てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)/羽田 正

新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)/羽田 正

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これについてちょこちょこっと書きたいと思います。羽田さんは、

東インド会社とアジアの海 (興亡の世界史)/羽田 正

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イスラーム世界の創造 (東洋叢書)/羽田 正

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 これとかこれとか、へぇ面白いなぁと思って読んだ記憶があって、こんな本があったんでちらっと書いておこうかなと。まあそこまでするほどではないんですが、せっかく読んだんでメモがてらに。つまりいつものやつですね。

 まあ、これまでの世界史像、歴史の描き方に誰も疑問を持たない人はいないでしょう。ざっくり過ぎましたからね。西洋史に日本・国史足していた。そして日本が世界進出する上で必要になってきた「東洋」という概念に合わせて東洋史というジャンルが生まれましたし。

 で、どうやって世界史を書くのかという話になるんですが、地球市民からみて歴史を描着たいという動機は分かるんですけども。誰も主役、こうなるイデオロギーがあって、世の中はこうなるべきなんだ!なんていう道具にしたくない。旧来の歴史を超えたいというのは納得なのですが、やっぱり弱いですよね。動機にせよ、新しい歴史像を打ち出すにせよ。

 下手したら「人類みな兄弟」の薄甘い人権屋のキャッチコピーで終わってしまいかねませんし。歴史にせよ学問にせよやはりそこに何かしらの強烈な動機がないと新しいものは発展・成立し得ないと思います。何となくこれまでの西洋中心主義的な古い見方はやめようよ~。で終わりかねないなぁというところ。やるなら民主主義・資本主義・近代国家モデルを脱する。新しい新時代の理念の模索までぶちかまさないとダメじゃないかな?という気がします。

 イスラーム世界という概念は存在しません。非実在~です。西洋が自分たちと他者を切り分けて理解するために持ってきただけで、そんな偏狭なモノの見方ではイスラムを研究して本当に理解することなどできぬぅというのはそのとおりですよね。イスラーム世界の法適用を見ても現地・現地において異なっている。そしてイスラーム法にあるのは諸社会・宗教の法論理と異質なロジックで構成されているというわけでもない。それによって異世界と区切るのはいかがであろうかと。確かにそのとおりですね。というか西欧は研究レベルは高くてもやっぱり思ったより庶民レベルまでそれが浸透しませんよね。日本もそうですけどね、この先端研究成果が反映されないということはもっと論じられるべきだと思うんですがね。

 あと専門バカの壁を打破する。諸学の領域の枠を超えて相互影響しあわないと人文科学は発展が遅れる・遅くなりますから、そういうこと閉鎖性を打破するためには統一的な歴史に取り組むべきといえばいいと思うんですが、これも無いですね~。なんでだろ?

 変な話ですよね。イスラム世界って、イスラムでひとつの世界を説明した気になるのはキリスト世界で欧州を語ってハイおしまいですよ。まあ、たしかにイスラムにはそういう性質があるといって良い宗教ですから仕方ないのですが、イラン・トルコ・アラブの三勢力に分けて、ではより世俗的・宗教的、土着の宗教・慣習の影響、民族の度合い、近代国家モデルと比べてより部族性質が残っているかどうか…色々比べてそれでイスラム初国家分析してハイおしまいじゃ、これまでのそれを超えられませんよね。可能性を見いだせる、学問足り得る希望が無いですから。

 まあこんなところでメモ終了。面白いのは西洋の歴史の授業は自分の国と世界史~ではなくフランスなら自分たちの国の歴史で、現代でいきなり日本とか出てくる。中国史とかインド史とか日本史とかそういう観念がない。歴史に対する価値が教育という文化に染み込んでいないんですね。イギリスはインドとか東南アジア有りますが、それも自分たちが植民地で初めて触れる。根源的な他者理解をしようという気がないのではないでしょうか?だからイスラムという偏見が未だに根強い。一神教的、相手は邪教という観念から抜け出せないような気がするんですが…。日本人が学んでいるかどうかは別として、基礎教育・高等教育で名前だけでもああ、こういう世界・歴史・時代があったんだなぁと一歩を踏み出すの戸丸で違うんですね。

 歴女という言葉で思いついたんですが、歴史を語る上で構造を、謎を解き明かすはずの歴史学が、歴男になってませんかね?キャラ萌えのように、特定の誰それに入れ込んで、ただ軍事オタクと化してヒートアップして語っておしまいという。なんかそういう傾向がネットとか見てると有りそうな…。

 中心視感というのは誰かを主役、他を脇役。いわゆるマニフェストデステニーみたいな漢字にしてしまうというところでしょうか?中国史漢民族の中心視感ですし、最近はやりの遊牧民重視は逆に彼らが中心ですから。今の歴史なんか各地方で中心だった諸勢力が西洋に統合されて行って、それが終わったという感じですよね。そして今はアメリカ。それを乗り越えるぞ!アメリカ中心止めろ!くらい行って欲しいなぁやっぱり。

 あと己の領域の世界システムとか、海洋史観ブローデルのね。ブローデルからインド洋とか、太平洋世界とかそういう分野も生まれましたしね。あとは己が取り上げたこともある、リ・オリエントやモノに注目する。『銃・病原菌・鉄』とか環境から攻めるものとか。まんべんなく抑えていますね。

 なんか人間であるかぎり、人間はおんなじだ!っていうものを描きたいのか注目したいのか、そういったことを強調なさっているようですが、歴史というのは同じ人間であるがゆえに共通するそれを見ると同時に、その社会がなぜそうなったかという異質性・独自発展を追求するものでもありますから両方見ないとダメだと思うんですよね。もちろんより前者に注目したいということなのでしょうが。

 なんで兼原さんの戦略外交原論を持ちだしてくるかなぁ…。これなんの見るべきものが無いですよ。正直大学生・院生のレポートレベル。これで刺激的とかないわ。やっぱり多少偏ってても変更している人のほうが主義・主張が明快でいい。無難に無難にという感じで、間違いではない。しかし物足りないになるなぁ。