てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

小室直樹・山本七平共著 『日本教の社会学』の推薦文

 前回*1でようやくTポイントの話をし終えました。ああ、そうか更新しても最新日時で公開していないのから、読者の人でも知られていない可能性があるのか。穴埋めで書いてたし、内容もまあそんな大したことではないので、まあいいか。個人的に気になってしまってTポイントを入り口にして思いついたくだらないことを延々書いただけですし。追記しまくったので、もはや最初に書いたオリジナルの原型をとどめていないかもしれません。あの話がなかなか面白いなと思っていただいた方はもう一度読んでいただけると幸いです。そんな奇特な人いるのかな?(^ ^;)

 で、この前書きたいなと言っていた話を書こうと思っていましたが、先にこんな話を消化したいと思います。レビューを書いたらTポイントが50ポイントもらえるというキャンペーンやっていたので、復刊ドットコムでレビューを書いたんですね。そしたら字数制限があって物凄い中途半端・消化不良なレビューになってしまったので、せっかくなので書いたものをこちらに載っけたいなと思いました。あとメモ帳に保存してあるのが邪魔なのでさっさと消したいのでこちらから先に手を付けたいとおもいます。

 小室直樹山本七平共著の『日本教社会学』です。

日本教の社会学/ビジネス社

楽天リンク

 再販されたことで気になっていたことと、この本を復刊ドットコムで自分でリクエストしたので、まあ読んどいてオススメですよ!とPRしないとせっかく再販なされたビジネス社さんに悪いかなと思ったので。復刊してほしい!とリクエストしたわけですから、ちょっとでもPRに協力したいなと思いましたので駄文を書いておきます。


 今から30年以上も前(1981年)に出版された本でありながら、その内容は未だに古びて廃れてしまうことがない。それは両著者の優れた視点・指摘もさることながら、日本の抱えた問題が30年以上も未解決のままであるということである。巷間では「失われた10年・20年」という用語が広まっている。この「失われた~年」というのは本質的には変化をすることができなかった「変われなかった~年」と言える。

 バブル期の日本において、既にこの「変われなかった」という性質は存在していた。バブル崩壊後に「失われた」のではなく、日本社会と言うのは元々近代社会・民主主義社会において重要な「変革」という因子が存在しなかったのである。失われたのではなく、元から病理や危機を日本社会は孕んでいた。ただ単純に未曾有の好景気・経済成長が存在していたために、内在的なリスクが発露しなかっただけなのである。

 この日本が抱える潜在的な危機がいつか爆発するということを見抜いていた小室は、日本社会の預言者として、警鐘を鳴らし続けてきた。その姿勢は一貫して変わらず、単著を初めて出したときからその主張を唱えていた。日本社会はこのままでは深刻な事態に陥る。内在的な危機が発露して大変なことになるということを小室は『危機の構造』(1976)で既に指摘していた。小室を一躍有名にしたのは『ソビエト帝国の崩壊』(1980)であり、ソ連の崩壊を経済体制・共産主義思想・アノミー・技術力・組織の機能不全性など様々な要因から論じ、それが現実化したことで小室直樹の学問・論理は文壇の注目をあつめることになった。

 前述通り小室は既に日本の危機を指摘していたわけだが、当時の時代の空気ではまだまだ十分には浸透していなかった。故に日本の国家や社会に警鐘を鳴らすために、民主主義国家として近代国家としてあるべきはずの常識がない日本社会の異質性・特異性、つまり前近代性を改めて論じることになる。そのパートナーとして「日本教」や「空気」で有名な山本七平氏が選ばれ、共著を出すことになった。

 小室は山本七平を、丸山真男同じく「浅学非才」(もちろん否定的なニュアンスで使われたものではない)でありながら、正当な学問を修めたわけでもないのにあれ程の発見・業績を残すことが出来た点を高く評価している。が、しかし個人的には山本七平には学術的な「方法論」が存在していないと思われる。小室は社会学的な構造機能分析を山本が行っているというが、山本には学問を行う上での方法論が欠けているゆえに、それぞれ論じる内容に一貫したロジックが見えにくいのである。

  「空気」の研究や、本人の体験に基づいた上での日本軍に関する分析、ユダヤ教と日本社会・「日本教」を比較分析したものなど、それぞれ素晴らしいものではある。しかし、では、それらの発見・結果を総合的に、体系的に学術の形としてまとめ上げることが出来たかと言われればかなり疑問が残る。

 学術的なアプローチ、いかなる手段・方法を持ってして問題を論ずるか、対象領域を研究し、重要な法則を発見するかという「方法論」が確立されていないがゆえに起こるものといえるだろう。故に山本の指摘、分析は断片的であり、優れたものとそうでないものの差が激しいと個人的には思う。

 ―と、以上のような山本批判をしながらも、それでもやはり山本の指摘には優れたものも数多くあるのは事実である。それをもって山本の主張に触れずに捨て去ってしまうのは惜しい。当時の時代を知る上で参考されるべきものであることに異論はない。


 出版以前の状況や個人的な山本への評価はさておいて、本題に戻って、日本社会はなぜ変わることが出来ないのか?それは民主主義社会ではないからである。日本人は民主主義というものをまるで理解していないと言っても過言ではない。民主主義とは何かと言われれば、皆決まって戦争や専制主義の真逆の概念である。自由と豊かさと平和がセットになった、なんとなくいいものが民主主義であるという浅薄な思想が本書で記されている。もちろん民主主義とはそんなものではない。現代でもこのような浅薄な理解で民主主義を捉えている人は珍しくはないだろう。それこそ日本社会の危機の源泉、社会の病理なのである。

 小室の学問とは、多岐に及ぶが一つだけエッセンスをあげよと言われれば、それは資本主義や民主主義とは何なのか?ということである。民主主義や資本主義が素晴らしい、素晴らしいからそれを守りましょうなどという事を言いたいわけではなく。そもそも現代のシステム・社会の基礎となっている民主主義や資本主義というものの論理を知らなければ、それを使いこなすことが出来ない。

 民主主義や資本主義というものに批判は昔からある。共産主義というものが力を持って世界に広まったのも、その批判が人々の心を捉えたからこそである。資本主義・民主主義に欠陥があるがゆえの現象であった。が、しかしその失敗を見てわかるように、現状の制度をより良いものに改革をするには、その民主主義や資本主義というシステムの本質を正確に抑えておかなければならないのである。今の制度の本質がどんなものなのか理解をしていなければ、制度を改革するのも、全く新しいシステムを創り出して行くことも出来ないのである。

 まず現代の社会の基本的なロジックを正確に抑えなくては、社会を変えることも良くすることも何も出来ないわけである。社会を政治を経済を良くしていこうと思うものはこの基本を何よりしっかりと抑えておかなくてはならないのである。

 小室の学問の真髄は問題発見能力もさることながら、優れた現状認識・現状分析にある。であるが故にその価値は未だに廃れてしまうことがない。継承するにせよ、批判するにせよ、その論理はどこにでも応用が効くものである。是非一読されたし。 対談本という性質上読みにくさもある。小室直樹の本は多数あり、読みやすいものは多いので他に読みやすいものから読むことが良いかもしれない。読みにくければ無理せず読みやすいものから手を付けることをオススメする。


 当時の日本は軍国主義などではなかった。軍国主義であれば国家のありとあらゆるものを総動員して戦争相手を研究していた。そして勝てないとわかれば戦争をするはずがない。何故軍国主義がそんな戦争をするのか?軍国主義だったのならば、戦争は避けられた・戦争をするはずがなかった。多くの日本人はそんなことも理解できない。―とまあ、そんな肝心の中身には触れずにおしまい。いずれ内容読んで追記するかもしれませんけどね。

*1:

『日本の一九八四年』から引用 言論の自由について知っておくべきこと

過去記事の再掲です。元は10/12に書いたものです。

 そういえば、今の非実在青少年とか、単純な表現規制の話だけではなく、セックスから快楽を取り除いて管理しようとした愛情省。ポルノ課が設置されていた状況と似ていますね。まさに日本は『1984』の世界なりけり。

 さて、前回書いたように、この書であった博士のすばらしい説明があったのでそれを引用したいと思います。

「政治倫理」はまやかし
 一九八三年の日本においては、「政治倫理」なるものを巡って、一大論戦がなされ、それが未だに続いている。こんなたわけたことをしていると、間違いなく、凶暴戦士のごときビッグ・ブラザーに、日本デモクラシーは、呑噬(飲み込まれること)されつくしてしまうことだろう。
  「政治」の「倫理」、これほど奇妙なことは、またと考えられない。「政治」と「倫理」とは、元来、水と油のような関係に立つものである。近代デモクラシー社会においてはミネラルウォーターとガソリンみたいな関係にあると言えよう。政治と倫理(道義)とが元来、水と油だと言っても、儒教的な考え方では、ある意味で「政治」と「倫理」は近いと言える。政治と倫理(道義)との間には、若干のきしみはあると言うものの(例。孔子桓公管仲の解釈、憲問第十四。〈岩波文庫本十六節、十八節〉また孟子の湯武放伐論〈『孟子』巻第二、梁恵王下〉)。両者はお互いに裏打ちしあっている。儒教的世界観のうえに立つならば、あるいは、「政治は最高の倫理である」ということが言えぬでもない。また、政治指導者=君子は「一人」でなければならないということになる。
 もっとも、この「聖人」「君子」という言葉のもつ意味は、本場の中国では、日本人が考える意味とは、いささか、いや大いに違った意味に用いられている。すなわち、「聖人」とは、政治制度を作った人(すすんでは、社会構造を作った人)という意味である、「君子」とは、政治指導者ないし官僚として、かかる制度――礼楽という――を維持し機能せしめる者のことを言う。しかし、日本人の儒教誤解、すなわち、日本人が儒教的であると考えているものが、実は、儒教的でも何でもないこと、これは、日本の一九八四年を考えるうえでも大事なことなので、ここではこのくらいにしておくが、後で一寸くわしく触れることにしたい。
 しかし、近代デモクラシーにおける政治観、人間観は、これとは全く違う。
 近代デモクラシー社会においては、「政治」に「倫理」をもとめてはならないのである。
 と、ここまではっきり断言すると、たいていの人は、とまどう。猛然とくってかかる人も多い。若千、敷衍する(くわしく説明する)必要がありそうだ。

 

「倫理」とは何か?
 倫理(道義)は、善(Good)を求める。善をもとめてやまないというのが、「倫理」の要求である。デモクラシー政治は、善をもとめてはならない。それは、全き「善」とまでは行かないところの「フェア」(Fair)をもとめる。また、フェアをもって、「政治」が正常に機能しうるための前提ともしている。
 Fairは中学校一年生のリーダーにも出てくる単語である。いや、フェア・レデイとか、フェア・プレイだとか、幼稚園の子供だって知っている言葉である。しかし、政治との連関において用いられるとき、これほど訳しにくい言葉もない。また、政治学的、社会学的に、これほど含蓄のある言葉も鮮異(殆どない)。また、この言葉を理解することが、デモクラシー理解の第一関門である。しかも、マスマミも、大多数の学者評論家諸君も、あまりよく理解していないようである。
 まず、何と訳すか。Fair は、「公正」などと訳されているが、では、「公正」とは、どういう意味か「公平」と言うこととはいささか違うということは、誰でも理解されよう。では「公正」とは、公の正義ということか。という意味だとすると、これはれっきとした誤訳だ。「フェア」とは、所謂「正義」とは、たいへんに政治学的意味を異にする言葉であるからである。
 そもそも「フェア」とは、全き「善」にまでは行かぬところのこと。言ってみれば、「ややよい」「かなりよい」というくらいのことである。「まあ、我慢できる」くらいのところである。
 では、「ややよい」「かなりよい」とは、一体、いかなることなのであろうか。
 まず、このことを理解するための一つの補助線としての、アメリカの大学あるいは大学院における成績評価を考えてみる。どの大学でも同じ方式を用いるのではないが、その例として、ABCDEF方式がある。これを言葉であらわすと、AはいわゆるExcellent卓抜(とびぬけてすぐれていること)、BはGoodよし、Cはフェア。それ以下のDはBarely passedスレスレ合格。Econditionally passedお情け合格。そして、FがFlunk不合格だ。ABCまでは、大手をふっての堂々たる合格だが、Cのフェアは、その中では最低。A卓抜でないのは言うまでもなく、Bよしというところまでさえ行かない。それがフェアの位置である。
 デモクラシーズにおいて、政治がもとめ、また、それが正常に機能しうる前提とするフェアは、このレヴェルである。
 ではなぜ、この程度で満足するのか。
 なぜ、もっと上の「よし」や「卓抜」をもとめないのか。答、そうしないとビッグ・ブラザーが、現われてしまうからである。フェアのレヴェルでとどまる禁欲ができなくて、さらにその上が必要だなんていうと、ビッグ・ブラザーと言う魔神は、ソロモンの封印を喰いやぶっておどり出てしまうのだ。

 

デモクラシーは不自然きわまりない制度
 いかなる政治制度でもそうだが、「近代デモクラシー」は特に、ぬきさしのならないほど多くの矛盾をかかえこんでいる。例えば、一方に「多数決原理」があるかと思えば、他方には、この原理の毒素を緩和する(neutralize)ために、「少数意見の尊重」の原則がある。また、もう一つ重要な例をあげれば、デモクラシーズにおいては、国権の最高機関たる国会を構成する議員は、各特殊利害(地域、階層、職業、宗教、イデオロギーなど)の代表でありながら、それと同時に国全体の代表でもある。ではもし、国全体の利益と、特殊利害とが衝突したときには、議員は一体、どう行動したらいいのだろう。
 そして、近代デモクラシーは、不自然この上ない政治制度でもある。このことをよく認識することは、何ごとによらず、「自然であること」をもって尊しとする日本においては、重要なことである。
 ここに「不自然」とは、人間自然の本性に悖るということだ。この意味において、近代デモクラシーは、すぐれて非人間的な政治制度である。
 良心の自由、言論の自由、結社の自由……(他人の)権利の尊重……等々。近代デモクラシーが作動し機能しうるために必要な部品のうち、何一つとして、人間生得の感情と衝突しないものはない。
 たとえば言論の自由。他人が貴方を批判しようと非難しようと、黙ってこの意見にも耳を傾け、あの意見も尊重しなけれはならない。かつ、この反対意見の発表のために十分のチャンスを与うべく努力しなければならない。
 これは生得の不人情である。
 英国の大宰相兼ベストセラー作家ディズレイリーは、「人間は、媚態(flatteryこびへツらうこと)を好む動物である」と言った。誰だって批判されたり非難されたりするのは嫌だし、こんなことを公に主張するとは、まことにけしからん奴だという気になるだろう。日本人なんかとくにそうであって、公に批判でもしようものなら、十年の友情もいっぺんでさめて、仇敵みたいにいがみあうようになることが珍しくない。いや、たいがいそうなることは先刻ご存じのとおり。まして、見知らぬ者が批判でもしようものなら、良いも悪いもてんで開く耳をもたぬ。だから日本には、公の討論という土壊が出来にくい。
 「言論の自由」ということがすでに、これほどまで人情を逆撫する。
 しかし、いくら感情が昂ぶっても、そこをぐっと堪えなければならない。これには自制がいる。もちろん、この「自制」は、生れながら備わるものではあり得ない。教育、社会化(社会生活のために必要な規範、技術を習得すること)の過程において身につけなければならない。このように、「自然の人情を押えこむ」ための訓練をしないことには、「言論の自由」ということは機能しえないのである。*1
 
えげつないのがフェアの精神
 かつてアメリカで、マッカーシズム*2の嵐が全米にふき荒れ、多くのアメリカ人が社会的に葬り去られたことがあった。
 とことんまで「良心の自由」を守りぬこうとする人びとは、マッカーシズムに果敢な反撃を加えた。これは、マッカーシズムの暴風雨圏にある当時のアメリカにおいては、勇気のいることであった。しかし、「自由」は、守りかつ戦いとるもの。ニューヨーク・タイムズに、ワシントン・ポストに、猛然とマッカシー上院議員を非難し、彼のやりくちを攻撃するいくつかの意見広告がのった。しかし、これらの「反撃」においては、自分の意見を新間にのせるだけでなく、マッカーシー上院議員がさらに、これらの非難を再反撃するスペースをもまた買切ったものであった。
 敵にも十分の反論のチャンスを与える。
 これぞ、フェアFairというものである。
 と言うと、たいへん立派に聞こえるが、そう大したことではない。
 日本人はよく、これぞ武士道の精神なんていうが、近代デモクラシーズにおけるフェアの精神は、「武士道の精神」とも違えば、「汝の敵を愛せよ」と言うこととも違う。デモクラシー諸国において、自由に闘わされる言論において、誰も汝の論敵(論争の相手)を「愛して」なんぞいない。「相身互い」と言うのでもない。この種の「隣人愛」ほど、デモクラシーの正常な作動を妨げるものはない。誰もが、与えられたルールの範囲内で相手を論破するために、ありとあらゆる論争技術を総動員してよろしい。あらゆる策を弄してよい。
 相手の弱点にはつけこまなければならない。相手の失策は、とことんまで利用しなければならない。
 このように、「言論の自由」とは、すこぶる、不人情なものである。業の深いものである。
 しかも、そうやってくれないことには、デモクラシー政治は動かない。言論の場において、誰もが、この上なくえげつなく、きわめつきに業深く論戦をくりひろげないことにはデモクラシーは、トランスミッションが切れた車みたいになってしまう。
 これぞ、フェアというものである。 フェア以下であってもいけないが、フェア以上であってもいけない。善や卓抜なんぞもとめると、デモクラシーは死ぬ
 政治におけるフェアにかなり近いものをもとめるとすれば、スポーツにおけるフェア・プレイのフェアだろう。
 選手はみんな、与えられたルールの範囲内で相手を打倒すべく、ありとあらゆる手段を行使する。ルールの範囲内なら、ポクサーはどんなに相手をひどくなぐってもいいし、相撲取は、どんなに相手をはねとばしてもいい。いや、そうしなければならない。相手が気の毒だなんて、側隠の情など起こして手加減でも加えようものなら、これは八百長。これがはびこったら、ポクシングも相撲も、成り立たない。
 これが、フェアプレイの精神。
 政治におけるフェアとは、こんなものだと思うといい。
 政治とは元来、異なる主張、異なる立場、異なる利害をめぐっての凄絶きわまりない戦いである。


 ―と、まぁこのように政治倫理、賄賂や汚職についての考え方をスポーツに対するファールで説明すればよかったんですね。こうすればうまく説明できますね。小沢事件のようなものというのは、デモクラシーというスポーツにおいてまぁ、良く言ってファールに値するかどうかの話なわけですね。
 己が今回の小沢事件を明らかにルール違反だと見るのは、本来フェアな立場・レフリーである検察が後からルールを変えるからですね。たとえばサッカーやバスケットボールではファールをして注意をして累積警告によって退場させられます。そして今回のケースはファールかどうかかなり微妙。でもまぁ、笛を吹くのはわかると。ところが、このファールがかなり微妙でうーんどうかな?っていうくらいのファールにもかかわらず、一発レッドもしくはディスクオリファイをだして、退場させようという明らかに異常な判定を下したから、むちゃくちゃ怒るわけです。
 これは田中角栄のときもそう。彼は極悪非道レスラーのようにいつも汚いプレーをする選手だった。しかし、だからといってそのときのプレーがファールであったかかなり微妙で、しかもほかの選手もしていた、かつもっとひどいことをしている選手がたくさんいた。しかも彼だけに笛がなった。その田中という選手は最優秀プレーヤーだった。だからまぁ大変だった。こう説明することができますね。

 そして、審判がおかしければ、観客もしくはその試合を見たスポーツ紙(一応、本当のスポーツ紙ではなく、メディアの例えのことです)もおかしい。そうだ審判良くやったと。普通では考えられない反応をする。民主主義社会では考えられない反応をする。こういった場合、うーん今回の件はどうだろうか?というスタンスから始まって、冷静に是非を論じて、判断を下せばいいのに、ここぞとばかりにプレーヤーをたたく。この反応は学級会のウンコもらしですよ。いや、一番おかしいのはウンコ行ったことですね。いや、なんで学校でウンコしたらあかんねんって話ですよ。何が正しいかどうかわからず、空気でウンコ=悪として、魔女狩りにする。だから、許せないんですよね。民主主義のかけらもないです。

 だから、己が文部大臣なら、まず排便の自由を確保しますね(笑)。教師はまず、ウンコの自由を確保しろ。ウンコいく自由すら確保できないなら、そういったルールなきルールを変えられなかったら、民主主義社会なんて永遠に得られませんよ。ウンコするなという伝統主義を打破できなかったら、日本社会は永遠に全体主義社会です。ウンコ社会です。「ウンコ社会日本」ですね。

 そしてもうひとつ一番まずいのが政治家をまるで悪徳商業の人間のように、報道すること。いまだかつて授業やテレビで政治家がカッコ良い職業として扱われたことがあったでしょうか?政治家=悪いやつというイメージが植え付けられていること。これは間違いなく日本社会最大の癌ですよね。これで官僚支配に貢献しているんですから、この罪の大きさはゲッペルスと同じですね。

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

*1:旧ブログでは分割していましたが、再掲で一本にまとめました。

*2:共産主義に同情をもつ人びとをアメリカ社会から追放する運動。マッカーシー上院議員が主唱した故に、こう呼ばれる

日本の一九八四年から 政治学と経済学の話

 過去記事の再掲です。元は10/12に書いたものです。

 

 『日本の一九八四年』を読んだ。読んだっていうか、読むこと自体は一週間くらい前に終わっていたが、まとめるのにメチャクチャかかった。いつものことだけど。

 普通、学問の泰斗と呼ばれる人間は、同じ説の繰り返しであることが多い。ご多分に漏れず、小室博士もウェーバーロジック、古代ユダヤ教&予定説(プロ倫→資本主義)とマルクスの疎外ロジックの繰り返しで学説を展開している。あの、おそるべき天皇教、イデオロギー成立のロジックも実はウェーバーロジックの応用に過ぎない。

だから、大抵膨大な著作がある人間でも、その名作といわれる一冊・二冊を読んでしまえば理解するのに事足りる。しかし、小室直樹は違う。彼のおそろしいところはその具体例、説の引用、論旨の展開に当たって用いてくる一つの事例が、モデルがまこと見事なものであることが多い。この一例を知れただけでも、この一冊を読む価値があったというような具体例がいくつも出てくる。

 この『日本の一九八四年』もそうだ。近代学問とは、人文社会科学とは、経済学に端を発する*1。そして政治学とは畢竟その経済理論の応用に過ぎない。近代資本主義=近代民主主義である。ここまでは理解していたが、近代政治学の理論とは、経済がレッセフェールである以上、政治はその経済を邪魔しなければいい。経済万能、古典的楽観論から始まっている。経済が、とことん国民生活を豊かにしてくれるから、政治は黙ってろ。突き詰めてしまえば、ここまで言っても言い過ぎではないだろう(イヤ、それはやっぱ言い過ぎだけど(^ ^;) )。経済学が主であり、政治学は従でしかないのである。
 経済学が主食なら、漬物程度でしかない政治学。だからこそ、政治学というのはろくな実績を残せていないのである。唯一の政治学者が丸山眞男氏で、あとは福田歓一氏か南原繁氏ぐらいではないか?まぁ、己が政治学に疎いのもあるけれども。
 経済学と政治学はセットで見なくてはならない。特に政治学なら経済学を知らずして、絶対に理解できないだろう。というか、経済学の主題、神の見えざる手に代表される予定調和説、市場万能主義の働きを知らずして、問題設定がそもそも出来ないからだ。現代でも食えなくなること、経済成長が低下したことから、全ての政治問題が発しているように、経済問題こそが政治問題なのである。

 ま、ここまで読んでくれない人、読んでわからない人のために簡単にいうと(そんな難しい話じゃないけど)、経済理論からスタートしているから、経済理論の展開次第で政治学は決まるという要素があるわけ。クリスマスデートプランの彼女の意向一つみたいなもの。高級レストランがいいとか、ディズニーシーがいいとか、彼女の意向一つ(笑)。
 それがマルクスケインズによって根底から変わった。何も手を加えるな!から、経済にはある程度手を加えなくてはうまくいかない!ということになった。そしてそれを決める政治が重要になり、政治>経済となって、学問形態の食物連鎖がひっくりかねないような驚天動地の時代に入ったわけだ*2。スーザンストレンジなんかが主張する前から、小室直樹は政治=経済学の重要性を理解・認識し、そしてその発展の必要性を説いたのにはここにある。経済学理解していれば、政治学なんて殆どあってなきが如しだったものが、そうではなくなってしまったのだから。
 ケインズ学か?それとも古典派経済学か?なんて論争はいつでもあるけれども、ここで重要なのはその論争が必然的に政治理論・政治学に直結するということであり、かつ世界中どこを見渡しても、そのとき政治は何をすべきかという政治学が成立していないということである。ケインズ登場以後計量経済学でもなんでもいいが、色々なものが出てきて経済学ははるかに進歩したが、政治学は進歩をしていない(扱う領域が増えてその分進歩したということも出来るのだろうけど)。言い方を変えると、比重が大きくなっても未だに経済学の従のままで方法論が進歩していない。

 『危機の構造』で、己が生まれる前から政治学は政治学で、経済学は経済学で有効なことを言うことは出来ぬ。社会科学、人文科学のありようが根本的に問われている。だからこそ心理学と経済学の橋渡しをいかにして行うか、ということを論じている。小室直樹とは社会学の泰斗ではなく、人文科学の泰斗であったのである。

 Wikiなんかみると川島教授から、氏から教わった法学を集大成させてよと言われたとか、書いてあるけれども、あれほどの天才をせしめて出来なかった。一生をかけて行おうとしたが果たせなかったのは、社会科学の再編・再統合だった。人文科学の復活・Adventであったのだ。であるからこそ、中根教授や富永教授など広範な学問を渉猟して、教えを乞うたのだろう。彼をしてできなかった人文科学の再統合はどこへ行くのか?クオヴァディス。

 本当は書きたかったことと違うけど、なんか長くなったからいいや、またあとで書こう。*3

*1:マキャベリの『君主論』が近代政治学の祖だろう、ソッチのほうが早いだろうーと思われる方もいると思いますが、科学の完成度として政治学よりも経済学のほうが高い。経済学は数学を使える。政治学でも数学的アプローチがないわけではないが、経済学のほうがはるかに範囲が広く、成果がハッキリわかる。そういった点から経済学のほうがより科学的ということ。無論、初期においてはあまり経済学/社会学歴史学/政治学の境界はないわけだけども

*2:まあ、そこまで驚天動地という程でもないか、当時の人ならともかく、今の人間にとってはさほど驚くことではない。パラダイムの転換くらいに捉えればそれで十分かな、今の人にとっては。政治の要素が大きくなったというのは確かだけど、政治>経済とまでは言えないわな。今更だけど

*3:今振り返ってみると何を言いたかったのか?政治学単独ではダメ。まあどんな学問でも複合的な視野、間学問的なことをやらないと有益なものは出来ませんよといういつもの提言ですかね?