てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

林佳世子 『オスマン帝国の時代』

 

オスマン帝国の時代 (世界史リブレット)

オスマン帝国の時代 (世界史リブレット)

 

  林佳世子氏の世界史リブレット『オスマン帝国の時代』を流し読み。鎌倉時代から大正時代まで続いたオスマン帝国とは?になるわけだが、やはりそれだけの長い期間続けば、器としてのオスマン帝国は不変でも、中身は時代に応じて変質しているハズ。オスマンはいくつに分類出来るの(すべき)だろうか?

 

 輝かしい歴史とみなすトルコサイドからすれば、拡大=栄光の歴史であり、縮小・衰退=屈辱の歴史と書かれる。旧オスマン支配地域では、むしろトルコに支配されたという視点からオスマン時代の歴史を評価しがちになる。等身大のオスマン史というのは難しいだろうが、そこが研究者の腕の見せどころか。

 

 トルコ=イスラム帝国といった枠組みから見がちなのだけど、当然歴史の初期においてはオスマンは「イスラム帝国」などではなかった。むしろビザンツ帝国を吸収解体していくのはビザンツ帝国を連想させる。コンスタンティノープルに都を構えたように目指していたのは「ローマ帝国」だった。

 

 ローマの後継をも自認していたオスマンは、コンスタンティノープルという名前をそのまま使用している。イスタンブールという言葉も用いられていたが、それが唯一の都市名になったのはトルコ共和国以降の話。コンスタンティノープル占領→イスタンブールイスラム型都市に改めたのではない。

 

 丁度、ウマイヤ朝がサーサーン朝の国家機構を取り込んで行って、社会構造を引き継いだように、オスマン帝国も初期においてはビザンツ帝国のそれを参考にしていったのは自然の理。スレイマン一世以後、軍事指導者を頂点とする組織でなくなっていくところを見てもビザンツの解体・吸収がポイントかな。

 

 なにより以後「帝国」は皇室ではなく、宦官や太后が動かしていく。後継者以外の抹殺もイスラム遊牧民よりビザンツの文化。中国でも宦官や後宮が政治を動かすという段階はあった。これは政治制度・官僚制が、中国のような「正常な発展」を遂げなかったとみなすべきなのだろうか?試論として中国との比較を行い、「正常な発展」を遂げなかったのは何故なのか?とかんがえるのも面白いかもしれない。

 

 書記系の官僚に、イスラーム法学者系の官僚と二つの体系の官僚があって統一されなかった。スルタンの奴隷となることで初めて高官への道が開かれた。広大な「帝国」であっても、家産官僚制の論理が強く、依法官僚制の論理が発展しなかった(しづらかったと見るべきなのだろうか)。

 

 遊牧民に、イスラムキリスト教ビザンツ下の長い伝統を持つ候国。多民族多言語多宗教の風土でそれをまとめて一つの論理で中央集権化しようという発想が発達しないほうが当然に決まっているのだけども。オスマンの歴史を見ても、やはり一つの論理・理想で動くよりも場当たり主義という気がしますしね。

 

 イスラームが登場した時は、ムハンマド以前・以後で歴史を分けてしまう。画期的なことだったけども、モンゴルやオスマン帝国はそこまでには至らない。イスラームという広い価値観を共有したあとの、もうちょっと狭くて民族くらいの共有観念を生み出すようなロジックにまで至らないのがポイントか。

 

 それでも宗教・宗派ではない、「民族」観念でトルコという単位を成立させたその偉大性に注目すべきか。中東の三大論理、アラブ・イラン・トルコというロジックで、イラン・トルコのみがまま一国となっている。地域が国名として著名なエジプトでも、エジプト人としてはあやふや。国民国家として独立している基盤があるかと言われるとあやふやな段階。少なくともエジプトという観念が育たなければ中東という地域の安定化は難しいのではないかという気がする。

 

 やはり中国のように、華夷の別。異民族蔑視があって、自文化の優越という「差別性」が存在しないとうまくいかないのだろう。電圧がないとうまく電流が流れないように、一定の差別論理・自文化優越とその同化の積極的奨励がないと帝国は発展しないのだろう。まあそれが可能&ペイしたかわからないが…(というかペイするものであれば間違いなく強力な帝国主義政策を実行していただろうから、多分コストに見合うようなそれは取れなかったと見るべきだろう)。