てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

削除できないフォルダを消す方法


フォルダが削除できません。この項目は見つかりませんでした。次の場所にはありません。
内部コマンドまたは外部コマンド、 操作可能なプログラムまたはバッチ ファイルとして認識されていません。

 ―というメッセージが出て来て、ファイルやフォルダが削除できない話。自作PCネタでOSをWindowsではなく、Linux使っていて、結局Windowsに戻すきっかけになったフォルダの共有化が出来ないという話で書くつもりだったネタなんですが、使ってるメモにいつまで経っても消えないのがうっとおしくなったので、メモ書きを消すために備忘録公開。別にググればコマンド入力なんていくらでもでてくるんですけどね。どうやって消していたのか忘れないように個人的メモです。
 色々書こうとしている中で一番手っ取り早く消化できるネタなので今回はこれにしました。自作PC云々で組み立て編やお掃除編、OSをLinuxからWindowsに変えた編色々書いていない中でこれをいきなり書くのはどうなのか?迷走感半端ないですがもう一旦書き始めてしまったのでしょうがない(^ ^;)。
 いずれ自作PCシリーズを書き終わった時、改めてリンクを貼るということでごまかしましょう。収まりが悪かったら、一つの記事としてまとめてしまうかもしれませんが。
 とにかく、何らかのエラーで消えないフォルダを消す話です。消えないものを消す方法ってなんか昔のじゃまなイルカを消す、「お前を消す方法」を思い出しますね(笑)。

■消えないフォルダを消す手順
 ①コマンドプロンプトを開く―PCのタスクバーの一番左下のボタン(もしくはキーボードのウインドウボタン・正式名称は[Windowsボタン]?)押して、Windowsシステムツールからコマンドプロンプトを開く(cmd.exeの起動)。

 ②コマンドプロンプトにコマンドを入力する― C:Users\~>というのが表示されるので、そこに次のコマンドを入力する。
 rd "\\?\c:\~
\cのところはCフォルダだから、C。外付けドライブなら当然Eドライブになる。
 ~のところに消したいフォルダ・パスを入力。ディレクトリがあれば\でさらにフォルダ名入力。(rdの次には半角スペースが入っていることに注意。まあ、コマンド入力はコピペでやるものなので半角もディレクトリ云々もあんまり気にする必要はないけど)。*1

●実際に消すときの注意いくつか
 長いこと放置してフォルダを消すのがずいぶんあとになったんですが、それはエラーでなかなか消えなかったから。なぜか全角Eだと失敗するんですよね。で、ああ小文字eにしないとダメなのか。コマンドは小文字でやらなきゃいけないものなのかと思っていたら、Cドライブだと今度は全角じゃないと失敗する…なんでだろ?と思って続きの作業に取り掛かったら、そのフォルダごとに成功する・失敗するのが異なるというめちゃくちゃめんどくさいことに…。実際に消したフォルダの内、6つが全角、3つが半角という結果となりました。この違いはなぜなんだろ…?結局わからずじまいで、消すフォルダごとにエラーが出たら大文字・小文字を書き換えて逐一消していました。

 実際に消す時は、右クリックで「貼り付け」になるのでフォルダ名がどんなに長くてもコピペでおk。消したいフォルダのプロパティを開いて、そのフォルダのパスを切り取るなり、コピーするなりでコマンドプロンプト画面で右クリックで貼り付けて実行するだけ。
 また、消したいフォルダは空にしておかないと消えないので注意。あれ消えない。なんでエラーになるんだろ?と思ったら、中のファイルを消し忘れていて何度もエラーでイラッと来ることがあるので、忘れずに事前に全部消しておくことに気をつけておきたいですね*2
 また、初歩的なミスで一つだけ何故か消えないフォルダがあって、このフォルダはLinux関係なく何らかのエラーでフォルダに使えない文字がフォルダ名に使用されていた。今回のケースで使われていたのは、「\」ですね、この文字はフォルダ名に使えなくて、実際に使おうすると「使えません」と弾かれるのですが、何故かその名前で記入されていて、フォルダが認識されないという状態になっていました。
 んで、暫く困って色々ググっても見つけられなくて放置。である時、エラー原因で消せないのだから、フォルダのエラー修復すればいけるのでは?と思いついて、ドライブのプロパティからツールのところのエラーチェックでエラー修復を試してみたら消すことに成功しました。
 まあ、誰が見るということもないと思いますが、同じような現象で悩んでいる人が見て、役に立てばこれ幸い(他にいくらでも詳しい人の解説記事があるのでまず人来ないと思いますけどね)。

アイキャッチ用画像

目覚まし時計 起きてイルカ? ブルー リズム時計 4SE553SR04イルカのイルカくん

*1:必要ないと思うけど、一応追記。上のコマンドをコピペすると「\」が実際には「¥」になります。何故かコピペすると「¥」になりますが、ちゃんと実行できるので気にする必要はありません。実際キーで直接打ち込んでも「\」ではなく「¥」になるんですけどね。機種などPC環境によるのかな?

*2:rd /s “\\?\"だったか、中のファイルごと消せるコマンドがあったような気がしますが、どうだったかな?消せなかったのはフォルダだけで、ファイルが消せないという現象は発生しなかったので、このコマンドは使わなかったのでどうだったか忘れました。多分このコマンドなら全部消えるんじゃないかな?試してないからなんとも言えないけど

フジテレビの「保毛尾田保毛男」騒動と小島毅著『朱子学と陽明学』


 一度間違えて公開してしまって、即バックスペースで戻って下書きに戻したのに、下書き保存と同時に公開状態になっていた…。前もそういや公開されてかつ下書きで保存されるという二重になる状態があったなぁ…。下書き段階のものが公開されるとか嫌だなぁ…恥ずかしいし。まあ、そんなに多くの人が見てるはずないんですけどイラッとしました。
 それはさておき、前回からの差別ネタの続きです。続きと言ってもそこまで連続する話、繋がりがあるわけでもないですが。差別ネタで書きたいネタが溜まったので、これ描いても面白いんじゃないかと、今回の話もブログに書くことになりました。
 最初、今回書く「フジテレビの保毛尾田保毛男」ネタとブラックフェイス騒動の2つをセットに書くつもりだったのですが想像以上にブラックフェイスの話が長くなったので単品にしました。今回はそのネタと「ちくま学芸文庫が炎上した件」の2つの話を書きたいと思います。
 ご存知ない方のために一応さらっと触れますと、小島毅著『朱子学陽明学』という本の帯にかかれたコピーがヘイト表現である云々でちょい炎上したんですね。その炎上事件が明らかにおかしな反応に見えましたので書いておきたいと思います。どう考えてもちくまサイドに問題はない。難癖つける方がおかしいですからね。
 文量的に大して容量あるものではないので、二ついっぺんにまとめました。まずLGBTの話題、フジテレビの「保毛尾田保毛男」騒動から。

●フジテレビの「保毛尾田保毛男」騒動
 フジ「保毛尾田保毛男」騒動に思う “当事者不在の正義”の怖さ | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン
 これが良い解説をしている文章だと思いました。①これが問題ないとOKを出したチェック機能・制作サイドの問題があること、②当事者達の意見・感覚を無視して主張する危うさ―という2点の指摘がなされています。まさにそのとおりかと思います。
 抗議する側も、制作・放映者の意識の低さを問題にして抗議しているが、そこだけを頼りにするのは危うい。制作プロセスの問題をきっちり詰めないと同じことはまた起こると氏は主張しています。そのとおりでしょうね。

 で、次に当事者不在の抗議という視点ですが、LGBT界でも問題だ!とする人と特に問題ではないとする人に別れているといいます。良家の子息にゲイが多い。そして姉がいるという設定も絶妙と評価する声もあると。むしろ問題であるのは、ビートたけしの発言。ゲイ=ペドフェリアとでも言うような主張。これがまずい(個人的にはそういう時代を生きたたけし氏の当時の感覚に基づくものですから完全にアウトという感じはしません。今の時代テレビでこういう発言をすることに問題はあるでしょうけどね)。

 いずれにせよ、まず、一番問題になるはずの差別を受ける側の気持ち。当事者の都合を無視して「差別だ!」と騒ぐことに正当性はあるのか?と問いかけています。
 実際、当事者の意見が無視されて、うまく機能していた小人プロレスというコミュニティが外部の声によって潰されてしまった事例があると。イギリスのホームレス支援はホームレスのやりたいこと・意志を尊重する。社会復帰ありきではない。日本のそれは社会復帰が当たり前で、ホームレスという存在を許さない前提、「正義の押しつけ」があると。当事者不在の正義の押し付けはLGBTQのためにならない危険性があると。ざっくり言ってしまうと、LGBTQとまず友だちになって彼らのことを理解せよ!話はそれからだ!ということになると思いますが、そのとおりでしょうね。当事者でもないのに、御用だ!御用だ!と警察・岡っ引き感覚で糾弾しようとする手合いには非常に違和感を覚えますね。

 個人的には更に被差別者が正義・権利を語る際の危険性についても踏み込んで書いてもあれば尚良かったと思いましたね。そういう事象について氏の意見をぜひ伺ってみたいと思いました。竹井善昭さん、いい文章書きますね。

 ―で、そんなポイント、被差別者自身が差別だと主張すればいいとは言えない。そこにも危険性があるというポイントも実はあるんですよ~的なことを書いていたら、意図せずにブラックフェイス問題が起こって、まさに当事者が正義や権利を主張する、「差別だ!」と声を上げる良い実例がありましたので、その話に移りたいと思います。
 ―という風に〆てブラックフェイスの話に続けるつもりだったのですが、分割してしまったので未読の方はこちら*1をご覧ください。

●追記、こんな文章がありました。「黒塗り問題」浜ちゃん松ちゃんの本音が聞きたい *2


小島毅著『朱子学陽明学』の帯が炎上した話
 で、次はちくま学芸文庫が炎上した話をしたいと思います。小島毅著『朱子学陽明学』の帯の掲載文言について、批判が殺到したとかで、ちくま学芸文庫ツイッターで謝罪をしていました。

 「なぜ中国・韓国はああなのか?」―この言葉が帯に書かれていました。正直、これに難癖つけている人は頭がおかしいというか、国語力・文書読解能力に問題があると思います。おのれの無知をさらけ出して攻撃をしているという時点で救いようながないと思いました。こんなことで炎上するなんて、ブラックフェイス問題といい、ドンドン世の中は言葉狩り表現規制の世界になってきてるんだなぁという感じですね。

 いちいち解説する必要もないのですが、一応解説しておきますと、「なぜ中国・韓国はああなのか」という文言の「ああ」の部分に何が入るか考えると、称賛・中立・否定の3つの意味が予想されます。つまり、
 「なぜ中国・韓国はああいう風に素晴らしいのか」
 「なぜ中国・韓国は我々に理解できないああいう思想・行動が当たり前なのか」
 「なぜ中国・韓国はああいう風に最低のクソ野郎共なのか」
―この3パターンになるのですが、普通に考えたら価値中立の真ん中であると考えるはず。中国・韓国の思想・行動様式が我々のとは違いすぎて理解できない。その理解できない彼らの価値観の基準には儒教がある。その儒教理解を深めることで、我々に理解できない彼らのことをより深く理解しよう。

 とまあ、普通はそういう意味であるとわかるはず。そういう風に読み取れない人たちというのは、それこそ、「ああなのか」の「ああ」の部分に自分たちがそう発想する。ヘイト本の価値観を安易に当てはめたからこそ、一番下・③番目の否定・マイナスの意味を勝手に込めて解釈したわけですね。この帯に木をつける、叩く人たちは「ヘイト商法」と名付けて巷にあふれるヘイト本と同じだと非難していました。

 自分の読解力がないからこそこういう誤解が起こる。自分たちの能力が足らずに勝手に「ヘイト本」認定して、ちくま学芸文庫を叩く人たちの思想を理解する本がそれこそ必要であると思いましたね。「なぜ反差別行動を取る人たちはああなのか」という本をちくま学芸文庫さんから出してほしいくらいです。

 普段から、思想・哲学・宗教本関係をよく読んでいれば、それこそこんなテーマはよくあるテーマであり、帯を見ただけで、まあこういう内容なんだろうなと作者の主旨・課題設定がすくに想像できるはず。まさか、本当に③の意味で書かれた本なのか!?と思っても、実際に手にとって内容をパラパラ見れば、「ああ②ね。よかったよかった」で終わったはず。

 これは差別だ、問題です。抗議します―と行動するのは構わないのですが、そうする際の慎重な態度・取るべき検証というステップをすっ飛ばしてキレて騒いでいるだけのような感が否めないんですよね…。

 でこの件でヘイトだ!差別だ!と騒ぐ人のツイを見に行って、その方のRTで目にしたのだけど、「ブラックフェイスはレイシストの真似だから差別的」ということを言っていて、それはそれでいいのでしょうけど、その論理で色んなものを禁止していく危険性というものについてはどう考えているのかということなんですよね、結局。

 まあ前回何遍も書きましたけど、米英でレイシスト認定される差別行為であることは間違いない。これはいい。しかし日本ではその文脈はないからレイシスト行為ではないし、もちろんブラックフェイスで黒人を差別・嘲笑しようという意図もない。差別行為という認識があったらまず誰もしなかった筈。

 そういう背景を考えると「ブラックフェイスはレイシスト行為だから止めろ」と踏み込んで言うべきことだろうか?という話だと思うんですよね。個人的にはセーフの範疇、だからといってじゃあ今後もブラックフェイスガンガンやろうぜとは当然ならない話に決まってますけども。

 ですから、差別だ禁止しろ!という立場も、何が問題なんだよ?いちいち騒ぐなうるせーよと抗議を一顧だにせず蹴散らすという態度も問題。少なくとも早急な判断は下さずにちょっと落ち着いて皆さんでゆっくり考えて合意を形成していきましょ?という話だと思うんですよね。

 なんといいますか、差別的表現云々について考えましょうというのはわかるし大事なことですよね。ですけど、そういう人たちって規制する危険性もまた同じくらい大事なので、そのために留保しましょう。といったような、慎重さがないんですよね。最近個人的に多用している言葉でいうと「差別表現棍棒」を簡単に振り回す印象があるんですよね。

 確かに良いことをしているかもしれない。しかしその本人達に自分たちが扱っている武器に対する危険性の認識があまりにもなさすぎる気がしましたね。差別を取り締まるのなら、自分たちがいかに間違い(逆差別を)犯しかねないかという注意が必要。それこそ議会や裁判所が持つ監視のプロセスが必要。

 メディアが審判になったつもりで、一方的に相手を攻撃するような傾向があるように、反差別行動を取る人にもわれこそ正義という思い込み・慎重のなさが非常に気になりますよね。

 まあ、要するに何事にも慎重にやってほしいということですね。一足飛びに差別認定するのではなく、奇蹟認定くらい慎重にやってほしいと思いますね。差別認定の濫用は思わぬ結果を招く・逆効果になりかねないと危惧するので。

 今回のことでちくま学芸文庫を読むような人しか反応しなくて、いつもみたいなヘイトアカウントからのクソリプが一件もなかった。今の日本社会状況階層の別をよく表しているという面白いツイートがありました。それもさることながら、やはりそういう一定の知識を持つ読書を嗜む階層でさえこういう行動をしてしまうこと、そしてそれに対するカウンターが十分にないことが個人的には気になりましたね。

 ちくま学芸文庫さんが謝ってしまったことも問題ですよね。本当に間違った時、問題がある時はちゃんと調査して訂正・謝罪すべきだと思いますけど、そうじゃない時はしっかり突っぱねてもらわないと逆に困りますよね。クレーマー的な批判が蔓延して色んな面白い試みがやれなくなるとどうなるか?言わずもがなですよね。このご時世何に文句がつくかわからないから精神で萎縮・自主規制ばかりの社会が活力ある面白い社会な訳ありませんから。

 そうそう、なんで相撲なんか取り上げて、モリカケ・山口敬之をやらないんだ!的な意見をこの時よく見かけましたけど、クレームが入ってめんどくさくなるから取り上げたくないんでしょうね。簡単に叩けて面白い=数字が取れるそういう案件しか扱われなくなるんでしょうなぁ…。

●日本に対する米欧の眼差し
 最後おまけにこの話。池内氏のツイートで、日本は「途上国」でなく、かつ第二次大戦で「ナチス側」だった故に、米欧リベラルから好き勝手に書いて大丈夫な対象になっている。蔑視に近い内容でも問題ない状況がそこにあると。そういうものをどかでひっくり返さなくてはならないと述べていました。産経新聞的な「歴史戦」はその点足を引っ張るじゃまな存在で良い迷惑だと。

 米欧サイドの「日本異質論」とでもいいましょうか、オリエンタリズム的眼差しとでもいいましょうか、そういう日本に対する蔑視は昔からありますよね。でもそういう偏見・思い込みを強く批判した事例、有名な話ってあんまり聞かないんですよね。
 「歴史戦」的な視点から言うと、日本の言論界は中韓の主張をある時期から激しく非難する流れに変わりましたよね。ある一点を超えたら、この日本に対する偏見について、隙あらば反オリエンタリズム・日本偏見叩きという流れになるのでしょうか?個人的に米欧の視点の歪み、差別的な偏見を持った眼差しの方が中韓の「反日的」な視線や批判よりよっぽど厄介で、それに対する策・戦略を築くことのほうがよっぽど大事だと思うんですけどね。

 それこそ国家レベルで我々がまっさきに問題としなければならないのは米欧サイドの日本が我々より低俗・劣位の価値を持つ存在であるという思い込み・偏見ですよね。そこをもっと真剣に論じないといけない。対策を打たなくてはならない。そういう時代なのに反差別でのこの暴走と、反中・反韓の動き、現政権はまさにそんな感じですよね。なんというかそろそろもうちょっと成長してみませんかという気持ちになりました。まとまりが良いかどうかはさておき、こんなところでおしまい。

アイキャッチ用画像

*1:参照―

*2: ―とんねるずダウンタウンも学校の同級生であり、学校の内輪ノリが基準にある。その延長のまま来ていることに問題の原点があるという指摘です。その他の部分についてはあまり同意できなかったのですが(悪しき体罰ケツバットの流れを引きずっていてみていて不愉快だとか明らかに筋違いな指摘だと思いますからね。)、この点については本質をついていると思いました。
 多様化する社会にあっては、テレビ業界・お笑い業界の「内輪ノリ」は明らかに通用しづらくなっているというのはそのとおりでしょうね。また、自分たちが社会的に上の立場になっていることについての無自覚というのもそのとおりですね。前から思っていて、昔書いたと思いますが、松本人志などはもう業界の天皇のような偉大な存在になっている。偉大な存在には特別な責任が伴う。そういう当たり前のことが明らかにわかっていないんですよね、彼は。
 また最近とんねるずが看板番組を終了させました(させられた?)が、権威を笑うことで成り立っていた彼らはキャリアを積んで自身が大物になって権威になってしまって、パワハラやセクハラとして視聴者に捉えられる、受け取られることにかなり無自覚でしたよね。ダウンタウンと違って、基本的にとんねるずというのはものまねやパロディなど他者をいじって笑いを取るといういじり芸と予定調和を破壊するというパターンしかなかったので、キャリアの途中からもう見ていてかなりきつかったですよね。他に引き出しがないので面白くなかった。同じような存在ダウンタウンウッチャンナンチャンがお笑いで成功し続けられたのとは対象的な存在でしたからね。
 そういう意味で自身の価値を変換しようと映画監督に転進して、コメンテーターのような立場に移ったビートたけしの先見性はかなり優れていたと言えるでしょうね。次は何をやるのかそういう視点から見ると今の事務所分裂独立騒動も面白いのかもしれませんね。ちなみにナンチャンもそういう転進組ですよね。スポーツの解説やワイドショー?お昼の司会をやったりどちらかというとそういう仕事が目立つので。
<追記おしまい>

ブラックフェイスの話 米英ではタブーでも日本では差別表現に値しない


●ブラックフェイスの話
 ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!の年末スペシャル番組、笑ってはいけないでダウンタウン浜田雅功ことハマちゃんが番組の演出で黒塗りでエディ・マーフィーに扮するということがありました。それについて「ブラックフェイス」は差別であるという抗議が来ました。

f:id:drkinokoru:20180326024051p:plain

 ブラックフェイスは国によってタブーかどうか異なるようですね。ミンストレルショーの歴史を持つ米国では絶対的なタブーになっていて、英国でもタブーになっている様子。しかし、それ以外の国では米英のような厳しいタブーは存在していないように見えます。もちろん「ブラックフェイス」は差別だからよくないという抗議はあるみたいですが*1

 アメリカでブラックフェイス(非黒人が顔を黒くすること)がタブーになったのは、ミンストレル・ショーという過去のエンターテイメント・見世物に基づくわけですが、何故タブーになったのでしょうか?それはこのショーで、白人が黒塗りをしてジム・クロウというバカで姑息な黒人を演じたから。愚かで低劣な黒人というイメージを形成し、それが奴隷解放後の選挙権剥奪と人種隔離に繋がったという歴史的経緯があるから。
 ―まあ概ねこのような視点からブラックフェイスの問題を語られることが多いかと思います。コレ自体に違和感はなく、それでいいと思っていましたが、Wikiなんかでミンストレル・ショーの歴史をさらっと見た限りでは、本当に黒人差別に大きく貢献したのか?という疑問がなくもないですね…。
 南北戦争で奴隷だった黒人が解放される。その黒人をどう扱うかというテーマがあって、動物扱いをしていた人間以下の存在であった黒人に、自分たち白人と同じ権利を与えたくないという思惑があったと言われると、至極当然の流れのように思えます。そこで今で言うメディアの役割をショー・見世物が担った。興行が利用されて愚かな黒人イメージが植え付けられたといわれると、なるほどねという感じになります。
 しかし、黒人を愚かに&奴隷制度を肯定的にショーで演じながら、実際は北部からきた興行団体ということで南部でも禁止されたとか、黒人も伝統に則って炭を塗って顔を黒くしたとか、黒人が黒人をネタにした事例があったとか見ると、本当に白人が黒人を差別するツールだったからタブーになったのか?という疑問が出てくるんですよね。
 生きていくすべがなく、否応なくショーに従事せざるをえなかった解放された黒人がいたことは無論、生きるために元奴隷である自分達や現奴隷黒人をあざ笑うといった黒人の暗い過去・歴史そのものを消し去りたいのでは?という疑問が湧いてきます。解放された教養ある黒人たちは人種差別的な演目を行う黒人のミンストレル一座に眉をひそめたとか、黒人が我らこそ黒人伝統芸能本流であり、黒人以外にはこなせない!という価値観を打ち出した流れなどを見ると、ショービジネスでの利権云々など他に色んな要素がそこにあるんじゃないかなと思えてきます。

■ブラックフェイスが米英でタブーであることに違和感なし。しかしそれは日本でのタブーであることにはならない
 ミンストレル・ショーやブラックフェイスがそこまで黒人人種差別に貢献したのかどうか、仮にそのような見世物がなくても結果としては大して変わらなかったのではないかなどの疑問については、詳しい歴史的解説をした本でも読まない限りわからないことでしょう。なのでおいといて話を進めますけど、米国において非黒人が顔を黒く塗ることがタブーであるということに何ら異論はありません。そうですか、ではそうすることはよろしくないですねと思うだけです。しかし米英でタブーであるということは日本でタブーであることには繋がらない。それは全く別の話でしょう。
 黒人が傷つくと言われても、「なんで?」としか言いようがない。黒人を差別した歴史的経緯を共有しているわけでもないのに、それを日本においてもタブー化することに何の意味があるのかわからない。そんな事言うのならば、世界中で日本ではこれをやることは許されない。日本人にとってこれはタブーだから日本以外の世界中どこでもダメ。同じく中国人にとってはこれがダメ―と世界であらゆる国や人種・民族に配慮したタブー規制だらけになってしまう。それこそイスラムでは食物禁忌があるから、食べてはいけないものを食べるところを見せるな。我々にとって嫌悪を抱くものを公共の電波に乗せるなという話になってしまう。

■ブラックフェイスの禁止によって黒人の差別解消や地位向上はあるのか?
 人種差別というのは特別な背景を持つ問題であるから、特別な配慮がなされる必要があるというロジックもわかります。しかしブラックフェイスに配慮することが黒人への人種差別や偏見を解消することになるのか?という疑問が当然湧いてきます。ブラックフェイスをタブーとして、禁止することで黒人への人種差別や偏見がなくなるというのならば、日本にとって関係のないことでも前に進めよう・ドンドンやっていこうという意見に反対はしません。むしろ賛成するでしょう。
 しかしどうみてもこの規制でそういう効果は生まれないでしょう。というか、他に黒人の待遇を良くすることや差別をなくすための有効な提言や改善案はいくらでもあると思うんですよね。そんな事やってる場合なの?というのが正直な感想です。そこに戦略性や思想というものを感じられない以上、どうしても差別という名の棍棒を振り回しているように見えてしまうのですね。

■反ブラックフェイス表現で行動するベイ・マクニール氏の主張の誤り
 ※ 「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安 ―非日本人で日本が大好きだというアフリカ系アメリカ人・黒人の人がブラックフェイスやめろというツイートをしたことが今回の騒動のきっかけでした。それについてはこちらのハフィントンポストの記事・リンク先を読めばわかると思います。正直、違和感しかありませんでしたね、彼の主張には。

 まず1つ目の間違いは、ブラックフェイスが世界的に許されない表現だと定着してはいません。米英では許されないという評価が定着しただけです。それを以って、明らかな間違いを犯したと主張したり、テレビ局を叩くのは間違い。
 次におかしいのは、不愉快になるという説明についての掘り下げが足りない。米では白人が黒人を差別する、下に見る・見下すという文脈でブラックフェイスは定着している。タブーになっている。しかし日本やそれ以外の国々で黄色人種や白人がどうしてそうしてはいけないか、具体的な根拠がない。根拠を説明する必要がないと思っている時点でおかしい。氏は人間性を否定された気持ちになると言っているが、日本において非白人が(正確には米英出身の白人以外の人間が)ブラックフェイスをすることがどうして黒人に対する差別表現になるのか説明をしていない。例えば韓国などは黒人差別がひどいという話があります。そのような国ではブラックフェイスが問題になるのも理解できます。しかし日本でも黒人差別がひどいのか?そういう立証・裏付けのデータや具体例をあげないといけないでしょう。

 個人的にどうしてそういうふうに感じるかを想像してみると、とある学校でいじめがあった。どもりぐせがある子がいて、それがイジメのネタになっていた。彼・彼女をいじめるのに、どもり・つっかえのまねをすることがイジメのネタとして定着していたと。それだけではなくその子に対するイジメはひどいものがあった。である時それを知った先生が大激怒して、それを叱って、以後教室ではどもり・つっかえのマネがNG・タブーとなった。もしそれをやったら先生が容赦なく殴るということになったと。その経緯を共有しているクラスのみんなにとっては、以後どもり・つっかえのマネはタブー。ピクッとする・緊張する行為となった。あるいはそういうことをするやつは人間じゃないという価値観が共有されたと。で、クラス替えや進学で中学・高校へと舞台が変わった。そういう新しい環境で前提がリセットされたところ、たまたまそういう経緯を共有しない子が噛んでしまってつっかえてあたふたしてしまった。それがおもしろいと、同じくまた別のそういう経緯を共有しない子が面白がってそれをからかった、真似したりいじったりした。それを見てタブーの価値観を持つ例のクラス出身の子が周囲が驚くくらいブチ切れたと。
 例えるとすると、まあそういう感じなんでしょうね。米で差別を受けた。言うまでもなく差別行為だ。だから日本でもそれは差別だという論理に思えます。そしてそこにはワンステップ論理の飛躍がある。肌が黒いことをいじることや、指摘をしていじることでもなく、黒人の扮装をしたことをもって黒人に対する差別表現であるとするのは無理がある。
 例えであげたブチ切れた子にとっては許すべからず悪逆非道な行為。でも、その事情を知らない人間にとって見れば、なんでそんなことでブチ切れるの…?と理解できないわけです。同じ経験・歴史的経緯を共有しない子にとっては奇異に映る。当たり前ですよね。それがこのマクニール氏には理解できていない。

■重要なのは差別する意図があるか、そういう負の歴史があるか
 3つ目、歴史的背景がないというのは間違いという指摘の間違い。榎本健一やシャネルズやゴスペラーズがブラックフェイスをしてきたという背景がある。また、江戸時代にミンストレル・ショーが催されたことがあるという指摘をしています。それを以って歴史・過去があるからブラックフェイスは許されないのだと述べています。
 「は?」一体何を言っているのでしょうか?そりゃ昔からブラックフェイスというものはあったでしょう。しかしそれは黒人を馬鹿にする意図を以って行われたものではないでしょうに*2榎本健一さんは存じ上げませんけど、シャネルズやゴスペラーズが行ったブラックフェイスというのはリスペクトで行っているもの、黒人が歌っていることがカッコイイからこそ真似をしたわけでむしろ真逆の文脈。それを俺が気に入らない、差別だから止めろというのはおかしいでしょう。
 大体、江戸時代にミンストレル・ショーが行われたからなんだというのでしょうか?一時でも黒人差別に関わることを目にしたのであれば、さも当然のごとく黒人差別対策に血道を上げて取り組んで当然という傲りがそこには感じられます。黒人である氏がそれを差別だと当然に感じるように、我々はそれに何の違和感もないことだと受け止めることなのですから、それをもってして、「さあ、過去がある。実例がある。まだ対策に取り組んでないなんて、おかしい!」なんていう主張を平気でしている方がおかしいでしょう。問題は日本人が黒人を差別してきたか、そういう歴史的経緯があるかどうかでしょう。そういう前提が米と日本では大きく違う。そういう前提の違いを無視してアメリカのように黒塗り表現を禁止するのが当たり前と平気で主張するのはおかしいでしょう。*3
 事例が少ないことからもわかるように、これで「ブラックフェイスがいけないことだよね」となるわけがない。何が問題なの?別に構わないでしょ?という感想を持つ人々が殆でしょう。むしろブラックフェイスがいけないことだと日本社会に納得させるようなまっとうな取り組みをやってこなかったあなた方に問題があるのでは?あなた方サイドの問題ではないの?という感想しかありません。日本社会に根付いて、そういう文化人だったりテレビや新聞の人間と友好な関係を築いて「ああ、ブラックフェイスというのは問題だな」と日本社会全体を説得するような有効な働きかけを怠ってきたことに対する反省はないのでしょうか?署名して、ツイートでつぶやいたくらいで差別がなくなって当然なんていうメンタリティのほうが問題に思えます。

■所与の前提は黒人差別がアウトということであり、ブラックフェイスがアウトになるわけではない
 そもそもなんですけど、この方は「ブラックフェイスは黒人差別であるから禁止して当たり前」という態度で論を進めている。所与の前提として話を進めている時点でもう無理だと思います。そういう態度を取る人のロジックを受け入れられないですよね。所与の前提としてあるのは「黒人差別は許されない・禁止する」なんですよ。ブラックフェイスは所与の前提ではない。ブラックフェイス=黒人差別という前提は日本社会にまだ確立されていない。そこにズレ・論理の破綻がある。そこにこの人は気づいていない。これではこの人の主張が受け入れられて「ブラックフェイスはいけないものだ」という価値観は根付くことはないと思いますね。
 あと、黒人の俳優をそこに入れればいいという主張を見ても「???」になりますよね。笑ってはいけないシリーズのあの場面で、ハマちゃんではなく誰も知らない黒人の人が出て来たらどうなるんでしょうか?「え、あのどちらさんですか?」となって場が凍るでしょうに。そもそも日本のテレビ、ドラマでも演芸でもなんでもいいですけども、そこに「黒人」の役割が求められることというのはあまりないんですよね。身近に「黒人」がいて、彼らとよく生活をともにするという人はごくごく少数派。その少数派のための番組が作られること・可能性は限りなく少ない。そういう日本の事情を理解せずに黒人を使ったらいいでしょうという見当違いの提案をしている点を見て、この人本当に日本に来て日本の文化や価値観を理解しているのかな?と感じざるをえません。
 で、テレビで一週間に3回ブラックフェイスを見た!という話があるのですけど、そんなに多く出てくるものなのですかね?そんなに出てくるとは到底思えないのですけどね。被差別意識が強すぎる故の過剰反応であるような…。まあ最近はテレビを見ていないのでわからないですけど、よくテレビを見ていたときでもブラックフェイスなんてまず見かけませんでしたが…。ブラックフェイスが差別に当たらないとしても、無茶苦茶頻繁にブラックフェイスが出てきているとなれば、それはちょっといかがなものかというロジックは成立してきますからね。いくら日本において黒人が少数派であれど差別表現とされるものが高頻度で出てくるとなれば、無自覚な差別として考えるべきことですからね*4

■日本の価値観を無視した傲慢な主張・論理展開
 そもそもなんですけど、日本の価値観というものがあり、その日本の価値観・感覚から言うと、こういうふうになる。そして「アメリカでは~」や「黒人の差別の歴史では~」ということになる。しかしこの人はそういう日本の価値観とか文化とかそういう視点がまったくない。「彼らは子供なのだ」という文を見ても、米欧の価値観から考えて日本の価値観・社会を程度の低いものと見下しているとみなされてもおかしくはないでしょうね。
 個人的にはブラックフェイスというものをやめたほうがいい、配慮したほうがいいとは思いますけども、こういう主張・論旨展開をする人間がいるならばブラックフェイスは差別表現に値しないと明確に否定したほうがいいと思います。米英の価値観を振りかざしているところから見ても、黒人ではなく「アメリカ系黒人」の主張でしかないように思えるんですよね。それこそアフリカの黒人やアラブ圏・欧州圏・中南米圏、色んな文化圏の黒人の意見を聞いてみたいですよね。アメリカの差別意識を主張しているだけで、それこそアメリカ以外の世界の黒人の視点・感覚を無視しているのではないかという疑問もあります。アメリカの黒人をさも黒人代表の如く主張しているというオチになりそうな気もしますしね。下手すれば勝手に黒人代表になっているということもあるでしょう*5

■日本社会の価値観を理解しない抗議は逆効果、子供の如き幼稚な行為
 まあ、そう目くじらたてずにそれこそ「この人は子供なのだ」とスルーすべきと言われればそうなのでしょうけどね。それこそユダヤ系団体が日本におけるナチス団体・反ユダヤ団体への抗議など昔ありましたが、そのようにひっきりなしに差別への抗議というものはなされる。どんな小さいことでもガンガンやっていくべきなのだというのが世界的な常識・感覚ですからね。間違ってもそこに「恥」などという感覚はない。間違えたとしても「いっけなーいまっちがえちゃった~。テヘペロ」くらいの感じですからね。日本人・日本文化の価値観だとこういう非難はかなり意味合いが重い。丁寧にやらないとおかしな人間・痛い人間としてカテゴリされかねない危険な行為なんですよね。それこそ今ネトウヨ界隈では中国人や韓国・朝鮮人がおかしな人間、ほぼ非人としてカテゴリ分けされているように、人間にあらず扱いされてしまう。まあネトウヨは少数派なんでいいとしても、ネトウヨほどではないにせよ、中国人や半島の人間をおかしな人間として分類分けしている人はもう珍しくなくなっていますからね。
 そういう背景を考えれば、このような文ではなく、日本を持ち上げて、うまく心をくすぐるような文章を書いて、日本の価値観・背景はわかるんですけども、どうかブラックフェイスはやめていただけないでしょうか?というふうに下から下から話を進めていくような書き方をするはずなんですけどね。黒人の地位向上に日本が大きく貢献した。あの戦争で米欧と戦ってくれなかったら今の黒人の地位はなかったとか、べた褒めしてそのような我々の恩人である日本人にそんな傷つくことをしてほしくないのだとか。それこそもっと上手くもっていくやり方があるでしょう。それこそ日本文化・価値観を理解せずになにしに日本来たんだっていう話になるんですけどね。下手したら「うるせーバーカ、じゃあアメリカ帰れよ」という反発を招いて終わってしまいますからね。
 この前書いた貴乃花親方じゃないですけど、相手を理解する精神がない。相手不在で自己主張・自己のロジックだけ展開してもダメですよね。そこに相手を理解してお互い妥協して合意を形成する、着地点を見出す精神がないと。

■意図せずしてブラックフェイスは姿を消すだろう。消すだろうが同時にテレビから黒人も消えるリスクを高めた
 まあ、だからといって、マクニール氏が米英的価値観から日本を見下しているから、ブラックフェイスやるぞ!ブラックフェイス祭りじゃぁ!と全テレビ局がその日一日限りで、みんなブラックフェイスで番組をやるということにはならないとは思いますが(笑)。こち亀40周年記念の両さんだらけみたいなことをやったら面白いと一瞬思いましたが、まあそんなこと起こるわけもないので。今回の事件で間違いなくブラックフェイスというのはなくなるでしょう。それは差別云々に敏感なテレビ局が差別と言われてめんどくさくなるようなことを放送するわけ無いですからね。
 まあ表現がどうこう以上に、今年もガキ使の笑ってはいけないは面白くなかったということのほうが問題だと思うんですけどね。テンプレパターン化に、モノマネのご本人登場みたいに大物有名人を連れてくるだけになって本当つまらないですからね。面白いという話題になるのではなく、こういうことで話題になるというのが象徴的ですよね。今一度書いておきますけど、エディ・マーフィーの仮装で黒人や肌の色を笑い者にしようという意図・背景はどこにもない。あれをもってして黒人差別だというのは無理がある。

 白人以外でもブラックフェイスはダメ。わかりにくいから黒人差別をしてこなかった文化圏にしましょうか、そういう文化圏でさえも黒人を形容するブラックフェイスをしてはダメなのか?その問いはおいといて、ブラックフェイスを禁止にした場合、待っているのは間違いなく日本の芸能界における黒人芸能人の衰退・消失でしょう。彼らの出番は間違いなく減ると思うんですけどね…。
 「黒人差別表現」がTVから、社会から消えた。しかしそういう表現を恐れるがあまり、黒人芸能人が扱いづらくなって取り扱われなくなる。とすると、却って現在のショービジネスで活躍を目指している黒人にとってはマイナスだと思うんですけどね。
 今でもそんなに黒人芸能人というのはいないかと思います。しかし芸人だったり、外国人が日本の歌を歌うというような番組でたまに出番がある。最近ようやく彼らがテレビに進出するというルートが開かれたのに、彼らの道を閉ざすきっかけになりかねないと思うんですよね。
 黒人を使うとその演出・表現にクレームが来る。放送直前に急遽流せなくなったら…。放送後クレームが来てその処理・対応をしなくてはいけないとなったら…。そこにプライドを持って番組を作っている人間は少なくて、「じゃあめんどくさいからはじめから使うのをやめよう」という魂なきテレビ制作者・専門家が殆。黒人は日本社会においてスポーツくらいしか道がなかった*6。日本においてせっかく開かれた、ようやく開いたショービジネスへの扉を閉ざすことになりかねない。そういう懸念や警鐘を鳴らす人がいないのは疑問ですよね。特に今そういう道を進んでいる黒人芸能人はいち早くそういうことを表明しないとまずいと思うんですけどね。また当然そういうことになると、それに伴って黒人=芸能力がないというレッテル張りに繋がっていくことになる。そちらの方がよほど怖いと思うのですけどね…。

 もう一つそもそも論を付け加えて終わりたいのですが、差別だから配慮されて当たり前という価値観は危ういですよね。それ自体が間違っているとは思いませんけど、今の世の中というか国際社会というのはそんな甘いものではない。理想やかくあるべしという当為が成立する世の中ではない。実力の裏付けがない正義の主張は無意味。日本社会で実力を持つ、確固たる地位を築いたわけでもないのに、特別な配慮を訴えても聞き入れられるはずもない。
 黒人の地位向上を達成するために、きちんとした手段・過程を整備しないと、黒人の地位向上がなされることはないでしょう。そういう事を考えずにブラックフェイス止めろというのは酔っ払いの憂さ晴らしにしか思えません。黒人事情に詳しいわけではありませんから自信を持って言えないのですが、黒人というものの地位が世界的に高いわけではない。彼らの中で高い階層にある人達はほんの一握りでしょう。そういう不公平な状態を改善することこそ、黒人にとって最優先課題のはず。そのために努力すべきなのに、どうでもいいブラックフェイスなんかでタブーを増やして、最悪反感を買って地位向上に繋がるどころか逆効果を招くことになる。そうなったらどうするんでしょうか?というかそんな危険なことをやってどうするんでしょうか?ほかにやるべきことがあるでしょうにというのが今回の騒動で思った感想ですね。

*1:※参照事例―顔の「黒塗り」は差別か自由か…仏で仮装パレードめぐり論争 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

*2:重要なのは「語源」ではなく「歴史的経緯と記憶」。呉智英氏は「英語のChinaも日本語のシナも語源は同じ。そこに差別的なものはないのに、何で日本語のシナが差別になるんだ」と主張していたが、これは誤り。語源が同じでも後の歴史的経緯とそれによって刻まれた記憶が違う。シナは当初差別的な意図が込められた言葉ではなかった。しかし時が経つにつれそのように使用されていった。侮蔑的なニュアンスが込められて使用されて広がっていった。だからこそ問題となる―というツイートを見かけましたけど、そのとおりでしょうね。侮蔑する言葉としてもっといい言葉がいくらでもあったでしょうに、なんで「シナ」「シナ人」が代表的なそれになったのかというのは気になるところですね。まあ、いずれにせよ、日本社会・文化において日本人が行うブラックフェイスに差別的背景も意図もそこにはないというのがポイントですね。

*3:例えばダルビッシュに対してグリエルがアジア人差別である釣り眼のポーズをやって問題になったことがありましたが、それをもってして日本でも禁止とはならないでしょう。釣り眼をやるなんてけしからん!許せん!とはならないでしょう。へえ、アメリカではそうなんだ。バカだなぁ、気持ち悪いなアメリカってと思っておしまい。何らかの番組で目を釣るようなシーンが出てきたので差別だ!抗議だ!とは普通ならない。そういう違いが日米にはある。そういう風土の違いを認識せずに一足飛びに差別表現だから止めろと言っても通じるわけがないですね

*4:次の記事の追記で記事を貼って言及したのですが、そのリンク先にガングロ文化の話がありました。あれは黒人へのリスペクトの意味が込められているという人もいるけども根本的には無関係で顔を黒くすることで他者との差別化を図っているという話がありましたが、まあそのとおりでしょうね。多分ブラックフェイスを何度も見たというのはそういう渋谷あたりのガングロファッションのことかと思います。街頭インタビューみたいなのでそういう人がピックアップされることを言ってると類推します。まあガングロファッションとブラックフェイスが全く異質なものであるのは言うまでもなく、やっぱりそもそも日本文化への理解や尊敬が根本的にないということなのでしょう。また、昔ブリ照りなんちゃらさんというガングロファッションで有名だったギャル社長?だとかなんとかいう人がいたかと思いますが、ああいうガングロファッションをしている人たちを今後テレビ業界から排除せよと主張するのでしょうか?全く黒人差別と関係ない国・文化圏において一定のファッションをしている人間をメディアの世界から追い出せというのならば、個人的には到底その姿勢を容認することは出来ませんね。※追記、どうでもいい話ですが、ナスDさんという方がいたのを思い出しました。それが念頭にあったかもしれませんね

*5:そういえばパックンという米出身の芸人さんも偽善と言われても傷つく人がいる以上配慮したほうがいいという主張をしていました。彼が米出身でなければ話は変わったんですけど、米出身ですからね。アメリカではアウトという価値観を持った人間がそれを言うのはどうなんだろうとなりますからね。アメリカ系黒人にだけ特別に配慮せよと言われても…うーんという感じになりますね

*6:詳しくないのでそういうイメージしかありません。もしかしたら他に色々あるかも?