てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【三国志ノート】 三国志巻3から抜書き 後編

ラスト、あ~長い(´-ω-`)

【後編】

 p407、下邳の桓威がコネなしで身分低いのに、道家の教え・渾輿経。これだけなのになぜか急に名前が出てくる。よっぽどめずらしい話だったのか?

 p408、曹丕を太子に押し上げたブレーンと目される呉質。最も興味深い四友の一人。上手く動き回ったというから曹丕だけではなく、その他の王子とも上手く付き合ったんでしょうね。曹丕からラブレター送られる親密な仲ですね。南皮の遊はこれが初出かな?儒教価値観に加え、新しい文学・価値基準が導入されるとう明確なスタート地がこの会合ですね。新党旗揚げみたいなインパクトがあったのは間違いないでしょう。徐幹・陳琳・応瑒・劉楨への思いがつづられています、まあやはり単純に七士全員曹植絶対ではないでしょうね。

 p411、その南皮で唯一生き残っているのが三人で、ちゃんとした待遇がされていないのが呉質だと、まあ次ぎお前を引き立てるぞ!って言いたいんでしょうね。曹真・曹休もこの会合に参加してます。呉質はなんで郷里から士として認められなかったのか?ションベンぶっ掛けたいということを同郷の董昭にたしなめられています。

 p413、痩せている朱鑠と太っている曹真をからかう芸をやって、ケンカに。このとき王忠と曹洪がいますね。王忠が曹丕と親しかったってどっかで見た覚えがあるなぁ?どこだっけ?まあいいや。曹洪はちょいちょい出てくるな。最初っから敵対する可能性がある人間というよりはむしろそこそこいい関係だったのが後悪化したのかな?

 230侍中、親司馬懿・反陳羣、醜いふるまいがあったとして謚でもめていますね。しかし醜候はないわ。露骨すぎるだろ。

 p415、衛覬―袁紹戦争のときの劉表をけん制するための劉璋への使者。関中でこれ以上いけないとストップ。じゃあ劉璋使者は行かなかったことになるが、劉璋劉表を牽制しなかったのかな?四方から避難民が関中に流れ着いている。塩だったり、牛だったり民生安定策を上奏。司隷校尉に任せるべきといっているが、このときの司隷校尉って鍾繇だったっけ?

尚書・侍中で王粲とともに制度作りに携わり、禅譲詔勅文を作ったと。建国の功臣というわけですか。

 p417、張魯征討は口実で、関中から人質をとることが目的だった。荀彧・衛覬は彼らは流れの小物だから爵号を与えればそれで済むとしている。しかし鍾繇ら強硬論を中心に結局実力で叩く方針にしたわけか。んで死者五桁、衛覬を以後尊重するようになったとある。

 反対意見のものを重用するのは良くあることだし、そのまま受け入れるのはどうかと思う。それはそれとして、強行策に討ってでなければならなかったか?赤壁で敗れたことで、それくらいじゃあ納得できねぇよ、もっとくれ!と要求のハードルが敗戦であがったか?あとは劉備がもう入植して居つくことが目に見えていたから、なんとしでもいち早く蜀を抑える、そのために懐柔→即入蜀という手段は取れなかったしね。軍事勢力根絶しないと怖くて蜀入りなんて出来ないからね。まあ、劉備がいる時点で軍事的に叩く基本路線は変わらないでしょうね。10ヶ月だっけ?かかったの。そんなにかかってちゃあ、蜀攻めは出来んなぁ。当初の計画ではどれくらいで片をつけるつもりだったんだろうか?それとも西域を一刻も早く確保する方針だったのかな?

 p420、潘キョク(九爵の文章を作った人)は一巻と二巻に出てた?まあ、記憶にないな。王象は④巻か。まあ次回チェックね。この二人と並んで衛覬は名声があったと。

 p422、劉廙(りゅうよく)、兄と劉表の下にいたが兄が諫言して処刑。南陽の彼といったいどんな政策対立があったのか?兄劉望之を殺したことで確実に荊州人士の評判は下がったという。荊州学とかそこらとなんか関係あるのかな?

 p426、孫権劉備袁紹とは比較にならない。ここで初めて文で袁紹>越えられない壁>>孫権劉備としっかりかかれました。辺境の要衝で一年ごとに任務交代、十年は内政を充実させよという提言。曹操はこれをほめており、曹操の天下統一より魏建国を重視する方針と合致する。他にも色々言っている人はいるんでしょうけど、ひょっとして彼がその中心かもしれませんね。統一<安定or民政重視政策。

 p428、弟劉偉が魏諷の乱に参加。魏諷ってまるで情報がない。これほどの重臣の一族が参加した大反乱なのに、彼の正体が一切わからないって凄いよな。ものすごい気になる。こういう凄い人間たちに関係できる、首謀人物になれる時点で何らかのエリートであることは間違いないんだが…独自の列伝がなぜ立てられないのか?やっぱり丁兄弟みたいに反乱起こしたものは史料毎抹殺かな?別に丁兄弟は反乱ではないけど。

 p430、一年ごとに調査、三年ごとに昇進・降格などの人事制度を進言、そして認められる。人事制度に深く関与したわけですね。九品官人前の基準になったかな?

 p433、劉劭『皇覧』新律十八篇『律略論』、公孫淵討伐論を却下。趙都の賦、また許都の賦、洛都の賦を作る。これには風刺の意があった。合肥を囲まれて、満寵の呉を叩きたいという提案を、補給を立てば自然に包囲は解けるとして却下。明帝時代のブレーンというわけですかね?『都官考課』これは官位制度に対するものだろう『説略』はなんだろ?で、意外と重要な音楽に関する『楽論』また『法論』『人物志』などもありですか。

 p438、仲長統を起用せずに失敗した并州刺史高幹。文人として名が伝わっている人―。蘇林、①・②に出てきているなぁ。見落としたかなぁ。記憶にない。④(p148)に彼と秦静の学問が伝えられなくなることを懸念して、学問を伝えさせろという詔勅があります。まあ優秀な学者でしょう。当たり前か。韋誕は楊阜に袁紹曹操の説得、鍾繇とともに馬騰韓遂の和睦を仲介した人ですね。夏侯恵・孫該・杜摯。夏侯恵以外は名前だけか。韋誕は父が太僕なんで、二世九卿ですか。衛覬・邯鄲淳と並んで書に名声。書にしろ、詩にしろ、行政能力と殆ど同義語ですね。

 p440、邯鄲淳は古文字復興に取り組む。秦の李斯・扶風の曹喜をまねて確立した。正始年間の三字石経のときすでに邯鄲淳の書法は失われていたと。この石経はロゼッタストーンみたいに古文・篆書・隷書の三つが書いたものみたいですね。韋誕は邯鄲淳をまねして、また蔡邕が同じく秦の李斯・扶風の曹喜をまねたとあります。で、やはり筆法・新文字といえば我らが霊帝の鴻都門学ですから、梁鵠あと張兄弟ですね。太字は師宜官、小字は邯鄲淳、邯鄲淳は王次仲の書法をものにしたと梁鵠は考えていたみたいですね。王が誰のことか知りませんが。邯鄲淳が頴川だし、斉とかにもうまい人が三人ほどいるし、書の技術が独占される傾向とかあったりするのかな?関係ないか。韋誕とか西の仏教の経典とか受けて、そういう文字に触発されて、新しい文字を開発しようという動きは考えられないかな?邯鄲淳なんか間違いなく仏教の影響を受けているだろうし。注に梁鵠は師宜官に学んだとかいてありますね。

 p443、神童胡康、譙の人使って結局失敗。彼に対してこれは孟康の誤りではないかと裴は指摘。

 

 p444、傅嘏―めずらしい北地郡出身。陳羣の掾で前述の劉劭の勤務評定に反対。九品の陳羣の主張と同義だろうから、郷里秩序に基づく人事基準の主張であり、劉劭はやはり国家主軸の人事基準を作ろうとしたのだろう。古の制度に基づくといっても、そんな実態わかるわけないと主張している。つまりは古を口実に新制度を作ろうとしたわけですね。

 p446、この傅嘏が曹爽・何晏・鄧颺と敵対していますからもう確定でしょう。河南尹司馬芝→劉静→李勝、それぞれ大まか、細かい、恒常的な規則を廃した統治。やっぱり李勝はマイナス評価。河南出身のものばかりが任用される。そして彼は二人一組、つまり半分は河南出身者で占められるとある。首都なのにこんな偏重任用でいいのか?この偏重こそが晋成立のカギか?

 p449、例のごとく南征強硬論に反対して、簡単に退けるだけ。

 p456、儒教的価値観の人物かと思えば、才能と性格は一致しないという主張。どうやら一筋縄で分類できるほど甘くないか。毌丘倹・文欽の乱に太尉の司馬孚で十分という声を退け、彼と王粛だけが司馬景王が自ら行くように主張。そしてこの鎮圧の中心となった。司馬景王が死ぬと文王と共に都入りか。五等爵で子爵。まあ建国の功臣ですよね。

 なんでしょう?この伝から基本文帝の重臣ということになるんでしょうか?名士だったり、パパが有名だったりという人が目立つかな?んで、子にもその地位が受け継がれる存在。

 p464、桓階―長沙の人か。孫堅に孝廉推挙で、劉表と戦って戦死したとき、死をとして、孫堅の遺体を貰い受ける。んで曹操袁紹が官渡でぶつかっているとき、張羨を動かして南部三郡を動かして劉表の背後をついた。彼を処刑するどころか劉表は彼を従事祭酒として招き、妹の妻子と娶わせようとした。彼は南部で名声があり、祖父・父は州郡の長官、父桓勝は尚書もやってます。で出仕拒否。後に曹操南下で丞相掾主簿ですね。孫堅(呉)サイドにも、曹操サイドにも好ましいというのはいたっけ?とにかくここまで両方からポイント稼いでいるのはあんまりないのではないでしょうかね?

 曹丕を支援し、丁儀からのマイナス申告された人から守る役目をしていたと。曹操関羽戦争で直に参戦するのを止めていますね。信じろ!信じろ!って。まあ、襄陽落とされたとかならまだしもね。一段階早い気がしますよね。

ま、当然、曹丕に重用され、腹心。尚書令・侍中、病後太常。彼の一族は晋にいたっても名を残しています。

 p467、頴川陳氏の件の陳羣さんです。彼の一族は有名なんでいいでしょう。孔融が傲慢だと記されていますね。孔融に評価されて有名になった。彼が人物評価の中心だったのか?そんなことしなくても勝手に有名になりそうなものなんだが?

劉備豫州を支配して(刺史?官位あった?)、そのあと陶謙にまねからて徐州入りをしているとありますが、豫州のまあ一部なんでしょうけど、徐州で曹操および袁紹と戦ったとき徐州の現地でなく、豫州で戦っていたのか。まあこの地を叩くことというのが重要ですしね。劉備は対豫州攻略のスペシャリストみたいな役割を期待されていたのでしょうか?曹操についてからも一時豫州でしたし。あれ豫州牧は名前だけだっけ?任地は行かなかったかな?

 興味深いのはこの時点で袁術とぶつかるから止めとけ―はそのとおりで説得力ありますが、呂布に背後から突かれるという指摘ですね。この時点で曹操と対決している呂布がなぜ背後をつくのか?どういう予見をしていたのか?かなり気になるところ、曹操に敗れた呂布が徐州落ちするというのが彼の中では確定事項だったのでしょうか?そう予測できる理由が背景にあるわけですからね。

たまたま呂布が敗れて司空西曹掾属とありますが、どうしてこれがたまたまなのか因果関係がわからないですね。

 p470、肉刑の議論。陳羣鍾繇は賛成。王朗が反対。ムチ刑は結局死ぬから廃止して肉刑にすべきだという主張。

 曹丕の太子だったとき、彼から顔回になぞらえてますね。司馬懿・呉質・朱鑠・陳羣が太子四友ってのは晋書の宣帝紀ですね。蕭、賛、長平の令→父の死で離職→司徒掾→治書侍御史→参丞相軍事→魏の建国で御史中丞。エリート丸出し?→侍中になって、丞相の東西の曹掾を配下に。尚書僕射兼侍中→尚書

 そういえば陳羣は鮑勛を推挙し、司馬懿と共に鮑勛をかばったが許されませんでした。司馬懿はまあ庇っただけにしても陳羣はどうして彼を押し上げたかったんでしょうね?曹丕はこいつだけは絶対に許さんと執念を見せて処刑していますね。まあ、名前が漢時代からある名家ですし、曹操を押し立てたというより、実際は曹操が鮑信を支持していたという形なんじゃないかという気もしますからね。

 孫権討ちで広陵に出るとき、陳羣は中領軍を兼任。帰還するとき、節を与えられて水軍を統率。許昌に戻ると、鎮軍大将軍、これは中護軍と兼任で、尚書の事務を取り扱った。なんだろ?前半はともかく後半が良くわからん。まさか大将軍って漢のそれじゃないだろうし、中領軍と中護軍は何が違うのか?軍制もそうだし政治制度もなんか大きく変わったのか?録尚書事じゃないのはもちろんだけど、事務を取り扱ったってなんだろ?微妙だなぁ。

 文帝が急に病に倒れたとき(226)、陳羣・曹真・司馬懿が後事を託される。司馬懿・晋に移行するクーデターの前に文帝→明帝の権力継承のときのこの三頭体制にも注目しておかなくてはならないな。チェックポイントですね。で、曹叡の時代になると陳羣曹休・曹真・司馬懿の四人が開府を許されてますね。でしばらくして、司空。尚書の事務そのまま。他の三人との区別がわからないので、アレですが、明帝は即位後しばらくはこの四人に任せて実権は殆どなかったでしょう。いつ主導するようになったのか?まあ、そんなに四人に掣肘されるような環境には思えませんけどね。四人も開府して権力状態はどうなっていたのか気になるところ。

 初めて政治を執るときには彼が上奏して当たり前の徳を高め、教化をして、庶民に恩恵をとか、反抗期の息子が聞いたら、お母さんに逆切れしそうな小言を言っています。こういうことをチクチクいえるということ自体、彼の権力・権限の大きさを想定させますね。

 p472、曹真の蜀攻めを却下。そして彼を帰還させるべきだとして、明帝はそれを受け入れる。このとき権限はどうなったのだろう?ただ還されただけか?というか陳羣の意見・軍事費かかるというのを曹真に伝えさせたのに、なんで彼は出発してるんだろ?長雨理由で帰らされてますけども。明帝は結構賛成派だったけど、ここにきて陳羣の反対論にこうしきれなくなったというところかな?太祖の例をあげて張魯ぜめだけで豆と麦は降伏する前に尽きたといってましたが、これ本当か?攻めれば輸送が続かず、奪われるだけ無駄。守りが危なくなるという理屈からの誇張表現、話し盛った?杜畿が20万石供給してたじゃん。あれは関中攻めで尽きたのか?

 皇女が死んだときの彼の上奏を見るとかなり手厚い葬礼を行ったように見えます。まあ、ここら辺が二代目・三代目の宿命なのでしょう。このケースはもっと注目されるべき事象でしょう。八歳から下殤というらしいです。この年齢以下で死んだものにはそれなりの葬礼をするんでしょうね。しかし彼女は一歳足らず。前例無いこのような葬礼は辞めるべきだと主張しています。流石葬式宗教。どころか許昌にまでいくなんて!と最近の若者は信じられないというカルチャーショック振りですね。天子と皇太子さらに役人まで連れて行くなんて!と、あなおそろしや状態。このとき皇太子決まっていたんですね。彼のための権力スペース・手段の確保かもしれません。ここら辺で新宮城建設計画をたくらんでいたとしか思えないなぁ。どうしてもやるというなら金墉城の西宮と孟津の離宮をやりなされって言ってますしね。摩陂はともかく許昌とかそこら辺に万一の根拠地を確保しようとした。そしてそうされないための拡張されても皇室権力拡大に繋がらない金墉城の西宮と孟津の離宮っていう構図じゃないかな?

 太子の曹叡が文帝の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取りやめさせたと文帝紀の『魏氏春秋』にありますが、このことが絡んでいる可能性は大きいでしょう。

 p474、で例の土木工事を諌めていますが、明帝はこれは蕭何の事業。陳羣は蕭何は武器庫や食料庫で必要なものだったと主張していますね。んで計画を多少小さくしたと。陳羣は農業の負担が大きいといっていますが、農業分野の既得権に何か触れるものがあったのか?屯田兵制が縮小され、典農校尉あたりの既得権削減とかに繋がったか?

 p476、奢侈と倹約で揺れるのは蕭何の責任とか。まあ投じの人間の歴史観をよくあらわしていますなぁ。時代によって移り変わるものと自分で言っているのにね。まあ仕方ないことですけどね。魏諷の乱で、劉廙が連座したときに彼が罪免除を進言していますね。曹丕に近い彼がそれを切り出しているところがあれでしょうかね。国家のために行ったことだし、名君の判断だといって恩に着せなかったことを賞賛してますけどね。明らかに法律違反ですからね。まあむちゃくちゃですね。史書の価値基準なんて(笑)。

 張郃の死を惜しみ辛毗に非難され、崔琰の死を当然だとするその距離感から何かわからないかな?九品官人法といいまあ、研究するのに一本論文かけるくらい重要な人物でしょうなぁ。己が知らないだけなんでしょうけど。宮崎さんは地元豪族の恣意性を排した、国家の意志をそこにおくシステムと見ていますが、彼の場合どこまで国家の意志を反映させようとしたシステムだったのか?名家・名族の彼が作ったことでわかるようにおのずと限界がある気がするんですが。

 んで、息子の陳泰。名家潁川陳氏は、荀氏や司馬氏と古くから付き合いがあったと考えられていますが、それがどれくらいなんでしょうね?司馬氏はずっと前から名家ですけど、荀氏は三代くらい前しかわからないですし。例の一族の史料みたいなのにやっぱり10代前くらいからの記録があったりするのかなぁ?ないなら基本的に新興と考えたほうがいいと思うのだが。

 青龍年間、散騎侍郎→正始年間、遊撃将軍、并州刺史・振威将軍。後、護匈奴中郎将(異民族から畏敬)。貴族からの奴隷売買を拒否。まあ、こういう行為が一般的なわけで、後に災禍を招くことになります。自業自得ですね。中央に召喚されたとき、これは賄賂になるのか?それを返しています。確か奴婢の購入とか、それを持つというのは何らかの制限があって、それに違反することになるのから、グレー的なところがあるのかも?ちょっと気になるところですね。尚書となって初めて返した―とありますが、この尚書になってからというのは何か意味があるのでしょうか?最初っからもらわないですぐ送り返せば良いような気もするんですけどね?なんでだろ?

 嘉平年間の初め、雍州刺史・奮威将軍。大将軍姜維の麹山に二つ築城&侵攻作戦を跳ね返します。陳泰いわく、蜀から麹までの道が険阻で兵糧輸送難しい。さらにその輸送の労役で羌族の人心を得ていない。麹城への運送路と水路を断って兵糧攻めを行います。いわゆる攻城戦ですね。包囲して補給遮断、救援待ち。まあカードの切りあい、めくり合い。こういうのは大抵先にギブアップしたものが負ける=弱小国が負けやすい。だからこそ千早常みたいに長期籠城で絶対負けるはずのない戦いが逆に強大な幕府をひっくり返すような戦いになるわけです。まあ、でもこんな守りづらいところに千早城の作戦をやるしかないんですから、もうどうしようもないですわな、蜀は。

んで、予想通り、長期籠城。姜維は牛頭山に出てきて陳泰と対峙。本来なら城と挟み撃ちだけど、根本から戦力が違いますからね。逆に陳泰が姜維の退路を断ってきます。当然逃げるしかなくなって、麹城は降伏。結局何がしたかったんだろ?姜維は?陳泰・郭淮とのガチンコ対決

 郭淮が亡くなると、陳泰が征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事、この方面の責任者になります。姜維夏侯覇の祁山・石営・金城の三カ所攻めで、雍州刺史王経の三つの軍それぞれで迎撃する提案を、陳泰は三つの街道全てを進むことはないと判断した(なんでだろ?単純に数が少ないからかな)。また兵力の拡散を防ぐべきだと考えた。そこで、王経を先発させて狄道に駐屯させ、陳泰率いる本軍が陳倉を通っての挟撃作戦に出た。ところが、王経の軍は古い関あたりで蜀軍と鉢合わせし、その混乱で大敗。狄道城に一万で籠もり、姜維に包囲されてしまう。陳泰は、王経が狄道を固めていないことから変事を察知し、急遽進軍。上邽に本軍を駐屯させ、鄧艾、胡奮、王秘らの援軍と共に隴西へ進軍した。

 鄧艾いわく、四万のうち三万を失う大敗。ここは狄道を捨ててでも、隴西を鎮撫すべき。つまり最小の被害で押さえましょうという消極=現実策ですね。陳泰は姜維が更に東進して、四郡(隴西、天水、南安、略陽)や関・朧を攻略、櫟陽の食を抑えて、羌や降伏兵を用いたなら脅威だ。しかし、今、姜維は城攻めを行っている。それならいけると判断します。軍を狄道城へ進めた。夜半に狄道城の東南の山へ登った魏軍は、盛大に烽火を上げ、太鼓と角笛で援軍の到着を知らせた。狄道城の将兵は大いに鼓舞され、逆に蜀は魏の予想以上の速攻に驚き、戦意を喪失した。姜維が撤退した後、王経は陳泰に援軍があと十日も遅れていたら、狄道城だけでなく一州が陥落したでしょうといった。

 裴注は何で急にきたんなら三日も伏せていたんだ?おかしくね?と言っています。なんか書き換えられたのかな?まあ姜維もどこに食があるとかしらなかったんでしょうね。だからとりあえず囲んで落とすくらいしかなかった。軽装兵で囲むし、食もまた繋がらないし。重要なのは職を奪うことなんですが、まあ相手も奪われたら困る、相手にチャンスを与えるから、そんなことは絶対無いようにしますからなぁ。いつもどうして、ここで最終決戦一か八かを挑まないか不思議ですが、そもそもそれ自体無理ですからね。食がないから。あと姜維は漢中ではなく涼州に逃げていますが?なんでしょうね?ゲリラなわきゃないし。もうほとんど半独立状態で勝手に動いていたんでしょうか?劉璋のときの張魯みたいな感じですかね?

 中央に戻って、尚書右僕射、官吏の選抜担当&侍中光禄大夫の官位を加えた。呉の大将(官位?単に指揮官って言うだけだよね?)孫峻が淮水・泗水の地域進出時、陳泰が鎮軍将軍・仮節都督淮北諸軍事。徐州の監軍以下は陳泰の指揮下に入る。孫峻が退くと帰還して、尚書左僕射。この右から左は単にちょっとした出世だけか?軍権はもうないよな将軍のランクがそのままなだけで。

 諸葛誕が寿春において反乱を起こすと、司馬昭は全軍をひきいて丘頭に陣を置き、陳泰は行台(尚書の臨時出張機関)をとりしきった。260年、陳泰は逝去し、司空を追贈。高貴郷公の殺害事件で、賈充を殺すよりほかありませんという話は信用性が置けないといわれるようにかなり、うそ臭い気がしますね。太常になったことはないと裴もいってますし。

 p486、陳矯―広陵陳氏です。しかし頴川陳氏だとか、下邳陳氏だとか。陳多くないっすか?袁術は本来なら陳を国号にするところ。それを拒んだのはこの陳氏の多さにあったかもしれないですね。陳トライアングルに思いっきり囲まれてるのは単なる偶然なんでしょうか?

 で、陳登の友達ですけど。よく考えると陳登ってもう一人の孫策ですよね。書いたっけ?これ?もし孫策と立場をそっくりそのまま入れ替えても話・物語は変わらないでしょう。彼は軍事に・農事に両方こなしてますから、相当評価が高い人物ですね。劉備○で呂布×というのが気になるところですね。まあ、お仲間サークルに入っているかどうかということなんでしょうけども。孫策袁術も拒否して、陳登につきます。そして許の曹操とのパイプ役になりますね。

 陳矯に評判を尋ねると傲慢だといわれて、陳登は徳・品行で陳紀兄弟。礼にかない法がある点で華歆。見識・義心がある点で趙昱。見識・記憶力で孔融。傑出した雄姿・王覇の才略で劉備(劉備は容姿が優れていたのか?それとも武人としては良い外見だったのか?)を挙げて、尊敬している者がこれほどあるのに、どうして驕慢になることがあろう―ここまでなら、それでいいのに、「余人は小者」と余計な一言を付け加えています。この優れた人物を挙げるときの四人、陳兄弟だから五人。その関係性が気になりますねぇ。まあ、劉備だけは明らかにあとから加わったものでしょうけど。

大勢の意見に反して曹丕を争乱の元を断つため天子の命を待たずに魏王に即位すべきだとした。建国の功臣になったわけですね。

 p490、魏氏春秋に徐宣が彼を劉氏出身なのに、母方の叔父の家をついでまた劉氏の妻を娶ったことをもって非難しています。これは面白い例。というかこれ、曹操のケースと全く同じじゃないか?まあ、曹操は親が異姓養子なだけで娶ってはいないのだが。しかし陳矯を非難することはそのまま曹操に跳ね返ってくるわけで、徐宣は自分の身を危うくしていることに気づかなかったのだろうか?異姓養子といった現象などそんなにめずらしい例ではなかったと見ていいのかな?特定の地域や下層では。200年以前のことは混乱で風俗が乱れていたから罪にしないと曹操は布告しています。

 ちょっとした細かいことですが、薛悌。彼と仲が良かったと記されていますね。この日と面白いですね。普通関係のある事件や場所に集中的に散見するものですが、彼だけはなんか意味があるような、ないような良くわからない形で散見します。呂布との兗州で程昱と守ってたり、王思と一緒に低い身分から出世した人として名前がでたり、冀州平定時、王国とともに左右の長史になったり、孫権合肥攻めで護軍で、曹操の討って出ろという方針を張遼たちに伝えたり、高堂隆伝で出てきたり。決して派手で、重要な人ではないですが、地味に地味に名前が出てくる面白い例ですね。まあ間違いなく任務を着実にこなして性格が良くてしっかり仕事をこなすから、曹操や重臣から信頼があったんでしょう。兗州従事、泰山太守ということは青州兵や泰山兵にもかかわりがあるかもしれないですね。陳矯が郡の功曹の時点で泰山太守だった薛悌と交わる台詞、二千石とその下の役人が交わりを結ぶなんてめったにないということですね。しかし隣国の君主が陪臣に屈服するとは誰を揶揄したことなのか?曹丕が即位して関内侯の爵位を授けた時の「薛悌はまだらな官吏、王思・郤嘉は純粋な官吏」というのは、前者が儒教的に清濁あわせのみ、後者が厳格に法を適用したという意味だとググッたらありました。明帝曹叡の景初元年(237)五月に陳矯に代わって尚書令ですから完全に抜かれてますね官位。太守とか鄴の都尉とかいろいろ回った結果の業績もあるのでしょうか?まあいずれにせよ陳登死後の曹操の招聘に応えたときからなんでしょうね。彼が死ななかったら、曹操に仕えなかったかもしれません。

気になるのは明帝が尚書の文章をじかに見ようとしたのを跳ね除けたこと。明帝がどうしても口出ししたかった問題とはなんでしょうか?例に漏れず彼の子孫も将軍ポストを占める権臣となって晋に続きます。

 p492、徐宣も広陵の人ですね。同郷なら陳矯と仲良くしろよと思いますが、彼に一歩出世遅れているのがねたましたかったのでしょうね。妬みキャラですね。曹操死後で動揺するのを防ぐためある人が言った譙・沛に全部代えちゃいましょうといった。発言を却下しています。徐宣にしろ陳矯にしろ、広陵の出身者を重用することで対南をにらんでいることがわかりますね。曹丕は蜀とか西方より、南への意識が高い気がしますね。ちょっとそれを頭に入れて今後もチェックしましょう。

 御史中丞・関内侯→城門校尉→一月後で司隷校尉→散騎常侍。広陵で文帝の船が横転したとき、徐宣は真っ先にかけつけたことをもって尚書。明帝の時代に中領軍の桓範の推薦で左僕射→兼侍中・光禄大夫。明帝の許昌行幸で、留守。中尚方の事件で減刑を、宮殿建設を戒めた。この辺彼の尚書文章は自分と同じと信頼されているのと矛盾しますね。後年になるとやはりうっとおしくなったということですかね?徐宣引退を申し出るのを慰留したのは心からか?それとも表面上か?中国の人事は慰留なしなんてありえませんから。236年に没し、車騎将軍を追贈、三公の礼で葬られた。

 p495、衛臻―陳留郡襄邑県の人。いわずとしれた衛茲の子ですね。欠かさず祀るのは典韋と鮑信と彼くらいだっけ課?夏侯惇が陳留太守で衛臻を計吏に。ある時、夏侯惇は夫人を酒宴に呼び寄せようとしたのを、衛臻は道徳に反する行為だとしてこれを拒絶した。夏侯惇は腹を立て衛臻を拘束、後に赦免。曹丕に、呂布に、夏侯惇と三つ目のケースですね。嫁を見せる(あるいは見せよ)当然このとき宴会で衛臻の妻だけではないはずですから、殆どの妻参加のパーティー、アメリカの政治パーティーみたいな感じ?だったのでしょう。重要なのはこのように女性参加の宴会、女性が前に出てくるようなことが家族・社会制度の変化とは無縁ではないわけで、それがいったい何を意味しているかということですね。まあ、まだ例が出てきそうな気もしますが。

漢の黄門侍郎、勅命を受けて、貴人を迎えるため魏を訪問。これは曹操の娘かな?魏政権確立後だろうし。曹操は衛臻を留め、上奏して丞相軍事参与。および関内侯→戸曹掾。

 曹丕が王位に就くと散騎常侍→帝位に就くと安国亭侯。曹操期以来の群臣達は魏を称え後漢を貶したが、衛臻だけは禅譲の徳義を理由に後漢の徳を称えた。文帝はこれをよしとして、山陽公と同様の扱いをする。彼がある種の献帝の代わり?代弁者?で、尚書→侍中・吏部尚書

 文帝の広陵遠征時、中領軍代行。征東将軍の曹休が、呉の降服者より入手した孫権の動静を偽りと見破る。

 曹叡の時代に、康郷侯→尚書僕射(官吏の登用を担当)兼侍中(はそのまま変わらず)。諸葛亮の天水侵略(北伐)に衛臻は糧道を断つ進言。征蜀将軍・仮節督諸軍事で、長安に抑えとして向かう。長安に着いた頃にはもう蜀軍が撤退したため、そのまま帰還。帰還すると元の職に復帰し、光禄大夫。

 でまたしても宮殿造営を諌める人に。また、殿中監が勝手に蘭台令史を逮捕する事件があるけれども、この事件が明帝にとってのなんかターニングポイントかな?コントロールしきれないというかなんというか。殿中監を厳しく追及、明帝の干渉を撥ね退けると。

 再び諸葛亮が斜谷に。また征南将軍から、呉の朱然が荊城を通過したという情報を陽動と見抜く。孫権は朱然を居巣に呼び、合肥を攻撃。明帝の親征は諸葛亮に同調のポーズだけ、また合肥は堅城だから親征せず軍隊の費用を節約すべきだと論じた。果たして明帝が尋陽に来たところで、孫権は引き上げた。

 また後に幽州刺史の毌丘倹が上奏し、遼東の公孫淵征伐を求めた。衛臻は無謀であるとして反対。毌丘倹は兵を動かすことを許されたが、失敗。

 そして司空→司徒。曹植の寵臣である丁儀は衛臻に結託することを求めたが、衛臻はこれに応じなかった。で例の曹丕の曹霖寵愛の話が出てきます。衛臻に対して、平原侯となっていた曹植について尋ねた。衛臻は曹植の徳について称えるも、決して曹霖のことは話さない。曹丕にとっては曹植を外して曹霖を輔弼・次期皇帝路線を探りたかったですが、これにて失敗というわけかな。曹爽の夏侯玄経由の衛臻の派閥へのお誘い=尚書令兼務&弟に娘を嫁にという誘いも衛臻は乗らなかった。どこまでも既成秩序に忠実な人だったわけです。晋のクーデターはクーデターというより保守反動でしょうね。衛臻は引退を求め、一区画の邸宅と特進の待遇を与えられ、三公並の恩給。死後、太尉の官を追贈。徐宣も広陵の人ですね。陳矯に比べずいぶんあっさり引退認められていますね。で、また子供たちは残るわけですね。孫は晋で二千石クラスか。まあそこまでの門閥ではなかったのでしょう。

 p501、盧毓―いわずとしれた盧植の末の息子。劉備と同じ琢郡ですね。五官中郎将の曹丕に召し出され、崔琰の推挙で冀州主簿。この時代、逃亡兵は妻子も連座して死刑だった。ということは逃亡兵はどうしようもなくなるわけですなぁ。家族を捨てた男はいくらでもいたんでしょうか?まあ家族なく一人で生きていけるほど甘くはないでしょうけど。呉とか蜀に逃げ込みそうだな。白という逃亡兵の妻が結婚して数日でも死刑を求刑された。盧毓は『詩経』『尚書』などの古典から反対曹操は盧毓の主張に感嘆した。続漢書盧植張譲を泣いて土下座させたって話はうそ丸出しですね。大体なんで、宮殿から逃げ出すところを止めたのに、その後皇帝と一緒に逃げられるかって。つじつまがあわなすぎでしょう。

 曹丕が魏の皇帝となると、黄門侍郎→済陰の相・梁・譙の太守。譙の屯田充実により、故郷の強化策に反対。よって飛ばされる。譙は土地がやせているから、譙をやらずに、梁をやっていますね。こういう人たちはたいてい皇帝の命令聞きませんね。首にしたあと後任に譜代の誰かをつけて譙の拡充政策を継続させたんでしょうか?

234侍中、劉劭の刑法作成に私情を挟むような制度であってはならないと意見。宮殿建設を諌める高堂隆を狂直として彼の行動を擁護。自身も三年の在職の間諫言。で吏部尚書

 曹叡の代になると、諸葛誕や鄧颺らが名声をはせ、「四聰八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれていた。曹叡がこのようないわゆる「浮華」の人物を嫌っていると明確に記されているのは初めてかな?前にもそんなことはありましたけど、ここはこれ以上ないほどあからさまに嫌っているとかいてますね。んで官吏は名声で選ぶものではない。名声は画に描いた餅といって却下していますね。盧毓はもともとこの時点から対立していたわけだ。明帝に、盧毓に、曹爽のような集団だったり政治グループ・派閥は最低でも三つあったわけだ。これを正確に把握することが魏→晋理解の鍵かな?しかし「清流派」党錮の時と打って変わって名声の評判が悪くなったものですなぁ。

 普通の人間は教えを敬い善を慕う。つまり普通の人間のほうがあとから学んで都合がいいわけですな。勤務評定のほうが廃止され、評価が虚実あって真贋が混ざり合ってわからない状態になっている!→明帝評価方法作れ。で、実際作ったかどうかは書いてない。

 盧毓は無官の管寧を推挙したが、曹叡は却下。盧毓は韓曁・常林の起用を勧め、曹叡は韓曁を起用した。盧毓は人材登用に人格・品行が最優先。李豊が理由を尋ねると、「才能を善行に役立てることができなければ、意味がないから。これに感心したとあるが盧毓と李豊の関係は深かったのかな?

 曹芳即位で関内侯。曹爽政権で、僕射→廷尉で外に出す。廷尉は外でやるものなのか?世論の反発から光禄勲に。まあまだ曹爽絶対出なかったいい例ですね。んで司馬懿司隷校尉兼任で、曹爽の裁判をやらせると。255毌丘倹の反乱で司馬師の留守番。256年、重病となり官位を辞退したが、司空に昇進しているけど、これは後任を推薦しているように名前だけかな?王の三人を推薦しているけど、ここら辺から瑯邪王氏の時代なのかな?王昶は并州太原郡晋陽で、王観は東郡。紛らわしすぎ、変に王姓多くてややこしいわ!どいつがどいつかわからなくなるよ(笑)。

 で、例のごとく子孫は栄達。子孫は洛陽が混乱すると南に逃げていますね。んで孫恩・盧循の乱の盧循が彼の子孫だと。名門なんだから新王朝の元でもうまくやっていけそうなものですが、何で反乱者になったんだろ?気になるところですね。

さて、こんなペースで8巻までいつになったら終わるのか…