てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【コードギアス解説・考察】 Re; 「繰り返し構造」の解説補足②

―の続きです。前回は作中で語られた「昨日の世界」「今日の世界」「明日の世界」についての解説をしました。初めに語ったように、コードギアスという物語・作品では「繰り返し」(繰り返す)ということが非常に大事なテーマとなっています。前回は、そういう話をしたわけですが、では、なぜ「繰り返し」が大事なのか?ルルーシュがゼロ・レクイエムでもたらした「明日の世界」とどう関わってくるのか、そんな説明・解説をここでしてみたいと思います。
 前回述べた通り、シャルルの「昨日の世界」とシュナイゼルの「今日の世界」では変化がなくなります(シュナイゼルの「今日の世界」では多少はあるんでしょうけどね)。日常の「繰り返し」による積み重ねが否定されます。しかしルルーシュの「明日の世界」では、それがこれまで通り続く。人が「繰り返す」ことで、自助努力によって、未来を切り開いていく世界なんですね(まあ、いちいち解説するまでもなく、普通に見ていればわかる当たり前の話なんですけどね。わざわざこんなにダラダラ書いて解説する意味あるのかってレベルになるんですけども)。
 前二者の世界では、変化・努力・「繰り返し」は否定されます。押し付けられた理想の下で、人々は選択の余地なく・否応なくその世界で生きていくわけですからね。しかし何度も解説したように、ルルーシュの世界・「明日の世界」ではそうではない。これまでどおり人々の自由意志による選択の世界、「繰り返し」の世界になります。―とまあ、だいたいそんなことを前回書いたわけですが、今回はその「繰り返し」構造・「繰り返す」ということの意味を更に掘り下げて解説していきたいと思います。

 

[目次]

 

■変化なき平凡な毎日の積み重ねの上に明日はある

 「繰り返し」の果てに明日がある。一日一日、同じ毎日の「繰り返し」の果てに明日があるわけですね。平凡な、時に退屈とも思える毎日の繰り返しの果てに未来がある。何の変哲も無い凡庸とも思える一日の積み重ねの果てに成功・成果はある。一日、一時間、一瞬を大事にすることで成果、未来はある。まあ特に強調して言うほどのことでもない、当たり前すぎるほど当たり前のことですね。
 同じ単調な毎日を繰り返すことに人生はあるーと、以前どこかで書いたがするのですが、ちょっとどこで書いたかわからなくなったので、今一度改めて書いておきました。
 そして、当然毎日同じことをただ繰り返すだけではなく、そこには変化が含まれるわけです。エヴァンゲリオンなんかでもホメオシスタスとトランジスタシスという話がありましたね。維持しようとする力と、変化しようとする矛盾した力が同時に働くというように、人は同じ毎日を維持しながらも、より良いものに変えるために自分にとって新しく好ましい何かを取り入れようとする。もしくは好ましくないもの、悪いものをなくそうとしようとするわけですね。そうやって人は違うもの・変化を求めて生きていくわけです。
 生きていく上で同じ毎日を繰り返すとしても、少しづつ変化がある。幼稚園から小学校、中学校・高校・大学へと進学していくにつれて、似たような生活を繰り返すとしても少しづつ変化していく。就職して仕事をするようになり、会社に勤めるようになって大きく変わるとしても、根本的な部分は変わらない。学友が仕事仲間・同僚に変わったり、付き合う友人が変化したとしても、友人と遊ぶこと自体に変化はない。共通の趣味を持つ人と交流する・サークルで遊ぶこと、地域の人々と関わって交わること、恋人と遊ぶことなどといったサイクル自体に変化はないわけですね。学友との勉学というものが、同僚と仕事というものに変わるだけで、大まかなサイクルに変化はない。結婚して子供を産んで新しい家庭を築くということになると、親になって子供と共に生活するようになると、そこに大きな変化が生まれますが、そこからはまた新しい環境下での同じ毎日の積み重ねになります(もちろん一般論であって、この形態から離れたパターンをたどる人生もいくらでもあるでしょう)。
 一見、何の変化もない単調な毎日、退屈な毎日の中で、自分のなすべきことを積み重ねたものにこそ明日がある。アスリートなんか典型的、わかりやすい事例ですね。毎日の鍛錬・練習で少しづつ身体を強くしたり、技術を覚えていき、ある日花開き一流選手の仲間入りをする。元から才能があろうがなかろうが、花開くまでに長い時間かけた積み重ねがそこにはある。そしてその努力が大舞台、オリンピックやプロスポーツの最大規模の大会での勝利・優勝という形で結実する。アスリートなどは誰から見てもわかりやすい称賛の場・舞台がありますが、一般の人にはあまりそういうハレの舞台というものがありません。
 だからといって、自分は凡人だから、そんな大舞台もないから、何もしないなんていうのは論外なわけですね。どんなことであれ、毎日の努力・鍛錬なくして結実することはない。実を結び、花開くことはない。成功や幸せのために毎日を大事にするというのは当たり前すぎるほど当たり前のことですね。鴨川会長的に言うと、「努力したものが成功するとは限らない。しかし成功したものは皆すべからく努力している」というやつです。
 

■人生における繰り返しは毎回同じ、教訓が生かされるとは限らない

 1期をR2で「繰り返した」というのは、その積み重ね・努力の結実というものを表現したからと見るべきなんでしょうね。人生という長いスパンを考えれば分かる通り、人間は毎回毎回成功するわけではない。一度失敗して学習して成功することもあれば、その反省から対策を練って挑んでも、違う要因からまた失敗することもある。またこれまで上手くいっていたのに、今度はダメになってしまうということもある。だからこそ以前解説したとおり、以前はダメでも上手くいったパターンもあれば、逆に今度は上手くいっていたことがダメになったパターンもある。プラスの「繰り返し」だけでなく、マイナス・失敗した「繰り返し」の事例が見られるわけですね。
 この「繰り返し」構造を理解した上で見ると、ルルーシュやスザクが、何度も何度も試行錯誤を繰り返して、失敗を乗り越え犠牲を払いながらも、努力の結果好ましい成果・答えにたどり着いたということがわかりますよね。
 そして作品のポイントになるのが、全く同じ形で繰り返さなかったこと。何度も「繰り返し」失敗や苦難を乗り越えるということを言いたいのであれば、本当に1から10までなぞらえる話にすればいい。ところが実際はそうならなかった。なぜ、そうしなかったのか?全てなぞらえなかったのか?
 

■「繰り返し」構造の外にあったオレンジ・ジェレミア卿は、コードギアスという作品のテーマの体現者(インカネーション)

 この疑問を理解するのに最も適した事例がジェレミア卿こと、オレンジ卿ですね。なぞらえる形だったら、彼はクソ雑魚ナメクジ、噛ませキャラとして瞬殺・フルボッコにされて、さらなる改造を施されて心中or水没というパターンを辿るはずなのです。創り手側がそのようにしなかったこと、そのママ同じ形でいじられ&笑われキャラとして描かなかったことに当然意味があるわけです。
f:id:drkinokoru:20190205161423p:plain
f:id:drkinokoru:20190205161444p:plain
f:id:drkinokoru:20190205162218p:plain
f:id:drkinokoru:20190205161517p:plain
( 1期ではオレンジ畑を耕せと言われたり、紅蓮の輻射波動を受けて瀕死になって使えないやつ扱いされた挙げ句、人体実験で改造人間にされてオシマイでしたね。「おはようございました」とか「後ろをバック!」とかの名言を吐く完璧なネタキャラでした)

 1期の「繰り返し」路線にあてはめていたら、ネタキャラとして顔芸の一つでも披露してあっさりやられるとなるはず。しかし実際は、ご存知の通りルルーシュの忠臣としてずっとルルーシュに付き従い、目覚ましい戦果・功績を上げるわけですね。最終的には最後の戦いで、ラウンズの中で最強のナイトメアと言われるモルドレッド(ハドロン砲などの火力と装甲の硬さが突出しているだけで最強ではなかったかな?)と戦い、見事勝利を収めるという大活躍を見せるわけですね。
f:id:drkinokoru:20190205162552p:plain
f:id:drkinokoru:20190205162625p:plain
f:id:drkinokoru:20190205162654p:plain
(爆発するジークフリートの中に小型のサザーランドを仕込んでおき*1、自爆戦術で勝利を収めるという劇的な勝利に大興奮しましたね。オレンジ好きすぎて無駄に画像貼りまくってますがご容赦を(笑) (_ _) ) 
 ダメ人間(実際はちゃんとした実力者でしたが)から、忠義の士・英雄へと劇的に作中の中で評価を高めたオレンジことジェレミア・ゴットバルト。「繰り返し」構造から外れて、見事なまでに成長・進化し、成功を収めた。望むべき結果を手に入れた。「負の繰り返し構造」から脱して、「正の繰り返し構造」・望むべきルートにたどり着いたわけですね。これがポイントの一つ、彼もスザクやルルーシュと同じように、どんなに辛くてもバカにされ笑われても努力の結果、這い上がって望むべき道を切り開いた。望む世界を、未来を手に入れたのですね。同じ日常を繰り返しながら、努力の果てに積み重ねた変化の上に結果を出す。オレンジというキャラクターこそコードギアスのテーマを体現・インカネーション(化身・受肉)した人物と言えましょう。

 

主義主張は立脚点によって容易に変化するもの

 見事な戦いっぷりと忠義心から忘れられがちですが、彼は純血派というレイシストであり、日本人を人間とみなさず(みなした上でかもしれませんが)、人狩りに興じる人間のクズ。汚物は消毒だぁーとヒャッハーする手合いと同じ、典型的なクソ野郎だったわけですね。スザクをクロヴィス殺害の実行犯に仕立て上げて、疑似クーデターで実権を掌握しようとしていたり、クロヴィスの葬儀を取り仕切ることでさらなる出世をしようとしたり、家柄・貴族であることを鼻にかける嫌なやつだった。だからこそカレンにオレンジレンジされるシーンで視聴者がプークスクス&ざまぁと溜飲を下げる事ができたわけで。そういった元々クズ人間だったという要素を見落としてしまうとわからなくなってしまうんですよね、創り手のメッセージが。
 ブリタニアの皇族を守るという彼の主義主張と関係なかった頃は、ただのクソ野郎に過ぎなかったのが、ルルーシュが皇族だとわかると手のひらをころっと返した。皇族に仇なすゼロを執拗に付け狙う狂人が、忠犬オレンジ公として一心不乱に忠義を尽くし、戦場で輝き続けた。スザクに次いで頼りになる欠かせない存在にまでなった。ゼロ・レクイエムに最後の最後まで付き従った唯一人の人間ですからね。
 しかし、日本人・イレヴン視点から見てみると*2、最後まで「オレンジ野郎!オレンジ畑でも耕してろ!」と憎まれ、蔑まれる存在であったことを見落としてしまうとわからなくなってしまう。立場や状況が変わったからこそ、最高の頼りになる忠臣として評価を高めましたが、逆の立場だったら味方の時は全く使えなかったくせに裏切って敵になった途端、無茶苦茶強くなるという最悪の人間。RPGの小ボス・中ボスで出てきたキャラが味方になると途端に弱くなるやつかな?と思わせる感じの人間ですからね。
 なぞらえるのが基本構造でありながら、このように敵の底辺から味方の頂点にまで上り詰めるという全く異なる展開を見せるものも当然あったわけですね。敵だったものが味方に、味方だったものが敵にと、全く立場が真逆に入れ替わったのは、勿論彼だけではありません。ジェレミア卿・スザク以外にも黒の騎士団、そして何より皇帝となったルルーシュですね(そしてゼロ=ルルーシュを憎むニーナ)。これまで述べたとおり、人生だって単純な形で全く同じようには「繰り返さない」。時には劇的な変化が起こるもの。そういう性質を示唆しているように思えますが、ここで言いたいのはそれだけではないでしょう。人間は、その時の状況・立場によって、視点によって、主義主張はいかようにも変化しうるものだということですね。
 

■正義も主張も人の数だけある。誰が正義で誰が悪か、誰が正しくて間違っているかという善悪論・正誤論は無意味

 黒のキング=ゼロが、白のキング=皇帝にママ入れ替わったように、敵対する者でも、所詮立場が異なるということに過ぎない。どちらが正しいとか、間違っているとかそういう善悪論がいかに意味のないものに過ぎないかというのを、如実に示していますよね。この敵・味方陣営の劇的な入れ替わりは。最後にスザクとカレンが戦うシーンがあります。
f:id:drkinokoru:20190205163534p:plain
「私達のすれ違いに決着をつけよう」と戦い、「組織に入って中から変えようといっても、組織に入れない人間はどうしたらいいの?それが間違っているってどう言ったらいいの?」と言っているように、カレンは半分ブリタニア人の貴族なので組織に入ることは出来たでしょうが、間違ったやり方で支配したブリタニアを認められず、テロ組織に参加した。何よりその他大勢の日本人ははじめから組織から排除され虐げられたわけですから、なおさらそういうものに参加しようとは思えなかったのでしょうね。
 スザクは「組織に入るしかなかった人間はどうする?」と言っているように、生まれながらの名門で存在自体が特別な出自を持つスザクにとって、組織に入らないということはありえない。生まれたときから既に選択の余地のない運命に巻き込まれていたと言えるスザクにとっては、他に選択肢がない。そういうことを考えれば、二人共初めから自身の性格の問題という要素があれど、選択の余地がなかったと言えます。
 立場が違うものが最後にぶつかり合って、お互いの主張をぶつけ合うわけですが、当然、どちらが正しい・どちらが間違っているという話ではない。お互いとも主張があり、正義がある。異なるそれをぶつけ合っただけで、決してどっちが正しかった・間違っていたなど断ずることは出来ない。そこにあるのは戦って、負けた・勝ったという事実、生き残ったか死んだかという事実だけなんですね(たまにスザクが正しいor間違っている。カレンが正しいor間違っているといった類の話をする人を見ますが、根本的に読み取れていないとしか言えないですね。そもそもそういう次元の問題ではないわけですから)。*3
 そもそも論で言ったら、スザクもカレンもルルーシュもジェレミアも、作中のキャラは全員悪逆非道のクソ野郎ですからね。スネに傷のないキレイ子ちゃん、正義・善の士・キャラクターなんてそもそもこの作品ではいませんからね(いるとすればユーフェミアくらいですかね?)。そういうのは問題にならないというか、結果を出す上で、正義や善という誰もがそう有りたい。キレイな主義主張のまま望むべき大成功・結果を出して人生をキレイに終えることなんて出来ないという、人が人生を生きていく上で当たり前のことが描写されているだけですからね。*4


■「繰り返し」構造=「繰り返さなかった」構造でもある

 「繰り返し」構造があるからこそ、「繰り返さなかったこと」についてもまた注目が集まる。焦点があたることになるわけですね。先に論じたオレンジもさることながら、一番のメインはやはりルルーシュとスザクの二人。スザクとルルーシュというライバル、親友でありながらも対立せざるを得ないという悲劇の構造は、ある意味すれ違いを克服してわかり合って手を取り合うことが出来た(目的のために手を組んだだけで、わかり合ったとは言えない可能性もあるので、一応ですね。それでも一つの目的のために共闘するという友好的な関係は築くことが出来たので)。
 この男同士の問題、男と男の友情という関係性では、対立を乗り越えることが出来たが、カレンとスザクという同じ日本人のエースパイロット同士というライバル対立は克服することが出来なかった。1期のラストでわかりあえなかったルルーシュとスザク二人のすれ違う悲劇をこのパターンでなぞらえたともみなせますね。何から何まで世界を思い通りにする、人と分かり合うというハッピーエンドよりも、悲劇を克服出来なかったパターンをきっちり差し挟んでくるのがまた憎い演出ですよね。
 典型的なハッピーエンドとしては、悲劇を克服した事例としては、支配者と被支配者という図式で対立したブリタニア(人)と日本(人)ということなんでしょうね。この図式も、ユフィとスザクに始まって、ジノとカレン。そして何よりヴィレッタと扇死ねで対立する構造が変わって、乗り越えられていったとみなすことが出来ますね。一応シュナイゼルと黒の騎士団が手を組んで憎きルルーシュ皇帝と戦った。共闘したことでも絆を築いたとみなせますからね。
f:id:drkinokoru:20190205164201p:plain
 扇とヴィレッタが結婚する写真で右側がヴリタニア人で、左側が日本人や中華連邦の人間、インドのラクシャータもいますね。敵対してきた陣営同士の人間が結びついた、わかりあえた象徴としてこの二人の結婚が最後に出てくるわけですね(そういうメッセージを込めるために、扇とヴィレッタが恋に落ちて結ばれるというプロットだったのに、なんにもしてないくせに褐色美女を嫁にして孕ませて、首相という座に迄上り詰めるとは…と視聴者の憎しみをダモクレスや皇帝ルルーシュ以上に集めてしまうという…(笑)。監督も脚本もまさかこういうふうに受け止められるとは夢にも思っていなかったんでしょうねぇ(^ ^;) )。
f:id:drkinokoru:20190205164240p:plain
 何より最後のシーンで扇首相とナナリーが握手をしているシーンが象徴的ですよね。もし「繰り返し」構造ならば、再度ヴリタニア側のイレブン虐殺という展開になるはずですからね。言うまでもなく、そういう負の繰り返し構造を打破して、正の好ましい繰り返し構造・ルートへと導いたということですね。
 まあ、まだまだいくらでも「繰り返し」構造と逆に「繰り返さなかった」ことで視聴者に伝えたかったこと。監督や脚本の主張・メッセージを読み取ることが出来ると思いますが、時間の都合上、今回はこんなところで。というかかなり忘れているので思い出したら、また追記したいと思います。

 長いのでシーン対比の解説を分割しました。続きはこちら→ 【コードギアス解説・考察】 Re; 「繰り返し構造」の解説補足 1期と2期の対応シーン:スザク救出劇とゼロ・レクイエム&ルルーシュ≒ユフィ

※19/3/27分割、加筆修正。&シャーリーの話追記。 
 忘れていた。シャーリーの話を追記しておきます。何よりシャーリーが死ぬ時に言ってましたよね。「何度生まれ変わってもルルを好きになるから」と、シャーリーがそう言ってたところでわかりますよね。せっかく忘れさせてくれたのに、記憶をいじられてもまたルルを好きになった。もし次生まれ変わることになったとしても、何度でも何度でもルルーシュを愛する(※ちなみにここでシャーリーが言ったことは、孤独なルルーシュを支えたい・助けたい・守りたいということですね)ことになるだろうって。シャーリーはやり直しても成功出来なかった、結果にたどり着くことは出来なかった。でもルルーシュを愛して死ぬことになった結果ついて微塵も後悔することもなかったし、恨み言一つ残さなかった。ユフィも同じ、スザクに「あのルルーシュのくそったれ野郎にはめらたけん、スザクどん。おいどんの仇をとってくりゃれ。あいつの首をとって墓前に捧げてつかあさい」なんていう恨み言を一ミリたりとも吐かなかった。自分の行動・結果に後悔せず、愛する人のことを心配して死んでいったわけです、だからこそヒロインとして輝いているわけで。「土の味」のところで、ルルーシュはスザクに一切言い訳をしなかった。全て自分の責任だと一切合切の出来事・行動の結果について責任を引き受けた(政治的に言うと、政治家として結果責任を引き受けたということですね)。かのように自身の行動の結果をすべて引き受ける覚悟こそ未来を切り開く非常に重要な精神なわけですね。

 何度でも諦めずに立ち向こうと。そしてそこで起こる出来事の結果について責任をすべて引き受けること。それこそが大事だというメッセージは非常に素晴らしいですよね。だからこそ名作として輝き続けるのでしょう。

*1:今頃気づきましたが、これ小型のサザーランドを仕込んでおいたんじゃなくて、V.Vとの戦いのあとでサザーランドを埋め込むことで補修していたんですね。第二次東京決戦の時に既にサザーランド搭載型になっているの今更知りました

*2:ルルーシュブリタニア側の一部も敵に回ったのでブリタニア人でも憎んでいるかもしれないですけどね

*3:※無論、勝利・敗北のあとの戦後処理が拙い・巧いという話が出てくるものですが、この作品では、最後の決戦でそういう拙いことをするケースが見られないので特に触れる必要性もないかと思います

*4:という背景があるので、STAGE21「学園祭宣言」でユーフェミアが行政特区日本の構想をぶち上げた時、ルルーシュはブチギレするわけですね。自分が大変な努力をして、自分の手を汚してまでようやく積み上げたものを、必死に作り上げてきたものを、キレイ事ばっかり抜かすアマちゃんに台無しにされたわけですから。善意から生まれた悪意・悪事であるだけに、なおさら怒りの火に油が注がれたというわけですね。 
  何の苦労も知らない皇族サマがなにナメたこと抜かしてんだ!とブチギれるわけです。お前に俺のような汚れる覚悟があるのか!卑怯なこと、悪事に手を染めてまで人々を救おう・結果を出そうという覚悟があるのか!善意で世界が平和になるなら苦労しねぇんだよ!このお遊び感覚のおままごと皇女がと!だからこそ「汚れてもらうぞユーフェミア!」となって、自分を騙して銃で撃つ卑怯者になってもらうつもりだった。結果、卑怯者と糾弾されて表舞台から消える・失脚する。最悪日本人に殺されるというプランをルルーシュを持っていたという話の展開だったんですよね。自分はある種ユーフェミアを「殺す覚悟」があった。しかしユフィは逆に「殺される覚悟」があった。だからこそルルーシュはそのユフィの思いを知って、心を打たれて方針を変更したわけですね…(涙)