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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― <帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 アントニオ・ネグリ

 

ブログ引越し&見直しの再掲です。元は09/12に書いたものです。
<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

 

 帝国論シリーズ第一弾?イヤ、ゼロ弾です。イヤ、だってこれ。国際政治学的な「帝国論」と関係ないですから。むしろ傍流にあるといっていいでしょう。茂木さんが福澤諭吉の学問のススメかなんかで、彼がもし現代に生きていたら何をするか?といった話がありました。そこで学問・アカデミズムの縦割り化、蛸壺化を指摘し、大まかに見て誰が何をやっているかわからないという現状があるということを指摘し。さらには日本の大学は世界的な潮流に乗り遅れている。英語で論文書くことを強要されないからこういうことになると。その中で今アントニオ・ネグリの帝国論が色んな形で世界中で読まれているのに日本ではそういったことが起こっていないという主張がありました。「ほう!そんなにすごいんかと思い、ではいっちょ読んでみっか」と、どこぞのサイヤ人ぽくやってみることにしました。

 結論から言うと、読む価値はありません。というのも己は国際政治学しか修めていませんので、少なくともその知識しかない己には読み解くことが出来ないからです。おそらく作者が多くの先人の名を出し、その理論・概念などを応用して主張を構成、展開しているのでしょうが、それらを修めた政治学もしくは哲学科の人間でないと読むことが出来ないのではないでしょうか?

 全く語らないのもあれですから、一応又聞き、雑誌『現代思想』などの特集からかいつまんだ事を述べますと、国際政治学上で用いられている『帝国』といった用語とは全く違う意味として彼らは帝国という言葉を用いています。彼らが言うにはグローバル化した時代においては既にグローバル経済の確立によって帝国という脱中心的、脱領域的な秩序が確立されたとします。ようはこれまでのように~皇帝、~帝国といった明確な支配者がいないのに、支配されるという現実から帝国と名づけています。このような秩序をこそ『帝国』と名づけ、これまでの歴史では権力を持つ主体者が行使してきた。そして労働者対資本家のように、帝国時代ではマルチチュードという新主体者、あるいは主体者群が帝国秩序と対決していくと説きます。マルチチュードというのは、ハッキリと定義を持ち、1~、2~…といったように説明されるものではない。ただ帝国という秩序に対抗するものであれば、それをいかようにも担いうるという。

 自分たちの理想を、秩序概念をただ述べて、それが誰に、どのように実行されるか詳しく説明しようともしない。なんていい加減な主張なんだ(^ ^;)。投げっぱなしジャーマンばりに投げっぱなしです。foreign affairsのサイトでは、かのアイケンベリー氏が書評を寄せていますが、詳しく解説をするのではなく、これからの未来がどうなっていくのかという考察をする提言的な本というあいまいな評が寄せられていました(^ ^;)、きっと博士も∩( ・ω・)∩お手上げ状態だったのでしょう。

 

 そして池上嘉彦さんというアマゾンの現代思想の編集者の人の解説ですが、

 本書は12年前の湾岸戦争の衝撃から生まれた。それに次ぐユーゴスラビアでの戦争、世界新秩序、そしてグローバリゼーションとその直接の帰結である国内のさまざまな改革について、それぞれ個々の議論はありながらも、ではつまるところ世界はどうなっているのかということについてははっきりした議論はなかった。とりわけ現状に対して批判的に接しようとする者にとって、決定的な理論が出ないことに対して大いに不満だっただろう。

 本書は、そういった不満を一掃させてくれる、すぐれて総合的な世界の見方を大胆に示した書物だ。著者たちは本来の彼らのスタイルである難解な文体を捨て、平明な語りに終始している*1。まず読みとるべきは、ポストコロニアル理論、カルチュラルスタディーズ、H・アーレントマルクスドゥルーズスピノザ等々、今まで別々に語られてきた批判理論のほとんどすべてが検討され、個々の理論がお互いどう結びつくのかといった、われわれの疑問に彼らはみごとに答えている点だ。しかも単に図式を描くだけでなく、「内在平面」とかバイオ・ポリティックスなどのキーワードを駆使して、世界の変化がわれわれ個々人の内面といかに密接に関連しあうのかを示していることも、本書の類まれな特徴の1つだ。単なる教養の域を超えて、日常の葛藤から世界認識までを描いているのだ。

 この書に対して、アメリカの位置づけをめぐって批判が世界から噴出した。また頻出する「マルチチュード」という言葉に対して、具体的に何を指すのかについても曖昧(あいまい)だという弱点はある。しかし、ともかく彼らは強力な図式を提示し、われわれを豊穣な論争の世界へ誘っている。現実が見えなくなったとぼやく前に、ぜひとも読まれるべき本だろう。

 現状に対する決定的理論?不満を一掃?平易な語り?アーレントマルクスドゥルーズスピノザ、今まで別に語られた理論が結び付けられる?個人の内面と世界の変化?といぶかしがらざるをえない説明が満載です(笑)ちゃんとした政治学・哲学が分かる人が解説してくれればもっと分かりやすいかもしれませんね…。正直政治学にせよ、哲学にせよ現状の問題や変革を説明するのに古典を無駄に引用する人、難解な用語をこねくり回すイメージがあって好きではありません。優れた政治学者って丸山真男さん以外にロクに見たことがないです。あ、福田歓一さんいたか。お勧めの政治学者さんいたらゼヒ教えてください。m(_ _)m

 左翼の代表的理論になるのでしょうか?E・H・カーさんも政治学の中で現状をただ対症療法として説明するのではなく、予防療法としての学説を説くこと、それ自体が世界の現状の危険さを説明することで人の心を変えることで意味があると説いています。例えばマルクス貨幣論がなければ、さらにレーニンの帝国、資本主義論がなければ世界は今のような動きをしなかったでしょうし。ですが、この書がその二人のような重要な学説・現状分析をしているのでしょうか?少なくとも己はそのようなことになるとは到底思えないのですが…。逆説的に、この書の内容が広がって、人々がこの書の言うような理論を推し進めるような行動をとれば、歴史が動き、名著となるのでしょうが、それが果たして起こるのかどうか?歴史がそういう風に進んだとき初めて本書は評価されるに値します。そのような日が来るとは己には到底思えませんが。

 

注:なんか、全然違ったっぽかったので修正しました。ロクに知りも知らない本を取り上げるべきではないですね。やはり(´-ω-`)*2

 

 今見なおして思うのは、リチャード・ハースの無極nonpolarityの話なんかにあるように、冷戦以後の世界秩序を見失って定義付けしようとして上手く行ってないってことですかね。「冷戦」という言葉がいつの間にかこれがベスト!という認定をされたようには、今の国際秩序は名付けられることはないんでしょうね。「グローバリズム」・「米一極時代」、「グローバリズム」は未だに不変ですが、「米一極」は「テロリズム」・「テロリスト」によってあっさり崩れましたし「グローバリズム」「格差」「テロリスト」そこら辺くらいですかね?国際秩序・情勢を説明されるものとしては。EUの停滞とかロシア・中国の冒険とかありますけども。

 結局、「米が太平洋戦争で日本に勝った!悪を倒した!これで安心、平和になる!」―なんていう国際秩序・情勢をまるで理解していない感覚でいたように(それで朝鮮戦争・冷戦を招くわけですが)、「共産主義陣営を倒した。あーよかった。これで平和、平和~」と思って米=最高・素晴らしいなどという馬鹿丸出しの態度でいたことが全てではないでしょうかね?。

まあそれは国際政治学者の話であって、この本は冷戦崩壊でアイデンティティを失った人々の弥縫策的なものなんでしょうけどね。

*1:本当でしょうか?

*2:今現在、まったく聞くことがなくなりましたね。この本ピケティの主張みたいに、より格差が問題になってきたからそちらに主眼が移ったということなんでしょうかね?