の競争という現代の風潮を否定・批判はしても、理想の政治やあるべき社会の姿・正解を説いていない(まあ、一応説いてはいるのだけれども抽象的で実現不可能なものだから説いていないのと同じ)。だから、結局、孟子についてはノータッチで終わった。これでは当代の社会において求心力・影響力は生まれるはずもない。恵子との高度な弁論があって、そういう方面での影響は残ったのだろうけれど、現実政治の影響についてはほぼゼロと言えるだろう。*3 *4いずれにせよ、この時代を代表する偉大な思想家の二人が(当時でも偉大な思想家と見做されて崇められていたかはともかく)、交わらずにいた。非現実的、独善的な思想・主張を繰り広げていたというところは時代の段階として一つのポイントと見なすことが出来るのではなかろうか。
 ※追記孟子と恵子と莊子 そういえば、孟子は梁の恵王から斉の宣王へと移っていった。つまり魏から斉に思想活動地を移したわけだけど、恵子が梁で大臣を務めていたことからわかるように、孟子は自説が受け入れられないことがわかって移った。ここだけ見れば孟子の敗北&恵子の勝利という図式が成立する。正確に年代が被っているかどうかよくわからないので、孟子的な思想が通用しそうにないという意味で敗北で、恵子的な思想が通用する風土・時代だったという意味で恵子の勝利という意味で理解したい。恵子の思想のほうが時代の価値観・需要とマッチしていたということで理解すればいいだろう。孟子よりも恵子=儒家よりも名家―ということだったと思われる。孟子の主張が非現実的なものを多分に含んでいるとなれば尚更。そんな中、莊子が恵子のもとを訪ねると宰相の座を奪いに来たのでは?と警戒する話があったり、楚に行ったり、莊子の活動範囲は大体魏(梁)から楚の辺りだと考えられる。孟子が梁から北・もしくは東、そして莊子が宋・梁から南だと考えると両者が交わらなかった理由もわかるかもしれない。まあ、実際交わったとしても名家の恵子のような見事なやりとり、孟子に莊子と噛み合ったやり取りを出来るとは思えないが。*5
 ※更に追記:さらに考えてみると、孟子はその思想性から周の文王に対する太公望のような扱いを求めていた、国師扱いを求めていたと考えられる。とすると、楚の威公が釣りをしている莊子を招聘したように、孟子国師扱いされる可能性があるとするのならば、呉子が全権を任されたように楚や秦のような国しかない(莊子の招聘も威公直々ではないので、その点確信が持てないと言えばそうだが)。国家権力・国富や領土の伸張を目的とする二国とは相性が合わないとはいえ、最大限厚遇される可能性があるのはこの二国だろう。斉に断られたら、趙に行って、その後この二国へ行くという選択をするのが自然に思える。しかしそうしなかった。斉の誘いを未練たらたらで待ち続けたように斉にこだわっていた節がある。まあ、一時期東帝と西帝というような中華を二分する勢力を誇っていたのでこだわるのもわかるのだが。
 自己の思想実現するために、孔子のように諸国を漫遊して仕官をしようという積極性がないのも、理想に拘り現実性が乏しい莊子と共通性を見出すことが出来ると思われる。また孔子が幼い頃、葬儀の真似をして遊んでいたという話があり、孟子は母にそれを止められた、学問に打ち込め!というような話がある(真偽は定かならぬらしいが)。学問>祭祀というところにも孔子孟子の時代の違いというものを読み取ることが出来るだろう。孟子の場合、学問で名を立てて斉に行く前に既に車を何乗も持ち、お供を数百人引き連れるというスポンサーがついていて食うには困らない背景があったのも、孔子とはまるで違う。
 孟子ではなく、恵子のような名家や荀子のような法家が現実性・積極性を以て現実政治に影響を及ぼす。その後縦横家戦国四君云々あって、最終的に「韓非子の法」=国家が統一的に行政を行う高度な法体系に集約される。韓非子は決して積極的に売り込んだものではないし、前二者のように非現実的なものでもない。しかし韓非子始皇帝に乞われ、招聘された。最終的に、韓非子の法と始皇帝という結果が時代の流れというところで個人的に観ていて面白いポイント・流れ。<孟子と莊子の話、ここまで>

 非吾所謂臧也―ここの「臧」は善と訳していいのだろうか?五味・五色・五声(聲)を良く判別し分けることが性ではないと莊子は主張する。性や善なるもの、仁義が問われ、これらの性質を解明することが性というものの本質を解き明かす鍵になると思われたからこそ、当時は盛んに分類がなされた。味・色・音などで通達し、結果芸術・料理や建築・絵画や音楽としてその成果として素晴らしいものを作る。そうやってその国の文化性・精神性の高さを誇ることが当時いかに重要だったかは言うまでもない(直近で言うと米ソの体制の優位性の証明のための科学やオリンピックでのメダル競争みたいなものか)。そういう高度な文化を作れる=本質を解明した結果であるわけで、本質である性をも解き明かすことに繋がると考えられていたことは想像するに難くない。
 自ら聞く&自ら見るのみ、得人之得とあるように先人・偉人の得たもの。言ってることをそのまま踏襲して自分で考えていないからこその強烈なダメ出し・反発という捉え方でいいかな。それだけフォーマット・規格化による五味・五色・五聲といった形式が世の中に浸透していったことへの裏返しとみなせるだろう。
 
 第九馬蹄 馬=戦国時代を象徴するもの故の喩え。名伯楽は世間や雇う側からすると称賛される存在。しかし使役される馬からするとたまったものではない。陶工や大工は土や木などを自由自在に使いこなし称賛される。しかし莊子はそれのどこが素晴らしいのか?とツッコミを入れる。莊子は人が馬や土や木と同じになっていると激しく批判する。大量生産・都市化で豊かになって便利!と思う反面、人もまた使役する動物や物と同じ存在となって扱われるようになっている。だからこそそれらを推し進める仁義というような基準に反発する。馬が名伯楽に反発する例えを、そのまま馬を人に置き換えてみると莊子の主張はよく分かる。礼や法という基準を満たさない・せないと罪になる、罰を受ける。統治者・階級の利を最大化させようとする行為が反発を招く。上下身分間での争い、国同士の争いというのはそこに端を発する。だったらその大本である利の追求をやめれば世の中は上手く収まるというのが莊子の言いたいところだろう。

 第十胠篋 斉の田成子を引き合いに出し、彼は国を奪った盗賊であるという。泥棒が宝物を厳重に守るために作られた袋や箱ごと盗み去ってしまうのならば、その袋や箱はその盗賊のためにわざわざ作ってやったことになりえよう。聖人が法や制度を整備した国家を丸々奪い取り、それに何の処罰も与えられない現状を見れば、聖人がやったことは泥棒のためということになる。盗跖とやったことは一緒であるにもかかわらず、その行為が認められてしまう。押し通ってしまうというのならば、聖人こそが本当の悪人と言える。当時のセンセーショナルな話題であり、孟子の残賊論、「一夫紂を誅するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり」云々の放伐理論が整備されるまで、政治・思想上の一大重要事件だったでしょうからね。まあ放伐的な捉え方が主流となっても、その是非が問われ続けたことに違いはないでしょうが。
 聖知は悪用される。聖知こそが問題の原因・起源 脣竭則齒寒,魯酒薄而邯鄲圍,聖人生而大盜起ーとあるように、グローバル化を利用したテロ組織と同じで、文明は悪用される。流石にイスラム過激派テロ集団ほど上手く乗っかって悪用したレベルではないが、文明の発達で生まれた変化が今の結果。悪事、大盗賊集団などその文明化の裏返しの所産。よって大悪を招いたのは「聖知」ということになる。非難対象・基準、ターゲットになっているのは都市などで立身出世を求めて弁論活動を繰り広げる諸論者。曾参・史鰌の行いも、楊墨や仁義の説もすべて捨てよ。才を外に出そうとするな≒論戦・演説で名を表し、仕官先で現実にその自論を政治として実行しようとするな!太古・神代時代を理想とし、知による争いは世を乱すとする。
 陰陽家の理論と同じロジックで、世が乱れる原因は、人が騒ぐことで陰陽が乱れるという論理をあげている。

 第十一在宥 束縛への否定。黄帝・雲将、無為による解脱。個の観念がある。消極的実行。気がついたらしている、それこそが道マスター。仁義も礼法も統治も気づいたらベストな形をとっているもの。過剰に積極的に善行をしようとはしない。当代の政治がまさにそうなっているからこその否定。やり過ぎは滅す。天道と人道があり、積極的にグイグイやろうとするのは人道であり程度が低いもの。つまり過剰に推し進めて利を得ようとするやり方、今の時代の潮流はいずれ必ず破滅を招く、失敗するやり方だと。*6
 ※解説や訳し方に所々「?」となるところがある。なんというかピントがズレている感が否めないというか。うーん…。

 第十二天地 天に道あり、人に徳ありという捉え方でなく、天>道というロジック・構成。天道の万能性の話。故曰、古之畜天下者,無欲而天下足,無為而萬物化,淵靜而百姓定。記曰、通於一而萬事畢,無心得而鬼神服。ーとかハッキリ言って非現実的でインチキ極まりない主張。時代の違い・政治の違いを無視して、昔の時代は道を弁えていたから上手く治まっていたとする。莊子の観点では、太古の政治は無為だった、道を弁えていたとなっているが、どうしてそんなことが言えるのか?未だかつて道を弁えていた政治などこれあらざるなり。そんな理想が実現されることがあるはずがないではないか。仮にあったとしても、どうしてそんなことがわかるのか。安易な古代理想論は現代の文明の利・富という現実の前にあっさり覆される。では現実的にどうすれば良いのか?友人・家族を持つ人はどうすれば良いのか?そういった現実無視の要素こそが莊子需要の無さ、一定の思想基盤・支持層を獲得し、そこから伝播・拡大することがなかった最大の理由だろう。前漢におけるまで黄老思想であって、老荘思想でなかったのも同じ理由だろう。別に莊子が全く無視されていたとは思わないし、ある程度取り入れられていてもおかしくないが、莊子は黄老法家思想、ある種のプラグマティズムにさほど重要なものとは見做されなかった筈。
 循於道之謂備―道に従うことを備という、=遺漏のないこと。まあ、ココらへんから劉備玄徳の名前に道家思想的な、道によって大衆を救済して漏らさず的なメッセージを解することも可能かな。
 道に応じた政治とは、自ら求めず相手に応じること「王徳」。多分急に出てきてブラりと一言・一動作で見事に結果を出す仙人や賢人のイメージ。見えないものが見え、聞こえない音が聞こえる。光を見たり、心地よい音を聞くというまあ悟り、一種の神秘体験に基づく発想。道=超能力を持つということに繋がる。
 與天地為合。其合緡緡,若愚若昏,是謂玄德,同乎大順。―心が天地に合わさる。怠心、愚、昏。ココらへんが劉備のイメージに繋がるのだろう。大順=Let it be的なことか?
 子貢が機械を勧めて断られる*7孔子曰く、渾沌氏の術。俗にいて俗にとらわれないことこそ本物。孔子も一定の敬意を払ってはいるが、孔子>渾沌・無為という要素がこのエピソードにはある。
 正論・真理は俗言に及ばない。故に我が身を保つことを第一と考えよ 親、君主、世間。一体これのどれが最も尊いのだろうか?親・君子への機嫌取り、道諛が世間では前者のそれは正しいこととされ、後者のそれは間違っているとされる。世間のその評価・価値基準がどうして正しいと言えるだろうか? 大聲不入於里耳。折楊皇荂,則嗑然而笑。是故,高言不止於眾人之心,至言不出,俗言勝也―立派な言葉は耳に入らず、俗な音楽は尊ばれる。真理を説いても受け入れられず、結果待っているのは、身の破滅だけ。ならばそんなことをするべきではない。本性を失うことは曾参・史鰌だろうが盗跖だろうが差は生じない(この喩えはよく出る。まあそれほど理解しやすい人物、著名人ということだろう)。*8鳩・鴞の籠にあるようなものという例えで制約を表現し、更に皮弁、鷸冠、搢笏、紳修などの衣冠による身体そのものへの制約・拘束の否定が出てくる。まさに身体論の反萎縮・拘束そのものですね。自由な身体、フリーでゆるんだ状態でなければ悟りは生まれないという概念によるものでしょう。
 間違った世の中であるがゆえに、正しい主張も聞き入られることがない。故に身を滅ぼすようなことがないようにしなさいというテーマだが、ではその逆はどうだろうか?道を弁えた人間であるならば大業を成すという論理であるように、正しい時節に巡り合って、正しい世になった時に、その正しい言説は受け入れられるはず。その「正常・正道の世」「正しい言」「正しい高位高官でのあり方(政策や行政に出処進退)」と言った逆の話がない。今がそのチャンスのときだ!立身出世していいぞ!という逆の話がない。故に片手落ち感は否めない。あれをするな!と失敗教訓・べからず集としては役に立つだろうが、当時の最大のニーズである立身出世のところがぽっかり抜け落ちているのでやはり需要は乏しくなる。まあ、そういう片手落ちで語らなかったからこそ、漢魏晋のような亡天下の時代に魅力を持つことになったのだが。
 
 第十三天道 放っとけば自然に動く。君主は静であれ!余計なことはするな。水のたとえ。水の如くあれ。無為であれというが、ではどこからが人為でどこからが必要最小限の無為なのか?どこからが欲・侵略で、どこからが自衛と言えるのか?というセキュリティジレンマ的な問答について答えられない。具体的な政治事件などを用いた有効な判例・模範解答がない。無為とされる、道を体現したとされる人物のさじ加減ひとつ。各国の君主が皆無為であるならばベストだろうが、そんなことは当然ありえないし実現し得ない。ではどうするのか?その現実世界の政治に他する具体的な解がない。確かにそのロジック・主張の示唆するものは大きいが、アンチテーゼではあっても有効性を持つものではない。
 身分制の肯定 臣下は有意。尊卑先後之序―尊卑の話、身分制の肯定。*9
 道家は天と道徳を重んじる。今は形名・賞罰。楚において莊子の需要があった? 是故古之明大道者,先明天而道德次之,道德已明而仁義次之,仁義已明而分守次之,分守已明而形名次之,形名已明而因任次之,因任已明而原省次之,原省已明而是非次之,是非已明而賞罰次之。という順番で、形名は5番目で賞罰は一番最後の9番目の指標だった。にもかかわらず形名参同術を用いる者、広義の法家はいきなりそれらを論じる。それはおかしい。順番通りにやっていればうまくいくはずだ―と。まあ言うまでもなく、昔ならともかく戦国時代となって国家が巨大化した状況でそれは無理。ただ、秦の統一と崩壊を見てもわかるように、楚のような貴族や諸侯が強いところでは統治に有効・一定以上の効力を発揮したのかもしれない。楚において莊子が招聘され、国政起用しようという話があったように、そういう思想需要があったとも考えられそう。
 道に通じ徳に合したら仁義礼楽はむしろ邪魔。至人にとっては仁義や礼楽が枷になるので排除される。
 斉の桓公と車輪を作る老職人の問答。真言の問題、書物から真理は学べない。故に古人の糟粕となる。知っていることと出来るということは違うという話。
 
 第十四天運 音楽の演奏で慴れ→惑い→愚というプロセスを辿っている。これは道の学習のプロセスと同じ。ということは儒教の礼楽のように音楽で道を学ばせようということもやろうと思えば出来たはず。特に道教では。それが出来なかったのはやはり音律に則らない達した音曲を恒常的に演奏して伝える・流布することが不可能だったからか。
 老子孔子道家の作為というが、むしろ孔子リスペクトで老子の弟子に位置づけることで儒教の権威を丸々呑み込んで利用しようとしているように見える。仁義は先王の仮の宿、逍遥の遊などを見ると曹魏時代の思想・宗教はかなり莊子の影響を受けている筈。
 この篇に限ったことではないが、つながりがよくわからない。六極五常という天のルールを説き、莊子が仁・考以上のもの、「至上の仁」を虎狼の例えで説き*10黄帝の音楽の話。衛の太師金の孔子批判と三皇五帝と周制批判。時節に応じただけ。今の時代の変化に順応せよ。いたずらに古を賛美するなという儒家思想批判(儒家の古代讃美否定と道家思想に現代を肯定するものと享楽性があるという指摘があるが、逍遥の精神には遊び楽しむというものがあるのは言うまでもない)。*11で、ラストに孔子が南の沛に老子に会いに行って、老子孔子へ教え諭すという話*12―となっているが、4つの話のバランスが悪い。整合性がよくわからない、編集が悪いように思える。未完成?それらしい部分・該当するものを詰め込んだのか?
 長いので分割。続きはこちらです―と言ってもここから後半読むような人いないだろうけど(^ ^;)→『莊子 外篇・雑篇』 読んでの気づきとか考察メモ <後>

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*2:忘れていましたが、この『莊子』は郭象注によるもの、他にも色んな編者による『莊子』がいくつも伝わっていた。現存するのがこれだけなわけで、厳密に言うともっと先行文献としての『莊子』はあった。さらに『莊子』以前に現存していない道家の書、『莊子』のような書・文献も存在していたでしょうね。
 どうでもいいっちゃいいですが、この郭象は司馬晋の外戚の郭氏だったっけか?郭象注は清談・竹林の七賢の向秀の『莊子』のパクリ説があって、竹林の七賢とか清談の話をちょっと。この頃の道家というより「老荘思想」家の人間は、嵆康と呂安の処刑を見てもわかるように、政治から遠ざかる立場を取るわけには行かなくなった。のほほんと好き放題に詩歌や文学に従事しているわけには行かなくなった。清談している場合じゃなくなったわけですね。「無用の用」が通じなくなったので、仕官をする。現実社会への関与・参政方向に舵を切る。既存政治にある程度迎合しようとするわけですね。無用と用の中間こそが正解という話がありましたが、まさにそういうスタンスが流行るわけです、ココらへんの政治背景が『莊子』注釈・解釈に影響を与えたという可能性はないのかしら?
 更に本筋と関係のないどうでもいいメモになるのですが、こういった礼・形式主義と形式・前例踏襲主義で実用軽視こそが漢末の混乱を招いた。もしくは実際の混乱収拾に役に立たない人間が上にいて、さらなる混乱・停滞を招いたと考えた潮流があった。外面規範・はんこ&文書主義的な行政が招いたリスクについて強烈な反発があったことは想像するに難くないわけで、それゆえに形式や礼にとらわれない本質・実力を重んじる思想、より哲学を深める「老荘思想」が生まれていったという流れがあるわけですね。既存学問の無意味さ・有効性の乏しさという反省から新しい学問の探究が始まり、玄学が始まったわけで。まあそれでも結局、司馬氏の台頭という現実に直面して、「老荘思想」は政治性の乏しい思想・哲学主体の方向へ舵を切るわけですが。晋に至って、既存の礼教秩序に立ち戻る時、やはり実力・政治能力、現実政治への有効性・有益性の問題が出てくる。それについてどう対処しようとしたのか気になる所。同じ七賢の王戎が吝嗇・金儲けに走ったように保身のための金銭・贅沢というのは当然の流れの一つとして、本当にそれだけなのかな?他にも司馬氏政治に対する対処というか抵抗のあり方や、生き抜くための対策みたいなものがあったんじゃないかなと疑問に思う今日此の頃。
 玄学が始まって、『老子』・『莊子』・『易(周易)』が重視されるようになった。とはいうものの、莊子の思想ですよね。この時代の処世術を見ても強い影響を与えているのは。老荘思想というより、莊子の思想。ぶっちゃけ莊莊思想ですね。淮南子老荘思想とはもうかなり異なっているはず。そこで問題になってくるのは周易の存在。易がどういう風に捉えられていて、どういうふうな影響を与えていたのか。まあ、いつか老荘思想から道教へ、魏末から晋の思想云々で書く時のためのメモ。

*3:確か、孟子も莊子について言及していなかったんじゃないかな?どうだったか?どちらも己が思想こそ絶対!で、他者の思想にかまけるタイプではなかったのかな。ーとか、そんなことを思っていたら、竹内義雄氏が莊子=楊子、同一人物説を唱えているとか。参照ー老荘清談。楊子とは。面白そうな話ですね。そう考えてみると、莊子が出てこないことや楊子のテキストが乏しいことなどの説明が確かにつくと。実際の所どうなのか検証しなきゃ。
 楊子と言えば、当時の中国の興国期における経済成長を背景に今の世の中の変化を受け入れて、人生を謳歌しなさい的な主義主張の世相を反映した取り立てて触れることもない。まあよくあるバブル思想・人間かと思っていましたが、違うみたいですね。そういう説をなんか本で読んでまあそういう人間・主張もこの時代なら当然出てきておかしくないなと思いこんでいましたが、エピクロスの快楽主義的な誤解がなされていたということか。

*4:追記、そんなことを思いついて、ワイ流石やな!良いところに気がついた!と思っていたら普通にこの『莊子』の前書きで説明として書かれていましたね(笑)。同時代の思想家なのにまるで交わらなかったって。活動範囲が違ったことは当然として、騒がず・語らずの莊子はそもそも目立った活動をしてなかった。例によって当然のごとく、市において大々的な言論活動をするタイプであるはずもなく、名声もさほど高くなかったと考えられるわけですね。しかしそうするとおかしなことに、故郷の宋でも太宰と会談し、魏(梁)に移ってもそこで王との答弁。そして楚でまた王から招聘されたことを見てわかるように、一定の名声を備えていたはず。少なくとも知る人ぞ知る世に埋もれた逸材くらいの知名度があったことがわかる。宋でも車を手に入れた弁者が自慢に来るくらいで付き合いがあったor名が知られていたことがわかる。知るものは言わずの莊子がなぜ、知られていたのか?アイコンタクトやテレパシーでも持っていたのならばともかく。当然そんなことあるはずもなく、考えられることは一つ。この時代にはもう名声を上げる手段が変わっていたということ。言うまでもなく、呉起曾子の門で学んでいたように「学校」がある。特定の知識人の門下で優秀な成績・弁説を残すことで名を挙げること。また、戦国四君のような食客としてそこでの実力者に認めてもらう。恵施のような宰相クラスとのコネを作って認めてもらうことでもいい。要するに著名人との対面・対談によるコネ、評価を得て箔付けされること。すでに名声を得ている人からの評価・保証・追認などが主体となっていたでしょうね。市において名を挙げる・郷里での評価を背景にという叩き上げのようなルート・人物は、それこそ弁論術や儒家などの増え続けるテキストを考えるともう相当厳しくなっていたんでしょう。まあ、その要素がゼロということではなく、そこからスタートしてもその次のステップとしてそういうルートに乗っかるというのが基本になったはずですし。そういった叩き上げキャリアというのがあるとすると、軍人・用兵術くらいじゃないかな?

*5:↓で孟子の活動範囲への疑問。なぜ秦や楚に行かなかったのだろうと書いたように、ではどうして莊子は魏や楚だったのかという話になる。楚に「淮南子」のような風土があることを考えると、そういう思想性が合いやすいことがあると思うのだが、では何故魏(梁)なのか?それを考えてみると、魏が衰退して呑み込まれる・滅びる寸前の傾国の旧大国であることが考えられる。勿論、この苦難を乗り越える策を欲していただろうが、そんなことより滅び・変化を受け入れよという思想に対する需要もまたあったのではなかろうか?梁という土地柄に、この莊子のような「滅びの文化」というのもなんだが、そういう思想がいち早く花開いた可能性がある気がする。かつての殷の衰退・亡国の思想が、受け入れられ継承された。だからこそ莊子も活動拠点として選んだのではないだろうか?第二次世界大戦での日本の敗戦と思想の変化みたいなものがあったように思える。
 また、梁=魏というところに莊子の思想があるのならば、曹操が「魏」という国号を選んだ理由の一つとして、この思想に根拠がある可能性があるのではなかろうか?脱現世思想、宗教教団の育成をすることで仏教における「出家」制度を整えようとした。言うまでもなく「出家」が社会に根づいて制度として確立されれば、ポスト競争が和らげられる。漢末における激しい猟官闘争が、混乱を招いた要素は間違いなくあるわけで、少ないポストを争うが故の政争は今後も間違いなく発生する。それを防ぐための宗教的権威の確立、「出家」制度の導入のための道教教団整備があったように思える。張魯一族が鄴において重用されたのも黄巾対策だけではなく、真っ先に不満噴出しそうな地。ポストを寄越せ!と騒ぎ建てそうな所だという背景があるのではなかろうか?

*6:どうでもいいことかもしれないが、老子の別号を廣成子と言うとのこと。

*7:楚に行って晋に戻る途中の漢陰、漢水の南?アバウトすぎないか?

*8:※余計な話だが、良いことであろうが悪いことであろうが身を滅ぼすようなことをするなという意味では超個人主義とも言える。身体・生命・財産、幸福追求権の保証が民主主義にとって必要不可欠な観念だが最初のワンステップをクリアしているとも言える。道教に至ってより現世利益を求める性質が加われば尚更。

*9:※先述に引き続いて、個人主義思想故に民主主義的な思想の萌芽になりそうなものなのだが、ならない・なりえない理由はここにある。先天性の絶対視故に身分制に対する疑問というものがない。先天秩序の絶対視、これも儒教と真逆の発想。儒教は思想変遷とか学派によって云々あれど、基本的に良い政治、善政のためであるならば変化を許容をする。言うまでもなく、古代・中世とは伝統主義であるがゆえに保守的で変化を好まないが、現実の良い政治・「良政」のためにという発想がある。道家思想には変革や改革というものがない。個人の自由はあっても平等がない故に大衆の支持は得られない。仏教にはブッダを始め、様々な大衆を救おうとする仏がいる。ブッダは悟りを開いた後、衆生を救うために救済の旅にでたが、そのような布教や万民を救おうとする救済思想がない。もっとハッキリ言ってしまうと思想・宗教・哲学的にインドや西アジアに思いっきり遅れている、その程度の段階。
 道家思想というのは、基本的に道を理解できる限られた天才を対象としているために、対象が狭い。孔子も万民を救おうというようなものはなかった。万民の救済というものはなかったが、士大夫層・かなり身分が低いところまで対象にはしていた。基本は官吏・政治家と官僚予備軍、仕官する候補生への教育。んで、官僚や政治家を送り込んで「善政」を実現して、良い世の中を作って結果的に万民が救われるという構造・ロジック。民衆は供え物というかそれくらいの感覚で、思想対象としての領域が小さい。それでも道家より思想ターゲットが広いのは言うまでもない。道教となって限られた天才から、一挙に対象が広がるわけだが、やはり仏教の救済ロジックに及ぶものを構築できなかったというのが道教の実状ではなかろうか。宗教上、教義ではなかなか勝てないから政治力で勝とうとしたとか予想できるが、まあそれはおいおい検証していこう。道家思想から道教へという展開で、黄巾・太平道から曹魏北魏という段階で教義が固まっていくはずなので、そこら辺をどう理解・整理するかが、時代・歴史を理解するポイント。これも昔から考えていてココらへん早く調べたいのだが、一体いつになったらやれるのだろうか…

*10:商=宋の太宰蕩に莊子が話している。これで莊子が宋でも活動していたということがわかる

*11:虎狼が仁とあるように、莊子の論法として、まず相手が驚くように奇をてらった話からはいるとあるがそのとおりだろう。まず、相手が驚く=食いつく逆説的な話をして、そこから自説を語るというのが莊子のやり方ですね。まあ、奇をてらう逆説的な主張を掴みにして、中身がすっからかん。とりあえず逆張りしておけばいいとばかりに逆張りの主張をするだけの痛い人も昨今はいるようですが(笑)

*12:沛に老子に会いに行くというのが?なところ。老子は最初この辺りにいてその後周の地に行ったという説もあるようだが、むしろ老莱子のように老子は二人いたというか、老子と似たような主張をする人間がこの辺りにもうひとりいたとみなすほうが自然に思える。というか老子の主張は別に老子の専売特許ではないから各地に似たような思想家・隠士はいただろうし。