てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― 努力しない生き方/桜井 章一

努力しない生き方 (集英社新書)/桜井 章一

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 努力というものと工夫という言葉を使い分けます。努力という言葉には力が入っている。力をいれると固くなって失敗する。真正面からぶつかってやろうとするのではなく工夫することを重視します。努力すれば報われるという努力信仰がある。努力して失敗して納得できないのはどこか間違っている。過程が重要で結果だけで物事を見ている。恋愛や趣味に一生懸命になっている人は力なんか入っていない。力は入れてはダメ、抜かなくてはならない。

 牌を持ってはならない。持たない感覚で持つ。実際にもってもらうと殆どの人がどこかに無駄な力が入っている。その無駄な力が勝負をさらってしまう。持つという感覚はどこか勝負に勝ちたいなどの欲があるから出る。

 人間は狩猟採集社会から、農耕社会に移るに連れて得よう/持とうという考えを持つようになってきた。もはや本能に近い。しかし持とう/得ようとするのではなく、足し算ではなく引き算の考えで行くのがいい。多くのものを得ても本当の幸せには繋がらない。成功した社長などを見ても多くを得て幸せな人というのは少ない。得ればその分失うもの。勝ち続けてきた自分の人生の中でも勝利は虚しかった。

 恨みというものは何も生まない。見返りを期待するから恨む、諦めを持つこと。他人をまた自分を責めるのでもなく、誰も責めない人を目指すべき。

 越えられない壁は人生につきもの。そういう時は壁に乗っかって一息ついてみる。子供の頃壁に乗ってぱっと視野が開けたように、まずそうやって遊んでやろうという感覚を持つ。その人に見合った壁が常に与えられる。乗っかってみれば半分超えたようなもの。

 頑張ると硬くなる。固まらないこと。イチローやウッズのようなアスリートは柔らかい。普段の生活の中で遊びゴゴロをもってひねったり/ねじったりしているから柔らかい。牌を最短距離で引くには強すぎず/弱すぎず。手だけ柔らかくしてもダメ下腹から柔らかく牌と身体を一体にさせて持つ。

 頑張り過ぎると身体が固まる。息を止めたような状態でカチコチになる。緊張している/息が詰まっていると感じたらゆっくり吐いて柔らかくすること。

 以前は麻雀をわかっていると思っていたが、成長するに連れ100わかっていたことが200・300、また1000とどんどん広がっていく。だから極める・悟るということはない。釈迦のような人物でもそう。人間はずっと突き詰めようとしていく。

 苦しむ元は期待にある。期待をせずにいつか叶うくらいがいい、期待しないほうが余裕に繋がり、冷静になって判断ができるからうまくいく。しっかりやるべきことをやり続けていれば叶うくらいの気持ちでいること。だからたいしたことない、知ったこっちゃないくらいの感覚で常にいる。

 社会が賢く生きよう、装おうとするものになっている。むしろバカであることをさらけ出して認めるのがいい。

 欲求を満たさないこと。ある雀鬼会の社員は驚くほど求めない。求めなければ、足りないと飢えることもない。こういう思想を見ると本当に桜井会長は仏教みたいですね。仏教は現世利益/欲/煩悩を戒めますし

 勝つことより負けないことが大事。勝つというのは際限がない欲。ついやりすぎてしまう。負けないというのは本能であるのでそういうやりすぎることも意気込んで失敗することもない。てっきり勝負論のまず負けないことを説くのかなと思ったら違うようですね。武道はまず生き残ること/死なないことが目的ですしね。だからといって全く違うというわけでもないんでしょうけど

 断食で飢えたあとでおかゆとたくあんだけの食事は今まで食べたどんな食事よりも美味しかったというエピソードを紹介して、これがまさしく足りないと欲求するよりも普段どれだけ得ているかを見直す実例であるとします。

 プロ格闘家に指導をする話。昔はPRIDEだったんですがこのときはDREAM。時期的にPRIDEも潰れたからでしょう・゚・(ノД`)・゚・

 社会で賞賛されている人はいくらでもいる。そういう人は才能がある人。しかし本当の人間の才能は「生きる」ということ。生命力の素晴らしさが忘れられている。環境破壊の本質はその生命の連続を傷つけたり、断ったりする鈍感さにある。それは社会の才能/能力尊重主義の裏返し。昔と違い命まで傷つけるいじめ問題の本質もこの能力主義でしょうね…

 遊びゴゴロがあるから仕事は辛くならないし、疲れない。

 分析すれば人はわからないし/読めない。自然のように感じること。自然は体を周りの風景に染み入らせように感じることでしか入ってこない。

 絶対は禁物。なんとなく・アバウトな感覚だからわかる。麻雀だって人生だってこれだ!ではなく、なんとなくでやってきた。絶対!と力むと視野は狭くなり感覚は鈍る。

 「」(カッコ)がつくブランドに頼らない。みんな「」の中に入りたがる。混雑する若者の街中で大きな荷物を風呂敷しょって歩いているおばあさんのほうがよっぽどかっこいい。肉体を使っている人がカッコイイ。

 自殺の問題はプライドの問題。生活が苦しいだけでは人は死なない。プライドを積み上げた結果それに耐え切れなくなって人は死ぬ。だから雀鬼会に来る変なプライドを持った子に、そんなもんは大したことではないんだよと諭してやる。今でも少年のようにボールを負っている三浦友良選手のような上を向いてえばるのではなく下を向く、俯き加減の誇りこそ本物。

 知識は多すぎると新しいものが生まれてこなくなる。得る/詰め込むではなく引き算的な方が体験/感覚からいいものが生まれる。

 人の歩き方が早くなった。間に合わせるのは大事だが急いで精神を消耗してしまう走りまわるようなことは避けたい。ここでもやはり遊び心で仕事を片付けることが大事。仕事や用事を早く済ますのは日常をゆっくり過ごすのと地続き。

 鯨のようにセンサーを飛ばして無意識で遠くから近くまで10個くらい捉えながら歩く。早く歩くとそのセンサーが働かなくなる。

 酔狂という楽しむ感覚が失われている。頭で意味があると判断したことしかやらない人間が増えている。先に意味なしでまず感覚から動くことから始めるといい。あとから意味はついてくる。

 人生において求めたことがない。求めると叶わなくなる。現代はたかり症になっている。欲しい欲しいと行動しすぎ。

 一つの目標に固執しない。思考や行動の柔軟性がなくなってしまう。衛星のように周辺に似た目標をおいておくこと。登山に例えるとルートは一つではない、いくらでも別の道から頂点にいける。

 目標を前に置くと近づいて焦り、遠くあると悩んだりする。目標は横に置く。両脇においてあり、ふとした時に確認できるくらいがいい。

 現代人は答えを求めすぎる。現実の動植物や動く天体を見ればわからないことのほうが多い。生きる意味すら分かりようがないのだから。安易な答えマニュアルを求めるのは捉われである。わからないことこそ楽しいし、魅力的なのだ。もっとわからないということを大事にすべき。確かに現代は昔の資本主義以前の社会と違ってわかる/出来るの時代ですよね。中世なんてわからず、出来ずの時代でしたね。だからこそなんとかしようと人力で工夫してきたんでしょうね~

 現代人は背中/後ろに感覚がない。アフリカなど自然で暮らしている民族は持っている。剣豪が背中に目があるなどという感覚。前にある意識を横において、ぐるっと背中まで回すような感覚。それで自分全体を包んでやる。前ばかり見ているから、後ろに潜む魔物、危ういものが見えない。

 自由と自我を肥大化させるのは違う。自由もルールの中にある。ルールを無視しては麻雀を楽しめないように、ルールを無視したら自由ではなく自我を突き詰めるだけになる。

 孫が初めて立った姿を見て、つま先で大地を踏みしめる姿を見た。人間が立つとはそういうこと。アスファルトで覆い尽くしているから感覚がなくなっている。本来裸足で砂浜に立つときの感覚が正常。アスファルトは膝を痛める。人間とは大地に近い所で立つ生き物だということを忘れてはならない。これを聞いて電柱だけでなく、アスファルト全部ひっペがしたくなりましたね。ホント、どこでも道路だらけで人間の体をダメにしていますよね(-”-;)

 我慢をしたという記憶がない。我慢で育てる教育は無理がある。

 愛は不純である。ここでも愛憎会苦のような話がありますなぁ~。

 

 麻雀でいい手をつくろうとしてはダメ、つくろうとすると必ず失敗する。「生む」という感覚が重要。麻雀以外でも同じ。

 あるお世話になった人のパーティへ出かけると、著名人/作曲家/政治家の集まりで絢爛豪華な、それはそれはやったらめったらな会合だったそうで、気に入らなくて大人の集まりはくだらないといってやって帰ってしまったそうです。痛快だという人もいたそうだ。主賓の人に自分を作って取り繕うことができない。

 子供を親の作品のようにつくろうとする親がいる。子供が自分の思い通りに行かないからといって怒るのは筋違い、作品・ものではない。逆に鑑賞品のようにケースに入れて見せびらかそうという、虚栄心を満足させる親もいる。子供は自然の営みの結果、それをつくろうとは考えないはず。子供からおそらく作ると生むという言葉の違いが出てきたでしょうね~。雀鬼のそういう感覚は子供の危機から来ているような気がします

 権力者などが作った巨大モニュメントを見ると権力がまざまざと見せつけられて、作りたくないなぁと思ってしまう。自然の命はいずれ消えていく。人工物だけ残ると考えると違和感がある。自然物も人工物もいずれは必ず消えると思う。そこに違いを己はあんまり感じないんだがなぁ。まあ美しいとは感じないけど

 60年も傘を使い、職人のもとに直しに出かけるおばあさんの話など聞いていていいなぁと思う。作り物という感覚なら傘をわざわざ直しに出かけない。職人も生む感覚で作り出しているのだろう。茶道にある無事の美、余計な物を極力排除する

 型にはまれば強いは、型を崩されたらどうしようもない。そうではなく軸を持つ。資本主義は好きではないが、そこに縦横無尽に軸があるから強い。一本しかないものは弱い。スポーツでも麻雀でも勝負は軸の奪い合い。強い人は何本も軸を持つ。更に強いと360度回転する自在な軸を持っている。

 他人事にしない。どんなことでも自分につながっている。頭でっかちの評論家も自分と切り離して相手を捉えている他人事感覚が強いといえる。己なんか要注意ですね(^ ^;)

 過剰な健康志向は健康病。極めて不規則な生活をしているが、仕事もしないからストレスもないし、食事も普通の人の半分くらいしか食べない。もしなんか病気と言われても生活を改めようとは思わない。寿命が来ればそれでいいという感覚。

 安全/安心を求めない。そんなものの確証なんかあるはずない。本能に任せれば察知できる。滝壺に落っこちたり、帆に足を挟まれて溺れかかったり、麻雀でいきなり激昂した相手に発砲されたり危ない目に何度もあってきた。危険な方が本能が目覚める。だから危険なことが好き。

 何十年も一つのことを貫いて達成するという美談はある。しかし失敗したらどうか?笑い話にならないか?当の本人が満足できるならいい、しかし信念は偏執でもある。他のことに目が行かなくなる。変化ができなくなってはダメ。二兎を追うどころか百兎を追う感覚で行くべし。

 計算しない。計算して数字ばっかり負っていると心が奪われてしまう。計算や駆け引きなんか超越した麻雀があることを伝えたくて雀鬼会を作った。最低限の計算をしないと生活が成り立たない。しかしいまの人は不必要な計算をやりすぎている。

 エネルギーを出し惜しみしない。嫌な事でも全快でやるとうまくいく。ちょっとわかりづらいなこれだけだと、まあいいか、伝えにくいし(笑)

 捨て牌はみない。ぼーっと見るだけ、見るというより皮膚で感じる。よく皮膚感覚とか肌で感じるとか言うけども、そういうのって実際に皮膚が刺激される感覚があるのかね

 音で全てがわかる。技量/調子が音に表れるし、綺麗な麻雀を打っている人間は音がきれいだし、その逆もまたしかり。麻雀道場に牌の音と名付けたのは綺麗な音を鳴らせたいから。牌の絵柄を見るのではなく感じ取るという感覚を持っているのは同時に音楽のように聞いているからだと思う。見るに聞くという感覚が加わっている。まさに観音様=音を観ることができるものこそ聖人であるという話を地で生きますよね。柳川師範も音を聞くのではなく観ることの重要性を説いてましたしね

 壁の隣の人間の気配を察するのも耳、古代の夜中の獣の気配を感じ取るのも耳。本能は耳にある。目は前頭葉につながるからか本能と距離がある。見るという行為は本能を、精神をおかしくする。こうやってパソコンを使っているとね、おかしくなりますよ!グサグサッ!心に刺さりますね。アッー!見ることを求められる社会にあっては見ないという感覚を持つことが大事。

 親がいなくても子は育つ。主体は子供、こんな大人になりたいなと背中で見せてやれるような大人がいることが大事。最近そういうかっこいい大人が少ない。気づきを与えられれば子供は育つ。そういう気づきを与えてやれるような行為を大人がすること。

※10・25誤字修正